人間の条件

 
 NHK・BS放送で、 「山田洋次監督が選んだ日本の名作100本」 というシリーズを放映している。
 見逃してしまった昔の名作映画を観る意味で、ありがたい番組である。


 
 さっきまで、その中の 『人間の条件 第3部望郷篇』 (小林正樹・監督/仲代達矢・主演) を観ていた。
 第二次世界大戦のさなか、当時の日本が、どのような形で人々の 「人間性」 を損なうような戦争を遂行していったかという過程が、まさにドキュメントタッチといえるほどリアルに描かれている。
 
 原作は、五味川純平。
 旧満州で、製鋼所の社員として働き、軍隊に召集されてソ連国境を転戦し、捕虜生活を送ったという作者の体験が、そのまま生かされているという。
 
 その小説を基にした映画が公開されたのは、1959年。
 私は、まだ9歳だった。
 母に連れられて、吉祥寺の映画館でこの第3部 「望郷篇」 というのを観ている。
 
 当時の私に、この映画のテーマが理解できたとは思えない。
 ただ、おそろしく重苦しく、かつ恐ろしい映画であったという記憶はずっと残った。
 旧帝国陸軍の 「軍隊」 という組織が、いかに理不尽で非人間的なものであったかということは、ほぼこの映画で知ったように思う。
 
 その後、昭和初期の日本軍が、いかに無意味な精神性ばかり強調した奇怪な組織であったかということを、いろいろなところで見聞きするようになった。
 今なら、それは、戦局観の稚拙さ、兵站戦略のお粗末さ、兵器に対する認識眼の貧弱さなど、理詰めの部分でいくらでも批判することができる。
 
 しかし、その奇怪な 「組織」 の中で、人間がどのような受苦を経験したかということは、やはり理屈だけでは分からない。多大な誇張があるにせよ、この映画は、そこのところでひとつの 「真実」 を提示しているように思う。


 
 ただ、今回久しぶりに観て、少し複雑な気分になった。
 「人間」 という言葉についてである。
 
 私は、一時、 「人間」 という言葉を振りかざして、それを抑圧する (と思われる) すべての政治や思想を糾弾する考え方にかなり懐疑的になっていた時期がある。
 
 その言葉を振りかざすことで、 “錦の御旗” を打ち振るように、あらゆる敵対者をヒステリックに断罪する考え方に、どこか馴染めないものを感じていたのだ。
 
 「人間」 さえ “味方” につければ、何を言ってもいいのかい?
 という敵対心すら抱くことがあった。
 
 つまり、そこにイデオロギーの匂いを嗅いだ。
 旧左翼思想家がよく使っていたロジックの欺瞞性を感じた。
 自説の正当性を、 「人間」 という “誰にも反論できないような概念” の力を借りて主張することの傲慢さが、鼻持ちならなかったのだ。
 
 そういう気分というのは、たぶんに70年代以降の新しい思想潮流の中から醸成されてきたようにも思う。
 「“人間” という概念は、太古の昔から普遍的に流布していた概念ではなく、近代合理主義の中から生まれてきた比較的新しい概念で、相対的な価値観にすぎない」
 などという言説が、まことしやかに語られていた時期があった。
 そういう時代の気分が、いまだに私の中にくすぶっていないわけではない。
 だから、今回この映画を観て、あまりにも無邪気に 「人間」 を振りかざす脚本に、多少辟易 (へきえき) したことも、正直に書く。
 
 しかし、途中から、 「でも、やはり “人間” は大事だ」 と思い直した。
 
 「人間」 という言葉が何を意味するかなど、議論していても何も始まらない。
 その言葉がどのように使われようが、旧軍隊のように、人の命を軽く扱い、人のプライドをずたずたに切り裂く 「組織」 が当たり前のように機能していた時代があったとしたら、それに抵抗するために、 「人間」 という言葉にすがるのは当然ではなかったか、と思い直したのだ。
 
 この映画に対して、左翼イデオロギーに毒された自虐史観の映画と批判する声も耳にした。
 満州を支配下に置いた日本軍と、日本企業の醜悪な部分だけを誇張しているという。
 しかし、それは皮相的な見方にすぎない。
 
