超マクロ展望 世界経済の真実

 
 2012年現在、世界中が経済危機に見舞われている。
 2008年のリーマン・ショック以降、アメリカのデフォルトの危機が叫ばれた時期があったり、ギリシャ危機に端を発したユーロ危機があったり。
 さらに、日本においては、市場の縮小の大きな要因となる少子化問題を抱え、円高による輸出産業の不振も深刻化している。
 
 なんだか、どこを向いても、何を見ても「危機」「不安」「停滞」ばかり。
 この先どうなるのか、深刻に考え始めると、息が詰まりそうに思える。
 
 しかし、それは現代社会を「水平軸」で見ているからである。
 水平軸。
 すなわち、あたかも 1枚の地図を広げて現代社会を眺めるような平面的な視線。
 世界をそのように見てしまうと、地球上に蔓延している様々な “危機” をつなぐ因果関係が分からない。
 
 こういうときは、垂直軸でみることが必要だ。
 垂直軸。
 つまり、歴史的な視点で「今」を眺めるという意味である。
 
 そうすると、現在のさまざまな “危機” が、
 「なぜ、いつ、どのように生じてきたのか?」
 という立体的な構造として見えてくるから、かなり不安は解消される。
 
 もっとも、不安は解消されても、解決課題はそのまま残るから、やはり危機から脱出する手立ては何か考えないといけないのだろうけれど、「危機の正体」を知ることは、かなり頭の中を整理して、パニックを抑えることに役立つ。
 
 そんなことを教えてくれる本の1冊として、 
 『超マクロ展望 世界経済の真実』(集英社新書)
 という本がある。
 
 エコノミストの水野和夫(みずの・かずお = 下の写真では右の人)氏と、哲学者の萱野稔人(かやの・としひと = 写真左)氏の対談を基本に編まれたグローバル経済に対する解説書だ。
 

 
 帯に添えられたキャッチがすごい。
 「500年に一度の大変動を見渡す羅針盤がここに!」
 そして、
 「グローバル危機で『近代資本主義』崩壊が始まる!」
 なんと50文字のキャッチに、「!」マークが二つもある。
 
 「近代資本主義の崩壊が始まる!」
 … なんて、かなり週刊誌的な煽り方をしているので、ともすればトンデモ本風にも見えるけれど、中身は、現在の世界的な金融危機を 「資本主義の構造」 から解き明かそうという真面目な本である。
 
 どんな立ち位置によって書かれた本なのか。
 まず、萱野氏の書いた「はじめに」という前文の一部を意訳して紹介してみる。
 
 「2008年のリーマン・ショック以降の金融危機は、一時的なバブル崩壊による一過性のものではなく、資本主義の転換点を示すものである。(それは)近代資本主義システムが行き着くところまできたことを示す兆候なのだ。
 (この本では)資本主義とは、そもそもどのようなものか、私たちは現在どのような歴史的状況にいるのか、資本主義経済はこれからどこへいくのか。(そういうことを見ていきたい)」
 
 対談のもう一方を務める水野氏は、次のように語る。
 
 「私は、金融危機を経た現在の世界を、ちょうど中世封建制から近代資本制が誕生したときと同じような、大きな時代の転換点にあるものと考えている。
 これまで、近代マクロ経済の教科書を読んでも説明できないような現象に、私は何度も直面してきた。それは、既存の経済学や金融理論だけでは解決できないものだった。
 そこで、一見投資とは関係のない、歴史学者のフェルナン・ブローデルや、世界システム論で知られるイマニュエル・ウォーラーステインなどの、歴史書や思想書を読み始めた。
 私たちの議論がなぜ通常の経済論議をはみだして哲学や政治理論をも参照しているのかといえば、それは、そのような時代に私たちが直面しているからにほかならない。
 21世紀のグローバル化は、単一の原因ではなく、複数の要因が複雑にからみ合って起きているのだから、経済学だけでは手に負えない。
 いまの日本の経済状況は、近視眼的な認識にもとづく小手先の経済財政政策では対応できないほど大きな歴史的転換のもとにある」
 
