答のない問い

 
 この世で一番美しい言葉は、 「答のない問い」 を秘めた言葉である。
 たとえば、フランスの画家ポール・ゴーギャンは、その代表作たる絵に、
 「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか」
 というタイトルをつけた。
 
 
▲ ポール・ゴーギャン 「我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々は何処にいくのか」
 
 こういう問いには、答がない。
 問いを発する者の切実さを分かったとしても、賢者も仙人も答えられない。
 だからこそ、この言葉からは、問いが発生してくる深淵を覗き込むときの 「めまい」にも似た幻惑感がせり上がってくる。
 その張り詰めた緊張感が美しい。
 
 このような問いに、軽やかに答えを出すすべての哲学者や宗教家を、私は信じない。人にとって本当に大切なものは、しばしば、答ではなく、その問いの方にあるからだ。
 
 だから、テレビなどでよく放映されるクイズ番組が嫌いだ。
 早さを自慢しあうかのように、ライバルを出しぬいて正解を競いあうタレントたちの喧騒を眺めていると、 「答を出すことがそんなに楽しいのか?」 と、いつもシラッとした空虚感がこみ上げてくる。
 
 もうじき、 『ふしぎなキリスト教』 (講談社現代新書) という本を読み終わる。
 橋爪大三郎と、大澤真幸という2人の社会学者が、我々の生きている近代社会の基本骨格を作っているキリスト教というものにメスを入れ、その成り立ちと思想的背景を、対談形式で分析しようした本だ。
 
 「まえがき」 の終わりに、著者の一人である大澤氏が、 「自画自賛は慎むべきかもしれないが、この対談は絶対に面白い。自分で読み返してみても楽しくて仕方がなかった」 と書き添えている。
 もう一人の著者である橋爪氏も、その 「あとがき」 で、 「きっと面白い本になっていると思う。だって、対談した私たちが、とっても面白かったのだから」 と語る。
 
 その 「まえがき」 と 「あとがき」 だけ先に読めば、やはり中身に期待するではないか。
 
 しかし、読み進んでいくと、どこかクイズ番組を見ている時のような空虚感にとらわれている自分がいた。
 
 キリスト教神学に興味を抱いていたり、アカデミックな研究をしようとする人たちにとっては、確かに、恰好な入門書であるかもしれない。
 疑問の提示の仕方も、読者の興味をそそるような展開を意識しているし、その解答も分かりやすい。
 
 しかし、そこには、問いそのものの深淵を覗き込もうとする眼差しの希薄な、クイズ番組のような “判りやすさ” しかなかった。アカデミックな趣味を持つ人々の宴会の席上でうんちくを傾けるには最適な知識がつまっている本ではあるが、やはり所詮 「知識」 や 「教養」 としてのレベルにとどまっている。それは 「謎」 に対する畏怖とは別のものだ。
 
 私が、聖書に興味を感じたのは、ある批評家が 「マルコ伝」 について述べた次のような一節に触れてからである。
 
 その批評家は、福音書の 「マルコ伝」 の引用に触れる前に、こう語る。
 
 「マルコ伝が再読に耐えてきたのは、またそれがもろもろの神学を超えて生命を保ってきたのは、 (それが) キリストの生涯という文脈に入れられているけれども、けっしてそこに溶解しない自立した意味を持ち、 (何かを) 『意味するもの』 たり続けているからである」
 
 その引用とは次のような部分を指す。
 
 「ペタゴニアを出るとき、イエスは空腹を感じていた。そして遠くから緑の葉をもった一本のいちじくの木を見つけ、多少は実がなっているのではないかと行ってみた。
 ところが来てみると、葉っぱのほかには何もなかった。そもそもいちじくの実のなる季節ではなかったのだ。
 イエスは木に対して言った。 『今後は永遠にお前の実を食べる人がいないように』。 弟子たちはこれを聞いていた」
 
 この一節には、聖書学者たちがさまざまな見解を披露しているらしい。
 「いちじくはイスラエルもしくは神殿を象徴している」 と解釈する学者もいる。
 そうであるならば、イエスの一言は、形骸化したユダヤ教への批判と受け取ってよいのだろう。
 
 しかし、その部分を抜書きした批評家は、
 「そう解釈すれば、なるほど意味は判然とするが、夢を精神分析されたような味気なさがある」
 として、
 「むしろこの一見馬鹿げたエピソードには、何にも還元できずしかもいつまでも気にかかるような意味があるというべきではないか」
 と考える。
 「その意味は、このエピソードを熟考することで各人がつかむようなものだ。聖書はそんなふうに人を思考させる」
 
 私は、その文章を読んで、その一節を自分のテーマとしても引き受けてもいいと思えるくらい記憶に刻んだ。
 
 しかし、 『ふしぎなキリスト教』 を書いた人たちは、この一節を、
 「イエスは、空腹のために我慢がきかなくて、 (いちじくの木に対して) 癇癪を起こしているだけですよ」
 と、あっさり笑って終わりにしている。
 イエスが実在の人物であったかどうかをどこで判断するかとか、イエスが 「神の子」と考えられるようになったのはどの文献からか … などという問題よりも、私にとっては、このイエスの何気ない言葉からどのようなイメージが広がるのかを眺めることの方がよほど大事だと思うのに、この 『ふしぎなキリスト教』 という本では、肝心のところで “ふしぎ” が欠如している。
 
 もし、私が、キリスト教について何かの本を書けといわれたら、 (誰からも言われないし、その前に書く力もないだろうけれど) 、 「神はなぜ人間に “ふしぎ” と感じる感受性を授けたか」 ということに関して書きたい。
 この世を創った造物主である神には “ふしぎ” はないだろうけれど、不完全な被造物である人間には、常に “ふしぎ” がつきまとう。
 それは、神の恩寵なのか、それとも罰なのか。
 
 

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答のない問い への2件のコメント

  1. Yama より:

    町田さん、おはようございます。
    私もこの新書を1週間ほど前に読み終えました。ある程度キリスト教を学んだ人が出くわす疑問、なぜあれほどに偶像崇拝を禁じることに熱心なのか等の疑問にも、よく答えていますし、非常に感心した本でした。著者のお二人とも宗教社会学者ですから、文化、歴史からの産物としての宗教を説明していく立場はやむをえません。大澤さんがやや批判的にキリスト教への疑問を突っ込み、橋爪さんが信仰者の立場も理解しつつ答えていくという配慮もバランスがとれていると思いました。

    ただ、信仰を切実な自分の問題として、今とらえようとしている人には、力にならない本でしょう。また、断定的なもの言い、結論付けを嫌う方も反感をもつかもしれません。人生は謎めいているからおもしろいんだよ、という方も宗教行動を説明されるのを嫌がるでしょう。確かに味気ないですよね。

    後者の方たちは謙虚な人が多いですね。分析者は、町田さんがおっしゃる「ふしぎ」に対して謙虚に常に接する矜持をあわせもてばよいか、と思いました。

    • 町田 より:

      Yama さん、ようこそ。
      ちょっと今すぐ出かけるもので、詳しいお返事を差し上げている余裕はありませんが、この本に関して、むしろ私より適切なレビューを書いてくださったという気持ちでいっぱいです。私も本当は好意的に感じた著作のひとつです。頭の中を整理するには適切な本でした。そしてそれなりの刺激も受けました。
      読み方に関しては、Yama さんのおっしゃるとおりですね。
      コメントありがとうございます。
       

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