 映画というものは、そこで語られるセリフ、そこで描かれる映像だけで判断するものではない。
 そこに 「時代」 を読み、映画として語られなかった部分を読み取る力も要求される。
 
 たとえば、司馬遼太郎は、戦車兵として満州で戦い、日本軍戦車の設計思想の劣悪さから、当時の日本軍の人命軽視の戦略やコスト意識の希薄さを鋭く見抜いている。
 
 日本の誇る零式戦闘機だって、(私は大好きだけど)、人命軽視とコスト意識の希薄さにおいて (つまり優秀なパイロットを維持するのにどれだけのコストがかかるのかという計算が不足していたという意味で) 、真に優秀な兵器とは言いがたい。
 この映画は、そういう総合的な知見の上で語られねばならない。
 「自虐史観」 と断定する人たちは、そういう力の足りない人たちなのだろう。
 
 旧日本軍の戦略的稚拙さを分析する言論は、今はどこにでも流布している。
 しかし、その組織内にいた人々が、どのような生き方を強いられてきたかという証言は、時代を経るごとに乏しくなっていく。
 フィクションとはいえ、この映画は、その一端を後世に残す意味でも、貴重だ。
 
 

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人間の条件 への9件のコメント

  1. FLAKPANZER より:

     初めまして、FLAKPANZERと申します。
     人間の証明などの古い映画の評価と実際の帝国陸軍の思想とは随分かけ離れていることが、近年明らかになっております。

     零戦(海軍ですが)に防弾装備が無いのは、エースパイロット専用の特殊な艦上戦闘機であったからで、本来量産されるべき局地戦闘機雷電では十分な防弾装備が施されております。
     零戦と同期の陸軍機である隼は、初めから十分な防弾装備が施されており、以降も逐次強化されております。

     戦車についても、97式中戦車の装甲は同期の他国戦車より厚いくらいです。ノモンハン事件で対決したソ連のBT-5は13mmしかありませんが、97式中戦車は25mmあります。
     戦車砲もあくまで当時は対歩兵用の砲を搭載するのが常識で、BT-5の45mm砲も歩兵砲として搭載しています。
     その後、日本が新型戦車を配備しなかったのは、単に航空機に資源を重点配分したからです。

     白刃突撃にしても、国力の限界から銃砲弾の補給が続かない中での継戦を考えたからです。

     全ては日本国民の出来もしない要求(中国たけでなく米国を含む対外戦争に勝って、国内問題を転嫁、解決する)に答える事や、当時の日本社会に根差した原因によるものと考えられます。

    • 町田 より:

      >FLAK PANZER さん、ようこそ。
      こちらこそはじめまして。
      私は近代戦の軍事的な専門知識にはあまり詳しくない者ですから、FLAK PANZER さんからお寄せ頂いた情報は非常に勉強になるものでした。それに関しては、素直に御礼申し上げます。
      しかしながら、 (失礼な言い方になるかもしれませんが) FLAK PANZER さんの兵器の構造分析には、やはり欠けているものがあるように思います。
       
      まず、零戦に関してですが、> 「エースパイロット専用の特殊な艦上戦闘機であったから、防弾装備が薄くて良い」 という理由はいったいどこにあるのでしょう? 零戦のライバルであったグラマン・ワイルドキャット、ヘルキャットも同じように艦上戦闘機ではなかったですか?
      この両者の違いは、やはり 「人の命」 をどう考えるかという点にあったように思います。
      別に、ヒューマニズムがどうのこうの … というつもりはありません。結局は、エースパイロットの教育と維持にどれだけコストがかかるかという算出方法の問題です。
      両者の違いは明瞭で、グラマンの方は、装甲の厚さと火力強化に重きを置き、その運動性能の劣化を防ぐために馬力アップで補いました。
      従って、グラマンのパイロットは撃墜されても生き残る率が零戦よりも高く、再び戦線に復帰できる者もいました。
      一方、零戦は続距離を伸ばし、旋回性を優先させるために装甲を薄くしましたが、被弾してしまえば操縦士が生き残る率も低く、優秀なエースパイロットが死んでいくにつれ、戦闘継続能力も徐々に減少していきました。
       
