フェルメール 静けさの謎を解く

  
 17世紀のオランダの画家ヨハネス・フェルメールに対する人気は、近年 「異常」 といえるほど高い。
 書店では、各種の解説本が出回っているし、テレビの美術番組などにおいても、フェルメールの絵を目にする機会が増えた。

 20年ほど前までは、フェルメールといえば、相当な美術好きが話題にする画家に過ぎず、それも 「上品で教養のある紳士・淑女の趣味」 として片付けられてしまう程度の認知度だった。

 それが今は、「謎」 と 「神秘」 に満ちた孤高の天才画家というような扱いになっており、その名を口に出すことが、ちょっとした 「知的なステータス」 のようになっている。

 このフェルメール人気は、いったい何に由来するのか。
 
 藤田令伊 (ふじた・れい) 氏の書いた 『フェルメール 静けさの謎を解く』 (集英社新書) という本は、その秘密を明かす格好のフェルメール入門書であるかのように思う。

 フェルメールに関する研究本を読んだのは、本書がはじめてだが、この本は、広い意味での “美術解説書” としてかなり面白い読み物に仕上がっている。
 というのは、クールな分析に満ちたアカデミックな研究書としての体裁と、ディレッタンティスト (オタク) でなければ書けないような、熱っぽい惚れ込みが、とてもいい按配でバランスされていると思うからだ。

 著者は、自分のことを 「美術史家といった専門の研究者ではなく、ただのアートライターにすぎない」 と告白する。
 しかし、「フェルメールが好きだということにおいては、人後に落ちないつもりはある」 とも自負する。
 その “素人 (?) ” としての情熱が、逆に、これまでの専門家も気づかないような、フェルメール絵画の闇に隠れた細部をランタンの灯りのように照らし出す。

 いわばこの本は、フェルメールに宛てた 「ラブレター」 が、そのまま知的な研究書にもなっているという稀有な例なのである。

▼ 『牛乳を注ぐ女』(左) / 『窓辺で水差しを持つ女』(右)
 

 著者が注目したのが、本書のタイトルともなっている 「フェルメールの静けさの謎」 。
 その代表作である 『窓辺で水差しを持つ女』、 『牛乳を注ぐ女』、 『青衣の女』 などに漂う森閑 (しんかん) とした静けさが、いったい何に由来するのか、そして、それは何を表現しているのか。
 それを解き明かすことが、この本の最大のテーマであり、逆にいえば、そのことしか書かれていない。

 ただ、この 「静けさ」 への考察は、万華鏡のような多様な変化を見せる。
 あるときは、色彩心理学に分け入り、あるときは、画材の化学的分析に飛び、別の章では光学的な考察に至り、さらには、人文科学的な思想史にまで及ぶ。 
 
 それらを読み進むうちに、読者は、いつしか17世紀のオランダに迷い込み、フェルメールのアトリエを訪れ、絵筆を動かしているフェルメールの背中を覗き込んでいるような錯覚に陥る。
 著者の、この画家に対する 「愛」 がそうさせるのだろう。

▼ 『青衣の女』 青を表すラピスラズリという顔料は、
  当時は 「金」 と同等の価値を持つくらい高価な
  顔料だといわれたものだが、それを惜しみなく使う
  ことで、フェルメールは、独特の静けさを画面に導
  入することに成功したといわれる

 
 
 ここでは、すべての章を紹介したい誘惑に駆られるが、長くなるので、個人的に、特に興味を感じた部分だけを手短に紹介する。
 それは、第四章の 「剥奪される意味」 という章だ。

 今日、絵画というのは、文学や物語というジャンルの芸術とは独立した、純粋に視覚の愉楽のみを享受する芸術だと思われている。
 しかし、フェルメール以前の絵画というのは、実は、文学や物語と同じように、そこに込められた画家のメッセージを読み取る芸術だったのだ。

 宗教画というのが、その最たるもので、磔刑に処せられるキリスト像や聖母マリア像などは、すべて 「罪深い人間を神への信仰へ誘う」 という意味や、「慈悲や慈愛の精神を喚起する」 意味などに満ち満ちたメッセージ色の濃いメディアとして機能した。

 17世紀のオランダにおいて発達した風俗画 (庶民の暮らしをテーマにした絵) においても同様で、家庭の主婦が慎ましやかに働く場面を再現したような絵ですらも、「人間はこのように働くべし」 という教訓やら寓意が込められていた。

 しかし、フェルメールは、そのような 「絵画に込められた意味」 をはじめて剥奪した画家であった、と著者はいう。
 それは、彼の死後、約300年経ってから生まれた 「近代絵画」 の精神を先取りするものであったとも。

 そのことは、彼の絵画のどこを見れば分かるのか?