《 経済学だけでは解明できない先進諸国の長期低迷 》
 
 では、いま先進国を一様に覆っている “長期的な不況” の正体とは、いったい何なのか。
 
 お二人によると、それは先進国と新興国との間に横たわっていた「交易条件」の変化なのだという。
 交易条件とは、「一国が、どれだけ効率よく貿易を行えるか」を示す指標のことをいい、会社でいうと「仕入れと販売」の関係のようなものらしい。
 
 その「交易条件」を、先進国は非常に有利な状態で維持してきたが、それがある時期から、どんどん悪化し、逆に、新興国の交易条件の方がどんどん改善されていった。
 それが、先進国全体を覆う景気低迷の正体なのだとか。
 
 要するに、こういうことだ。
 オランダ、イギリスのようなヨーロッパの先進国は、16世紀の時代から、植民地化した途上国から原材料を安く仕入れて工業製品に作り変え、それを、原材料を提供した途上国へ高く売ることで儲けていた。
 つまり、ヨーロッパ先進国は、非常に有利な「交易条件」のもとで、産業社会化を遂げ、資本主義システムを発展させてきたというのである。
 
 この状態が、なんと、1960年代まで続いていたという。
 ところが、1973年のオイルショックを契機に、先進国の交易条件の悪化が始まる。
 理由は、アラブ諸国の対イスラエル戦争をきっかけに、石油資源を先進国に “買い叩かれていた” 新興国が資源ナショナリズムに目覚め、石油の価格決定権を、自分たちが持つように動き始めたからだ。
 それまでは先進国だけで油田を開発し、勝手に価格を決定していたけれど、先進国は、その石油に関する権利を手放さざるを得なくなったわけだ。
 
 石油は今でも世界経済における最重要物資の一つである。
 その石油の価格決定権を失ったことが、先進国のあらゆる場面における交易条件の悪化を招いた。
 
 この資源高騰による先進国の交易条件の悪化において、日本も例外ではなかった。
 たとえば、1994年の原油価格は 1バレル17.2ドルだったので、日本は年間4.9兆円払えば、原油や天然ガスなどの燃料を買えた。
 ところが、2008年には、年間平均 1バレル99ドルになり、日本は27.4兆円を出さないと同じ量の原油や天然ガスなどを買えなくなってしまったのだ。
 
 実は、リーマン・ショックの前、日本では2002年から2007年の 6年間にわたって、「いざなぎ景気」を超える長期の景気拡大が実現していたにもかかわらず、国民の所得は増えなかった。
 それは、交易条件が悪化したことで、原材料費が高くつくようになったため、売り上げが伸びても、人件費に回せなくなったからだという。
 
 このように、70年代半ば以降、先進国は資源を安く買い叩くことができなくなり、しかも市場を外に拡大することができなくなっていった。
 さらに、この時代から、先進国の耐久消費財需要が頭打ちになり、内需に期待することも難しくなっていく。
 特にアメリカの場合は、フォード式の大量生産様式を生み出した国であったため、多くの耐久消費財が供給過剰にならざるを得ない。
 つまり、市場が飽和し、高度成長がストップするようになる。
 
 その上に、先進国では少子化も進行していく。
 日本も含めたG7の各国では、70年代半ばから出生率がいっせいに2.1を下回って、国内市場も拡大していかないことが分かるようになった。
 つまり、国外でも国内でも、市場の拡大が頭打ちになっていくことが、もう70年代の半ばには見えていたのだ。
 
 では、日本だけは、なぜ70年代の世界的な危機を乗り越えることができたのか。
 それは、「省エネ技術」があったからだという。
 日本は、2回のオイルショックを省エネ技術でなんとか克服し、その後は、99年4月まで、交易条件を改善させることに成功した。
 しかし、その努力が通用したのは90年代後半までで、それ以降は、省エネ技術だけでは追いつかないくらいのテンポで、原油価格が高騰していく。
 
《 実物経済の限界が見えたとき、金融経済が始まる 》
 
 交易条件の悪化に対し、先進諸国は、どのようにして、それを乗り切ろうとしたか。
 それが、金融経済化であった。
 つまり、実物経済における利潤率の低下を、金融経済へ切り替えることで補うという方向に先進国は舵を切った。
 いってしまえば、モノづくりの姿勢を維持することに見切りをつけて、無数の金融商品や金融派生商品(デリバティブ)を売買することによって、膨大な利潤を生み出すシステムが構築される時代が始まったのだ。
 