      また、局地戦闘機 「雷電」 や陸軍機 「隼」 は十分な防弾装備がなされていたとしても、それが活躍できる現場はどれだけあったのでしょう? 大東亜戦争の主戦場が圧倒的に太平洋であったことを考えると、それらの兵器を配備する基本戦略において、すでにアメリカに劣っていたと言わざるを得ないのではないでしょうか。
       
      また、戦車戦においても、同じようにノモンハン事件の終盤に投入された日本軍戦車 (89式) 装甲の厚さと火力においてソ連軍戦車隊にかないませんでした。ご指摘のように、その後に投入された97式においては、ようやく世界水準に達する装甲と火力を装備することができましたが、それが誕生した頃には、アメリカ、ドイツ、ソ連ともどもが戦車開発競争の第二段階に入っていたために、たちどころに旧式になってしまいました。
       
      もともと、生産力の乏しかった日本が、戦車のような高コストのものを造ってしまったのが間違いだったのかもしれません。それよりも、日本が優秀な航空機を造れるのだったら、戦車の5分の1のコストですむ航空機生産の方に回すべきだったように思います。
       
      しかし、大事なことは、そのような兵器の構造比較ではないように思います。
      最大の問題は、なぜ日本はあのような戦争を始めてしまったのか。それを止める方法はなかったのか、ということです。
      FLAK PANZERさんは、> 「人間の “証明” (← “条件” だと思いますが) などの古い映画と実際の帝国陸軍の思想とは随分かけ離れていることが、近年明らかになっている」 とご指摘されていますが、それはいったい、どなたがそのような分析をされたのでしょう?
      たぶん、そのような説と同じくらいの量で、それと対立する説や主張も新しく生まれているはずです。
       
      帝国陸軍の思想がどうであるかなどということは、実はどうでもいいことです。
      それよりも大事なことは、FLAK PANZER さんご自身が、あの戦争をどう評価し、そこから何を感じられたかということです。
       
      >「国力の限界で銃弾の補給が続かないために、白刃突撃はやむを得なかった」とお考えになるのなら、そのような戦略を取らざるを得なかったあの戦争自体を、どう評価されるのか。そこのところを棚にあげて、兵器だけの性能比較をすることは、あまり意味がないように思うのですが。
       
      失礼な書き方になってしまっているとしたら、申し訳ございません。お許しください。
      ただ、同じキャンカー乗りとして、FLAK PANZER さんとは連帯できるような気がしています。
      お気を悪くされなかったら、またお越しください。
       

  2. FLAKPANZER より:

     私としては、当時(だけではないかも知れませんが)の日本人は、要約すれば「厨房」であったと理解してます(マッカーサーみたいですが)。
     日清、日露戦争で慢心して、第1次大戦で戦勝国の加わったことで、国際社会での地位が向上したと勘違いしたという事でしょう。
     一人一人の思いは色々あったかも知れませんが、社会全体としては思い上がっていたという事だと考えています。
     大正時代には、軍人が制服を着て街を歩くと馬鹿にされるという時代でした。
     そこから、あの時代になったのは何故だったのか?
     何故、三国干渉の後の様に臥薪嘗胆しなかったのか?
     その間、日本人は何をやっていたのか?
     今語られている多くの説は、後知恵が多いです。
     当時の制約条件下で、何ができたかを考えて頂きたいと思います。
     戦艦大和は無駄の象徴のように言われますが、あの時期日本は「たった」2隻しか戦艦を作っていませんが、アメリカは10隻、イギリス、フランスは戦後になって戦艦を就役させていますが、馬鹿呼ばわりされていません。
     隼は東南アジアで十分すぎる活躍をしていますし、雷電も航続距離ではそこまで酷くはないですし、計画された昭和14年ごろにラバウルからガダルカナルまで攻撃に行けということが想定できたでしょうか?
     当時は、日本近海に「攻めて」来る、「優勢な」アメリカ艦隊をどう「凌ぐか」が課題だったはずです。
     日本人は自らの判断と責任を忘れすぎです。

    • FLAKPANZER より:

      追伸です。
       零戦については、特殊作戦機であったにも関わらず、戦局に適合しすぎたのが悲劇としか言いようがありません。当時の技術(今でもそうでしょうが)で戦艦の上空を10時間守り続けろと言われれば、ああいう設計になるでしょう。

