フェルメールが生きた時代のオランダ

  
 『フェルメール 静けさの謎を解く』(藤田令伊・著)という本を読んでいたら、ある文章の途中で、本文の流れとは関係のない別の想念が湧いてきた。
  
 「オランダのように地平線まで視界をさえぎるものがない地形では、遙か彼方まで景色が見える …… 」
 
 それは、オランダ地方に漂う「かすんだ光」の秘密を解析するための文章であったが、「遙か彼方まで景色が見える」という一文が、フェルメールが生きた時代のオランダ人の精神構造を言い当てているのではないか? … という気がしたのである。

▼ ロイスダール 「オートマルムスの眺望」
 

 本を閉じて、漠然とオランダの大地を想像してみる。
 山がない。
 地平線のその先にも、同じような大地が、どこまで続いているように感じられる。

▼ ロイスダール 「ハールレムの風景」
 
 
 “世界がフラットに見える”
 
 それは、「視界をさえぎる壁がない」 ということである。
 17世紀のオランダ人たちには、まさに自分たちの国土が「フラット」に見えたのと同じように、全世界が「フラット」に見えたのだ。

 これは、あくまでも比喩だ。
 しかし、17世紀のオランダでは、その国民一人ひとりが、何物にも視界をさえぎられない、フラットな「世界」を見ていたことは間違いない。
 
 つまり、オランダ以外の民衆が、自分たちの前に立ちはだかる国王や貴族という “壁“ にさえぎられて、「世界」を自由に眺められなかったのに比べ、オランダの民衆は、そのような壁にさえぎられることのない状態で「世界」を眺めることができたのだ。
 
 なぜなのか?
 
 それは、この国が、世界ではじめての「近代的市民国家」を形成したからである。

▼ フェルメール 「デルフトの眺望」

 
 「オランダ」という国が誕生する前から、オランダやベルギーなどを含むネーデルランド地方では商業が発達し、毛織物を中心とした産業が大いに栄えた。
 しかし、15世紀までは、この地はスペイン国王の領土であったため、その商業的利益のほとんどが宗主国のスペインに収奪されていた。

 そのことを不満に思う商人階級が結束し、やがて、1568年、スペインに対して独立戦争を挑むことになる。
 
 このとき、北ヨーロッパで初の「市民(商人)階級」による政府が誕生したのだ。
 つまり、宗教的迷妄や国王のメンツなどに振り回されない、「世界をフラットな市場」としてクールに眺める人々の国家が生まれたわけだ。
 今でいう、グローバリズムの出現である。

▼ オランダは造船技術を発達させ、海上帝国として世界に君臨するようになる

 
 17世紀のオランダは、どんな社会をつくり出していたのか。
 
 スペインから独立したオランダは、短期間のうちに世界でもっとも進んだ商業国家となった。
 ヨーロッパ各地の商人が利益を求めてオランダに集まるようになり、やがて、国家自体がひとつの「世界市場」を形成するようになる。

 世界市場とは、グローバル空間を意味する。
 オランダに入ってきた商人や職人は、それぞれの国の習慣、宗教、文化が通用しない空間に投げ出されることになる。
 
 フランスの哲学者デカルトは、そのような地で、「コギト(われ思う)」という哲学的省察を手に入れた。
 彼は、1618年、22歳のときにオランダを訪れ、その後1628年にその地に移住する。
 そして、そこで、
 「それまでの哲学は、哲学者たちの生まれ育った母国の言語・文化に閉じ込められたものでしかなかった」
 ということを、思い知る。

▼ ルネ・デカルト
 
  
 「あらゆるものは疑わしいが、それでも疑っている自分だけは存在する」
 というときのデカルトの、「あらゆるものは疑わしい」という感覚は、オランダという一種の無国籍的社会に身を置いた者しか手に入れられないようなものだったろう。
 
 しかし、そのような社会は、見方を変えれば、どのような人間でも暮らしていけることを意味していた。
 実際に、この時代のアムステルダムの世界貿易で活躍した人間には、スペインの宗教的弾圧から逃れてオランダに移住してきたユダヤ人が多い。
 今もってオランダは、どのような人種や文化に対しても「寛容の国」といわれるが、それは、「 “市場” は民族や宗教・文化を超えたフラットなものである」という世界帝国時代にはぐくまれた考えを継承しているからに違いない。
 
 このような、グローバリズムが渦巻く時代をフェルメールは生きた。
 
 『フェルメール 静けさの謎を解く』を書かれた藤田令伊氏は、フェルメールの絵の静けさには、けっして彼の生きた時代のオランダの “静けさ” が反映しているわけではないという。
 むしろ、オランダ中が沸騰する時代を生きたフェルメールが、その対極にあるものとして、静かな境地を自分の理想として絵に求めたのではないかと、推理する。
 
