『第三の男』 に描かれたウィーン

 
 昔、西ドイツの諸都市をめぐってから、オーストリアのウィーンに入ったことがある。
 同じゲルマン系の人々が住む国と思っていたが、ウィーンに着くと、まったく別の世界にさまよい込んだという気がした。
 
 にぎやかながらも、健全で、清潔なドイツの諸都市に比べ、ウィーンはアジア的なエキゾチシズムに満ちているように思えた。
 
 「アジア的」 という表現が誤解を生みそうだから、言葉を変えていうと、写真や映画でしか見たことのない 「東欧」 をそこに感じた。
 
▼ 画像は、映画 『第三の男』 より
  

 
 
 それまで、 「ウィーン」 という語感から、単純に 「ウィンナーコーヒー」 とかヨハン・シュトラウスの音楽とか、 「ウィーン少年合唱団」 などといった、愛らしく、洗練された文化に満たされた街を想像していたが、実際に目の当たりにしたウィーンは、(確かにメルヘンに出てくる街のようではあったが) それ以上に、カフカの描くプラハのような妖気が漂っていた。
 
 
▲ 『第三の男』 より
 
 今から思うと、それは “世界帝国” がゆえの空気だったのかもしれない。
 600年にわたって、ヨーロッパ文化の中核を成してきたハプスブルク家の都 (みやこ) だったわけだから。
 
 第一次大戦までのオーストリアは、ドイツなどとは各が違う神聖ローマ帝国の皇帝が統べる 「オーストリア・ハンガリー帝国」 として、西欧と東欧にまたがる大国の中心地だった。
 
 世界帝国とは、異なる民族、異なる文化の混合体を意味する。
 当然、世界帝国であったオーストリアは、オスマン・トルコと領土を接するくらい “アジア” に隣接していたし、カトリックやプロテスタントとも違うキリスト教を奉じるギリシャ正教の風土にも近かった。
 それはオーストリアという国に、西欧とはまた違った文化的特徴を与えることになった。
 
 だから、その都 (みやこ) のウィーンに 「東欧」 を感じたというのは、実は私の勘違いで、むしろ東欧諸国の街こそ 「ウィーン的」 だというべきなのだろう。
 
 ウィーンはまた、 “性の文化” の発祥地でもあった。
 グスタフ・クリムトの絵画も、ジークムント・フロイトの精神分析学も、みな強烈な 「性」 の匂いを放つ。
 ともに、 “隠された性” として。
 
 フロイトは、 「性の世界」 を、人の意識下に上らない “無意識” の領域に見出し、クリムトは、 「性の力」 を装飾的な様式の中に埋めた。
 
▼ クリムト 『抱擁』 (部分)
 
 
 もしかしたら、19世紀から20世紀の転換期において、世界で最もエロティックな匂いを放っていたのが、ウィーンだったのかもしれない。
 
……………………………………………………………………
 
 そんなウィーンの不思議な妖気を忠実に表現した映画の一つに、キャロル・リード監督の 『 第三の男 ( The Third Man) 』 (1949年) がある。
 
 
 
 すでに、古典としての名声に包まれた感のある映画なので、現代の人にどれだけ訴えるものを残しているのか、そこは分からない。
 
 実は、私がこの映画を観たのも 4~5 年ぐらい前のことで、 『第三の男』 という有名なタイトルこそ知っていたものの、それが何を意味するものなのか気にとめたこともなかった。
 それよりも、むしろ主題曲として使われたアントン・カラスのツィターの演奏が印象として強い。
 
 恥かしい話だが、観るまではオーソン・ウェルズが主人公だと思い込んでいた。映画ポスターでもDVDでも、オーソン・ウェルズの顔しか出てこなかったからである。 
 だが、通して観て、アメリカ作家のホリー・マーチンスを演じるジョセフ・コットンが主人公であることを知った。
 
▼ 主人公のアメリカ人作家ホリー・マーティン (ジョセフ・コットン)。
  彼は、昔からの親友であるハリーを訪ねてウィーンにやって来る。

 
 
