建築のエロティシズム

 
 タイトルに惹かれて買った。
 
 『建築のエロティシズム』
 田中純・著 (平凡社新書)
 
 「世紀転換期ヴィーンにおける装飾の運命」 というのがサブタイトル。
 

 
 「ウィーン」
 「装飾」 
 という二文字から (今ちょっと興味を抱いている) グスタフ・クリムトの絵を連想し、書店でパラパラと手にとってみたら、確かに、冒頭クリムトの図版がたくさんあったので、迷わずレジに向かった。

▼ クリムト 「アデーレ・ブロッホ マイアーの肖像」 (本書には出てこないけど … ) 
 
 
 が、読んでみると、クリムトは本論の導入部として使われるのみで、基本は、世紀末ウィーンのバロック的な装飾文化の批判者として登場したアドルフ・ロースという建築家・著述家の活動を軸に、彼にリンクする人々の思想的営為について触れた論考であった。
 
 アドルフ・ロース。
 どんな人か?
 その筋の専門家ではないので、まったく分からない。
 
 しかし、そのアドルフ・ロースを中心に、ヴァイニンガー、フロイト、カフカ、ココシュカ、ヴィトゲンシュタインなどといった同時代人たちの知性の営みを、 「建築」 ないしは 「装飾」 という観点から眺める切り口は新鮮だった。
 
 著者の 「あとがき」 によると、
 「本書の内容をひと言で表せば、1900年前後のヴィーンを中心とした領域横断的な思想史」
 であるという。
 
 そして、その目的は、
 「この時代が取り憑かれていた 『装飾』 の文化的意味を解明することによって、世紀転換期のヴィーン文化が、今なお放つ魅惑の秘密を明らかにすることにある」 … のだそうだ。
 
▼ 世紀末ウィーンの街並み (本書より)
 
 
 難しい言い回しだが、自分なりに解釈すれば、要は、
 「1900年前後のオーストリアの首都ウィーンでは、建築物から人々のファッションに至るまで、すべて古色蒼然たる “装飾” によって埋め尽くされていたが、それに異を唱える (ロースのような) 異端児たちが登場し、彼らの営為によって、数々の知的冒険が生まれ、それがこの時代の文化を多彩なものにした」
 という筋立ての本だろうという気がする。
 
 「 … 気がする」 と書かざるを得なかったのは、難解な部分も多々あり、書かれていることの中核に、なかなかたどり着けないというもどかしさがあったからだ。
 
 実際、書かれていることの文意が一度ではすっと頭に入らない本ではあった。
 特に著者の文体が、生硬さと、過剰な文芸趣味に彩られ、本人の意気込みほどには読者の心に届いていないように思えた。
 
 また、 「領域横断的な思想史」 といいつつも、その思想解明の部分が、フロイトの方法論をそのまま援用するという “20世紀的な感じ” で、 「またかよ … 」 という既視感が込み上げてくる部分も多かった。
 
 そうは言いつつも、文のはしばしにひらめきを感じさせるところがあり、読んでいて、 「あ、そっちから攻めるかぁ!」 と驚嘆するところもあって、それはそれで、思考を駆動させるときの潤滑剤効果はあった。
 ときどき本を閉じて、自分だけの思考に沈潜することができたのも、著者のイメージ形成力に、示唆的な鋭さがあったからかもしれない。
 
 個人的に面白いと感じたのは、アドルフ・ロースにとっては 「恐るべき子供たち」 (と章タイトルでは表現されている) ルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインの章。
 
 著者にとってヴィトゲンシュタインは、 「10代の頃に夢中になった思想家」 であるらしく、 “建築家” としてのヴィゲンシュタインの 「建築作品」 から、その思想が何であるかを解き明かす視点の提示はちょっとスリリングであった。
 
 この本によると、ヴィトゲンシュタインは、哲学者に転じるまでは、機械技術者としての教育を受けており、終生なにがしかの機械を自作していた人らしい。
 この機械への関心は、建築への関心とも結びつき、1925年には、姉の私邸の設計にも携わっている。
 
 ヴィトゲンシュタインが企画した姉の私邸では、各部屋に採用される扉の高さおよび幅は、すべて厳密なプロポーションによって規定されており、基本的には、みなシンメトリーに配置されているというのである。
 そして、装飾的な要素は徹底的に排除され、扉などは、ノブの部分を除くと、凹凸のほとんどないまっ平らなものであったという。
 
 彼がとりわけ執着したのは、食堂の片隅に向い合って置かれた二つの放熱器で、その製図、製作、搬入にはまる 1年をかけたそうだ。
 本に添付された画像 (↓) を見ると、装飾的な装いは一切省かれているにもかかわらず、その視覚的に計算の行き届いたプロポーション、光と影のバランスが生み出す明晰さや透明感など、家具としての機能を超えた抽象的造形物という感じがする。
 
▼ ヴィトゲンシュタインの作った放熱器 (本書より)
 
 
 なぜゆえに、そのような不自然なほどの明晰さを持つ造形物が、彼の企画した家には要求されたのか。
 
 家としての機能を優先させたからでないことは、明白である。
 一見、モダン建築の合理性を指向しているように見えて、そこには、バウハウスのような機能性とも、近代建築の効率性とも異なる “無為” を追求する精神が感じ取れる。
 
