宗教がわかれば世界は見えるか?


 
《 団塊の世代が宗教に注目 》

 池上彰氏の本が相変わらず売れている。
 そのうちの一つが、『池上彰の 宗教がわかれば世界が見える』(2011年刊)。
 
 いろいろな意味で、いいタイミングで登場した本である。
 
 池上氏は、
 「人々の間で、いま宗教への関心が高まっているのは、団塊の世代が、いよいよ身近に『死』の準備をする時期になったからだ」と分析する。
 
 それともう一つ。
 「2011年の3・11東日本大震災により一瞬にして多くの命が失われたさまを見て、命のはかなさ、命の尊さに、多くの日本人が気づいたからだ」
 ともいう。
 
 さらには、常に国際紛争の火種となるキリスト教徒とイスラム教徒の反目なども、紛争が起こる宗教的な背景を知りたいという日本人の好奇心を動かすきっかけになったかもしれない。
 
《 手っ取り早い “宗教解説集” 》
 
 そのような、本書を成立させたいくつかの動機を掲げた後で、池上氏は、仏教、キリスト教、神道、イスラム教の研究者たちへの取材を行い、それぞれの宗教が成立した経緯、その教義の特徴、現代社会への影響力などを明らかにしていく。
 
 いわば “宗教解説集” 。
 これ 1冊あれば、「今まで解っているようで解らなかった」世界の宗教に対するおおかたの知識を得られるというわけだ。


 
 だが、ざっと読んで訪れたのは、「この本を読むと、宗教はますます我々の日常から遠のいていくな …」という感慨だった。
 
 確かに、この本で「知識」は得られる。
 「教養」も身に付く。
 
 頭の中がクリアに整理されるので、ちょっと “利口” になったような気分には浸れる。
 実際に、神道とイスラム教に関しては、少し勉強させてもらった。
 「役に立った」本ではあった。
 
 だが、この本のキャッチである「宗教を知ることで見えてきた世界」というのは、少なくとも、私が求めていた「世界」ではなかった。
 
《 一神教は砂漠で生まれた? 》
 
 たとえば氏は、その序章で次のように書く。
 
 「宗教は、それぞれの土地の気候風土が反映している。たとえば中東の砂漠地帯では、人間は本当に無力な存在でしかなく、ちょっとした砂嵐に巻き込まれただけで死んでしまう。
 それほど激しい環境の中で生かされているという実感が、人間は神の怒りに触れるとあっけなく死んでしまうという『旧約聖書』の世界と通じ合う」
 
 解りやすい!
 
 たぶん、今の日本人が必要としているのは、そういう “解りやすい解説” であるという信念が、池上氏やこの本の企画者たちにはあるのだろう。
 「小むずかしい宗教論や哲学ではなく、一言でスゥーっと頭の中に入っていく解説こそ、現代人の求めているものである」 という確信が。
 
 だけど、このような解りやすい解説こそが、逆に宗教というものの本質から読者の目を逸らせることになる。
 そこで得られるのは「知識としての宗教/教養としての宗教」でしかない。
 
 宗教を理解するのに必要なのは、なによりも「想像力」なのだ。
 
 ひとつの宗教に心が染められていったときに、「世界」がどう変わって見えるのか。
 そこに思いを馳せる力のない宗教論は、クイズ番組に出題され、解答者が答えたとたんに空気となって霧散するような「知識」にすぎない。
 
 そうではなく、文字通り「世界が変わって見える!」視点を提示する。
 それが宗教の力であり、魅力であり、怖さであり、それを伝えきれない宗教解説書は、どんなに緻密な教義の解説を施そうが意味がない。
 
《 見慣れた風景の中の新しい発見 》
 
 「世界が変わって見える」とき、人間は、必ず日常の見慣れた風景の中から今までとは違ったものを発見している。
 たとえば、一神教は、「砂漠の厳しさ」から生まれたといわれるが、そうではない。
 一神教によって、逆に「砂漠の厳しさ」が発見されたのだ。
 
 「神は民の苦しみを取り除き、心の平穏を約束してくださるはずなのに、なぜ、この世には “砂漠” のような荒涼とした不毛な地が広がっているのだろうか?」
 
 砂漠は、ユダヤ・キリスト教あるいはイスラム教の民が、「神」を知ることによってはじめて見つけた新しい「風景」なのである。
 
 もちろん、一神教が誕生する前から砂漠はあったというべきだろう。
 しかし、それは単なる「交通の困難な空間」にすぎなかった。
 
 そのような砂漠が、「不毛の地」という認識を脱して「この世から超越した空間」に変わっていくのは、神が砂漠の民の心に降りるようになってからである。
 
 そのとき、不毛な砂漠は、はじめて生活空間の「外」に広がる “人間には到達できない” 何ものかに変わった。
 「神の啓示」を受ける空間に変わったのだ。
 
 ユダヤ教の預言者が、みな “砂漠や荒野を越えて” 民の住む里に降りてくるようになったのは、砂漠が「神の啓示」を得る場所として、新たに “発見された” ことを物語っている。
 