 その先頭を切ったのがアメリカであった。
 アメリカでは、債権の証券化などアクロバティックな金融手法が次々と開発され、世界の余剰マネーは、すべてアメリカのコントロール下に入っていくようになった。
 アメリカは、この海外から集めたお金を、国内のバブルを通じて膨らませることによって、利益を上げる。90年代後半のI Tバブルや、2000年代の住宅バブル(サブプライムローンなど)はその過程で生まれたものといっていい。
 
 しかし、このような実物経済の利潤率の低下を金融経済への移行で乗り切ろうとする国が現れるのは、今に限ったことではない。
 「世界の資本主義の流れは、常にそのプロセスを踏んでいた」
 というのが、この本の主張である。
 つまり、これは現代社会に限った問題ではなく、資本主義の歴史において、過去に何度も繰り返されてきたことだというのだ。
 
 現代のような資本主義の骨組みが最初に輪郭を見せたのは、ルネッサンス期のジェノヴァ、ヴェネチアといったイタリアの都市国家であった。
 これらの都市は、まず最初に遠隔地貿易で儲ける。
 それによって莫大な富を手に入れるようになったが、ある程度の資本蓄積が進む頃になると、市場も飽和し、利潤率は低下していく。
 
 16世紀当時、イタリア経済の中心だったジェノヴァは、富をもっとも多く蓄積していた都市国家だったが、そのジェノヴァで真っ先に金利の低下が起こった。つまり、商業で利潤を得ることが難しくなったのだ。
 そこでジェノヴァの銀行家は、戦費の捻出に頭を悩ませるスペインの国王にお金を貸すようになり、商業から金融へとシフトしていく。
 しかし、その後スペイン世界帝国のフェリペ 2世が戦線を拡張しすぎて、債務不履行に陥ってしまうと同時に、ジェノヴァも凋落する。
 
 世界経済の中心はオランダに移った。
 16世紀以降、オランダは造船技術を革新し、世界の海を支配するための基礎をつくっていた。
 金融経済によって増殖していたヨーロッパの資本は、オランダの躍進に期待した投資家たちの手によって、ジェノヴァからオランダに移動していく。それが、オランダでの生産の拡大を支えることになる。
 
 しかし、そのオランダも、やがて実物経済で利潤率を確保できなくなる。
 そうなると、金融経済にシフトしていかざるを得なくなり、そこでイギリスに融資するようになる。
 それがイギリスの産業革命における生産の拡大を後押し、イギリスの黄金時代を準備する。
  
《 イギリスから、アメリカへ移る覇権 》
 
 だが、世界初の海洋帝国を築いたイギリスも、例外ではなかった。
 ジェノヴァやオランダ同様、やがて実物経済が鈍化し、利潤率が落ちるという過程を踏襲する。 
 そこで、これ以上イギリスに投資してもしょうがないと感じた投資家たちが、イギリスを追いかけて工業化していたアメリカの方が高いリターンが得られると判断し、アメリカに投資するようになる。
 
 こうして、20世紀は「アメリカの世紀」となるわけだが、そのアメリカでは、現在極端な金融化が進んで、とてつもない歪(いびつ)な構造が生まれている。
 すなわち、富の一極集中だ。
 なんでも、10年前の2001年には、アメリカの全産業のうち、金融関係の利益が全米企業の49%を占めるほどになったという。
 しかし、アメリカの労働人口のうち、金融機関で働いている人は5.3%しかいない。つまり、20人中 1人の人間が、利益の半分を稼いで潤っているということになる。
 
 だが、このような富の集中は金融経済が生んだものというよりも、そもそも資本主義の本質的なものだったのではないか、と水野和夫氏はいう。

《 資本主義が幸せを約束する人々は、地球上の15%だけ? 》
 
 ヨーロッパの資本主義システムは、16世紀にその姿を現したが、それが進展した1870年から2001年までに着目してみると、地球の全人口のうちの約15%の人だけが豊かな生活を営むことができたのだという。
 
