カーネーションの尾野真千子が交代

 
 NHKの朝ドラ 『カーネーション』 のヒロインが、尾野真千子から夏木マリに交代するというニュースが、今ちょっとした巷の話題。
 ドラマも後半部分に突入し、主人公の 「糸子」 もこれからは老年の活躍期に入る。
 30歳の尾野真千子に、不自然な 「老けメイク」 をさせるよりも、59歳の夏木マリに歳相応の演技をしてもらって、ドラマとしてのリアリティを保とうというのが、局側の判断であると言われている。

 しかし、ちょっとショックなのだ。
 毎朝、このドラマを観てから出勤する。
 昨年からそれが生活のリズムになっていて、朝、駅に向かって自転車を漕いでいるときなどは、見終わったばかりのドラマのシーンが脳裏をよぎることだってある。

 そのとき頭に浮かぶのが、現在の 「糸子」 の姿。
 これが別の人に変わるということが、今の段階では想像できない。

 尾野真千子さん。
 久しぶりにいい女優さんが出たな、と思う。
 芸歴の長い人らしいが、テレビでの露出度が少なかったため、この 『カーネーション』 ではじめて彼女の存在を知った人も多いのではなかろうか。

 もちろん自分もはじめて知った。
 この役者さん、特にごっつい美人というわけではないけれど、「糸子」 というヒロインがどういう存在であるかということを、瞬間的な演技の中においても的確に表現できる人だと思う。
 その演技力のおかげで、途中から観たドラマではあったが、それまでの経緯や主人公が置かれている環境などをすぐに把握することができた。

 彼女の演技がすごいのは、「利口そうだが抜けている」 とか、「繊細そうだが大ざっぱ」 とか、「気が強そうだが臆病」 といったような、逆方向に分かれる一瞬の心の動きを、ひとつの表情で表現してしまうところにある。

 ヒロイン 「糸子」 の演技には、「コメディ」 と 「シリアスドラマ」 の両方が要求される。
 彼女は、その 「コメディ」 と 「シリアスドラマ」 の境界線を、越えるでもなく、留まるでもなく、どちらとも取れるような足取りで、繊細に軸足を移動させながら演じ続ける。

 その姿には、「天然ボケ」 のおおらかさが伴う。
 しかし、このような、気が強そうだけど、どこか抜けているという 「ボケ」 のニュアンスを自然に表現できる女優はなかなかいない。

 男の目を意識することもなく、さらに、同性である女性たちと競い合うこともなく、自分の仕事以外の世界では、ひたすら天然ボケ状態で生きる女。
 実は、これが、「糸子」 人気の秘密となっている。

 ヒロイン 「糸子」 には欲がない。打算もない。計算もない。
 もちろん商売上手であり、商売の規模を大きく発展させる強引さも持っている。
 しかし、それは事業欲から来るものではなく、(デザイナーとしての) 創造欲から来るものである。
 その創造力において、彼女はどんなライバルをも寄せ付けないデザイナー的能力を発揮する。

 しかし、それ以外の領域では、まったくボケ状態で、服の流行には敏感であっても、男心も、女心にも疎く、だから恋にも奥手。

 そういう 「糸子」 は、男を見る目が年々厳しくなってきた今の女たちの冷たい視線にさらされている男たちからすると、「聖母」 のような存在なのだ。
 このドラマには、意外と男性ファンが多いのだけれど、彼らは、ヒロイン 「糸子」 のボケぶりに、一種 「癒し」 にも近い 「潤い」 を感じているのだろうと思う。

 だから、自分としては、尾野真千子さんに最後まで演じてほしいと思っている。
 ドラマそのものが、ヒロインの晩年まで描くことになっているらしいが、途中で終わったっていいじゃない … と思う。

 ついでにいっちゃうけど、同じNHKながら、『平清盛』 は、ちょっと期待倒れの感じもなきにしもあらず。
 なんだか、歴史を勉強したことがない人たちが脚本を書き、演出をし、演技をしている感じ。

 「歴史を勉強していない」 というのは、時代考証とか、そういうことを言っているのではない。
 時代時代を生きた 「人間」 というものを勉強していない。

 2回目の放映のときに、松山ケンイチ演じるところの若い清盛が、大地にぶっ倒れて、天を見上げながら、「オレは、誰なんだァ!」 と叫ぶシーンがある。

 ドラマでは、清盛を白河院の落し胤 (おとしだね) という設定にしているから、自分の出生に疑問を感じる 若者が、「オレは、誰なんだぁ?」 と悩むのは、別に不自然には感じられないかもしれない。

 だけど、ものすごく不自然だ。
 だって、「オレは誰なんだ?」 というのは、近代人の問題意識なのである。
 近代になって、村の掟やら、国家の法などから逸脱してしまう 「自己」 を知った人間が、はじめて 「オレは誰なんだぁ?」 という悩みを抱え込んだわけだ。

 この平安末期に、武家集団とか平氏一門というような共同体から独立し得た 「個人」 など、存在できるはずがない。

 だから、清盛が自分の出生の秘密を知ったなら、
 「しめしめ、オレには貴族になって正殿するチャンスがあるぞ」
 ぐらいに思う方が自然なのだ。

 「オレは、貴族なんかの飼い犬にはならんぞ」
 と清盛はよく叫ぶが、そんな発想など、武家が政治の実権を握った前例のない社会では出てくるはずもない。

 歴史上の清盛は、政治上の実権を握るまでには、段階を踏みつつ慎重にことを運んだはずである。
 「貴族の飼い犬」 として可愛がられつつ、腹の中で政権転覆を企んでいたところに、清盛の “凄み” があったはず。

 だから、本当の清盛を描くなら、若いうちから綺麗なべべを着て、貴族に媚を売り、後ろを向いてこっそり舌を出すような、したたかな若者にしなければならないと思うのだ。

 NHK、大丈夫かぁ?
 