       戦車にいたっては、日本が開発できた事自体が奇跡に近いです。
       97式中戦車が登場した当時の1937年頃って、アメリカはM2中又は軽戦車、イギリスは巡航戦車Mr.1及び歩兵戦車マチルダ1(機銃のみ)」、ドイツは1号戦車、フランスはR35 、ソ連はBT-7やT-26です。
       こう見ると、まともな自動車産業も無い東洋の片田舎の国が、世界情勢に良く付いて行けたというか、先に進んでいたと、感動すら覚えます。

      • 町田 より:

        >FLAK PANZER さん、ようこそ。
        コメントと同時に、FLAK PANZER さんのHPも拝読し、FLAK PANZER さんがどのように太平洋戦争下の日本の軍備を評価されていたのかを理解いたしました。それに対しては、まったく異論もありません。
        また、>「日清・日露戦争で慢心して、第一次大戦で戦勝国に加わったことで、国際社会での地位が向上したと勘違いした」 という分析にも納得がいきました。
         
        ただ、「戦争」 に対する評価や解釈を、軍事技術論の面から語るという習慣が私にはなかったので、FLAK PANZER さんの説明をどう受け止めたらいいのか、正直、戸惑いがあります。
         しかし、いい勉強をさせていただいたと思いましたので、今後ともよろしくお願い申し上げます。
         

  3. 名無しさん より:

    はじめまして~ ブログ記事を読んで共感しました。

    映画「人間の條件」を見ていろいろ思うところはあるのですが、私が最も強く感じた/考えたのは、「映画表現(主に映像を主役としたフィクション)がヒトに及ぼす影響」でした。「映画を見て、何かを感じる、何かを思う(思い込む)」という強烈な体験は、「映画は娯楽だから」だけでは済まされない人間の理性と感情に強く訴える「ヒトに影響を及ぼす手法」でもあるのだな~、などと思い、少し怖くなりました。薬剤(おくすり)と同じで、「効用はあるが、当然ながら副作用もある」のですよね。

    • 町田 より:

      >名無しさん、ようこそ
      こちらこそ、はじめまして。

      おっしゃること、非常によく分かります。
      ≫「映画は、人間の理性と感情に強く訴えかけ、人の考え方・感じ方に影響を及ぼすことがある ……」
      そのとおりですね ! 

      小説でも、アニメでも、テレビドラマでもそうかもしれませんが、そのなかでも、映画は「総合芸術」といわれるだけあって、役者の演技、音楽なども絡んで、とにかく人間の情感をゆさぶる力が大きいように思います。

      だから、巧妙に作られた映画の “ウソ” にコロリと騙される人も出てくるわけで、名無しさんがおっしゃるように、「薬のように効用もあるが、副作用もある」ということになるのでしょうね。

      でも、私は、映画の “素晴らしいウソ”に騙されてみたい、という気も、少しはあるのです。
      というのは、昨今、あまりにもネタがすぐバレたり、で、バレるともう面白みが半減するような映画があまりにも多いような気がして。
       

  4. 結城右京 より:

    初めまして、ブログをいつも拝見しております・・。

    「兵隊やくざ」などでも描かれたように、年期の少ない上等兵より古兵の二等兵・一等兵のほうが遥かに威張っているのが旧日本軍の特徴で、初年兵を人間的に扱う梶は当然古兵たちに目の仇にされるが、いざ戦闘となれば梶自身が言うように彼のような正義感の強い人間が一番頼りになり、古兵たちの中には終盤ソ連の戦車隊に攻め込まれて発狂する者さえいる始末です。
     普段は威張り腐った古兵の惨めな様は皮肉っぽくて興味深い一方、攻め込んでくる
    森林の中で蛇やかたつむりを食べ、弱い者は置いていかざるを得ない逃避行の凄まじさ。圧倒され言葉にならない。好戦的な最近の若者はこれをどう見るのか。

    第六部、敗残兵と合流した彼らは何とか日本人の開拓村に到着するが、ソ連軍が検閲に訪れた際に村人の安全を考えて投降する。

    捕虜になった梶が見るのはロシア人より、ゴマをすって保身に走る特権を持つ捕虜たちの非道である。慕って来る寺田を死に至らしめた桐原伍長(金子信雄)を殴り殺して脱走、妻・美千子(新珠三千代)を思いつつ雪の積もる曠野に倒れる。
     第六部は暫くの間かなり説明的でそれまでの迫力に比べると見劣りしていたが、伍長殺害の場面は誠に力強く、圧巻です。

