宗教書ブーム (ふしぎなキリスト教)

 
 3・11 の大震災後、「日本人の意識構造が変わった」という話題になると、必ず「人々の結婚願望が強まった」という話が出る。
 気楽な独身生活を謳歌していた人々が、震災時に一人でいることの不安に耐えかねて、寄り添う伴侶を求めるようになったからだ、という。
 
 それと、もうひとつ。
 「宗教に関心を持つ人が増えた」という指摘も聞くようになった。
 
 それが、どのような形の関心なのか、よくは分からないが、確かに書店などを見回っていると、宗教を解説しているような書籍がやたら目立つ。
 
 いま話題になっているものだけ拾ってみても、
 『ふしぎなキリスト教』 橋爪大三郎 & 大澤真幸
 『池上彰の宗教がわかれば世界が見える』 池上彰
 『聖書を語る』 佐藤 優 & 中村うさぎ
 『聖書男(バイブルマン)』 A・J・ジェイコブズ
 …… 等々。
 
 上記の本は、いろいろな媒体に書評が掲載されており、実際に書店でも平積みになっていることが多い。
 そして、なぜか、キリスト教関係の本が目立つ。


 
 いったいどういうことなのだろう?
 
 「想像を絶するような災害に出遭い、今までの生活感覚では処理できない “魂の問題” に、みなが向き合うようになった」
 
 そう説明されると、なんだか分かったような気分になる。
 実際に、『聖書を語る』という本には、「宗教は震災後の日本を救えるか」というサブタイトルが添えられている。
 
 しかし、こういうキリスト教解説書ブームは、必ずしも3・11 の大震災をきっかけに生まれたとは限らない。
 
 『1968』 という全共闘運動を総括する壮大なレポートを書いた小熊英二氏は、
 「重大な事件をきっかけに現れた現象は、実は、その前から静かに潜行していた構造変動が、その事件によって、たまたま加速されただけ」
 という。
 
 そう考えると、現在のキリスト教に対する人々の関心は、3・11 がきっかけになったというよりも、むしろ、その10年前に起きた 9・11 以降の世界情勢の変化が影響しているのではないかと思えるのだ。
 
 9・11同時多発テロは、世界の冷戦構造が崩壊した後の「新しい紛争」の形を提示した。
 ソ連邦の解体は、それまで「共産主義イデオロギー」の一元支配によって押しつぶされていた様々な民族や文明を解放した。
 
 そのとき、宗教も解放された。
 それまでソ連の統制下に置かれた旧イスラム文化圏の地域では、共産主義イデオロギーが衰弱していくにつれ、その土地の “地” の部分に根を張っていた「イスラムの大義」が復活するようになった。
 
 そうなると、広くイスラム文明圏に生きる人々にとって、 “共通の敵” が見えてくるようになる。
 
 その “敵” が、経済運動としては「グローバリズム」といわれるものであり、政治的には、イスラム諸国と敵対するイスラエルを擁護するアメリカであり、宗教的には、アメリカに代表されるキリスト教国家であった。
 
 このような冷戦以降の新しい対立構造を象徴的に示したのが、あの9・11 だった。
 
 それから先は、日本人には分からないことばかり起こるようになった。
 
 まず、自らの身体を “武器” にして、敵対する宗教の施設や人民を大量殺戮に追い込むイスラム原理主義者たちの「自爆テロ」。
 そして、そのようなゲリラ勢力を、最新のロボット兵器などを使って、ゲーム感覚で掃討するアメリカ軍。
 
 一時、連日のようにメディアを通じて流されたこれらの血なまぐさい事件は、多くの日本人の理解を超えた。
 
 「本来なら、人間の幸せを祈るはずの宗教が、なぜそのような無慈悲で非寛容な行為をお互いに許すのか?」
 
 キリスト教にもイスラム教にも与さない多くの日本人にとっては、このような殺し合いが生じる根本原理を理解することができなかっただろう。
 
 もともと、キリスト教もイスラム教も、同じ “根” から発生している。
 イスラム教は、それに先行するユダヤ教やキリスト教の教義を、深く咀嚼することから始まっている。
 乱暴に言い切ってしまえば、両者の信者に敵対感情が発生するとしたら、それは近親憎悪のようなものだ。
 
 だから、多くの日本人には、そのどちらの宗教を信じる人たちの感情も、 “等しく” 理解できない。
 その「理解できない」という根底的な疑問ないしは違和感が、キリスト教やイスラム教のような、われわれとは異質な風土で生まれた “一神教的な世界” を知りたい …… という衝動をうながしたように思う。
 
 しかし、3・11 までは、海外の宗教対立はまだ「対岸の火事」だった。
 自国が平和ならば、他国の紛争は、ただの “ニュース” でしかない。
 それが、今回、自分たちの生命圏を脅かされるような震災を経験をすることによって、人間の生命すら奪いかねない宗教というものの怖さが、他人ごとではなくなってきたのだと思う。
 