 
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カーネーションの尾野真千子が交代 への2件のコメント

  1. Sora より:

    確かにNHKの大河ドラマには、現代の価値観をあからさまに、歴史上の登場人物にしゃべらせていますね。私も気になりました。

    「オレは誰なんだ?」は近代の自我意識、「貴族の飼い犬にはならんぞ」は個人の自由と権力、といった極めて「今」の問題意識であって、昔からあったかはおっしゃるとおり非常に疑問です。

    それに、青年清盛がさかんに弱者擁護の発言・行動をするでしょう。あれも気になりました。弱者に対する同情心というのは普遍的に存在したでしょうし、空也上人みたいなうち捨てられた貧者を救おうとした坊さんも出てきます。しかし弱者救済は念仏を唱えればあの世で救済されるという新宗教に帰依する形でしかあの時代では解決されなかった。若い清盛がにおわす権力者vs弱者といった社会構造的な捕らえ方、したがって弱者にやさしい権力者を志向するんだという捕らえ方は、あの時代ではできなかったはずです。

    昨年の「江~姫たちの戦国」でも、愛する人を奪う「イクサ」を嫌う真情がおごうの口から、繰り返され出てきました。これも現代の反戦イデオロギーだと思います。私はこれらの価値観を重要で守るべきだと思ってはいますが、歴史上の人物が、ああも恥ずかしくもなく現代風にしゃべるとなると、視聴者に媚びていると感じてものすごく尻がかゆくなります(笑)。

    NHKの演出者は、平和とか自由とか弱者擁護といったセリフを吐かせれば視聴者の共感を得られると安易に考えて歴史ドラマを作っているのでは。だとしたら愚弄してますね。(少なくとも町田さんと私を) NHKの製作意図はなんなのでしょうかね~。意図はともかく、この問題フェアな解決策は、小さくていいですから、「このドラマは歴史に題材を得たフィクションです」の文言をやはり添えたらいい。

    ただ私も分からない点は、歴史は皆知っているのに、あえて小説という形で歴史小説を書くのは何のためなのか? 現代の価値観から再編してはだめなのか? 家族愛、夫婦愛といった本当に普遍的な人間感情からのみ再照射すべきなのか? といった歴史小説の役割一般論になると、実はなんなのか分からないのですが。(あほらしい気がして読みませんし)

    • 町田 より:

      >Sora さん、ようこそ
      なんだか、言い切れなかったことをすべて補足していただいたようなコメントで本当に恐縮しております。
      まさに、おっしゃるとおりです。そういうことを書きたかったつもりでした。

      ご指摘の通り、青年清盛は、「貧しく弱い者を虐げておいて、なにが武士ぞ!」 みたいなことをよく叫ぶのですが、それがセリフの体をなしていない。声だけうわずって、聞き取りにくい。
      それは、松山ケンイチさんの演技力の問題なんかではなく、実は、そのセリフ自体が地に足がついていないということの反映だったのでしょうね。
       
      本当に、そこのところで、中途半端な 「近代史観」 を感じてしまいます。
      脚本家は、京の町をふらつく、あの “薄汚れた庶民” の姿に、イギリス産業革命期の労働者の姿でも重ね合わせているのでしょうか。

      われわれの 「歴史を見る目」 というものが、すでに “歴史そのものに規定されてしまっている” というのは、歴史を考えるときの基礎中の基礎です。
      われわれは、あらゆる 「起源」 というものに、もっと用心深くなければいけないように思うんですよね。
      すなわち、「武士の起源」 というものを考えるときに、江戸期の “武士道” からさかのぼっていっても何も見えてこない。「坂東武者 = 百姓」 などという鎌倉政権を論じるときの歴史学で論じても、平氏政権の本質には迫れない。

      平氏政権というのは、壇ノ浦で壊滅的被害を受けなかったら、もしかしたら、もっとすごいものになっていたかもしれない。
      そういうスリリングなものをこのドラマに期待していたんですけど、ちょっと無理っぽい雰囲気ですね。
      おっしゃるように、「このドラマは歴史に題材をとったフィクションです」 という文言を添えるというのは、せめてもの良心として必要なことかもしれませんね。

      最後の 「歴史小説」 の役割とは何か? というのは興味の尽きないテーマですね。
      基本的に、「歴史小説」 というのは、歴史に題材を取ったフィクションとして、何よりもその作家の生きている 《現代》 を論じたものだと思っています。だから、新自由主義的な思想が勢いを得ていた時代には、主人公は、そういう “現代思想” を投影しやすい人物が選ばれてきますし、その反省期になると、「義」 や 「倫理」 を尊ぶ人物が主役に選ばれたりする感じです。
      よって、「歴史小説」 というのは、現代小説以上に、現代的ですよね。

      素敵なコメントでした。いろいろと考えさていただくきっかけを与えてもらったように思います。
       

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