 その「豊かな生活」を享受できたのは、ヨーロッパの価値観を受け入れた国だけであった。
 アメリカも当然それに入り、日本もその中に位置する。
 そして、この15%の人間だけが、残りの85%の人々が住むエリアから資源を安く買い叩き、豊かに暮らすことできた。
 そんな時代が、約130年続いたとも。
 
 水野氏はいう。
 「130年間こういう状況が続いてきたということは、どうも15%というのが、資本主義のメリットを受ける人々の定員である可能性が高い」

 そして、彼は続ける。
 「15%というのが、本当に定員ならば、これからブラジル、ロシア、インド、中国などの新興国(BRICs)の人々が豊かになりだすと、先進国10億人の中の『誰か』が、はじき飛ばされることになる」
 
 著しい経済成長を遂げる中国などでは、むしろ中産階級の仲間入りを果たす人々が増える。
 となると、深刻なのは、先進国の中産階級である。
 現代のように、生産拠点がどんどん先進国から新興国に移り、先進国の資本がますます新興国の生産現場と結びつくようになると、先進国の国民にお金が回ってこなくなる。

 先進国の労働者は新興国の労働者との国際競争に破れて没落し、今後は、中国、中東、欧米のそれぞれのごく少数の富裕層と、そこから溢れた多数の人たち、というふうに分かれていく。

 そのような格差の拡大を是正して、世界の50億の民が、全員「豊かな生活」が望めるような環境を整えるとしたら、どうなるのか。
 
 その場合は、資源はどんどん枯渇していき、残り少なくなった資源の価格は天井知らずに跳ね上がることになる。
 それは、「資源を安く買って、製品を高く売る」という資本主義システムの終わりをも意味する。
 仮に、中国やインドのような人口大国の人々が、資源のあるうちに豊かな暮らしを実現できたとしても、その市場が飽和状態になったとき、それに続いて経済成長を牽引できるような地域はもうどこを探しても存在しない。
 
 これが、現在グローバル化といわれる経済現象の正体だ。
 グローバル経済というのは、実は資本主義の終わりを目指すものであるのかもしれないのだ。
 
 ただ、資本主義の終わりは、「この世の終わり」ではない。
 それこそ、新しいシステムの始まりかもしれないし、あるいは、形を変えた資本主義が始まるのかもしれない。
 この本の帯にも謳われた「500年に一度の大変動」という言葉の意味が、ここで浮かび上がってくる。
 
《 近代資本主義は、どうして生まれてきたのか 》
 
 二人は、「現在の資本主義は、中世封建制が近代資本へと転換していったときと同じくらいの大きな転換点にある」と繰り返し語る。
 
 では、中世封建制から近代資本主義制に転換したとき、そこでは何が起こったのか。
 水野氏はいう。
 
 「13世紀から15世紀までの中世では、歴史学者のブローデルがいうように『労働者の黄金時代』だった。農業の技術革新によって、農民の実質賃金がかつてないほど伸びたからだ。
 だが、それは、封建貴族の立場に立ってみれば、取り分が少なくなるということになる。つまり、支配者にとっては、投下した元手の回収が危うくなることを意味していた。
 しかし、封建領主たちは、農民の年貢を重くするわけにはいかなかった。なぜなら、14世紀にはヨーロッパの人口が減少して、労働者が希少になっていたからだ。
 支配者たちは、年貢を重くして労働者たちが逃亡することを避けなければならなかった」
 
 つまり、13世紀頃からヨーロッパの生産方式としてしっかり定着してきた封建制システムは、そこから300年ぐらい経ったときに、最大の危機を迎えることになったという。封建制では、支配者たちが利益を得る機会がほとんどなくなったのだ。
 
 資本主義的生産様式への移行というのは、いわばこの苦境から脱出するための死に物狂いの模索から生まれたものだという。 
 水野氏は、ウォーラーステインという学者の『近代世界システム1600~1750』という著作を引いて、次のように述べる。
 
