国境の南 (ワイルドバンチの夢)

 『国境の南』(South of the Border)という言葉は、(熟年から老人ぐらいの)ある年齢層にとっては、ロマンチックな響きを持つ言葉なのかもしれない。
 
 「南」という言葉には、温暖な気候やリゾート感が漂い、「国境」という言葉からは、「夢の世界への越境」という非日常的なニュアンスが添えられる。
 そしてそれは、 “遠い過去の記憶” が埋もれた場所の比喩のように思える。
 
 だからなのか、団塊世代の作家村上春樹は、ノスタルジックな不倫小説に『国境の南、太陽の西』というタイトルをつけた。

 小説の中で、主人公は「島本さん」という小学校のクラスメイトの女性と再会する。
 そして、幼い頃、彼女の家のステレオで聞いた音楽のことを思い出す。
 その音楽のなかに、ナット・キングコールが歌う(とされている)『国境の南』が出てくる。

 主人公は、いう。
 「国境の南という言葉には何か不思議な響きがある。その曲を聴くたびにいつも、国境の南にはいったい何があるんだろうと思った」

 この言葉は、12歳の少年に、何かのインスピレーションを与える言葉として、この小説に登場する。

 では、この「国境の南」というのは、いったいどのエリアを指すのだろうか。
 いうまでもなく、アメリカ人にとってのメキシコである。
 
 もちろん、国境を挟んで南北に分かれている国はいっぱいあるだろうけれど、これまで映画や音楽に登場するほとんどの “国境の南” は、アメリカにとってのメキシコであった。

 そこには、どんな光景が広がっているのか。

 日本で最初のキャンピングカーによる海外旅行を体験した桐野江節雄氏は、その著書『世界は俺の庭だ』(1965年)において、アメリカからメキシコ側に入ったときの情景を次のように綴る。

 「金網一枚をさかいに、メキシコ側は、水は “天まかせ” で、大地は白く乾いている。その反対のアメリカ側を見れば、こちらは、どんなことをしても水を引いてくるアメリカらしく、一面の緑」

 地続きであるはずの大地が、フェンス 1枚をさかいに、まったく違う相貌を現しているのを、桐野江氏はショックに近い感覚で捉えている。
 どの州境の国境なのか、そこに地名はなかったが、なんともすごいイメージが伝わってくる記述だ。

 メキシコ側に入ると、
 「空気自体が粉っぽくなり、不規則なリズムを持って、縦に揺れている感じがする」
 とも書かれている。

 多くの西部劇に登場する “国境の南” のメキシコも、だいたいこんな感じだ。
 それは、活力に溢れるアメリカに比べ、時代が一回り遅れているとさえ思えるような、貧困な生活を余儀なくされるメキシコ人たちの荒涼と乾ききったエリアとして表現される。
 なのに、それは必ずパラダイスとして描かれている。
 
 小さい時から西部劇を観ていて、それが不思議だった。


 
 西部劇の舞台として登場するメキシコは、アメリカのアウトローたちが、銀行や列車を襲って、金を奪って逃げこむ地であり、傷をいやすためにくつろぐ地であった。
 
 一仕事終えて、命からがらメキシコに逃げ込んだ男たちを待っているのは、エキゾチックな黒髪と黒い瞳を持つ美女たち。

そして、緊張を解きほぐすような、けだるいギターの調べ。
たとえば、ライ・クーダーのギターの音色に似た … 。

▼ Ry Cooder 「The Border theme」
 
  
 実際のメキシコの楽曲は、ホーンも威勢よく入った陽気なものだが、なぜか西部劇に出てくるアメリカ人たちが聞くギターの音は、痩せたメキシコ青年が崩れかかった白壁にもたれて奏でるような、けだるい甘さに満ちた曲が多い。
 
 たぶん、それがアメリカの映画監督が求めていた “国境の南” のエキゾチシズムだったのだろう。
  
 「優しくて、さびしくて、物憂い甘さ」
 
 映画に登場するそういう “音” は、法整備を整えてアウトローたちを排除し、勤勉な労働者たちの安全と秩序を確立しようとしたアメリカ社会が失いつつあるものとして、映画監督たちが作り出したものなのかもしれない。

 とにかく、西部劇に出てくるアウトローたちは、 “国境の南” をめざす。
 アメリカで生きる場所を失った彼らにとって、そこは、少年に戻って甘えられる母のような場所。
 西部劇に出てくるメキシコは、そんなアメリカのアンチヒーローたちの憩いの場所として描かれていた。

 もともと、アメリカという国家は、メキシコを収奪する形で潤った国だった。
 テキサスなどの「アメリカ南部」といわれる地帯や西海岸も、その昔はメキシコの領土だったのだ。
 アメリカ人のいう「フロンティアの開拓」は、メキシコへの “侵略” の別名でもある。 