《 現代社会に深く根を下ろすキリスト教思想 》
 
 このように、ユダヤ・キリスト教的な一神教が生まれたことによって、人間が風景を眺める視点はガラッと変わった。
 そして、現在、世界の多くの人が、ユダヤ・キリスト教的あるいはイスラム教的な一神教の “メガネ” で「世界」を見るようになった。
 しかし、そのことに誰も気づかない。
 
 たとえば、我々の日常生活の根幹を支えている日々の労働。
 その労働は、現在「資本主義」と呼ばれる経済システムとして構造化されている。
 資本主義社会では、働かなければ “食えない” 。
 だから、みなおのれにムチ打って、刻苦勉励し、過酷な労働にも耐えていく。
 
 そのような資本主義を支える人々のエートス(精神的習性)は、どこから生まれて来たのか。
 キリスト教からである。
 
 マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を持ち出すまでもなく、資本主義労働を自発的に支える精神はキリスト教がつくったのである。
 キリスト教の宗教倫理から生み出された禁欲主義と合理化精神が、まさに、産業資本主義が求める強迫神経的な労働倫理を支えたのだ。
 
 また、我々のビジネス社会では、新しい商取引きを行なう前には、かならず「契約」を結ぶ。
 今の社会では、「契約」といえば、ビジネスパーソン同士が交わし合うものだと理解されている。
 しかし、そもそもそれは、神と人との間に交わされる戒律を意味していた。
 
 だからこそ、そこに拘束力が生まれる。
 不履行の場合の罰則規定を法的に整備する前から「契約」に厳粛な拘束力が備わっていたのは、それが神と人との関係を規定するルールだったからだ。
 
 そして、キリスト教は、科学革命も起こした。
 一見、近代科学と矛盾するようなキリスト教神学。
 しかし、それは “同じ根” を共有している。
 
 現在、アメリカには、ダーウィンの進化論を信じない人が半数近くもいるという。
 「人間がサルから進化したなどという進化論は、聖書の記述と合わない」というのが、その人たちの言い分だ。
 
 しかし、それをもって、キリスト教は近代科学に逆行していると考えるのは、お門違いだ。
 そもそも「生物が、直線的な系をたどって、ひたすら未来に向かって進化していく」という進化論そのものが、キリスト教的な思考様式から生まれてきたものといえる。
 それは、「最後の審判」が訪れるまで、時間はひたすら直線的に進んでいくというキリスト教神学の骨格を成す時間概念そのものである。
 
 だから、宗教を批判したマルクス主義理論も、また同じ構図をたどるしかなかった。
 資本主義社会が崩壊した後に、「人間の理想社会」を実現する共産主義社会がやってくるというのは、キリスト教的な「最後の審判」と同じ時間モデルを採用したものといえよう。
 
 このような直線的な時間概念は、それまでどの民族も、どの文化も持ったことがなかった。
 ヒンドゥー・仏教的な考え方では、時間は円還構造をなし、「輪廻」(りんね)の思想に代表されるように、時間は永劫に繰り返されるものとされた。古代ギリシャにおいても、同じだった。
 
《 この世はキリスト教のアイコンだらけ 》
 
 我々が無意識に使っている暦(こよみ)もまたキリスト教に由来している。
 一週間に一度日曜日が訪れるというのは、それが宗教上の安息日に当たるからだ。
 
 さらに、キリスト教的な世界像は、娯楽の世界にも浸透している。
 ハリウッド製のファンタジー映画から、ゲーム機のロールプレイングゲームに至るまで、物語の世界は、善なるヒーローとダークサイドに生きる魔物たちとの戦いに明け暮れている。
 これはそのまま聖書の「天使ミカエルと堕天使ルシファーの闘争」の物語をなぞっているにすぎない。
 
 我々の周りには、あまりにもキリスト教のアイコンが満ち溢れているために、逆に、それを意識することがない。
 だが意識する、しないに関わらず、それは我々の生活心情として、すでに内面化されている。
 
 だから、我々が「宗教に対する想像力」を養うということは、そのような日常の風景となってしまったキリスト教的な世界像を、もう一度「自覚的に問い直す」作業から始まる。
 
 たとえば、原始キリスト教グループを創出した “ナザレのイエス” という人間が、どういう状況下で民と接していたのかということを想像してみる。
 そのような作業が、「宗教に対する想像力」を養う。
 
