前世代の文化を継承できなかった私たち

 
 日本の経済的停滞を嘆く声が世を覆うようになって、どのくらいになるのだろう。
 「失われた20年」とかいう言葉があるから、やっぱり20年ぐらい経つのか。
 
 この間、停滞の理由を分析する様々な分析が各方面からなされた。
 いわく、
 「少子化による国内マーケットの縮小」
 「中国、インドなどの新興国による低コスト産業の台頭による日本商品の競争力の鈍化」
 「グローバル経済の浸透が生んだ諸外国の金融不安による影響」
 
 きっと、それぞれの局面においては、みな正しい見方なのだろう。
 しかし、肝心なことが見落とされている。
 経済停滞の真の原因は、日本に「文化」が欠けたためだということが。
 
 文化ってのは、簡単にいえば、「人の心を豊かにする」財物のこと。
 それに投資したり、産業化したりする発想が根本的に失われたから、かくも長き停滞から日本は抜け出せないでいる。
 
 「文化」は、はっきりした実体というものを持たない。
 だから、投資効果も読めないし、広報宣伝も難しい。
 そして、何よりも “効率化” に反するものだ。
 効率化しようとして削ってしまえば何も残らないものが「文化」なのだから、経済成長戦略に立てば、「ムダの元凶」のようなものである。
 
 しかし、そういうものに「お金を落とす」という発想が失われ、商品として即効性のある “便利な物” の開発だけに終始してきたから、その “物” がマーケットを飽和させてしまえば、その市場は幕を閉じるしかない。
 
 いったい、どうしてこういう世の中が生まれてきたのか。
 
 それは、私たちの世代、つまり団塊世代から始まって、バブル世代として昭和を生きてきた人間たちのせいかもしれないのだ。
 
 ちょっと話は遠回りする。
 
 実は、この11月、足の病気で10日ほど会社を休んだ。
 休んで毎日病院に行き、診察と治療を受けた。
 大病院なので、診察を受けるまでに待たされる時間がものすごく長い。
 携帯も使えないので、外との連絡も取れない。
 仕方なく、本を読んだ。
 
 どうせならば、日頃読めないような本を読もうと思った。
 そこで、デカルトとスピノザという二人の17世紀の哲学者たちの思想を比較した本を読んだ。
 こういう時じゃないと、一生読む機会もないだろうと思ったからだ。
 
 解らねぇんだ、これが。
 
 「スピノザの考えでは、一切が神 = 自然のなかにあり、その外に立つ全知全能の神などいない。超越的な神こそ、自然を超える自由意志を持つと思い込んでいる人間の抱く表象(想像)なのである」
 
 「スピノザの考える『無限』とは、『超越』 の不可能性であり、それはまた『全体性』を透過することの不可能性である」
 
 なんのこっちゃ … であった。
 
 しかし、解らないながらも、「超越」、「自然」、「無限」などという言葉を、行きつ戻りつ目で追っていると、次第にぼんやりとした “思考の塊(かたまり)” が心の中に生まれてくる気配があった。
 
 本の内容まで理解できなくても、想像力が無類に刺激されて、何かが自分の身体の中に満ちてくるのを感じた。
 それがもとで、ずっと気になったまま放っておいたドイツ・ロマン派の画家カスパール・フリードリッヒについて、何かを書いてみようかという気になった。
 
 一人の人間が「文化を感じる」というのは、たぶんこういう体験の中にあるのだろう。
 
 そして、そういう体験がごく当たり前のように継承されてきた時代が、かつてはあったのだ。
 一見、すぐには役に立たないようなものでも、それが 「心を潤すもの」 であるならば、そこに愛着を感じ、それを当たり前のように尊重してきた人たちが、かつてはいた。
 
 たとえば吉行淳之介は、自分の家が空襲に遭ったときに、家の中から真っ先に持ち出したのは、家財道具でもなく、宝飾類でもなく、ドビッシーとショパンのレコード集であったたという。
 
 こういう心情のなかに「文化」がある。
 
 私が、このデカルトとスピノザを論じた哲学書に感じたのも、そのようなものに近い。
 吉行淳之介が、家財道具よりもショパンのレコードを優先したのと同じような、ある種の哀しく切ない浮世離れの感覚がある。
 
 論じられているのは17世紀の(今ではあまり話題にもならない)哲学者たちのことであり、それを書いた著者も、幼少期に戦争体験を持っているような昔の人である。
 そこでは、経済の成長戦略が語られることもなければ、マーケットの縮小を分析する論考もない。
 ただ、ひたすら、デカルトとスピノザは「神」というものに対して、いかに思考したか、というその筋道が語られているだけなのだ。
 
 にもかかわらず、その行間には、今の日本の経済停滞が何よって生じているのかということのすべてが語られている。
 つまり、「経済成長戦略」という美名のもとに、何が捨てられてきたのかということを、はっきりと考えさせてくれるものが埋もれている。
 
