吉行淳之介 『驟雨』

 
 「驟雨」という言葉がある。
 「しゅうう」と読む。
 にわか雨、それも糸のような淡い走り雨のことをいう。
 
 この言葉を覚えたのは、吉行淳之介の短編『驟雨』を読んでからである。

 
 
 娼婦の街に通うようになった若い男が、ある日、その街で一人の娼婦に出会い、どこか惹かれるものを感じる。
 しかし、娼婦というのは、数々の男を相手にする商売だから、一人の男が独占するわけにはいかない。
 
 男は、むしろ、それをよしとする。
 自分の気が向いたときだけ、その女のもとに通えばいいわけだから。
 「結婚」 のような男女の濃密なつながりを避けて、女と距離を置いて生きようとする男の気持ちには、かえってそういう関係の方が都合がいい。
 
 だが、その娼婦のもとに通い出すようになって、男の気持ちに変化が起きる。
 「惚れてしまったのではないか?」
 男はそう自分に問う。
 その自問は、彼の気持ちを動揺させる。
 彼女が、他の客たちに体を開くことに対して、知らず知らずのうちに嫉妬している自分がいる。
 
 「娼婦に惚れるなんてバカバカしい。相手にとって、自分は客の一人に過ぎない」
 そう自分に言い聞かせる男の気持ちが、不安定に揺れ始める。
 「女も、自分のことを特別な存在として意識していそうだ」と思える兆候が表れてくるからだ。
 
 かといって、主人公は何かのアクションを起こすわけでもない。
 宙ぶらりん状態になっている自意識を持て余したまま、無為な日々を過ごしていく。
 
 そして、話はそっけなくストンと終わる。
 終わり方はこうだ。
 
 主人公は、いつものように、その娼婦に会うつもりで、娼家を訪ねる。
 そして、彼女に先客がいることを知る。
 時間をつぶすために、彼は近くの居酒屋で、蟹(かに)をサカナに酒を飲み始める。
 酔った頭で、彼女の馴染み客同士が集まって、彼女の話を “サカナ” に酒を飲み合う情景を想像する。
 それは楽しい想像から、徐々に不快な想像に変わっていく。

 以下、引用。
 
 「酔いは、彼の全身にまわっていた。
 もぎられ、折られた蟹の脚が、皿のまわりに散らばっていた。
 脚の肉をつつく力に手応えがないことに気づいたとき、彼は、杉箸が二つに折れかかっていることを知った」
 
 それがラスト。
 「折れかかった箸」 が、不安定な立ち居地を保っている男の憂いを伝えて余りある。
 読み進めてきて、最後にこの行にたどり着くと、この不思議なそっけなさが、とてつもない “余韻” として読者の心に降りかかるのだ。
  
 読んだのは中学 3年のときだった。
 その時期、立て続けに吉行淳之介の小説を読んだ。
 
 似たり寄ったりの話が多い。
 気に入った娼婦のもとに通いながら、その女に惚れそうになる「心」を固く封印したまま、「これはただの遊戯だ」と陰鬱につぶやく男たちの話。
 
 それが身につまされた。
 
 もちろん、中学 3年の自分は、娼婦なんて知らない。
 それどころか、女そのものを知らない。
 にもかかわらず、吉行淳之介の “娼婦もの” に登場する男たちに、言い知れぬ共感を覚えた。
 
 当時、初恋の渦中にあったからだと思う。
 
 受験を控えた自分に、「恋愛」など許されるわけがない。
 しかも、羞恥心も強かったから、相手に気持ちを伝えることもできない。
 だから、恋焦がれる女性のことを、必死に「ただのクラスメート」に過ぎないと思い込もうとする。
 だが、その自制心は常に裏切られる。
 勉強どころじゃない自分がいる。
 
 そういう自分の焦燥が、吉行淳之介の描く「煮え切らない男たち」の気持ちと共振した。
 
▼ 若い頃の吉行淳之介
 

 今の若い人たちがこれを読んだとしたら、どう感じるだろう。
 たぶん、現実感のない話だと思うような気がする。
 
 なにしろ、「娼婦」という存在が、今はない。
 今でも売春組織はあるのだろうが、それは非合法のものとなる。
 ところが、これが書かれた昭和20年代後半には、まだ政府も半ば公認していたような売春街があったのだ。
 そのような背景を知らないと、このような娼婦の街が、人々の日常生活の片隅にあっけらかんと存在していることの奇妙さを理解できない。
 