 しかし、全編を通じて観ていると、やはりこれはオーソン・ウェルズが主役を演じる映画だとしかいいようがない。彼は、映画の途中からようやく登場することになるのだが、まるで、そこから映画が始まったような印象を受ける。
 それほど、彼の存在感は大きい。
 
▼ ホリー・マーティンの幼なじみハリー・ライム (オーソン・ウェルズ)。
  親友のホリー・マーティンがウィーンに来たとたん、彼は謎の交通
  事故で死亡したことになるわけなのだが …

 
 
 それに比べると、主人公を演じるジョセフ・コットンの方は全編に登場しながらも、影が薄い。
 誠意と正義感だけが取り柄という、女から見れば退屈な男なのだ。
 ジョセフ・コットンの存在は、小説でいえば “語り手” という印象だ。
 

 
 この映画の主役は、実は “もう一人” いる。
 それが、第二次大戦が終わったばかりの 「ウィーン」 である。
 この映画では、そのウィーンの美しい街並みが、そのまま “魔宮” にもなっている。
 
▼ ジョルジョ・デ・キリコの絵画を彷彿とさせる夜の街
 
 
 街そのものが、まるでクリムトの絵画を埋めているような巨大な “装飾” と化した建物群。
 古色蒼然としたアール・ヌーヴォー様式で貫かれた家屋の室内。
 めまいを起こさせるような複雑な螺旋 (らせん) 階段。
 そして、冥界の象徴ともいえる入り組んだ地下水路。
 カフカ的な混沌に満ちた世界が、次々と広がっていく。
 
  
 
 そこに第二次大戦の傷跡が重なるため、街には戦禍の後を生々しく伝える瓦礫が残り、さらに 「廃墟の美」 が加わる。
 
 
 
 映画が墓地のシーンで始まり、墓地のシーンで終わるのも象徴的だ。
 その墓地と、墓地との光景をつなぐものこそ、オーソン・ウェルズが逃げこむ 「地下水路」 なのである。
 
 それは、死者しかいないはずの地下世界こそ、地上からは発見できない “真実” が隠された場所であることを語っている。
 生者が住む地上が実は 「廃墟」 に過ぎず、地下にこそ、真の宴の世界があるかのように。
 
 
 
 オーソン・ウェルズが演じるハリー・ライムは、その地下の宴の世界を仕切る魔王のような存在だ。
 
 
 
 戦争による秩序の混乱。
 価値の転換。
 モラルの低下。
 
 それらを巧みに利用し、大量の人間を死に追いやっても、平然と自分の利益だけをむさぼろうとするオーソン・ウェルズは、地下では魔王でありながら、秩序が回復した地上の世界では生きてはいけない、哀しい生き物である。
 
 その哀しさは、女の心をとろけさせる。
 
▼ アリダ・ヴァリが演じるオーソン・ウェルズの愛人アンナ。
  彼女だけは、オーソン・ウェルズが極悪非道の大悪人
  であることを、かたくなに信じようとはしない。

 
 
 小説家のジョセフ・コットンは、オーソン・ウェルズの恋人アリダ・ヴァリが演じるアンナに横恋慕するが、 “魔王” の哀しみに共感している女の気持ちを変えることはできない。
 ジョセフ・コットンが、オーソン・ウェルズのことを、
 「女を平気であざむく、不実な男だ」
 と力説すればするほど (それが事実なのだが) 、女の気持ちは、逆の方向に固まっていく。
 
 テーマは、たった三つ。
 「愛」 「友情」 「正義」 。
 しかし、その三つが、けっして並び立つことがないことを、この映画は教える。
 
 最後は、あの有名なラストシーン。
 一直線に伸びる並木道のなかほどに立ち止まり、ジョセフ・コットンが女を待ち受けている。
 
 
 
 しかし、オーソン・ウェルズを愛し続けた女は、彼が死んだ後も、その気持ちをひるがえそうとはしない。
 彼女は、並木道の途中で待ち続けるジョセフ・コットンの存在を認めながら、振り向くことすらしない。
 