 今のような、「人間の幸せの実現には経済成長が不可欠である」という神話を流布させたのは、その青年期を高度成長期の中で過ごし、経済の興隆を自分の成長と重ね合わせることのできた私たちの世代、いわば団塊の世代である。
 そしてその感受性は、幼少期の頃から華やかで爛熟した生活感覚を身につけることのできたバブル世代に引き継がれていく。
 
 このときに、何かが切断された。
 
 それまでの世代が、混沌の渦に巻き込まれながら、少しずつ咀嚼して身に付けてきた「文化」というものが、一気に単純化された図式に収まる思考に還元されたのだ。
 
 それは「文化」のチャート化であった。
 つまり、「文化」の惑乱されるような豊穣性には目をつぶり、誰にも分かりやすい、いわば一番 “貧しい” ところだけをスローガン化して身につける勉強法と一緒に、われわれが身に付けたものだった。
 
 そのようなやり口で、われわれ団塊の世代は、カール・マルクスを殺してしまった。
 私たちの世代で、特に政治運動に関わっていた人たちが、その指導理念として、 “マルクス主義” を掲げたとき、私たちは、それがマルクスを葬ることになることに気づかなかった。
 
 マルクスは共産主義運動を進めようとした運動家ではない。
 もちろん、初期の活動においてはそのような一面があったことは確かだが、彼がロンドンに渡って『資本論』の執筆に全力投球するようになってからは、彼は資本主義の「謎」を解くことに命をかけた思想家でしかない。
 
 そのとき彼は、「商品」と「貨幣」というものが、ただの物質に過ぎないのに、なぜそれが人間を呪縛する魔力を有するのかという、シンプルにして深淵な謎に魅せられたのだ。
 その段階で、彼はすでに単純な唯物論者ではない。
 革命家ですらもない。
 人間を呑み込む「資本主義」の魔力を明らかにしようとした、好奇心に満ちた一人の研究家にすぎない。
 
 ところが、われわれ世代の政治活動家は、マルクスを革命運動の精神的シンボルに祭り上げた。
 だから、いまだに多くの人が、こう思う。
 「マルクスは共産主義運動の責任者である」 と。
 
 そのため、冷戦が終結し、社会主義国家を任じる新興独裁国が崩壊の憂き目に遭うと、マルクスは、「責任者出てこ~い!」と断罪されるか、あるいは「時代遅れの思想家」として一笑に付されるだけの人物になってしまった。
 
 しかし、そのようなマルクス像は、マルクス本来の「文化的豊穣さ」と格闘することもなく、それを空疎なチャートとして消化してしまったわれわれ団塊活動家による怠慢がもたらしたものに過ぎない。


 
 私たちは、なぜ、マルクスをそのように扱ってしまったのか。
 読み込む力がなかったとは言いたくない。
 ただ、そんなものに、じっくり関わる時間が惜しかったのだ。

 私もまたマルクスを読もうと思ったことがある。
 しかし、あのクネクネした難解な文章に、一発で閉口した。
 それよりも、マルクス主義を標榜する各政治党派のマニュアルを読んだ方が手っ取り早かったのだ。
 
 結局、原著を読んで、(その豊穣な思想体系に接して)あれこれ時間を取られるよりも、私たちは「効率」を優先した。
 政治運動を、とりあえず進めるための原理論として、「共産主義運動家」としてのマルクスのブランドがあれば、それでよかったのだ。
 
 
 同じことが、フロイトに対する接し方においてもいえる。
 フロイトは、臨床医として、ヒステリー患者や分裂病患者の治療に当たった。
 しかし、臨床医としてのフロイトは、実際の治療にそれほどはかばかしい功績を上げることができなかった。
 
 それを理由に、フロイトの思想的な営為すらも、「時代遅れ」と糾弾する人たちが後を絶たない。
 たとえば、私より10歳下の評論家である小谷野敦(こやの・とん)は、次のようにいう。
 
 「精神分析というのは、20世紀最大のペテンで、たぶん後世から、中世の錬金術のように扱われることになるだろう。錬金術が金を作り出せなかったように、精神分析は治療の役に立たなかった。
 19世紀から20世紀の西洋に現れた連中で、ニーチェ、フロイト、ユングといった連中はインチキだ。精神分析そのものが20世紀最大のインチキだ」(『評論家入門』 (平凡社新書)」
 
 フロイトの功績は、マルクス以上に、多方面の文化領域に及ぶ。
 それなくして、20世紀のアートも、文学も、映画も、演劇も生まれなかった。
 彼の治療行為は、現在そのほとんどが効果なしと決めつけられているが、彼の思想は、あらゆる文化領域に携わる人間の “想像力” を刺激したのだ。
 
