ミステリーはいつ生まれたか

 
 年末が近づくと、出版社系の会社が出す週刊誌などでは、よく 「この正月休みに読む小説ベスト10」 のような特集を組む。
 出版社だから、本を買ってもらおうということなのだろう。
  
 そのような企画で圧倒的に取り上げられる確率が高いのは、やはりミステリー小説。
 「面白い小説ベスト○○」 などという企画があれば、必ずミステリーが上位を占める。
 他の分野の小説は、それぞれコアなファンを底辺に据えた垂直的な読者層を形づくるが、ミステリーは老若男女を問わず、水平に広がっていく。
  
 ある調査の 「高校生の読んでいる小説ベスト 5」 などでも、車川篤哉・著 『謎解きはディナーのあとで』 が堂々と 2位にくいこんでいた。
 やはり、ミステリーはエンターティメント文学の王道なのだ。
  
 ミステリーの本質は、 「謎に始まり、謎が解けるところで終わる」 ところにある。
 「謎」 は人間をワクワクさせる。
 そして、 「謎」 が解けたとき、人間は 「さっぱりしたぁ!」 というカタルシスが得られる。
 
 「わくわく」 と 「さっぱり」
 食前と食後にわたって、2度おいしいのがミステリーの特徴だ。
 消化不良を起こさせるような難解なブンガクより人気が集まるのは当然のことかもしれない。
  
 ある出版系の編集スタッフは、こういう。
 
 「人間は、なぜ生まれてきたのか、なんのために生きているのかといったごく初歩的な問にすら誰も答えられません。その点、ミステリーは明快な論理や答が用意されている。
 “人生には答がある” と考えることは健康的だし、そこから人が生きていく活力も生まれてくる」

 私自身は、こういう考え方があまり好きじゃない。
 「人生は謎で始まり、謎で終わる」 方がカッコいいと思っているから、同調する気はあまりないんだけど、 「人間が明快な論理や答を求める動物である」 ということは認める。
 
 “不条理” や “混沌” の中でずっと生き続けることは、人間には不可能だ。
 たとえ、 「仮の結論」 だとしても、とりあえず、今だけは 「世界」 や 「自分」 というものをクリアに眺める視点を確保しておきたい。
 そうやって人は、わけの分からない 「社会」 というものの中を泳いでいくんだろうな、と思う。
  
 では、ミステリーという小説形式は、いつ生まれてきたのだろう。
 
 多くの研究家は、1841年に発表されたA・E・ポーの 『モルグ街の殺人事件』 に、そのプロトタイプを認める。


 
 奇っ怪な殺人事件が起こる。
 いろいろな関係者が、犯人像を想像する。
 しかし、そのすべては “ハズれ” で、最後に天才的な探偵 (この小説ではオーギュスト・デュパン) が、独自の推理力を発揮して真犯人を特定し、その推理のプロセスを披露する。

 このスタイルが、一連のシャーロック・ホームズものを手がけたコナン・ドイルなどに踏襲され、現在の推理小説の原型ができあがった。

 私も、ポーの小説は、大好きだった。
その昔、 『モルグ街の殺人事件』 やら、 『盗まれた手紙』 、あるいは 『黄金虫』 などをむさぼるように読んで、そのどれにも感心した。
 
 「謎が解けていく」 というプロセスには、カタルシスがある。
 普段の生活の中では見落とされていたようなもの、あるいは人間の常識にの中に埋もれて見えなくなっていた真実。
 それを発見することは快感でもある。

 しかし、そのような感受性が、太古の昔から人類に備わっていたかどうかというと、それはまた別の問題となる。
 
 宗教的な世界観が世を覆っていた時代に、今の人間が推理小説を読んだときに感じるような 「謎」 は存在しなかった。
 殺人事件も、信じられないような裏切りも、すべてそれを解説する説明体系というものを人間はみな持っていた。
 「バチが当たったのは、神様を裏切ったからですよ」
 みたいなやつ。

 「正義」 を損なうような人間の行為は、すべて 「悪魔のささやき」 として理解するような伝統が民衆にはあった。
 だから、 「真犯人を特定する」 というような思考は存在せず、怪しい者はみな 「魔女裁判」 のような形で処刑された。 

 「不可解な殺人事件に見えるものでも、そこには合理的に解明できる筋道があり、その先には、ひっそりと身を隠している “真犯人” が必ずいる」
 という発想は、近代に成立したものである。
 “神学的世界観” に対して、 “科学的世界観” というものを対置させた近代思想がそこに反映されている。

 「表に出てきた現象の裏には、それを支えるからくりが潜んでいる」
 というような、社会を構造的にとらえる考え方が普及してきたのは、世紀末のイギリスにおいてである。

 現代の産業社会の基本形を築いたヴィクトリア王朝時代 (1837年~1901年) 、世界に先駆けて産業革命を達成させたイギリスは、世界のどこにも存在しなかった 「工業社会」 を実現させた。
 しかし、経済的な繁栄の裏には、富と自由を失った過酷な労働者の悲惨な生活が拡大し、道徳律の低下にともなう犯罪が横行した。