 それでも、当時すでに 「売春は犯罪であり、反社会的なものである」 という認識は広がっており、吉行淳之介の小説は、「売春を奨励するものである」と批判され、リベラル文化人や教育者などによる攻撃の対象となっていたという。
 
 でも、そういう小説に、中学生の自分は惹かれた。
 
 そこには、思春期の男の子が期待するような扇情的なエロ描写がない代わりに、乾いた抽象画のような男女の交情が描かれていた。
 そして、氷河の底に沈むような「冷たい官能」と、荒野の夕陽を眺めるような「荒涼とした憂い」があった。
 
 そういうものを背伸びしながらも覗き見ることは、まだ半分も手に入れていない自分の「人生」を見通す手がかりとなった。 
 
 吉行淳之介の初期の短編には、「小説」というより、「詩」であると言い切った方がよいものがある。
 『驟雨』は、一連の “娼婦もの” の中では、特にそのような傾向が強い。
 その中の一節が、一度でも頭の片隅に寄生してしまうと、それは一生を支配する。 
 
 『驟雨』では、主人公と娼婦の女が、朝のカフェの窓から外の景色を眺めるシーンがある。
 
 「そのとき、彼の眼に、異様な光景が映ってきた。
 道路の向う側に植えられている一本の贋アカシヤのすべての枝から、おびただしい葉が一斉に離れ落ちているのだ。
 風は無く、梢の細い枝もすこしも揺れていない。葉の色はまだ緑をとどめている。
 それなのに、はげしい落葉である。
 それは、まるで緑色の驟雨であった。
 ある期間かかって、少しずつ淋しくなってゆくはずの樹木が、一瞬のうちに裸木となってしまおうとしている。
 地面にはいちめんに緑の葉が散り敷いていた」
 
 この小説のタイトルともなる「驟雨」がそこで登場する。
 
 「葉が離れ落ちる」という描写が伝える寂寥(せきりょう)感。
 「風もないのに落ちる」という言葉がつむぎ出す、神秘性。
 「少しずつ淋しくなっていくはずの樹木が、一瞬のうちに裸木になる」という観察から生まれる不条理感。

 小説や評論のようなロジックの世界には還元できない、「詩」としての妙味がそこにあるように思った。
 
 
  
 毎年、この季節になると、葉を黄色く染めた街路樹のイチョウが散り始める。
 小説 『驟雨』 の中で散るのはニセアカシアの葉だが、私は、イチョウの葉が散り始めると、いつもこの小説を思い出す。
 
 今年も、自分にとっての「驟雨の季節」がやってきた。
 
 
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吉行淳之介 『驟雨』 への2件のコメント

  1. 磯部 より:

    この文章自体が、吉行淳ノ介のような筆使いでしっとりとして、堪能させて頂きました。
    彼の作品は、私も幾つか読みました。「驟雨」も読みましたが、このブログを読んで
    思い出したような次第です。

    吉行って、耽美とか堕落とか言われましたよね?
    が、そこが凄いところで、彼独特の味は、他の人には出せない。特に、
    イマドキの人にはなかなか書けないし、受け手も、そんなものは望んでいない。
    そういう時代なのでしょう。

    このもどかしさ、心の葛藤は、自制と感情の爆発の間をゆく一種独特の
    大人の男のものであり、こんな体験を重ねるごとに、男として人生に
    深い味わいを残してくれるような気がします。もちろん、大人の女性も
    それに似たものはあるとは思いますが。

    町田さんのこの話に、深く共感。
    男の不条理は、やはり文学ですね。

    • 町田 より:

      >磯部さん、ようこそ
      お分かりいただけましたか! 吉行淳之介の味わい深さ。
      うれしいです。
        
      彼の初期の短編小説は、ものすごく叙情的なんですけど、センチになっていない。
      なんだかすごく乾いた感じもあって、クール。
      そこが、ちょっとハードボイルドなんですね。
      そう書くと、村上春樹の文章を連想させそうですけど、村上春樹の方がむしろセンチメンタルかな。
       
      吉行さんの小説は、淋しい色で構成された抽象画のような雰囲気もありますよね。
      村上春樹さんの方は、お洒落な意匠に包まれたブランド品の包装紙。
       
      だから、
      村上春樹 = デザイン/吉行淳之介 = 絵画 … て、感じを持っています。

      >「男の不条理」 !
      いいですよ。
      話が合って、うれしいです。
       

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