 小谷野敦は、それをもちゃんと知っていて、あえてフロイトを「インチキ」呼ばわりしたのだろうけれど、それによって小谷野敦は何を得たのだろう。
 何も得られていない。
 彼には彼で、「20世紀的な偶像の仮面をひっぱがす!」という爽快感を得たのかもしれないが、読んでいる人間にとっては、フロイトの著作ほどの面白さを見出すことができない。
 
 フロイトも難解である。
 はっきり言って、一回読んでも何を言いたいのかよく解らない。
 しかし、書かれる言葉の断片から、無数の想像力が、羽根を広げて飛び交っていくのを眺めることができる。
 少なくとも、小谷野敦の「インチキ呼ばわり」の駄文よりは、はるかに面白い。
 
 小谷野敦的な発想からは、「効率を意図して物事をチャート化する」という、団塊世代以降の手抜き勉強スタイルを如実に見て取れる。
 そして、「人より違ったことを発表して、カッコよく見られたい」という知識人のナルシシズムが臭ってくるのを感じる。
 もちろん、このような処世術は、彼の先輩である団塊世代が最初に獲得したものに過ぎない。
 私たちが、マルクスに接したときと同じように、 「チャート化」して単純化する方法で、自分が読み込んだ気分になる愚行を、小谷野敦も踏襲している。
 
 小谷野敦は、1962年生まれだが、この世代の学者が、いちばん食えない。
 団塊世代の成功と失敗をよく見ているから、その失敗する方向を巧妙に避けて、成功を約束された “王道” だけを臆面もなく追いかける。
 
 けっきょく、われわれの世代 (団塊~バブル世代) は、何か大切なものを、その前世代から継承することなく、生き続けてしまったのだ。
 
 少なくとも、第 2次大戦を経験した世代には、人生をチャート化して把握するという発想はなかった。
 チャート化して、分析して、 “勝利へのプログラム” を導き出すという方法を知らなかった。
 だからこそ、彼らの人生には、世の不条理に向かって、正面から体当たりをしているという生々しい手触りがあった。
 そして、そこから生まれた「文化」があった。
 
 ずっと以前、桐野夏生が編者となって、「自分が心に残った短篇」を集めたアンソロジーを出したことがあった。
 書名を『我等、同じ船に乗り』という。
 
 そこには、11の短編が集められていたが、そのうちの大半が、第 2次世界大戦直後に発表されたものばかりだった。
 彼女は、なぜそのような “片寄った” 短編群に視線を向けたのか。
 
 その作家たちが、
 「戦争を知っているから、リアルな表現が可能になった」
 というようなことでは絶対ないはずだ。
 
 それらの作家は、「効率よくチャート化できない」人生を知ってしまった人々だったのだ。
 デカルトやスピノザ、あるいはマルクスやフロイトの原著に遭遇するのと同じように、
 「にわかに理解できないものの中にこそ、 “人間とは何か” を問う眼差しがある」
 ということを、自らの体験を通じて知ったしまった作家たちだったのだ。
 
 それらを読むと、やはり圧倒される。
 彼らは、戦争を「悲惨な体験」として概念化するわれわれと違って、戦争の「不条理」をそのまま冷徹に見据える視線の “力” を持っている。
 
 われわれの世代は、このような「文化」を継承していない。
 ひとつの現象を、ひとつの言葉で表現する方法しか学ばなかった。
 つまり、「混沌」と「惑乱」のなかに潜む「豊穣さ」を理解しないまま、齢(よわい)を重ねてしまった。
 
 そしてそれは、悲しいことに、「物事をチャート化して整理できるかどうかが、勝ち組として残る秘訣」などと臆面もなく主張する勝間和代的な思考に受け継がれていく。
 
 思えば、1980年。日本の文壇が、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』を芥川賞候補に持ち上げたときに、日本の「文化」は最後の灯火(ともしび)を消したのだ。
 あれこそ、空疎なチャート化を “見事なまでに!” 作品化した小説の最たるものだったのだから。
 
 
 関連記事 「我等、同じ船に乗り」

 

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前世代の文化を継承できなかった私たち への12件のコメント

  1. Sora より:

    連日の重要なテーマは、ついに団塊の世代の責任追及、足元に及んできましたね。しばらくSoraは謹慎していようと思っていたのですが、(ここまでくると)だめでした。

    町田さんのおっしゃる「文化」とは、「人の心を豊かにする」財物。「超越」「自然」「無限」を理解できなくとも「心を潤すもの」として見据える姿勢。人間とは何か、不条理を問う冷徹な眼差し等、と表わされるもの。これらを理解できないものとして団塊世代は継承しなかった、とのご意見ですね。

    一点だけ団塊世代を弁護したいと思います。

    1996年には哺乳類で初のクローン羊が生み出されました。いずれ、人間のクローンも可能でしょう。1990年発刊の立花隆とノーベル賞受賞学者の利根川進との対談集「精神と物質」~分子生物学はどこまで生命の謎を解けるのか の本を私は大事に持っています。利根川は精神現象はすべて脳内の物質作用として説明できる時がくると。哲学、文学は現象そのものに興味を持っているのであり、原理探求に関心があるわけじゃないが、それでも今後の発見に応じて、学問の内容は大きく影響を受けて変容すると。

    団塊の世代だけでなく、皆さんは人間の謎は、いずれ科学的に説明されると、うすうす思っているのではないでしょうか。
    人間の謎を、分からないものとして捨象するというより、(分かった気になって、ないしはいずれ解き明かされるとして)あまり真剣に考える意欲がなくなっているのではないかと思います。それは、またDNA時代、やむを得ない気がします。最近の芥川賞受賞作も、退潮してませんか、人間の謎にとりくんでますか?