《 イエスとは、何を視た人間だったのか 》
 
 イエスは、ことさら取税人や精神疾患の病者、売春婦たちといった人々から嫌われ、蔑まれてきた人々と親しくつきあい、彼らに教えを説いた。
 
 この情景を現代人が目撃したとしても、そこに違和感はないだろう。
 むしろ、「貧者にも慈悲の心を示す」キリスト教らしい布教の 1シーンと眺めることだろう。
 
 しかし、当時のユダヤ的社会の中では、それは、きわめてありえない光景だった。
 つまり、彼らは、人間としてはカウントされない、ただの「道具」だったのだ。
 
 「蔑まれ、嫌われる人々」は、共同体のケガレを一身に背負うことで、いわばスケープゴートのように、共同体の結束を取り結ぶ道具としてのみ存在を許されていた。
 
 イエスは、そのような人々にこそ熱心に教えを説いた。
 
 なぜか?
 職業や出自の貴賤を超えて、彼らが「人間」であったからか?
 
 そうではないだろう。
 「人間」という概念は、この時代には生まれていなかった。
 この時代に存在していたのは、「貴族」であり、「兵士」であり、「農民」であり、「奴隷」であり、「売春婦」ではあったが、「人間」は一人もいなかった。
 
 古代社会では「奴隷」が人間として認められなかったように、少なくとも、その時代に「人間」を名乗れるのは、自分の属する共同体の恩恵にあずかれる人々だけに限定されていた。
 
 「人間」がようやく一般概念として認知されるようになったのは、それから1500年ほど経ったルネッサンス期においてであり、さらに「人間」という存在が思想的にも容認されるようになったのは、18世紀の啓蒙主義の時代以降のことである。
 
 ならば、なぜナザレのイエスは、そういう時代が来る前に「人間」という概念を手に入れることができたのか?
 
 こう言いかえれば分かりやすいか。
 なぜ、イエスは、「王」や「貴族」や「商人」や「奴隷」という階層化された人々の区分を超えて、「人間」という普遍法則があることに気づいたのか?
 
 これは、「人間」という概念が当たり前のように尊重されている現代人の盲点を突く問題だと思う。
 
 イエスは知っていたのだろう。
 「人間」は “砂漠” から来るということを。


 
《 「人間」 は砂漠で生まれた 》
 
 砂漠は、人の住めない不毛の地であったが、そこは象徴的な意味で、人間が共同体の中で保証されていた身分や出自を無効にする空間でもあった。
 
 村、あるいは都市、さらに国家という共同体のなかで、その身分が保証されている「王」とか「貴族」といった、あまりにも自明な立場を持つ者たちの意識からは、「人間」は生まれてこない。
 「人間」が生まれるには、「王」とか「貴族」などといった、共同体が保証する身分や立場からいったん切断される必要がある。
 
 もちろん「家族」も同様に、一度は切断されなければならない。
 イエスは、『マタイ伝』の中に、こういう言葉を残している。
 
 …… 私が来たことを、地上に平和をもたらすためだと思ってはならない。
 平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
 私は、父を、娘と母を、嫁としゅうとめを “敵対させる” ために来たのだ。
 
 イエスが語るこの言葉を、「家族」を直接否定したものと読む必要はない。
 ここで語られる「父」や「娘」は、「王」や「貴族」と同様に、 “共同体が保証する身分” という意味だ。
 
 彼は、こう言おうとしている。
 「父や娘を棄てたときに、 “人間” に出会う」
 
 ここで、いきなり突出してきた「人間」という概念は、おそらく当時の人々にとっては、どう理解していいのか、 “手に余る” ものであっただろう。
 
 しかし、神の前に等しく平等な存在としての「人間」を手に入れたことで、一神教はようやく成立することになる。
 
 イエスは、いかにして、個々に分かれて存在していた人々の中から、「人間」という共通したものを抽出できたのか。
 もしかしたら、それこそが人類の最大の謎かもしれない。
 
 そして、そのような謎の存在に気づかせてくれるものを、真の意味での宗教解説書と呼んでいいだろう。
 
 宗教によって 「世界が見える」 というのなら、そこで見えてくる世界は、そのようなものでなければならないはずだ。
 
 
 関連記事 「宗教書ブーム」
   
 参考記事 「荒野のディラン」
 
 
 

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宗教がわかれば世界は見えるか? への4件のコメント

  1. s-_-s より:

    私はイエスや釈迦等の大宗教の創始者と現代の新興宗教の教祖は一体どこが違うのか(或いは違いなど無いのか)疑問に思っております。
    新興宗教、カルト教団の教祖は、町田さんがご指摘された「人間」のような新しい視点を提示していない。例え提示していても広く社会に受け入れられない、または認められるまで数百年かかる。対する世界宗教も、教団幹部の経営手腕で現在の地位を築き、さらに芸術を取り込んで箔が付いただけかもしれない。
    いずれにせよ、かつて「神を殺した」ほどの権勢を誇った科学も前世紀程の説得力を失いつつある今、人々は宗教に回帰するかもしくは何かよすがとなる旧来にはない存在を探しているのかもしれません。その一端として、社会は池上さんに預言者のような役割を期待してしまっているのかもしれません。

    • 町田 より:

      >s-_-s さん、ようこそ。
      しっかりしたお考えが込められたコメントなので、 「そうだよなぁ」 と、何度もうなずきながら拝読しました。
      おっしゃるように、キリストや釈迦のような世界宗教を開いた開祖たちは、ものすごく大きなヴィジョンを持っていたことは確かなことでしょうね。
      たぶん、それは、自分たちが暮らしている世界の “外” に立つ視線を持っていたからだろうと思います。
       
      自分たちが暮らす世界の “外” に立つということは、自分一人の力では無理なわけで、常に、ともに語る誰かを必要とするわけですね。
      キリストにも、釈迦にも弟子がおりました。孔子にもソクラテスにも弟子がいました。
      キリストも釈迦も、まずその弟子たちに語り、その弟子たちとの 「対話」 を通じて、遠心力の働く範囲をどんどん拡大していったように感じます。
       
      考えてみると、キリストも釈迦も、そして孔子もソクラテスも、けっきょく自分では何一つ書いたものを残していないんですね。
      今残っている “聖典” のようなものは、すべて弟子たちが、開祖との対話の備忘録のような形で残したものばかりです。
       
      そのことは、何を意味するかというと、真理というものは、個人の内面にあるものでもなく、人から教えられるものでもなく、常に 「他者」 と 「他者」 との “間” にしかないということを、彼らがよく知っていたからなのではないでしょうか。
       
      だから 「対話」 を失ってしまった思想や宗教は、一部の幹部たちの独断で終わるだけで、やがて、その生命力を失ってしまうような気がします。
       
      池上さんも、この本では 「対話」 を重視されようとしています。
      それは自分の意見を一方的に主張することよりも大事なことかもしれませんね。
      “預言者” のような役割を果たせるかどうか分かりませんが、少なくとも、そこに誠意を感じます。
       

  2. ムーンライト より:

    この本、夫が購入し私に貸してくれました。
    「読みたかったのよ!」とその時言いましたし、本当にそう思っていました。
    大木先生講演の件で忙しかったのでまだ読んでおらず、読んでみようとは思っているのですが、
    講演をとおして「てっとりばやいこと」というのは無いという気がしました。

    今回の講演。
    こちらでは大木先生はあまり知られておらず、講演関係者も?という感じだったのですが、
    大木先生をひと目みるなり態度がかわりました。
    人生の厚みのようなものがにじみ出るのでしょう。
    凄いものだと思いました。

    「すぐわかる」とか「これ一冊で」のようなタイトルを見るとつい手に取りますが、どんなものなんでしょうね・・・。

    • 町田 より:

      >ムーンライトさん、ようこそ。
      大木トオルさんの札幌講演会、成功のうち終わったようですね。
      本当に良かった!
      ムーンライトさんも、お疲れ様でございました。
       
      「人に感銘を与える」、「人に考えるきっかけを与える」 というのは、何も宗教だけに限ったことではないのかもしれません。大木さんのような活動もまた、立派にその務めを果たしているように感じます。
       
      池上彰さんの本は、よく練られた企画であるように思います。
      確かに 「すぐわかる」 とか 「これ一冊で」 という最近流行りの新書版を売り出すときのスタイルを貫いた本ですが、さすがニュースキャスターを務められていた池上さんらしく、それぞれの専門家の方から、上手にお話を引き出しておられます。
       
      ただ、もう少し 「宗教」 というものを突っ込んで考えたいという人には、物足りない部分もあるかもしれません。あくまでも、概括の範囲を出ていませんから。
       
      それでも、 “入門書” と考えるならば、読者が自分の研究テーマを選び出すときの良い “羅針盤” になるのではないでしょうか。
       
      急ぐ必要はない本だと思います。
      ネタとして、緊急性のあるテーマでもありませんから。
      むしろ、時間のあるときに、ゆっくり読まれるといいかもしれませんね。
       

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