 著者はそこに 「明晰性を自己目的化した “哲学的営為” 」 を読み取る。
 つまり、住むための建築を造ったのではなく、造ること自体が哲学的営為だったのだ、と。
 
 著者は書く。
 「 (ヴィトゲンシュタインの企画した家は) 住まいに限りなく似ているが、住まいとは呼べないもの、つまり住まいの “比喩” である」
 
 比喩 … という表現が、この章を語るときのキーワードとなる。
 
 実際、ヴィトゲンシュタイン自身も、自分の哲学的思考は、すべてショーペンハウアー、フレーゲ、ラッセル、クラウス、ヴァイニンガー、ロースといった人々の思想に対する新しい比喩 = 似姿にすぎないと言っているらしい。
 
 では、 「比喩 = 似姿」 とは何か。
 
 修辞法的にいえば、比喩とは、「あるものを、別の言葉に置き換える」 ことをいう。
 いわば、オリジナルに対して、代用物を設定することだ。
 
 だから、 「比喩」 として生まれたものは、オリジナルから逸脱した “何か” となり、いわば、 オリジナルが湖畔の水面に垂らした影のようなものに変貌する。
 
 つまり、「比喩」 とは、オリジナルであったものと、それを言い換えたものとが、一つの “だまし絵” のように並立し、かつ、そのどちらでもないものをつくり出す状態をいう。
 
 著者はここで、ヴィトゲンシュタインが 『哲学探究』 で持ち出した 「ウサギ = アヒルの頭」 (↓) について言及する。
 
 
 
 図では、左側に突き出した二本の “棒” を、 「くちばし」 に見立てればアヒルに見える。
 しかし、それを 「耳」 に見立てれば、ウサギに見える。
 
 この場合、 「アヒルが本物で、うさぎはニセモノ」 という区分けは成り立たない (逆も同様) 。どちらも本物であり、同時にどちらもニセモノでもある。
 つまり、この図は、 「本物 = ニセモノ」 という二元論の構図そのものを破壊している。
 
 ヴィゲンシュタインの造った建築は、まさに 「建築」 対 「非建築」 という二元論の構図を破壊し、「家であると同時に、家でないもの」 を提示することになった。
 
 そして、その建築が 「哲学的営為」 だとするならば、その哲学とは、
 「アヒルを見たときには見えなくなっている “ウサギ” と、ウサギを見たときは見えなくなっている “アヒル” 」
 を同時に視ることをいう。
 
 この場合、 「ウサギ」 と 「アヒル」 を、それぞれ文化も言語も異なる二つの孤立したシステム (共同体) だと考えると解りやすい。
 
 片方のシステム内で生きている人々は、 「ウサギ」 という世界しか見ておらず、それを 「アヒル」 と見なす考え方を否定する。
 もうひとつのシステムにいる人々は、 「アヒル」 こそ真理であると信じ、それが 「ウサギ」 であるなどとは思ってもみない。
 
 つまり、一つの習慣化された思考空間 (システム) の中で自閉している限り、けっして、それ以外のものは視えてこない。
 
 ヴィトゲンシュタインの哲学とは、その二つのシステムの間に立ち、 “ウサギであると同時にアヒル” であるものを考えること。あるいは、 “ウサギでもなければアヒルでもない” ものを考えることだといえよう。
 
 現実問題として、そのようなことを考える “場所” はあるのだろうか。
 ない。
 それは、夾雑物を取り除き、ひたすら明晰であることを希求する “態度” の中にしかない。
 それを、ヴィトゲンシュタインは自ら設計した建築のなかで視ようとしたのかもしれない。
 
 「ウサギでもなければ、アヒルでもない」 ものに出会うという意味を 「哲学」 の問題として考えると難しいが、アートや、文学や、映画を例にとると分かりやすい。
 すなわち、 「言葉 (概念) として整理できないものに出会う」 ということだ。
 
 我々は、心を揺さぶられるようなアートや文学に出会った時、 「言葉」 を失う。
 だから、自分の受けた感動を、なんとか 「言葉」 に訳して、その “感想” を自分で確かめたり、人に語ってみたくなる。
 
 しかし、そのとき、実は 「感動」 の源泉は失われている、とみるべきだ。
 
 「言葉 (概念化されたもの) 」 に翻訳できたものは、すでに、 「ウサギ」 か、 「アヒル」 にすぎない。
 それは、 「システム」 の外に出る契機を、再び 「システム」 の閉域に閉じ込めてしまうことを意味する。
 
 「言葉」 にできない “感動” を、どれほど遠くまでさかのぼっていけるのか。
 「言葉」 にならないものの “感触” を、いつまで心の中にとどめておくことができるか。

 その心の 「動き」 の中にこそ、あらゆる既成概念や、偏見や、常識にとらわれない、本当の意味での 「自由」 がある。
 
 以上は、本書の中心課題を離れた個人的な感慨だが、この本は、そんなことを考えさせてくれるような本だった。
 
  
 参考記事 「 『第三の男』 に描かれたウィーン」
 

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