 「この(封建社会の)危機を脱するには、徹底した社会変革以外の方法はありえなかった。
 その道こそ、余剰収奪の新たな形態である資本主義的世界システムを創造することにほかならなかった。
 封建的な生産様式を、資本主義的な生産様式に置き換えるというのが、領主反動の実態だったのである」

《 資本主義は「略奪」から始まる 》

 では、「資本主義的な生産様式」とは、どのようなものなのか。
 
 一般的に、資本主義の根源をなす「資本の蓄積」は、これまでは異なるエリア間の価値体系の差異を利用したフラットな(対等な立場に立つ者同士の)交易がもたらすものとされてきた。
 つまり、インドで採れる胡椒をヨーロッパに運べば10倍の値段で売れるというような、価格差を利用した「儲け」の蓄積が、資本主義を準備したといわれ続けてきた。
 
 しかし、萱野稔人氏は、この見解を否定する。
 その論理では、市場原理を説明することはできても、資本主義の発生を説明することにはならない、というのだ。
 
 萱野氏にいわせると、
 「資本主義は、単なる市場経済として成立してきたものではなく、先進国が軍事力を背景に、有利な交易条件を確立し続けることで成立してきたものだ」
 という。
 
 言い換えれば、暴力、脅迫、略奪である。
 つまり、「資本蓄積」とは、16世紀にヨーロッパで発達した遠洋航海可能な造船技術と、銃火器の力で、ヨーロッパ人が、アジア、アフリカ、南北アメリカを自分たちのルールで支配することで成り立ってきたものなのだ。
 
 萱野氏は、その象徴的な例を、イギリスの世界制覇に見る。
 氏は、イギリスの海洋支配の先頭に立ったのが海賊たちであったことに注目する。
 当時のイギリス海賊たちは、国王から略奪許可証をもらった、いわば “国営海賊” で、中南米の財宝などを母国に運ぶスペイン船などを襲っては、片っ端から横取りした。
 もともと、スペイン自体が、中南米に栄えたインカやアズテカ文化を滅ぼし、その富を収奪した国なのだから、その新大陸の富を母国に運ぶスペイン船を襲うということは、無類に効率の良い “資本蓄積” になったわけだ。
 
 萱野氏は、この「他人の財産を略奪してしまう精神」に、資本主義の「搾取」の原型をみる。
 そして、「略奪」を堂々と奨励できる “場所” を発見したイギリスこそが、現在の資本主義のルールを策定した国であったことを認める。
 
 その “場所” とは海のことだ。
 海とは、陸に領土権を持つ国が、まだ手出しのできなかった空間。すなわち、陸のルールが行き渡らない空間であった。
 そこでは、その空間をいちはやく支配したものが、海のルールを取り決める力を持つことになった。
 
 イギリスは、優れた造船技術と航海技術を持つ国でなければ支配できなかった大西洋という空間をまず自在に支配し、自国のふるまいを正当化させる既成事実をつくり始めた。
 
 この海を支配するときのルールが、もっとも「交易条件」のよい取り引きを導き出すという資本主義のルールの原型となる。
 すなわち、原料材を安く仕入れられるエリアを探し、それを “略奪” に近い価格で買い求め、その製品を高く売れるエリアを探す。
 大量の素材と大量の製品を集中的に流通させるのは、鉄道も自動車もない時代、陸路では難しい。
 「船」という大量輸送手段があってこそ、それが可能になった。
 
《 世界のグローバル化として始まった資本主義 》
 
 ヨーロッパの封建制が崩れた時期は、ちょうどこの大航海時代と重なる。
 それまで、封建諸侯の抱えていた土地では、労働者たちの実質賃金が上がり続けていたが、かといって年貢を重くして、労働者たちの離反を恐れた封建領主たちは、利潤を得る生産手段をほかの方法に求めなければならなくなっていた。
 
 封建領主たちは、 “海の向こうの富” に視線を移していく。
 
 海に出るという大事業を行うには、莫大な予算と、緻密な計画が必要となる。
 とても、一つの村を支配しているだけの領主にできるような仕事ではない。
 それは、もう国家単位のプロジェクトになるからだ。