 それと、もうひとつ。
 今回の震災で、われわれは、近代文明の成果として信じてきたものが、ことごとく崩壊するという事実を目(ま)の当たりにした。
 
 耐震構造を考慮して緻密に設計されたはずの近代建築も、防潮堤も、「想定外」の規模を持つ地震や津波にはまったく歯が立たないことが分かった。
 「絶対に安心」といわれてきた原子力発電所も、あっけなく投壊した。
 
 技術水準の粋を極めたはずの最新テクノロジーが無力であったという事実。
 そのテクノロジーを支えてきた近代科学に限界があったという認識。
 
 それが、われわれの信頼してきた現代文明の脆さを気づかせるきっかけとなった。
 
 何を隠そう、この現代文明を根本から支えてきたのが、実はキリスト教であったのだ。
 明治以降、日本人が積極的に取り入れてきた科学やテクノロジーは、すべてキリスト教文明圏から生まれてきたものである。
 文学や思想もそうだ。
 日本人は、その持ち前の器用さと勤勉さで、キリスト教起源の文化をすべて自分たち流に咀嚼し、より使いやすい形に変えてきたけれど、その骨組みは「欧米」のキリスト教徒たちが考え出したものに過ぎない。
 
 そのことを、多くの日本人は忘れていた。
 
 そして、自分たちの信じていた科学的合理主義の何たるかを、今回の震災で、原点に戻って考え直さなければならなくなった。


 
 われわれが、無意識のうちに、当たり前として受け取っていた西洋文明。
 それが、何に根ざしたものであったのか。
 『ふしぎなキリスト教』という本で、その前書きを担当した大澤真幸氏は、次のように書く。
 
 「 『われわれの社会』を、もっとも基本的な部分でとらえれば、それは『近代社会』ということになる。
 近代というのは、ざっくりいってしまえば、西洋的な社会というものがグローバル・スタンダードになっている状況である。
 その西洋文明のアイデンティティを基礎づける中核にあるのが、キリスト教だ。
 近代化とは、そのキリスト教に由来するさまざまなアイデアや制度を、西洋の外部にいた者たちが受け入れてきた過程だった。
 しかし、日本だけは、あまりにもキリスト教とは関係のない文化的伝統の中に居続けた。
 つまり日本は、キリスト教についてあまり理解しないままに近代化してきた。
 そして今、近代社会が大きな困難にぶつかったとき、その近代が抱えた困難を乗り切るには、西洋を相対化して、その西洋を形づくってきたキリスト教を理解することが必要になるのではないか」
 
 たぶん、3・11 以降、このような認識を、おぼろげながらも多くの日本人が支持し始めたのではないか、という気がしている。
 
 この本では、われわれ日本人にとって最大の疑問、すなわち、近代科学の見地とは、およそ相容れないキリスト教的な世界観を持つ民族が、なぜ、今日のような科学的合理主義を手に入れるようになったのか、という問題に触れている。
 
 聖書では、「世界」は神によって創られたことになっている。
 そこには、ビッグバン説も進化論も存在しない。
 「地球が太陽の周りを回っている」 と説いたガリレオ・ガリレイは、宗教裁判で異端者として告発され、生物の進化を研究したダーウィンは、保守的なキリスト教徒から批判を受けた。
 
 そのような逸話を知識として蓄えているわれわれは、近代科学は、宗教的な迷妄から脱皮することによって成立したと思いがちになる。
 
 しかし、『ふしぎなキリスト教』では、そのような現在の自然科学的な発想こそ、実はキリスト教的世界観から生まれてきたものに過ぎないことを明かす。
 
 すなわち、「神がこの世を創ったその真意を知るためには、神の創った自然をしっかり研究しなければならない」という、キリスト教徒特有の情熱が、近代の自然科学を練りあげていったのだという。
 
 そのとき、人類にとって不可思議で謎に満ちた「自然」を解くヒントが、彼らに与えられる。
 それは、
 「神が完璧ならば、神が創った自然も完璧であるはずだ。完璧であるということは、合理的であるということだ。神の思考に近づくには、まず人間が合理性を獲得しなければならない」
 という信念が、キリスト教徒に与えられたということである。
 
 このような話を聞くとき、私は、いつも、太平洋戦争の暗号解読競争で、なぜ日本は破れてアメリカが勝ったのかという話を思い出す。
 それは、「合理性」というものに対する、日本とアメリカの信念の違いであった。
 
 なにしろ、作戦計画にもとづく戦略の伝達は、敵にもっとも知られてはならない重要機密である。
 だから、それを守るための暗号化には、その国の最高の知性が結集することになる。
 日米両国の暗号解読は、いわば知性と知性の格闘だった。
 
 どちらの暗号も巧妙に作られていたために、最初の頃は、双方とも解読作業はなかなか進まなかった。
 しかし、先に解読に成功したのは、アメリカだったという。
 
 なぜ、そうなったのか?
 