 藤田氏にいわせると、フェルメールという画家は、最初に描き込んださまざまな小物類を「壁」や「カーテン」などに描き直して画面を簡素化し、それによって「静けさ」を演出した人だというが、それでも、絵に残された小物類には、あきらかにグローバリズムを推進していく当時のオランダの姿を的確に語るものがある。
 
▼ フェルメール 「地理学者」 (左) / 「天文学者」 (右)
 

 その一つは、地図および地球儀だ。
 フェルメールの後期を代表する『天文学者』および、『地理学者』には、まさに地球儀や地図そのものがテーマに深く関わっているし、女性のつつましやかな日常を描いたような『窓辺で水差しを持つ女』、『青衣の女』、『窓辺でリュートを弾く女』などにも、その背景には、くっきりと地図が描きこまれている。

▼ フェルメール 「窓辺で水差しを持つ女」
  画面右上に、はっきりと地図が描きこまれている

 果物籠やキューピッド像などを、壁の中に塗り込めたフェルメールが、なぜ地図だけは残したのか。
 
 構図的な配慮というよりも、それがオランダの家庭の中に、空気のように浸透してしまった「家そのものの構成要素」だったからである。
 つまり、なにがしかの情緒を喚起する “珍しい” 小道具ではなく、すでにそれが、当時のオランダ人の精神風景として定着していたからだ。
 彼らは、まさに「世界地図」を、自分たちの生活の座標軸として捉える精神構造のなかで暮らしていたのだ。

▼ フェルメール 「窓辺でリュートを弾く女」 。
  この絵のテーマは、まるでリュートを弾く女性
  よりも、背景にある地図であるかのようだ

 フェルメールの絵画の背景として描かれた地図は、1569年にフランドル地方の地理学者であるメルカトルが考案した「メルカトル図法」にのっとったものだが、このような図法の出現は、グローバル国家オランダの土台を築くことに貢献した。
 それは、何よりも航海の航路を計算する地図として生まれたものであり、海洋国家オランダのアドバンテージを用意するものであった。
 
 フェルメールの絵に表れるもう一つの “グローバリズム” は、「手紙」である。
 彼の絵には、手紙が登場する頻度が非常に高い。

▼ フェルメール 「窓辺で手紙を読む女」
 

 それは、何を意味するのか?
 この時代が、一種の「通信革命」を迎えた時代だったことを意味する。
 
 ヨーロッパにおける郵便制度は、17世紀の初頭、ほとんどの国を巻き込んだ 「30年戦争」 を機に、戦況を連絡し合う軍事郵便という形で急激な発達を遂げたという。
 それが、郵便システムを整えることにつながり、やがて民間の家族や恋人同士が私信を交わし合う手段にまで成長する。
 
 世界貿易に乗り出したオランダ人たちは、この手紙を通じて、はるか遠隔地からも自分の近況を家族に伝えるようになった。
 手紙が届くのに、どのくらいの日数がかかったのだろうか。
 もちろん、今の船便より、さらにのんびりしたものであったことは疑いようがない。
 
 しかし、それでも、はるか彼方で暮らす親しい人間の直筆を庶民が受け取るということは、それ以前の社会では考えられないことだった。今の感覚でいうと、「電子メール」のようなものだった、という人もいる。

▼ フェルメール 「青衣の女」
  背景を大きく埋める地図。そして
  熱心に手紙を読みふける女性。
  古典的画風の中に、しっかりと
  最新テクノロジーが身を潜めている

 

 フェルメールの絵には、このように、オランダが「世界帝国」へと駆け上がっていった時代を象徴する小道具が、数多く顔を出す。
 このことは、彼が 「静謐な詩情」 を自分の絵の中で追求する気持ちを持ちながらも、新時代の “息吹” を伝えるものに敏感であったことをも物語っているのではあるまいか。
 
 彼の絵が、伝統的な風俗画のフォーマットを維持しながらも、それを超えた近代絵画のエッセンスを獲得することができたのは、「地図」、「地球儀」、「手紙」などという(当時としては)最新のテクノロジーに対する好奇心がバネになっていたからではないかという気もする。
 
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 ヨハネス・フェルメール (Johannes Vermeer 1632年 ~ 1675年)。17世紀にオランダで活躍した画家。誕生日、死亡日ともに不明。
 現存する作品点数は、研究者によって異同はあるものの33~36点と少ない。このほか記録にのみ残っている作品が少なくとも10点はあるが、それらを勘案しても、22年の画歴に比してやはり寡作というべきだろう。(Wikipediaより)
  
 
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