 それなのに、メキシコは、不実な恋人を慕う情の濃い女のように、アメリカのならず者たちを受け入れる。
 “合法的“ な侵略を平然と行うアメリカ国家の法秩序から締め出されるアウトローは、まだ当時のメキシコ人にとっては、いくばくかの同情を誘う “仲間” のように思えたのかもしれない。
 その物悲しさが、「国境の南」の真実だ。

 サム・ペキンパー監督の『ワイルドバンチ』は、そんなメキシコの物悲しい甘さを切なく描く。
 この映画では、ラストの度肝を抜くような銃撃戦の凄まじさが話題となるが、一番印象的なのは、銀行や鉄道を襲ってメキシコに逃げ込むアウトローたちを優しく受け入れるメキシコの村人たちを描くシーンだ。

 金貨と思って強奪した袋に入っていたのは、ただの鉄のワッシャー。
 まんまと騙された主人公たちを救うのは、村に逃げ込んだアメリカ人に対する人々の優しさだ。
 
 メキシコの村人たちは、このアメリカの法秩序から閉め出されたならず者たちを、まるで放蕩息子の帰還を見守る母のような慈愛で包む。
 心身ともに傷ついた強盗団は、村の娘とダンスを踊り、酒を喰らい、ようやく一息つく。

 そして、彼らが旅発つとき、村人たちは、まるでヒーローを送り出すような盛大な見送りをする。
 (実は、この映画では最後の銃撃シーンの凄まじさが話題になるけれど、私がいちばん好きなシーンはここだ) 

 サム・ペキンパーは、そのようなメキシコの精神に、資本主義国家として成長するアメリカが失いつつある切ないけなげさを見る。
 あの映画が、どこかノスタルジックな色調を帯びるのは、滅び行く者たちが落ち延びていく場所としての「国境の南」を描いたからだろう。 

 「国境の南」
 貧しく、優しく、さびしいユートピア。 
 アメリカ人の傲慢さと、能天気さによって勝手に捏造された幻の場所。
 でも、それだからこそ、そこには甘美なはかなさが夢のように広がる。

▼「La Golondrina」 from 「The Wild Bunch」
 『ワイルドバンチ』 ラストシーン。映画のなかで死んだならず者たちが、
 最後に、「ラ・ゴロンドリーナ」 の歌に包まれて笑っている


 
 

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国境の南 (ワイルドバンチの夢) への2件のコメント

  1. 磐梯寺 より:

    町田さん、こんばんは。
    お久しぶりです。1年ぶりぐらいの投稿になりますが、いつもながらの軽妙なタッチの文章とその深い博識には毎回脱帽しております。
    今回の悲しき闘牛の記事も興味深く拝読しましたが、その下にリンクが張ってあったこのサム・ペキンパーのワイルドバンチ論に接し、改めて町田さんの味わい深い文章の力に感銘いたしました。
    小生も若い頃にこのワイルドバンチを見て感銘を受けた人間の1人です。最後の銃撃戦のシーンも印象的でしたが、やはり町田さんと同じように、西部劇の終わりの時代が描かれている寂しさも感じておりました。
    今回町田さんのペキンパー論を読み、ようやく私が感じていたその寂しさの本質に思い至ったという気になりました。
    あの映画の主役は、もちろんアメリカの強盗団ではあったのですが、それ以上の存在感を持っていた主役といえば、それはメキシコという国の風土だったのですね。「貧しく、優しく、さびしいユートピア」というのは、なんと素敵な表現なんでしょう。感銘いたしました。
    ライ・クーダーの音楽もこの文章の滋味を引き出すのに大いに貢献しています。
    まるで極上の美酒に酔うような、素敵ないっときを過ごさせていただきました。
     

    • 町田 より:

      >磐梯寺さん、ようこそ
      こちらこそ、お久しぶりです。
      過分なお褒めのお言葉をいただき、恥ずかしい気持ちも込み上げてきますが、たいへんありがたく思います。

      おっしゃるように、この映画の “主役” は、「メキシコという国の風土」 であったかもしれません。
      貧しくも、人を疑うことを知らない純朴な人々が住むメキシコの村にも、やがて貨幣経済の嵐が襲う。
      そうなると、貨幣経済のもたらす 「贅沢」 さに免疫力のない村人たちはいともたやすく感染し、「村の貧しさ」 に気づき、自らの出自を忌み嫌うようになる。
      多少図式的ですが、近代になって人々の経済感覚が変わる時期をうまく捉えていた映画であったような気がします。
      そのことを、あの村の青年を裏切って独裁者マパッチ将軍の情婦になってしまう村の娘がうまく表現していましたね。

      この映画の “さびしさ” というのは、メキシコ人にとっても、「一つの時代の終わり」 が示されていたからのように思います。

      いろいろな意味で、「終わり」 がたくさん示されていた映画でした。
      だから、村人たちが、強盗団を無邪気に歓待するときの歌である 「ラ・ゴロンドリーナ」 が、エンドタイトルでは、「挽歌」 となって流れるということなのでしょうね。

      素敵なコメントをいただき、本当に感謝いたします。
       

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