    さらにあえて弁護すれば、本来青年期に、人間の謎に真剣に思い悩むのでしょうが、あの頃はサヨクVSウヨクの構図一色で、形而上的な思考自体にも右だ左だのレッテル貼りで自由に思弁することが妨げられたのでは。。という気がします。

    一方、町田さんは;「人間の謎」を科学的に、合理的に解明していく手法に、それほど面白みを感じない。しかしこの世に「人間の謎」なんか存在しない。人間が存在すること自体が、謎なんだから。(「ミステリーはいつ生まれたか」)ともおっしゃっています。

    町田さんはどうも、人間行動のある部分は大切な神秘としてとっておきたい傾向が強く、一方私なぞは利根川派ですから、謎に対し屁理屈分析をしかけ全部分かったと悦に入っている。
    このギャップが(あると思いますが)、謎ですね。

    • 町田 より:

      >Sora さん、ようこそ
      ありがとうございます。すごくワクワクするようなコメントです。
      「議論」 に持ち込んだ方がいいのか、それとも共感・共振できる部分を増幅して、お互いに現状を確認しあった方がいいのか。
      どちらにも膨らますことのできる素晴らしいコメントですね。

      利根川進さんと立花隆さんの著作は、残念ながら未読なので、うかつなことは言えないのですが、Soraさんがここで書かれたように、 >「精神現象はすべて脳内の物質作用で説明できる時がくる」 という予測が書かれているのだとしたら、たぶん 「その時は来ない」 と思います。
      というか、「脳内の物質作用で精神現象が解明される」 という実験は、すでに1970年代に、サブカルチャー領域でドラッグが浸透したときに検証されて、一つの答が出てしまったのではないかと思うのです。
       
      その時代に、人間の脳は、ケミカルな刺激によっていかようにも変化するということを、実体験的に経験してしまった若者が多数輩出しました。アメリカの怪しげな新興宗教団体は、意識的にドラッグを使って、自在に “神の園” を現出させました。
      そこから導きだされたものは、宗教も、アートも、哲学的な認識も、“ドラッグの調合” でいかようにもコントロールできるということで、いわば 「精神現象」 とはエンジニアリングの問題に過ぎないという結論であったように思います。

      東浩紀氏は、それを 「 (人類は) “文化” とは脳の生理的な反応にすぎないというパンドラの箱を開けてしまった」 ( 『リアルのゆくえ』 講談社現代新書) と表現しています。

      では、「脳の生理的な反応」 から生まれた 「文化」 は、その後、何を実現したのか。

      視覚的・音響的な刺激を増強させることで、人間に、実体験以上のバーチャルな快感と恐怖を与える 「ハリウッド映画」 と 「ゲーム」 を生んだだけではないでしょうか。
       
      もちろん、それらのエンターティメントは、「脳のどの部位を刺激すれば、人間は新しい精神世界のなかを浮遊できるか」 という見事な計算の上に成り立っています。
      でも、それって、面白いですか?

      読みもしない本について、あれこれ勝手に解釈するのは、紹介者であるSoraさんに対しても、さらに著者の方々に対しても失礼なことなので、これ以上は言えないのですが、ただ 「脳内物質の作用として説明できる精神現象」 というのは、たかだか、ハリウッド映画とゲームの構造を解明するだけで終わるのではないかという気がしてなりません。 (せっかくご紹介いただいた書籍を汚すような表現になっていたらお許しください。たぶん分子生物学について語り合っているということですから、私の浅薄な解釈とはずいぶん違ったものなのでしょうけれど)

      コメントの後段の方。
      >「あの頃はサヨク VS ウヨクの構図一色で、自由に思弁することが妨げられた」 というご指摘には、まったくそのとおりだと思いました。
      そういうのを “パラダイム” というのでしょうね。
      私も、いま振り返ると、発言者の言葉尻だけ捉え、 「あいつは右翼的だ」 「左翼的だ」 と、何の疑問もなくレッテル貼りをしていました。つまり、世の中をそう区分する時代的なパラダイムの呪縛力から抜けきれなかったのでしょうね。今だからエラソーに言えるけど、バカでしたね(笑)。

