災害避難所としてのキャンプ場の役割

 
 
復興の拠点として新たな活動を開始した
陸前高田オートキャンプ場モビリア

 

▲ サイトに仮設住宅が建ち並ぶモビリア
 
 東日本大震災で、全市街が壊滅的な被害を受けたといわれる岩手県の陸前高田市。
 しかしその市内にありながらも、奇跡的にその被害を最小限にとどめ、近隣の人たちの避難場所としての役目を果たし、被災者たち心の支えとなったキャンプ場がある。
 「陸前高田オートキャンプ場モビリア」 だ。

 同キャンプ場が津波の被害を免れたのは、陸前高田の市街を一望できるほどの高台に建設されていたことが大きかった。
 また、被災者支援の拠点として役目を果たせたのは、キャンプ場という宿泊施設であったがゆえに、水、暖房機器、灯油、LPガス機器、寝具、米などの備蓄があったためだった。
 
 そのような避難場所としての条件を整えたモビリアには、震災の第一夜から300人規模の被災者が難を逃れて集まってきた。
 市役所や警察・消防などの外部組織から一切の連絡が断たれた同キャンプ場では、支配人の自主的判断によって、それらの避難者たちをすぐさま庇護し、避難生活をするための準備を迅速に整備した。

 その日から、陸前高田オートキャンプ場モビリアは、キャンプ場というレジャー施設の看板を外し、被災者たちの生活をサポートする支援施設に生まれ変わったことになる。

 この6月下旬 (2011年) 、そのモビリアの支配人を務める蒲生哲さんが、千葉県の千葉市や四街道市のホールを訪れ、講演会を行なった。
 

▲ 演壇に立つ蒲生哲氏
 
 テーマは 「災害時の心構え」 。
 地震・津波などによって、多くの人が避難所生活を余儀なくされたとき、そこで暮らす人々ないしは世話をするスタッフは、どんなことに注意し、何を確保し、何を切り捨てなければいけないのか。
 支援活動の中心的存在として働いた蒲生氏から、そのような防災準備を進めるための智恵と、不安やストレスを克服するための心構えが披露された。
 
    
豊富な魚介類と美しい自然に囲まれた高規格キャンプ場
 
 「陸前高田オートキャンプ場モビリア」 は、広さにすれば東京ドーム 5 個分を擁するほどの広い敷地に恵まれたキャンプ場だ。
 総工費は33億円。
 鮮やかな緑の植栽の囲まれたキャンプサイトと高機能コテージ、近代的なセンターハウスや大浴場まで備えた高規格キャンプ場として、日本オート・キャンプ協会 (JAC) が評価する、全国に10ヵ所しかない 「五つ星キャンプ場」 のひとつとして認定されている。
   
 
 
 もともと陸前高田市は、観光業と第一次産業 (漁業) によって支えられてきた町だった。
 親潮と黒潮がぶつかる三陸沖からは、常に豊富な魚介類が陸揚げされ、養殖カキにおいても日本有数の産地として知られていた。
 
 また、キャンプ場周辺は、美しい自然に恵まれた観光地としても評価が高かった。
 特に、キャンプ場に面している広田湾には、白い砂浜沿いに7万本の赤松が並ぶ美しい海岸があり、散歩コースとしても人気を博していた。
 そもそも 「広田」 という言葉は、アイヌ語で 「美しい砂浜」 を意味する。古代から人の目を慰めてきた有名な砂浜だったのだ。
 
  
チリ地震のときの規模を大きく超えた大津波
 
 しかし、そのような活力のある漁業と美しい観光資源が、一日にして消えてしまうというあの震災が起こる。
 
 2011年3月11日の14時46分18秒。
 観測史上最大といわれるマグニチュード9.0の巨大地震がこの町を襲った。蒲生哲さんがセンターハウス内で事務処理を行なっていたキャンプ場も、大きな地鳴りと激しい揺れに見舞われた。
 
 続いて町を襲った津波の高さは10mにも及んだ。
 地上 4 階建ての建物があったとしたら、その 3 階までもが水没するという規模の津波である。
 
 津波の高さは、だいたい 1 m で、カキなどの養殖施設や漁業施設に被害が出るといわれている。
 2 m を超えると、湾内に停泊している船が被害を受ける可能性が高くなる。
 3 m に達すると、防波堤を超えた水が町の中に入ってくることを警戒せねばならなくなる。

