昔、映画の中に 「大人」 がいた

 
 昔は、映画の中に 「大人」 がいた。
 どのくらい昔かというと、1950年代ぐらいのまでだろうか。
 
 自分だけが、勝手にそう思っているだけかもしれない。
 だけど、この思いは強い。
 
 今、自分は齢 (よわい) 60を超えたけれど、いまだに自分のイメージのなかにある 「大人」 たちに追いつくことができない。
 たぶん、この距離は一生変わることなく、墓場に行くまで縮まらないだろう。
 
 では、自分のイメージにある、 「大人」 とは何か?
 答は、すべて1940年代の後半から、50年代の終わり頃までの 「映画」 の中にある。
 
 1960年以降、一部の例外を除いて、映画から 「大人」 たちが姿を消した。
 それから先は、 「若者」 しかいない。
 どんなに、分別を持った熟年や、落ち着いた振る舞いを持つ老人が登場しようが、それはみな 「若者」 。
 「大人たち」 は、その 「若者たち」 によって、亡霊のように追い払われた。
 
 最近、意識的に昔の映画を観るようになって、感じたことが一つある。
 それは、ハリウッド映画にしろ、ヨーロッパ映画にしろ、日本映画にしろ、1960年頃に一つの 「切断」 があるのではないかということだ。
 
 1960年という年は、自分がちょうど10歳になった年で、自分一人で映画を観に行くような環境ではなかったし、親に連れていってもらった映画は、東宝の 『地球防衛軍』 やディズニーアニメの 『白雪姫』 ぐらいのものだったから、それ以前の映画は、封切り公開からずっと遅れてテレビで放映されたものを観ることが多かった。
 
 その頃、今のTBSで、 『 3時の名画座』 という番組を流していた。
 当時のテレビは、今のように、番組が 1日中放映されるようなことはまれで、午後から夕方にかけての時間帯は、スイッチを入れても画面に何も映らなかった。
 しかし、TBSだけが、その空いた時間に昔の映画を流すようになった。
 それを、学校から帰ってきて、ほぼ毎日むさぼるように観た。
 
 そこで気づいたことは、自分の年齢よりも10年以上前に作られた映画の方が、リアルタイムで公開されている映画よりも常に新鮮だし、面白いということだった。
 なぜなら、そこには 「大人」 たちがいて、大人のずるさや、大人の悲哀や、大人のアンニュイを表現していたからだ。
 
 なんだかそれが、やたらカッコよかった。
 人間の弱い部分も、ずるい部分も持ち合わせながら、それでも 「生きていかざるをえない」 という切羽つまったところから生まれる大人たちの緊張感が、 「見てはならない大人の世界」 を見るようで刺激された。
 
 そのような映画の代表例が、たとえば、ルイ・マルの 『死刑台のエレベーター』 だったり、ロジェ・ヴァディムの 『大運河』 だったり、ロバート・ワイズの 『拳銃の報酬』 だったりした。
 
 特に、 『拳銃の報酬』 は、自分の “好み” の原点のような気がする。
 これだけは、父親に連れて行ってもらって、リアルタイムで観ているということもあるが、その後DVDで見なおしても、やはり自分の嗜好を決めた映画の一つであったように思う。


 
 『拳銃の報酬』 には、子供に 「人の生き方」 を教えるような、人格者の登場人物は一人も出てこない。
 賭博で身を持ち崩した黒人歌手 (ハリー・ベラフォンテ) 。
 仕事もなく、情婦の世話になりながら鬱屈した生活を送っている白人中年 (ロバート・ライアン) 。
 刑務所暮らしをしていた元警察官の老人 (エド・べグリー) 。
 
 話は、その 3人がたくらむ銀行強盗の計画を軸に展開する。
 
 
 
 「正義」 が描かれることもなく、 「愛」 が成就することもなく、 「ハッピーエンド」 もない。
 しかし、その映画は、人間にとって大切なものを、 「失うことの辛さ」 を通じて語ろうとしていたように思う。
 
 ここで、その 1シーンを紹介したい誘惑に駆られる。
 下に貼ったYOU TUBEの画像は、主人公の一人、黒人のジョニー (ハリー・ベラフォンテ) が、酒場で歌うシーンだ。
 
 
 