      >「人間の謎を合理的に解明していく手法に面白みを感じない」
       
      ま、性癖みたいなものです。あまり突っ込まれると痛いです(笑)。
      でも、人間は、一つの謎を解明すると、すぐ次の謎にぶち当たるものだと思っています。
      すべてが解明されるような理屈が通ってしまえば、確かにいっとき安心できますけど、人間は、今度は 「解ってしまった自分」 にやがて退屈して、無意識に次の 「謎」 を求めるのではないでしょうか。

      面白いコメントでした。
      本当にありがとうございます。
       

      • Sora より:

        >ただ、「脳内物質の作用として説明できる精神現象」というのは、たかだか、ハリウッド映画とゲームの構造を解明するだけで終わるのではないかという気がしてなりません。

        立花隆もたたみこむように「精神現象を何でも脳内の物質現象に還元してしまったら、精神世界の豊かさを殺してしまった理解になってしまうんじゃないですか。生きた人間を研究する代わりに死体を研究するだけで、自分は人間を研究してるんだと語るようなことにはなりませんか」と利根川進に質問をします。

        それに対して、利根川は死体を研究することによって、生きた人間についてもっといろんなことが分かると。教育学でも人間の知能は、性格はどう発達していくのか原理はまだわかっておらず、経験知の上に諸学説がありその処方には限界があると。脳の生物学的研究が進めば、人文科学の内容は大きく変わると。利根川は学者ですから学問の世界の変容を力説します。(もちろん娯楽の効果的な与え方が解明されるのは当然として。)

        私が感銘したのは、文学とか芸術とか本来、科学とは別の独立した分野(精神世界の最後の砦?)と考えられる分野をも脳科学の発達によって侵食されるとした点ですね。例えて言えば、愛が解明され、愛に感動する場面が再現可能になるということでしょう。

        さらに、人間が世界をどう知覚するかの傾向は受け継いだDNAで大枠は決定されている。自我というものも実はDNAのマニフェステーション(自己表現)に過ぎないともいえる。
        人間のブレインがあるから世界はここにある。そういう意味で唯心論だ。と利根川はいう。

        立花は、「ではブレインが認識する以外の世界は存在するのか、しないのか」と問う。「わからない。ブレインの理解能力を超えているから、サイエンティストはわからないというしかない」。
        ここまできて多くの読者は、「なあんだ。いんちきだ。」と落胆すると思うのですが(笑)。

        「精神と物質」対談のあと20年たちましたが、両者の関連性で解き明かされた成果物を見て、A「解き明かされる時はこない」とする人もいれば、いやいずれB「解き明かされる時が来る」との両極を構成するのだと思います。そしてAが増えている。

        利根川のように実際に解き明かしに勤めている人はBの可能性の方がリアル、現実的実感があるでしょう。何らかの事情で解き明かされない方がよいと感じる方も含めて精神的・宗教的心情が強い方がAに。
        団塊の大多数の方は、科学者でも宗教者でもありませんから、Bの可能性に寄りかかりながらも、保険をかけるように仏様、イエス様にも大きく背かないように日々を送っているのではないでしょうか。

        しかし、時は迫っている。生き急がなくては、と思ってクルマを走らせております。

        • 町田 より:

          >Soraさん、ようこそ
          なるほど! ご丁寧な解説をいただき、ありがとうございました。
          やはり読みもしない著作を、自分の先入観で解釈してしまうのは間違いのもとですね。
          Soraさんの補足で、立花隆さんと利根川進さんが何を問題にしていたのかよく解りました。ちょっと軽率でした。

          人間を 「死体として見る」 ということは、「人間を一個の機械として見る」 ということでもあり、最近はそういうスタイルの考察の方が、わりと人々の共感を得られるようですね。おっしゃるように、ここ数年、「脳科学」 に期待する声が非常に高まっているのもその一つだと思います。

          ただ、人間を 「機械」 として見る方法のどこに限界があるかというと、脳なら脳の働きを解明していく場合、その解明に抵抗するものを 「ノイズ」 として排除してしまうところにあります。
          「愛」 とか、「愛に対する感動」 などというのは、「ノイズ」 です。
          このノイズを排除した 「愛」 の論理は、すべてDNAの伝搬という単一のロジックに集約されてしまうのではないでしょうか。
          そうなると、それは、案外 「種の保存本能」 などという古典的な人文科学のタームの中に解消されかねない。

          私がSoraさんの紹介の中で素晴らしいと思ったのは、立花隆が 「ブレイン (脳) が認識する以外の世界は存在しないのか?」 と問うた時に、利根川さんが 「サイエンティストにはわからない」 と答えているところですね。それは決して 「インチキ」 ではない。それはサイエンティストですら、新しいテーマにぶち当たっているという認識から生まれた発言ですよね。
          私は利根川さんが、逆に科学の可能性に賭けている姿勢を感じました。