 女に完璧に無視された彼は、やがてけだるい手つきで、煙草を地面に投げ捨てる。
 誠実だけど退屈な 「生きている男」 が、残忍で狡猾な 「死んだ男」 に負けた瞬間だった。
 
 オーソン・ウェルズが演じる魔王のような男も大戦直後のウィーンでなければ生きていけない男だったが、それを慕うアリダ・ヴァリもまた、まぎれもなく魔都ウィーンでなければ生きていけない女であったのだろう。

 
 
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『第三の男』 に描かれたウィーン への2件のコメント

  1. Jiji より:

    町田さんはじめまして。

    つい最近、偶然に町田さんのブログを発見し、なんてすごい文章を書く人だと驚嘆しながら読んでおります。このような洞察力、表現力は一体、どうやって養われたのでしょうか。このまま本にして発売しても結構売れるのではないか、そんな気をおこさせるほどのすばらしい出来映えです。

    さて『第三の男』。
    この映画を観たのは50年以上前、わたくしが小学生のころ。まだ幼かったため当時、ウィーンが置かれていた複雑な状態など知るよしもなく、ただハラハラ、ドキドキしながら観ていただけでした。
    成人してからテレビ放映やDVDで何回か鑑賞し、少しは内容を理解するようになりましたが、町田さんのブログをみて、いかに自分の理解力が浅いものであるか思い知らされました。

    >ウィーンはまた、“性の文化” の発祥地でもあった。
    >それは、死者しかいないはずの地下世界こそ、地上からは発見できない“真実”が隠された場所であることを語っている。

    こういう分析ははじめて目にするものです。

    この映画は光と影の映画でもあります。
    車のヘッドライトによって闇夜に浮かび上がるオーソンウェルズのなんとも表現しがたい顔、風船売りが薄暗い建物に大きく投影される様、オーソンウェルズが走り去るとき人物の影だけが映し出される様、そして地下下水道の闇、その他多くの場面が夜。
    まさにこの映画は光と影、モノクロだからこそ描写できたといえます。

    ”映画の教科書”といわれるこの『第三の男』。
    これはわたくしのなかでは間違いなくベストテンにはいります。特にオーソンウェルズが素晴らしかった。彼無くしてこの映画はなりたたなかったでしょう。
    重苦しい展開のあと、なにかほっとさせる感じのエンディングも秀逸。ツィターによるテーマ曲もより効果をあげていました。数多い映画のなかでおそらくこれはエンディングのベストワンではないでしょうか。

    少し長くなってしまいましたが、はじめてのコメントに免じて、なにとどお許しのほどを。

    • 町田 より:

      >Jiji さん、ようこそ。
      こちらこそ、はじめまして。
      過分なご評価をいただき、うれしいながらも、ちょっと恥ずかしいという気持ちです。
      ありがとうございました。
       
      『第三の男』 は素晴らしい映画ですね。
      おっしゃるように、 「光と影」 の映画です。「フィルムノワール」 というのでしょうか、この時代のサスペンスもの特有の 「怖さと寂しさ」 が同居したような闇の描き方が巧みで、光と闇のコントラストの美しい映画でした。
       
      風船売りの影がビルの壁に映し出される情景は、私もまた引き込まれるようにして見ました。印象に残るシーンでしたね。
      あのシーンは、張り込みをする刑事以外、あの男しか出てこないんですよね。
      それがまた、なんとも “夢の中の出来事” みたいで、ちょっと神秘的でした。
       
      実は、オーソン・ウェルズが自ら監督を務めた 『審判』 (カフカ原作) という不条理タッチの映画があるんですが、それよりも、この 『第三の男』 の方が、画面的には “不条理タッチ” に見えるところが多く、かえって面白く感じました。
       
      この映画は、おっしゃるように、エンディングも秀逸。
      古い映画なんですけど、もっと若い人達にも観てもらいたい映画です。
       

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