 こうして、封建貴族たちは、個々の土地の支配者であることをやめて、共通の利益を求めて団結していく。
 具体的には、封建領主の代表選手が国王になり、絶対王政を確立していく。そして、何百人という貴族が一人の国王を盛り立てて、小さな封建単位から、大きな国家単位へと移行していく。
 
 その過程とは、まさに現在でいうところの「グローバル化」であった。
 水野氏は、それを次のように説明する。
 
 「封建社会と資本主義社会では仕組みが違うが、転換していくきっかけは一緒かもしれない。
 そのシステム転換というのは、どちらもグローバル化していくところにある。
 たとえば、中世の封建制から近代の資本制への移行がなされたとき、ヨーロッパの小さな封建領主たちからみれば、それは “グローバル化” として実感されたはずだ。数百人という封建領主が、それぞれ独立して競争していたのでは利益も薄いし、農民との力関係が逆転してしまう危機もあった。
 そこで数百人の封建領主たちは、ひとつの国をつくって、(スペインやポルトガルのように)大航海時代に乗り出していくというグローバル化への道を選んだ」

 つまり、そのときと同じようなことが、いま起こりつつあるというのだ。
 16世紀のグローバル化は、それまで利潤を生み出すものとして機能していた封建制が行き詰まった結果、新たな道として選ばれた資本主義制が呼び寄せたものだったが、今はその近代資本主義が行き詰まったがゆえに、新たなグローバル化が始まっているという。

 いわば、現在のグローバル化とは、資本主義システムが国民国家単位では利潤を出すことが不可能になったゆえに、その突破口として開かれてきたものであるらしい。
 すなわち、21世紀に入ってからもずっと続く景気低迷は、もはや「不況」という一言で片付けられるようなものではなく、資本の側が、今までのようにはリターンを回収できない “劇的な” 構造変化に見舞われているとみるべきだ、という。
 すなわち、16世紀に世界を襲った地殻変動と同じレベルの激震が、いま地球を揺るがしているということなのだ。

《 感想 》

 かいつまんで要約すれば、「500年に一度の大変動」という言葉の歴史的意味は以上のようなものである。
 
 本著の後半部では、グローバリズムがもたらした世界の将来的展望と、そこから発生してくる問題点の対処方法が語られている。
 それも、なかなか読み応えがあるものだが、やはり本書のいちばんユニークなところは、近代資本主義の「誕生」とその「断末魔」までを見渡す歴史的パースペクティブを提示したところだろう。
 そして、そこまでの流れは、非常によく整理されていると思った。
 
 しかし、論旨を明確にしようという意図が強すぎたのか、ややチャート化されすぎているようにも感じられた。
 たとえば、同じルネッサンス期のイタリア都市国家として、ジェノヴァのほかにヴェネツィアもあるのだが、この 2都市は同列には論じられない。ロジックの一貫性を保つために、ヴェネツィアの方は省かれたという感じだ。
 さらに、ヨーロッパでは国家としての体裁を整えることが遅れたオランダが、なぜ一時的とはいえ海洋帝国になり得たかという考察も抜けている。
 
 そのような細かいことを掘り下げてもあまり意味はないが、全体として、ヨーロッパ的歴史観が偏重されすぎているきらいはあった。
 現代の資本主義の原型が、確かにヨーロッパから生まれたのだから、それはしょうがないともいえるのだが、資本主義のエートスそのものはヨーロッパ産とはいえ、たとえば、それが日本に導入されて日本型資本主義になるには、別の角度から照射する視線も必要となる。
 ただ、それに関しては、いろんな先行研究があるし、「また稿を改めて … 」ということなのだろう。
 
 多くの読者を興味をそそるのは、アメリカがイラク戦争を始めた「本当の理由」とか、日本にバブルを仕掛けたアメリカの「本当の狙い」といった、いさかか暴露本的な部分かもしれない。
 自分もとても興味を感じたところだが、紹介し始めると長くなりそうなので、割愛した。