 その前に、多少説明を加える。
 
 ジャズクラブの専属歌手である黒人のジョニーには、愛する妻と娘がいた。
 しかし、根っからの博打好きで、多額の借金を背負っている。
 そのため、妻と娘からは別居を強いられている。
 
 彼が酒場で歌っているところに、マフィアのボスと、その子分が借金の取り立てにやってくる。
 あからさまな嫌悪と皮肉を、マフィアのボスと子分に返すジョニー。
 しかし、ギャングたちは、 「明日の晩までに金を用意しろ」 とジョニーを脅して店を出ていく。
 
 ボスたちが引き上げた後、自暴自棄になったジョニーは、舞台に戻り、他の歌手のステージに乱入して、自分の憤懣をぶちまけるように歌いだす。
 この後の彼には、もう銀行強盗のたくらみに参加する以外、生き残る道は残されていないのだ。
 
 その男のブザマな “ふてくされた姿” が、何かを訴えかけてくる。
 「人間は弱いものだ」 と訴えかけてくる。
 大人になったら背負わなければならない 「生きることの受苦」 が、子供の心にも伝わってくる。 
 ジャズの調べと一緒に。
 
▼ 『拳銃の報酬』 (Odds Against Tomorrow – The Club Scene)
 
 
 「“大人” の生きる世界には、常にジャズが鳴っている」
 それが、私の 「大人」 というイメージを思い浮かべるときの原点にある。
 だから、いまだに1950年代のクールなジャズを聞くと、 「子供分には手の届かない大人」 の世界を覗き見したような気分になる。
 
 この時代、モノクロ画像の小粋な映画には、ジャズが使われることが多かった。
 
 ルイ・マルの 『死刑台のエレベーター』 (マイルス・ディビス) 1958年
 ロジェ・ヴァディムの 『大運河』 (MJQ) 1959年
 同じくロジェ・ヴァディムの 『危険な関係』 (モンク/アート・ブレイキー) 1959年
 ミシェル・ガストの 『墓にツバをかけろ』 (アラン・ゴラゲール) 1959年
 そして、このロバート・ワイズの 『拳銃の報酬』 (MJQ) 1959年
 
 これらの 「フィルムノワール」 といわれる一連の犯罪映画に共通した 「光と闇」 がきわ立つさびしい画面に、クールなジャズはよく似合った。
 「苦味」 があり、同時に 「官能」 があった。
 それは、暗い影の部分を横顔に残したペシミスティックな男たちの心を表現するのにぴったりの音だった。
 
 そこに描かれた 「大人」 たちが、1960年代以降、姿を消す。
 
 それに代わって、アメリカではベビーブーマーの若者たち (日本では団塊の世代の若者たち) を相手にした映画がぞくぞく登場するようになる。
 
 『イージーライダー』 1969年
 『真夜中のカウボーイ』 1969年
 『明日に向かって撃て』 1969年
 『バニシング・ポイント』 1971年 ……
 
 「フィルムノワール」 に取って代わったのは、 「アメリカン・ニューシネマ」 だった。
 前世代の残した映画に古臭さを感じていた若者たちは、このアメリカン・ニューシネマに、 「自分たちの気持ちを代弁してくれる映画」 を見出した。
 
▼ アメリカン・ニューシネマの象徴的な作品 『イージーライダー』
 
 
 フィルムノワールとアメリカン・ニューシネマは、ともに戦争の影を引きずった時代の映画である。
 
 平和を謳歌していたアメリカ人たちが、はじめて自国の外に広がる暴力と闇の世界を見たのが、第 2次世界大戦。
 その後遺症のような形で、フィルムノワールが生まれた。
 一方、アメリカン・ニューシネマは、泥沼化していくベトナム戦争に対するアメリカ人の厭戦気分から生まれてきた。
 二つとも、戦争によって受けた人間の 「傷」 を見つめる映画潮流だったが、両者には決定的な違いがある。
 
 フィルムノワールにいた 「大人」 が、アメリカン・ニューシネマでは姿を消している。
 
 代わりに登場してきたのが、 「体制」 に反抗し、自分たちの生き方を強く主張する 「若者」 たちだった。
 
 アメリカン・ニューシネマの主人公たちもまた、フィルムノワールの登場人物と同様、ハッピーエンドを迎えることができない。
 旅の途上であっけなく惨殺されたり、自ら障害物にぶち当たって “爆死” したりはする。
 