 彼らには「信念」があったからだ。
 つまり、
 「この世を創ったのは神である。神は、この世を完璧に合理的に創ったが、神のしもべである人間には、神を超えるものを作れるはずがない。人間の作ったものには、どこかでボロが出る。つまり、人間の作った暗号が解けないということはないのだ」
 
 彼らは、そういう強い信念にもとづき、粘り強く、日本軍の暗号解読を進めた。
 その粘り強さにおいて、日本軍は負けたという。
 
 この話を聞いたとき、われわれと一神教の連中とでは、何か、人間の “つくり” の根本的な部分が違うような気がした。
 知識や教養として “上っ面” をなぞっただけのキリスト教理解など、何の役にも立たないと思った。
 
 たぶん、そんなことを感じていたのは、私だけではないと思う。
 今、私は、キリスト教が何であるか … というか一神教的な文化風土とは何であるのか、もっと知りたいと思っている。
 
 キリスト者としての信仰の道に入れば、それが分かるのか?
 そういうことでもないだろう。
 
 『ふしぎなキリスト教』の著者の一人である大澤真幸氏は、
 「一神教の神とのコミュニケーションとは、すなわちコミュニケーションの不可能性のことをいう」
 と、何度もいう。
 
 私にとっては、大事な言葉である。
 
 それは、人と人とのコミュニケーションの手法が通じない不条理な世界を、どう受け止めるか、という問題でもある。
 言い換えれば、 「この世の条理からはみ出た “超越的なもの” の気配をどう感じるか」 ということである。
 
 考えてみれば、もっとも合理的な世界観が、なぜ非合理の極致のように思える宗教から生まれるのか。
 これに勝る不条理はない。
 そこには、とんでもない何かの “飛躍” があるはずだ。
 
 だから、私にとって、その “飛躍” に思いをめぐらすことは 「文学」と「アート」の領域に踏み入ることとなる。
  
 
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宗教書ブーム (ふしぎなキリスト教) への4件のコメント

  1. 林 孝信 より:

    こんにちは。
    初めてコメントいたします。

    3.11で皆が気づいたのは、いざと言う時にはお金なんか結局何の役にもたたないということではないでしょうか。
    日本人の大多数は無宗教なのではなく、お金を崇拝しているからです。
    でもその信頼が揺らいだら何に向かうのか、それでキリスト教が浮かんできているのだと思います。
    なぜ仏教に向かわないかというと、皆がそうではないと思いますが、日本の仏教はお金絡みで汚れていることを知っているからだと思います。
    キリスト教だってお金絡みでないわけはないのですが、よく知らないからそちらへ向かうのではないでしょうか。

    もう一つの可能性として、日本には既に古いキリスト教が伝わっていて、それが無意識化に刷り込まれており、それが3.11を契機に揺り動かされているのではないかという点です。
    日本の神社の構造はキリスト教の幕屋そのものだと言いますし、天照大神の天の岩戸隠れも、解釈によってはキリストの死と復活を表しているそうです。

    どちらが正しいかは分かりませんが、人間は何かに依らなければ生きられないということは確かなようです。

    • 町田 より:

      >林 孝信さん、ようこそ。
      こちらこそ、はじめまして。
       
      >「3・11で気づいたのは、いざというときはお金など役に立たないということではないでしょうか」
       
      なるほど。それは確かにそうでしょうね。
      特に、津波などの災害で、家も何もかも流されてしまった方々は、悲しい体験と引き換えに、「お金で買えないものの価値」 に直面されたでしょうね。
       
      ただ、別に “お金を崇拝” していなくても、宗教に関心を深めていく人は昔からいるようです。
      やっぱり、その人の 「心のドラマ」 みたいなものが、そこには反映されているように思います。
       
       >「日本の神社の構造がキリスト教の墓屋そのもの ……」
       >「天照大神の天の岩戸隠れも、キリストの死と復活 ……」
      ここらあたりになると、ちょっと不勉強なので、なるほど … そういうものか … という気もしないではありません。
      ただ、いろいろな民族の神話には、ひとつの共通した定形パターンを持つという説もあるようですから、おっしゃるように、どちらが正しいのかは分かりませんね。
       
      >「人間は何かに依らなければ生きていられない」 というのは、まったくその通りだと思います。
      コメントありがとうございました。
       

  2. よしひこ より:

    おじゃまします。
    このエントリは以前に読んだ時も、今回読み直しても同感するところが多いです。『ふしぎなキリスト教』(2011年発行)が多くの読者を獲得したのは、震災が直接の理由ではないですよね。つまり、そういう流れは既にあったと。具体的な現象としては、前年の2010年春に出た雑誌「Pen」のキリスト教特集が好評で、その年末に第二弾も出たのが自分には印象的で、翌年『ふしぎなキリスト教』が売れたのもふしぎではなかったです。個人的にも「待っていたよ、こういう企画」という感じでした。

    キリスト教の「解説本」が売れるという背景は、現代日本人が、なぜ我々は今このようにあるのか?と自問した時に、その答えを日本的伝統の中に求めるよりは、西洋の歴史、その基礎にあるキリスト教の理解が必要だと、一般人のレベルで意識されるようになったからではないでしょうか。(といっても結局自分が基準。苦笑)

    なぜそのように意識されるのかと言えば、一番単純に考えて、明治維新から相当な時間が過ぎて、日本は充分に近代西欧化されたから。自分が子供の頃に「明治100年」と言ってましたが、あと3年で「明治150年」です。これだけの時間が過ぎたことにより、充分に西欧化された現代の日本人は、もはや日本の伝統にそれほどリアリティを感じていないと思われます(やっぱり自分が基準。苦笑)。例えば、あらためて「和」のこころを知るというのか、日本的慣習や伝統の意味を、テレビの情報番組等で学び直さないと了解できなかったりするし。もちろん西欧に完全に同化したわけではないにしても、衣食住の生活習慣が隅々まで西欧化されて、現実に資本主義や主権国家、近代科学をベースとした文明の中に生きる現代日本人が、その文明を生み出したキリスト教(的な思考)に関心を向けるのは当然の筋道のような気がします。言い換えると、明治以来「和魂洋才」で突っ走り、西洋文明を取り込むことにあくせくしていた日本人がここにきてようやく、洋才の根っこにある「洋魂」がまともに気になってきたのかな、という感じです。

    これはまた別の面から見ると、今や良くも悪くも充分に近代西欧化した日本人は、日本の伝統も西洋文化の基礎も、どちらも実感に乏しいまま頭で理解しなければならないという感じもするので、何とも微妙な立ち位置にあるなあとも思われるのです。

    • 町田 より:

      >よしひこ さん、ようこそ
      おっしゃること、私も全面的に共感いたします。

      やはり、日本人の精神構造を、「和の精神」(聖徳太子)や、「中空構造」(河合隼雄)、「無の哲学」(西田幾多郎)などという視点で解析しても、それによって浮き彫りにされる日本の特殊性をはるかに凌駕してしまうほど、明治維新後に導入された「西洋近代哲学」の影響が大きいとなれば、そのバックボーンとなるキリスト教と真剣に向き合ってみようという意識が日本人に生まれてくるのも当然かと思います。

      逆にいえば、江戸時代までの「伝統的日本文化」に対する関心は、日本人の西洋化の過程において、新たに見出されたテーマだったのかもしれませんね。

      でも、面白いな、と思うのは、東洋文化圏に属する国のなかで、これほどローカルな自国文化と西洋文化を比較して眺めようとする国は、日本だけではないでしょうかね。
      中国のような4000千年の歴史を持つ大国は、生活様式が西欧化されても、基本的には中華帝国の優位性を信じているようだし、韓国も、政治や文化において自国の正当性を疑っていないように思われます。
      日本だけが、おっしゃるように >>「日本の伝統に対しても、西洋文化の基礎的な部分に対しても、どちらも実感に乏しいまま頭で理解してきた」という過程をたどってきたように思います。

      でも、その中途半端さが、逆にいえば日本文化の “しぶとさ” であるのかもしれません。
      これは精神科医の斎藤環氏が言っていたことですが、
      「日本人は外来文化を何の抵抗もなく受け入れるが、いつのまにかそれを土俗的な日本文化の中に溶解してしまい、平気な顔をして “外国かぶれ” を楽しんでしまう。でも、その底に流れる土俗的なエートスは古来より一貫して変わらない」
      というのです。

      早い話が、カタカナ表記にされる外来語。
      外来語として導入された言葉は、一見元の国で流通している発音に近いものとして流布し、まるで新しい言葉が導入されたような形を取るが、表記そのものはあくまでも日本語であり、従来の日本語の文脈からはみ出すことなく、あっけらかんと流通してしまう。

      この無節操さが、日本的文化の特徴のような気もいたします。
      そして、無節操だからこそ、欧米から「主体性がない」とか「猿まね」などといわれつつも、欧米の得意分野だったカメラや自動車などの分野で産業的優位を勝ち得たのかもしれません。

      >>「何とも微妙な立位置にいる」日本人ですけど、そのことに自覚的であるならば、そこからまた新しい発想が生まれてくる可能性もあるように思えます。
       

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