 その 3 m を超える津波となると、もう町そのものが壊滅する恐れが出てくる。
 1960年 (昭和35年) に、やはり南米のチリで起きた大地震の影響で、三陸沖が大津波に襲われたことがあった。そのときの高波は 6 m を超え、濁流が町を押し流し、142人の犠牲者を出した。

 だから陸前高田市では、以来、保育園や小・中学校でも授業のなかに、津波のメカニズムや避難方法を教えるカリキュラムを組み込み、防災意識の徹底を図ってきた。
 しかし、今回の津波は、そのチリ地震のときの 6 m をいとも簡単に乗り越え、10 m に達した。
 
 
漁業関係者には予知できた津波の恐ろしい規模
 
 大地震の直後、市の防災無線が、 「津波警報」 の発令をけたたましく発信した。
 蒲生さんは、ただちにキャンプ場で仕事をしていた外部スタッフたちを退去させてから、キャンプ場の展望台に駆け登って海の様子を眺めた。
 
 「本当に津波なんか来るの?」
 
 そう思いたくなるほどののどかな光景だったという。
 空はうららかに晴れ上がり、海面は静まり返って、いつもの平和な1日がそのまま終わりそうに思えたほどだった。
 しかし、彼方の沖合には、明らかに異変が訪れていた。
 壁のように立ち上がった海面が、しずしずと近づいてくるのが視界に入ってきた。
 
 一緒に展望台に上がった蒲生さんの同僚は、その海面を見て、
 「こりゃ、ヤバイかもしんねぇ」 とつぶやいたという。
 その同僚は、地域の消防団に務め、漁業にも関わっていた人だったから、 「海の見方」 を知っていた。彼らは津波の規模を、押し寄せた水が戻るときの 「引き波」 の強さで判断する。その引き波の激しさが尋常ではないというのだ。
 
 その後この地を襲った惨事は、多くの動画に撮られ、ニュースやYOU TUBEを介して多くの日本人の心を震撼させることとなった。
 
 蒲生さんは、3 時から日の暮れる 6 時まで展望台にたたずみ、自分たちの町が消えていく様子を見守ったという。
 
 「信じられない光景でした。あまりにも衝撃的なシーンを見てしまったので、夢を見ているかのように、かえって実感が湧きませんでした」
 
 蒲生さんは講演中、何度も 「夢のようだ」 という言葉を繰り返した。あの震災が現実ではなく夢であってくれればいい … という切ない祈りがそこに込められていたような気がする。


 
 その講演会では、この時の様子を撮ったビデオが公開された。
 YOU TUBEにも紹介されて、大きな反響を巻き起こしたというそのビデオでは、町の消防団員が必死になって、道行く住民に 「早く避難してください」 と声をからして叫んでいる声まで収録されている。
「もっと早く。高台に避難しろ!」 と、緊急車両の中から声かける人のすぐ後ろには、不気味なうねりを持った凶暴な波が迫っている。
 波に追いつかれそうに見えた人たちは、その後どうなったのか。想像するだけで暗澹とした気持ちになる映像が繰り広げられていた。
 
 続いて、津波が引いた後の写真も公開された。
 道路も家も跡形もなく消えたうつろな大地が広がる。
 瓦礫の間に 「避難場所」 と書かれた看板が朽ち果てて転がっている。学校の体育館だろうか、それとも市の公民館か。
 いずれにせよ、その看板を信じて避難してきた人たちを、一瞬のうちに津波が飲み込んでしまったことを、その転がっている看板が物語っている。
 
 死者・行方不明者は 2 万人以上。
 高田市の人口の10分の1におよぶ1,513人の方が亡くなられ、行方不明者となっている人の数は624人にのぼる。
 
 「4 月ぐらいまでに遺体の見つかった家族は、まだラッキーだったかもしれません」
 と、蒲生さんは語る。
 「その時期までに遺体が発見されれば、かろうじて身元が分かりますから。しかし、5月以降になると、もう遺体を見ても、家族は判断できないでしょう。そういうときの手がかりは、腕時計とかネックレスのようなものでしかないのです」
 
 プロジェクターが映しだす画像を解説しながら、蒲生氏も声をつまらせる。
 
 
家族の安否を気遣って家に戻った人の大半は帰らなかった
 
 悲しことに、津波警報が発令されたときに、家に残された家族を心配して、家まで戻った人は、ほとんど帰らなかったという。お金や預金を持ち出そうとして戻った人も同様だった。
 