          私はそこで、Soraさんが見据えている 「人間の謎を科学で解明する」 という筋道に対しての期待も持てました。
           

  2. スパンキー より:

    いま、私は以前より稼げないのが、とても忙しい。年ごとに忙しくなる。
    で、何がそんなに忙しいのか考えたところ、
    仕事ごとの単価が下がった。加えて、そのことにまつわる情報は
    増えたということでして、世の中は益々世知辛くなりました。

    結果、ひとつひとつをゆっくり考えることも減ったように思います。
    それは、年々ひどくなります。

    で、生活においても効率を求めるようになる。本を読む機会も減る。
    ゆっくりTVで「世界遺産」なんかを眺める機会も失われてきました。

    もちろん、それは音楽においても映画にしても、良い悪いの結論を
    急ぎたがる自分がいました。もっとゆっくりとは思うのですが。

    仕事や生活において、そのスピードたるや、
    昔に比べればすさまじいものがあります。
    嫌な世の中になりました。

    (こんな時代に即席簡単な成功物語はベストセラーになります。
    勝間さんはそのカテゴリーだと思います。よってそこに至る道筋は
    チャートとマニュアルが便利です)

    私はこんな生活に以前より疑問を感じ、ライフスタイルを一変しようと
    画策していますが、一体なにがおかしいかというと、腰を据えて
    何かをやる、ということの意味が失われている。ということです。

    人生やその意味、人の心、アートなんぞをじっくりと味わうことは
    、価値をなさない。そんなものは、正月くらいに考えればいいだろう、という
    感覚。

    人の脳が幾ら分析されたからと言って、たとえば神もアートも、そこへの
    道程も解き明かされるのは興味津々ですが、もし仮にそれが可能ならば
    、逆にだからどうした?ということになります。

    人は、やはり不条理のなかを生きていて、そんなものが解析されたからと言って
    幸せになれるものでもなく、その不条理の根底に眠るものを探す旅が、
    人生の意味なのだと思いたいですね。

    そうしたなかで、辛いとか、悲しいとか、生きていて良かったとかの言葉が
    活きてくる訳で、そうした不条理さえも考えないような方々が、人のことも
    考えずに、あっけらかんと答えを提示する。

    そんなもんで、人生観やアートなんぞに答えを出されたからと言って、そうした
    脳に切り替えるもんですか? 納得できるもんですかね?

    かのホーキング博士は「神はいない」と言われました。ホントにそうかも知れません。
    スティーブ・ジョブスも禅の本の愛読者でしたが、最後まで神はいるのか
    信じ切れず、とても悩んでいたと聞いております。

    それは、悩んで導きだすものだから価値があり、チャートにしたからと言って
    分かり得るものではないと思います。そこへ至る道のりが人としての不条理であり、
    生きる意味だと思います。

    よって、切り捨てのチャート文化や科学一辺倒のものの考え方に、私は町田さん同様
    違和感を感じますし、すべてを解き明かしたからと言って、人に何をもたらすのか?
    やはり脳も宇宙も、神秘に満ちているものと思います。

    • 町田 より:

      >スパンキーさん、ようこそ
      さすが、マーケティングの専門家だからこそ見えてくる光景なのかな、と理解しました。

      諸産業が 「効率を求める」 というのは、もう資本主義の宿命ですから、それは当然のことと理解しなければならないのでしょうね。
      ただ、本来、効率化とは馴染まないもの、すなわち「本を読む」、「TVの世界遺産を眺める」、「アートをじっくり味わう」 というものまでも効率化のモノサシで図られてしまったことが、現在日本を覆っている閉塞感の元凶になっているように思います。

      短時間に効率よく作業をこなすというのは、「モノを生産する」 ときの原理ですよね。「モノを味わう」 ときにもそれをやってしまうと、消費のサイクルが短くなるだけで、結果的に、消費者は常に新商品を買わなければならなくなって、そのことに付いていけなくなる ( … あるいはモノを買うこと自体に飽きてしまう) 人も当然出てくる。それが結果的に、市場の冷え込みを招来してしまっているのではないでしょうか。

      スパンキーさんがいみじくも指摘された 「不条理にこそ (人の) 生きる道がある」 という言葉には全面的に賛成いたします。
      人の生きる活力はどこから生まれるかというと、「約束された未来」 が見えたからではなく、混沌とした未来を 「視よう!」 という意志の中にこそあるのだろうと思います。

      そのためには、>「脳も宇宙も神秘に満ちている」 ことが前提条件になりますよね。
      「神秘」 に触れるというのは、わけの解らないもの接して思考停止になることではなく、それを解明したいというエネルギーを得ることになるわけですから。

      示唆的なコメントをいただき、ありがとうございます。

  3. 月のうさぎSamie より:

    抜粋より
    たとえば吉行淳之介は、自分の家が空襲に遭ったときに、家の中から真っ先に持ち出したのは、家財道具でもなく、宝飾類でもなく、ドビッシーとショパンのレコード集であったたという。
    こういう心情のなかに 「文化」 がある。