 しかし、両者には似て非なるものがある。
 
 フィルムノワールの主人公たちが、 「人間」 の弱さをさらけ出すことで、 「人間」 の価値を問うたのとは逆に、アメリカン・ニューシネマの主人公たちは、 「人間」 そのものの自明性を疑うことはなかった。
 彼らにとっての 「人間」 は、最初から無条件に 「自由」 で、 「イノセンス」 な存在であり、だからこそ、それを抑圧する高度資本主義社会を憎み、理不尽な戦争を遂行する政府を否定することができた。

 余談となるが、昔、ある学生運動の政治党派の読書会に参加したことがある。
 テキストは、マルクスが文筆活動の初期に取り組んだ 『経済学・哲学草稿』 だった。
 読書会のリーダーは、そのテキストを選んだ理由として、「この書には、後期マルクスが放棄した “人間性” に対する考察 (疎外論) が描かれている」 と説明した。
 20歳前後の私は、その言葉にいたく感激した。
 それほど、当時の私たちの世代は 「人間性」 という言葉が出ると、それを検証することもなく、無条件に賞賛していたのである。
 しかし、本当は、後期マルクスの 『資本論』 の方に、むしろ 「人間性」 の謎を解く鍵があったというべきだろう。
 私たちは、「人間性」 という言葉にナイーブすぎた。

 このようなアメリカン・ニューシネマの時代の無邪気な人間賛歌は、後の 『ロッキー』 や 『スターウォーズ』 の世界にも受け継がれていく。
 
 暗くて、厭世的な雰囲気をかもし出す 「アメリカン・ニューシネマ」 と、明るい未来が展望できる 『ロッキー』 や 『スターウォーズ』 のような映画は、一見正反対に見えるが、実は見かけほどの差異はない。
 ともに、 「自由」 で、 「イノセンス」 な人間が、それを抑圧する諸条件と戦うという話なのだから。
 前者においては、その結末が、主人公たちの 「敗北」 で終わり、後者においては、それが 「勝利 (ハッピーエンド) 」 で終わるという違いでしかない。
 
 基本的に、アメリカン・ニューシネマと、その後の 『ロッキー』 や 『スターウォーズ』 は、 「若者」 の映画である。
 終戦後、急激に人口膨張したベビーブーマーや団塊の世代という 「ヤングマーケット」 を背景に生まれた映画だ。

 そして、この 「ヤングマーケット」 という消費社会で呼吸し始めた “若者たち” は、年老いても相変わらず 「若者」 の気分で生き続ける。
 同様に、かつて 「ヤングマーケット」 で一儲けした企業側も、このマスマーケットを逃したくないから、 「いつまでも若さが保てます」 と謳う健康食品や化粧品などを開発し続ける。
 
 かくして、 「若者症候群」 が蔓延する。
 「アンチエイジング」 とは、熟年を相手にしたものではなく、 “若者” を当て込んだ思想である。
 
 しかし、同じ時代に、二つの 「若者層」 は要らない。
 今の時代を生きる本当の若者は、そう思う。
 
 彼らは、老いてもなお “若者” のつもりでいるオールド世代からは、 「学ぶべきことが何もない」 ことを悟っている。
 なぜなら、そこには 「大人」 がいないからだ。
 
 今の熟年たちは、 「若者のような健康」 と 「若者のようなイノセンス」 を自慢するが、 「大人の官能」 や 「大人の憂い」 や 「大人の諦念」 というものを知らない。
 
 子供は、そのような 「大人」 のイメージが貧困な人たちから、 「人生の規範」 など学びたくないのである。
 子供が本当に知りたいのは、大人の 「官能」 であり、大人の 「憂い」 なのだ。
 そのようなものは、個人の生活感覚からもたらされるものではなく、 「文化」 からもたらされる。
 その大人の文化を伝える世代が、もういない。
 
 私にとっての 「大人」 は、あくまでもフィルムノワールの中にいる。
 私たちの世代がつくった文化は、 「大人」 を殺してしまったのかもしれない。
 
 
▼ マイルス・ディビスが演奏する 『死刑台のエレベーター』 (1959年) 憂愁と虚無が入り混じった、あの時代独特のサウンド

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