 ヴィクトリア王朝期の上流階級は、それを見て見ぬふりをした。
 セレブな人々は、ますます厳格な道徳基準を設け、上品で、美しい禁欲生活を奨励していく。
 ところが、その上流階級の男たちは、昼間は清廉な紳士を装いながらも、夜は身を隠して、娼婦の館に入り浸り、背徳的な快楽をむさぼり尽くした。

 その 「ホンネ」 と 「タテマエ」 のすさまじいほどの乖離。
 犯罪的とまでいえそうな徹底的な 「偽善」 。

 そのような一個人の中に並立する 「2つの人格」 が、推理小説の “真犯人” という発想につながっていく。
 二重人格をテーマにした犯罪小説の先駆けとなった、スティーブンソンの 『ジキル博士とハイド氏』 (1885年) などは、まさにそのような背景から生まれてくる。

 この時代、人々に 「表層」 と 「深層」 を分ける考え方が普及していく。
 「表にあらわれた事件には、実は、その奥底に秘められた出来事が関与している」
 そのような、社会的・文化的構造のからくりを解明しようという人たちが、この時代に登場してくる。
 フロイトの深層心理というアイデアは、まさにそれを謳ったものだった。

 フロイトはウィーンを拠点として活躍した医師だが、ウィーンはまさにヴィクトリア時代のロンドンと変わらない “偽善の都” だった。
 彼は、この頃急激に増えてきた女性のヒステリーに注目する。
 そして、その発作を起こす女性たちには、ある種の共通した背景があることを観察する。
 
 当時のヒストリー患者というのは、みなセックスに関する情報を遮断された環境に育つ、上流階級の女性たちばかりだったのだ。
 フロイトは、そこに人間の 「抑圧された性」 という “深層” を発見する。
 彼は、人間の表面的な思索や行動の中には、本人にも分からない 「無意識」 の力が作用していることを世に訴える。
 
 マルクスも同様だった。
 「人間の意識が時代とともに変わっていくのは、その意識を変容させる社会構造の変化がある」
 そう考えたマルクスは、資本主義社会下における人間の文化、道徳、宗教、さらに芸術などというものを根本的に規定している “深層” の解明に向かう。
  
 シャーロック・ホームズの推理の形も、フロイトやマルクスの思想と同型のスタイルを貫いている。
 
 「19世紀のイギリスにおける犯罪的なものは、表面的なレベルで推理したのではダメで、その “深層” にまで遡行しなければならない」
 
 ホームズという探偵を創造したコナン・ドイルは、その深層の解明に、マルクスやフロイトが使ったものと同じ手法を導入する。
 すなわち、偏見や既成概念にとらわれず、科学的・論理的思考に基づいた観察力と推理力を働かせて、ものの本質に迫るという手法だ。

 そういった意味で、ミステリーというのは、まさに19世紀から20世紀に至る転換期に起こった、政治、経済、文化概念の大きな変革を背景にして生まれた小説形式だったといえる。
 
 そういうミステリーの “偉大さ” は分かるのだけれど、実は、私はミステリーが苦手。
 「人間の謎」 を、科学的に、合理的に解明していく手法に、それほど面白みを感じない。
 ヒネクレモノなのかもしれない。
 エンターティメントを読むのなら、ホラーの方が断然面白い。
 
 この世に 「人間の謎」 なんか存在しない。
 人間が存在すること自体が、謎なんだから。
 
 
 参考記事 「松本清張の 『点と線』 」
 

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ミステリーはいつ生まれたか への2件のコメント

  1. colona より:

    多重人格について調べていたところ、ふと『ジキルとハイド』を思い出し、
    検索をかけて、あるブログをみていたら、「ミステリーの本質」という言葉に出くわしました。
    そこで気になって再び「ミステリーの本質」というキーワードで検索をかけたところ、
    こちらのページに辿り付きました。
    大分遠回りでしたが、とても素晴らしい記事に出会えたことに感激しております。
    特に人間の存在の謎についての考え方は心から共感しました。
    またこちらに伺おうと思います。

    • 町田 より:

      >colona さん、ようこそ
      そうとう前のエントリーにもかかわらず、ご丁寧なコメントをいただき、ありがとうございます。

      この記事を書いていた頃、ちょうどA・E・ポーについての本を読んでいて、ポーがどういう小説家なのか、調べていたときだったと思います。
      子供の頃からポーの小説が大好きで、『黒猫』、『アッシャー家の崩壊』のような、耽美的な怪奇小説系や、『大鴉』のような詩を好んで読んでいました。

      しかし、『モルグ街の殺人』、『黄金虫』、『盗まれた手紙』のような推理ものやサスペンス系のものも面白く、なんと “芸域” の広い人だろう !! と感心した記憶があります。

      今から思えば、ホラー、サスペンス、SFなど、現代のエンターティメント小説をすべて一人で書いていた人なんですね。エンターティメントの 「父」 といっていいのかもしれません。
      それでいて、耽美性も強く、芸術的でもある。
      なによりも、メランコリックなところがいい。

      自分が 「サスペンスよりも、ホラーが好き」 というのは、たぶんにこのポーの影響を受けていたように思います。

      ポーの小説は、どこか “あの世” に通じているところがありますね。
      「人間が存在すること自体が謎」 という想いを、そのとき感じたような記憶があります。
       

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