    このラインを読んでぶっ飛びました。
    なるほど、物事はそうも解釈するのかと。

    ‘60 後期、私は自分の音楽コンボで仕事をしていました。
    日本では手に入らない、発売もされていないサム・クックのレコード、
    これは当時日本では殆ど知られていないゴスペル・ソング そして彼の集成。
    米軍に居た知人経由で手にいれ、これは大事にしていました。
    私のバイブルでした。
    あろう事か、新米のマネージャー氏、当時日本では名を馳せたマネージャー氏の
    御舎弟、大学を出て何も知らないでコノ世界に飛び込んできたトウシロウ。
    このオトコの無責任さゆえにサム・クックの幻のレコード全てを無くされ、、、。
    狂気の目に燃え詰問する私の眼の中の殺気!
    ただただコイツをどうやって抹殺できるか、との内心をを読めたヤツ。
    彼曰く、お前ら皆普通じゃないな!皆気が触れた奴らばかりだ!
    (お前がそうなんだよ!)で、敵前逃亡されて。

    妄想は夢の夢を呼びます。
    このオトコ、後年に何故かキャンピングカー・マニアになりと、仮想して。
    たまたまパークした所で、思わぬ大自然の天罰、天網恢恢疎祖にして漏らさず。
    突然の雷雨、で何故か高圧ボルトに打たれ落雷死。
    地方紙に小さく、何某は平和的にキャンピング中に、うんぬんの死亡記事
    ザマー見ろ! と仮想で空しく溜飲を下げるしかない、、。

    単純に、火事場で持ち出すのは第一に自分の命と同等のものですよ。
    貴兄は何でしょうか?
    それは宝石であり、書類であり、位牌であり、etc.. 人それぞれです。
    第一に持ち出したものがクラシック・レコードだとして、、、
    コノ場合、こういう心情のなかに 「文化」 がある、と?
    素敵な表現での文化ではなく、単純に、混乱と夢なのでは?
    まぁ、夢を実現させて残越されたものが文化とは云えますからネェ~、しかし。

    私の大好きな、Ms. Machida. 
    あえて言わせてください。
    彼の吉行淳之介氏のその行動は文化的背景ではあらず、の暴論をお許し下さい!
    では何?
    単純に、火急に遇した平常心の欠如かな?
    だと仮定すると、淳之介氏に物凄く、さらに愛着心が生まれますが?如何?

    このコメント、続けていいしょうか?

    • 町田 より:

      >月のうさぎSamie さん、ようこそ
      60年代の後期には、まだサム・クックの一部のレコードが、日本では不当に扱われていたという話ははじめて聞きました。その時代には、まだお話の中に出てくるマネージャーさんのような人もいたわけですね。
      そういう環境の中でお仕事をされていたSamie さんの苦労がしのばれます。
       
      吉行淳之介の火事場でレコードを持ち出した話。
      それが「文化」ではなく、単純に「火急に遇した平常心の欠如」だとしたら、そこにむしろ「愛着を感じる」というSamie さんの見立ては当たっていると思います。
       
      私もまた、淳之介氏が「レコードは “文化財” としての価値があるから持ち出した」ということではないと思っています。
      「混乱と平常心の欠如」がレコードを持ち出したのだとしたら、その気持の中にこそ「文化」が潜んでいる、というようなことを書きたかったつもりだったんですね。
      つまり、そこに「自分の命と同等なもの」 を見出す気持ちをもっていたと。
      そこに、図らずとも、吉行淳之介という作家の立ち位置が表れていると。

      ちょっと言葉足らずだったかもしれませんね。
      だから、Samie さんのおっしゃるのは “暴論” でも何でもありません。
      十分な表現ができなかった自分の思考の浅さが露呈してしまったということだと思います。

      それにしても、>「火事場で持ち出すものは、貴兄は何でしょう?」という問いには虚を突かれた思いでした。
      うっかり、そこまで考えていなかったなぁ … というのが正直なところです(笑)。
      はて、それは何だろう?
      案外せこく、貯金通帳など持ち出すのかなぁ… 。
      なんだか、吉行淳之介のように腹が座っていない自分の姿をさらしそうです。

      もちろん、コメント続けてください。
      大歓迎です。
      このような記事にもコメントをいただけたことを感謝しています。
       

  4. お邪魔虫サミー より:

    有難う御座います。
    レコードと文化、私の読解力のなさに注釈頂きまして、全く納得がいきました。
    ギョーザのサブジェクト以来、御ブログ楽しく拝読。

    私の暴論は別の機会にして、こんな疑問があります。

    団塊の云々とは、もしかして総体的には男性名詞ですね?
    私は女性解放運動家でもなんでもなくて、これ、単純な疑問です。
    これはこの時代の男性諸氏の総称であり、女性が含まれることはないのですね?
    “団塊の世代の女房達は”などなどでの女房達は団塊の世代などではなく、
    この“団塊の世代”を冠詞としたうえで述べられているだけのようで。
    団塊の世代の男性諸氏がこう述べるときは、、、 
    う~ぅん、James Brown が叫ぶ “It’s Men’s world”ですか?
    団塊の世代=It’s Men’s world

    この時代に日本を高度成長させた功労者人口は男性です。
    彼らを総称しての“団塊の世代” 勿論そこに女性は含まれてない、ピリオド。
    という感じに受け取れるのですが。
    女性が首を突っ込み本領を発揮できる分野、及び社会ではなかったのでしょうね、きっと?