    三作共に違う魅力があり甲乙つけがたいですが、進行するに連れ梶に扮する仲代達矢の迫力を増してきて、最終盤心の中で妻に語りかけながら雪の曠野を歩み続ける姿などは正に鬼気迫るようです。同時に三千代が迎えているかもしれない艱難辛苦が我々の胸にも過ぎり、重い後味を残して映画は終る。

    戦争とは怖いものである、という結論しかない。戦争は個々の主義・思想・人間性を無視するからである。梶はヒューマニストであり中国人労働者を保護しようとしたが、それが災いして戦争に駆り出され、敵国では彼は搾取する帝国主義者に一くくりにされてしまう。梶だけの問題ではない。国家間の戦争とはそういうもの。それが戦争の怖さなんですね。

     村上春樹は、未来永劫、中国に、許してくれるまで謝らないといけない・・
    とコメントしましたが、中国も悪いので、それはないでしょう。

    村上春樹は、中国での、自著の売れ行きしか関心がないのでしょうね・・。

     戦争と人間 主演、加藤剛 浅岡るり子、という映画も、これに勝るとも劣らず凄い作品です・・。

    日本史に関しては、少なくとも昔観た時の方が良く解っていたような気がしますねえ。今は、時計の針が右に極端にぶれていはしないでしょうか・・。

    関東軍が相当悪く描かれていますから、右派の方はこの映画には火を付けたくなるでしょう。多かれ少なかれ、これが実態なんでしょうが、実際満州で戦争に参加した人間が書いた小説ですので・・。

    安倍さんの安保法案といい、日本は、数年先には、ルビコン川を渡る方向に行ってしまいそうですね・・。

    • 町田 より:

      >結城右京さん、ようこそ
      こちらこそ、はじめまして。
      映画『人間の条件』に関する詳細なレビュー、および戦争というものに対する深くてまっとうな考察、つくづく勉強させていただきました。
      ありがとうございます。

      おっしゃるとおり、戦争というのは個人の心情や思想を無視して、“国家の戦闘員” に仕立ててしまうわけですから、映画に描かれる梶上等兵が、いかに当時の日本軍システムに批判的であろうが、ヒューマニズムを貫こうが、対戦相手の中国人から見れば「日本帝国主義者の先兵に過ぎない」というところにこそ、この映画の悲劇性があり、また戦争の哀しさがあるように思います。

      その問題は、中国現政府の国策である「反日・抗日」イデオロギーにおいてもまだ続いているような気がします。
      確かに、安倍現政権の “対中強硬路線” は、相手側からすれば脅威なのかもしれませんが、日本国内には国会前で現政権の方針に抗議するデモ参加者も多いわけで、日本人全体が現政権に親和的であるというわけではない。

      しかし、戦争ともなると、「国と国」同士の戦いになるでしょうから、国民一人一人の心情も思想もまったく無視された状態で国家運営が行われていく。
      そこに、結城右京さんが危惧するような不安が残りますね。

      私自身は、今の若い人たちが、すべて “好戦的” であるとは感じていませんが、右京さんがおっしゃるように、安倍政権の支持者に若者が多そうだという感触は持っています。
      ただ、それは、今の日本社会が、若者たちの心の支えとなるような文化を形成できていないからだというように推測しています。

      結局「文化」というものは、他から与えられるものではなくて、自分で勝ち取るものなのですが、それを勝ち取ろうとするモチベーションが希薄な社会がどんどん進行しているような気もします。

      そうなると、心の核に何もない自分を意識したときに、国家や社会が心細い自分を支えてくれるような錯覚に陥る。
      そういう心情にとらわれたとき、とにかく安倍現政権の振る舞いやメッセージは、心強いんですよね(笑)。
      今の日本社会を覆っているのは、個人の漠然とした不安感を払拭してくれる “強い政権” への希求なのでしょう。

      だから、いま求められるのは、若者を含め … というか、それ以上に今の大人たちが、自分の拠り所となる「文化」を個々人のなかで形成していくことなのだろうという気がしています。
       

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