 絵の中に、塗り込められた部分を見れば、それが分かるという。
 つまり、フェルメールの絵というのは、一度描いたものを何度も描き直し、少しずつ修正されることによって、完成に近づいた絵だというのだ。

 何が描き直されたのか?
 厳密にいえば、消されたのだ。
 
 エックス線で彼の絵を詳細に調査してみると、彼のもっとも充実した時期に描かれたとされる絵は、それ以前に描きこまれた 「楽器」 や 「果物」 や 「動物」 などといった小物が、すべて 「壁」 やら 「カーテン」 やらで塗り込められて、消されていることが判明したという。

 絵の中に描きこまれた “小物類” というのは、いわば、鑑賞家がその絵のメッセージを読み取る鍵になる。
 たとえば、男女を描いた絵の中に、エロスの使徒であるキューピッドの像を添えれば、それは 「愛の成就」 や 「性愛の誘惑」 を意味し、ヘビを配すれば、それは 「よこしまな智恵」 や「嫉妬」 を意味し、犬を添えれば 「忠義」 や 「誠意」 を意味するといったように、絵のメッセージを増幅するものが、絵に添えられた小物類だった。

 フェルメールも、最初はそのようなものを描きながら、やがて、それらを 「壁」 や 「カーテン」 で塗りつぶしていった。
 つまり、彼は、自分の絵の中から、徹底的に 「物語」 や 「文学」 … 要するに、言葉に翻訳できるような “意味” を排除していったのだ。

 そこから、彼の絵の 「静謐感」 が生まれることになった。
 いわば、彼の絵の中に漂う 「静けさ」 というのは、 “意味” を探るために生まれる “おしゃべり” をシャットアウトするところから生まれた … と著者はいうのである。

▼ 『真珠の耳飾りの少女』 この少女が、なぜカメラ目線
  でこちらを向いているのか、現代のわれわれはその意味
  を探るようなことはしないが、当時の人にはむしろ謎だっ
  たかもしれない

 今日、われわれは絵画を見て、そこに何らかの意味を求めようとすることに、それほど “こだわり” を持たない。
 純粋に、色と形のハーモニーから得られる感覚的な愉楽に身をゆだねることができる。

 しかし、17世紀の鑑賞家たちは、意味を覆い隠したフェルメールの絵に接して、口々に、「分からない!」 と叫んで頭を抱えた可能性がある、と著者は語る。
 
 そして、著者は、そのようなフェルメールの作業に、20世紀のミニマルアートや無調音楽のような、極限まで意味を削ぎ落しても、なお芸術の領域に踏みとどまろうとする、実験的な芸術精神との類似性を認める。

 だから、今日、古典絵画の王道を歩んでいるように見えるフェルメールの絵は、もしかしたら、17世紀の人たちから見れば、下の絵のように感じられたかもしれないのだ。


▲ ジュリアン・オピーのスーパーフラット絵画
 
 ともすれば、伝統的な写実絵画を忠実に描いたと思われがちなフェルメール。
 しかし、著者は、フェルメールという画家が、当時の人間にはまだ見ることができなかった新しい絵画空間を造形し、現代美術にも通じる世界を切り開いた、たぐいまれなる人間であったことを、著作を通じて伝えようとする。

 フェルメールの絵は、時代の制約を突き破って、ひとつの普遍性を獲得した絵である。
 それは、今日に通じる絵というだけにとどまらず、さらにその先の世界においても、人を魅了し続ける。
 著者は、この200ページを超える著書で、その一言をひたすら訴えているように思える。
 
 
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 参考記事 「西洋の誘惑」
 
 参考記事 「松本竣介の描く 『沈黙の都市』 」
  
 
 

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フェルメール 静けさの謎を解く への2件のコメント

  1. タイムジャンクション より:

    10年ほど前にオランダ経由でドイツに行くときにアムステルダムでフェルメール見てきました。その時に思ったのはアムステルダムの美術館をまわると17世紀はオランダが独立して大航海時代~貿易が盛んになるという国の歴史も絡んでいるようにも感じました。よく比較される同じ時代レンブラントと共に光と影で300年先の現在・・・これから先も見る者にメッセージを送りつづけるんでしょうね♂

    • 町田 より:

      >タイムジャンクションさん、ようこそ
      素晴らしいですね。アムステルダムでフェルメールの原画を目にする機会を持てたなんて。うらやましいです。
      確かにレンブラントとフェルメールは、同時代を生きた画家で、よく比較対象されますね。画風はまったく異なりますが、どちらも 「光」 に対してものすごく関心を抱いていた画家だったようですね。
      タッチは違いますが、どちらも好きです。
      ご指摘のように、フェルメールの生きた時代のオランダは、大航海時代から始まるヨーロッパの世界貿易の拠点となった国で、彼の絵にも、そのことが反映されているように感じます。
       

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