    “ワイルド・ウェスト”
    と聞けば、私が思い浮かべるのは、
    銃を持った男達、インディアン、TV番組“ローハイド”の中でみるような労働者など。
    そして当たり前に思い浮かぶ、ロングスカートの女性達。
    彼女らはいろいろとできる役割をこなし、このワイルド・ウェスト社会に地位を認められていたわけですよね。
    これがワイルド・ウェストの絵図です。

    では、団塊の世代といったとき。
    此処には女性不在ですよね?
    やはり、オフィイスでお茶を汲んでいただけなんでしょうかねぇ?

    アホらしい疑問でゴメンなさい。
    何しろ遠島の俊寛がパソコンを手に入れたようなもんですから。
    団塊という語彙も私にはわりと新しい言葉です。
    お邪魔虫サミー

    • 町田 より:

      >サミーさん、ようこそ
      ジェームズ・ブラウンの 「イッツ・メンズ・ワールド」 は、彼にとっての珍しいバラードのヒット曲なのでしょうか。あの哀愁に満ちた歌声は、心に残ります。
      しかし、歌詞は 「男は自動車をつくった」 とか、「男は機関車をつくった」 という歌詞で構成された男のクリエイティブィティをテーマにした曲だという感じがします。
       
      彼がどうしてそのような曲を歌ったのか?
      やはり、この時代、アメリカの黒人社会においても、「女性は不在だった」 ということなのでしょうか。
      それとも、個人的に、何が何でも 「男を主張しなければならない」 切羽つまった事情が彼にあったのか。
       
      サミーさんの提出される話題は、いつも思わぬところから飛んでくるスポットライトのように、今まで気づかなったような場所に光を当てます。
      今回もまた、頭の中を刺激されました。

      「団塊の世代」 という言葉の中に、女性が含まれるのかどうか。
      これも、今まで考えてもいなかったテーマでした。
       
      直感的に感じたことをいえば、メディアがこの言葉を使ったときと、マーケット分析としてこの言葉を使ったときには、明らかに違いがあるように思いました。
       
      マーケットとして捉えると、やはりそこには女性が含まれます。
      現在、熟年層として位置づけられている団塊世代に対しては、女性用のウィッグとか、サプリメントとか、その他健康食品など、明らかに女性を意識した商品開発がしっかり進められているように感じます。

      しかし、メディアは、やはり男性のみを念頭において、この言葉を使ってきたのかもしれませんね。
      メディアがこの言葉を使うとき、必ず 「年功序列や終身雇用制が生きていた時代の人々」 などというように、サラリーマン用語とセットになります。また、「2007年問題」 などというように、この世代が 「定年退職」 を迎えたときの社会問題としても扱われることもありました。
      それらはみな、会社員として働く 「男性労働者」 を前提とした発想であるかのように思います。

      たぶん、そこには、核家族となって都心の郊外で暮らすようなモデル世帯が存在し、女性は専業主婦として “家庭を守る” という発想が底流にあったからでしょう。
      だからこそ、男女の社会的平等を謳う 「ウーマンリブ」 のような活動が生まれたのかもしれませんね。

      ワイルド・ウエストの女たちは素敵ですね。
      私の好きな西部劇に、ウォルター・ヒル監督の 『ロングライダース』 という映画があります (音楽はライ・クーダー) 。
      ジェシー・ジェームズ兄弟やヤンガー兄弟というならず者たちが主人公なのですが、彼らの家庭を守る女たちは、みな凛として、ギャングの夫たちを追う保安官たちが家に寄ろうとも一歩も引かず、男の仕事の正当性を追手たちに主張する。
      まさに、男どもより毅然とした女たちが描かれていました。
      あれはカッコよかったな。
      確かに、団塊の世代とは違う世界がそこにはありましたね。
      それは、工場労働社会 (サラリーマン社会) ができる前の時代だったからかもしれませんね。

      とりとめもない話になってしまい、申し訳ありません。
      自分でも整理もつかないまま、いい加減な感想を言っているにすぎません。
      でも、またしても、たるんだ脳を刺激してもらえるようなコメントをいただきました。
      ありがとうございました。
       

  5. ペーロ より:

    もう、いいや。
    俺たちがやるからあんた達黙っててくれ。

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