 最後に、この世界中を覆う停滞現象に対して、水野氏が語っていた「日本の役割」について触れておく。 
 
 「日本は、近代化を猛スピードで達成してきた分、バブルの崩壊や長期デフレなど、低成長時代の課題にもいち早く直面した。
 したがって、低成長時代の経済政策や社会保障政策など、日本が直面している課題への取り組みは、世界経済が新たな時代へとソフトランディングするための重要な先行事例になるに違いない」
 この指摘は、なかなか示唆に富んでいたと思う。 
 
 なお、著者の一人である萱野稔人さんに注目したのは、彼がこの1月(2012年)にNHKで放映された討論番組『ニッポンのジレンマ』に出演し、切れ味鋭い社会批評を提示していたからである。本書を購入した動機の一つに、萱野氏の著作に一度触れてみたいというのがあった。
  
 
関連記事 「資本主義の終焉」

参考記事 「ニッポンのジレンマ」

 

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超マクロ展望 世界経済の真実 への4件のコメント

  1. Sora より:

    過去の解釈は色々あるでしょうが、要は各国の経済レベルの平準化で先進国が儲からなくなる(なった)ということですね。グローバル化の当然の帰結だと思います。

    本も読まずに申し訳ありませんが、今後平準化された後の各国の、たち位置はどうなると著者のお二人は展望されていますか。平準化された後も、①各国はニッチをみつけて儲けようと切磋琢磨するのか、それとも特色を活かして②各国は工業国、農業国、芸術国といった分業体制になるのか、最悪は③戦争を起こして、無理やり貧富の差を再度大きくするリスクが高まるのか。その中で日本はどうしたいのか。

    この見極めが、わが国の今後の戦略立案につながると思います。
    水野さんの「日本が直面している課題への取り組みは、世界経済が新たな時代へとソフトランディングするための重要な先行事例になるに違いない」は同感です。
    われわれは、常に先行事例をうまく真似てここまで来ましたが、平準化の結果、もはや良い先行例も無い。原発リスクを含め、諸課題に対し自分たちで考えなければならない「ジレンマ」に立ちすくんでいると思います。(私も分らない)

    町田さん、毎度のことながら、話題が若干それてすみませんでした。

    • 町田 より:

      >Sora さん、ようこそ
      お尋ねの件、ほんとうはそこが読者として一番知りたいところですが、この本の主眼は、現在のグローバリズムの構造を過去の歴史と照合しながら立体化 (可視化) するところにあるらしく、今後の見通しに関しては、実はそれほど詳しく述べられてはいません。
      もっともこちらの読み込みが不足なのかもしれませんが、Sora さんが①、②、③と分けて問題点を出されたことに関しては、私も自信をもって、「このお二人の立ち位置はこうだよ」 とうまく説明できないのです。ちょっと恥ずかしいのですが。

      ただ、③の 「戦争を起こすのか?」 …ということに関しては、局地的な小競り合いは今後も続くのでしょうけれど、少なくとも過去の二度の世界大戦規模のようなものは起こらないだろうという見立てのようです。複雑な気持ちですが、それは 「核の抑止力が働くから」 ということになるのかもしれません。

      ただ、「その中で日本はどうしたいのか (どうすればいいのか) 」 ということに関しては、お二人とも示唆的なことをおっしゃっています。

      まず、お二方とも、「今後、どんどん市場が飽和化して、低成長社会化するのは、どの先進国に関しても同様だろう」 という前提に立ち、「今までのような、限りなく欲望を刺激して需要を拡大していくという成長モデルは、もうどこの国でも描けない」 というのです。
      つまり、「規制を緩和すれば、どんどん市場も拡大していくという新自由主義的な経済政策はもう採れない」 ということらしいのですね。
      ま、そのへんは、すでに、あちらこちらでよく語られている話で、それほど新味はないのですが、水野さんがいうには、「逆に規制を強化する方が新しいビジネスモデルの創出になる」 という発想は面白いと思いました。

      要するに、「環境規制」 ですね。
      【萱野】 最近の先進国ではどこも環境規制が厳しくなり、それをクリアしないとそもそも市場に参入できない。環境そのものが産業化され、より進んだ環境対策の技術を持ったところが利益を得たり、市場で優位に立てることになる。

      … ということで、「今後は、何らかの規制によって付加価値をつけた市場を創設していくことが重要な経済的営為になっていく」 …ので、「日本はそこを目指すべきだ」 というわけです。
      そこには、70年代のオイル・ショックを乗り切った日本の自動車産業の例が出されています。
      つまり、日本の自動車産業が強かったのは、高騰した原油価格を省エネ技術によって実質的に安い水準に抑えることができたからであって、そこに 「日本の目指すべき道がある」 ということなのでしょうか。

      ただ、ちょっと漠然としていますね。
      “気休めの元気” は出そうに思いますが、理想論的なニュアンスも濃いように感じました。

      Soraさんが指摘されたように、>「われわれは、常に先行事例をうまく真似てここまで来たが、平準化の結果、もはや良い先行例はない」 というのは、お二人も同感のようです。
      水野さんはいいます。
      「日本は世界に先駆けて、低成長時代の課題に直面した。だから本当は、日本はアドバンテージを持っている。日本人はすぐに国際比較をするけれど、他国はもう参考にならない。なぜなら、日本が先頭を走っているだけだから、ほかの国はモデルにならない」

      私もまた同感です。
      ただ、「じゃどうすればいいのか?」 というと、個人としては良い智恵も浮かばないし、政府や国家にも、なかなかうまい舵取りは期待できない。
      無力な個人として思うことは、せいぜい 「個人がもっと文化的な活動を活発化させて新しい市場を形成する」 ということぐらいしか思い浮かばないのです。
      Sora さんが、いま楽しまれているような、キャンピングカーで旅行して、時にはスキーを楽しむ。また、乗用車の “氷上のスケーターズワルツ” を見学して楽しむなんていうことが、そういうことではないのかな … などと思っています。
       

      • Sora より:

        私の「文化的な」?行状までご紹介していただきありがとうございます(笑)。ただ、そういうことを楽しめるのも、わが国の経済の支えがあってのことだと私は思っています。

        将来の垂直軸を著者がどう展望しているかのご説明ありがとうございました。まあ、といっては失礼ですが、そんなものですね。わが国の宰相ですら政策理念を、「美しい国」(安部)とか「友愛」(鳩山)「最小不幸」(菅)、とか自分の趣味的考えを情緒的に表現するだけですから。宰相を批判してもしようがない。彼らも、きょろきょろ空気を読もうとするだけの我々の映し鏡だから。

        わたしは成長戦略は、ユビキタス社会の先取り、医療産業への特化みたいなことではないかと実は考えています。資源を特定の分野に集中配分しようとすると、農業はどうなるんだみたいな、またぞろ議論に落ち込んで、結局世の中が大きく変わるまで動けなくなるのでしょうが。。

        話は変わりますが、劇団ひとりさんでしたか、明日2月22日BS日テレ10時PMにて、先に購入したキャンピングカーの話をするらしいですよ。そのクルマの車種が私のそれの兄弟車らしいとも。これは見なくては。

        • 町田 より:

          >Sora さん、ようこそ
          おっしゃるとおりですね。
          一国の宰相というのは、「その国民の平均的な知的レベルの総和」 だという説もありますから、宰相を “あざ笑う” ということは、自分たちをあざ笑っているということと同じわけですよね。

          ある程度の年齢に達した日本人は、どうも、政治や経済に (批判的に) 口を出したがる傾向を強めがちですが (…自分もそうなんですけど)、そういうのを目にし、耳にすると、なんか、うんざりすることが多いのです。
          それは、「世間にもの申す」 いちばん簡単な方法で、そこで社会参加しているような気になるって、浅ましいと思うことがあります。(自戒の意味も込めてますが …)。

          そんなところに “豊かさ” なんかない、と思うのです。
          豊かさとは、常に自分の身体性を通して獲得した言葉の中にしかない。
          やっぱ 「キャンピングカー旅行」 ですよ。
          Sora さんのキャンピングカー旅行ブログを拝読していると、それがあるように感じます。お世辞じゃなくてね。

          劇団ひとりさんのキャンピングカー話は、もうかなり浸透しているんですね。
          そこで、車種もはっきり公表されるらしいし、きっと一定程度のインパクトがあるでしょうね。
          楽しみにしているんですけどね。
           

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