 地元では 「津波が来たときは、家族同士で相談などしている時間を惜しみ、それぞれが着の身着のまま、急いで逃げろ」 と指導されていたという。
 そうは言われても、家族の姿が見えなくなったときは、実際にはそれができない。悲劇というものは、そういうものかもしれない。
 
 蒲生さんの家族と家は、奇跡的にも無事だった。
 しかし、そういう人は、この高田市では類 (たぐい) まれな例だという。
 「家族」 親戚縁者にまで広げると、必ずどこかで、亡くなったか行方不明の人に行き当たる。現に、蒲生さんの叔父と叔母は生きて帰らなかった。
 
 失われたものは、人命だけではない。
 町そのものがなくなり、高田市自慢の美しい松林も海の底に消えた。
 「復旧」 いうことが、そういう自然が与えてくれた “財産” まで含むものだとしたら、本当の意味での復旧は、数百年という単位に及ぶことになる。
 
 
キャンプ場としてのインフラ設備が避難所運営に役立つ
 
 その日の夕刻あたりから、高台にあるモビリアに続々と被災者の家族が集まってきて、その規模は300人ほどになった。
 同キャンプ場では、支配人の判断で、とにかく集まった人を全員保護することに決めた。ほとんどの人が着の身着のままだったから、まず暖をとってもらうことを最優先した。
 3 月11日といえば、暦の上ではもう春。しかし、北国のこの地では、まだ真冬に近い。
 幸いなことに灯油の備蓄が 5 トンあった。しかし、燃料は十分だったが、肝心のストーブが使えなかった。キャンプ場にある暖房器具はファンヒーターが中心だったので、電気がないと動かなかったのだ。
 それでも、なんとか旧式の石油ストーブをかき集めて避難者に配り、それでも寒いという人には、最初の晩はヒーターを効かせたクルマの中で寝てもらった。
 
 米の備蓄もあったので、炊き出しには困らなかった。飲料水も70トンの備蓄があったので、これも心配なかった。キャンプ場だったことの利点がそこで生きたことになる。
 ガスもこの辺りはLPGだったので、これも問題なく使えた。都市ガスが普及している大都市だったら、かえってライフラインが機能せずに混乱していたかもしれないと、蒲生さんは推測する。
 
 困ったのは電気だった。照明だけならランプ類のたぐいでなんとかなるが、生活の基本を支える家電製品がまったく使えない。
 しかし、これも 3 月下旬になると、東北電力が発電車を提供してくれたので、電力不足も解消されることになった。
 
 被災者たちの健康管理もキャンプ場の課題となった。
 特に、持病を抱えていた人たちのケアが心配のタネだった。避難してきた人の中には、人工透析をしている人などもかなり混じっていて、放置しておくわけにはいかなかった。
 そこで、運動会でラインを引くときに使う石灰を使ってキャンプ場のフリーサイトに 「SOS」 の文字を大きく描いた。
 やがて、それを見つけたヘリコプターが医療機関に連絡を取ってくれて、病身の人たちを搬送してもらうことができた。

 最初の 3 日間は、物資も乏しく、情報も入ってこなかったので、蒲生さんは心理的に追い詰められた被災者の間にパニックが広がることを心配したという。
 しかし、避難してきた人たちは意外にも、みな驚くほど冷静だった。
 外部とは連絡が取れず、入ってくる情報といえばAMラジオのニュースだけ。
 そのことが、かえって自分たちがやらなければならない課題をみんなで相談し合うという空気を生んだ、と蒲生さんは分析する。
 
 まず行われたことは、救援物資の搬送の効率を上げるための道づくりを共同して行うことだった。タイミングよく自衛隊も下から道を開いてくれたので、3 日目くらいからは、救援物資の搬送もスムースにこなせるようになった。
 
 
プライバシーを守るための衝立 (ついたて) は避難所に必要か?
 
 「いちばん大事なことは、避難所に集う人たちの “和” 。すなわち円滑なコミュニケーションです。それがなければ、想像を絶するようなこの災害を乗り切る力は生まれなかった」
 と、蒲生さんは力説する。
 今回の避難場所生活で、人々の気持ちの結束がいかに大事であるかを蒲生さんは痛感したという。
 
 だから、避難所で暮らす人たちのプライバシーを保つために、家族同士を仕切る衝立を設けようという提案に、彼は懐疑的だ。
 
 「衝立が人の “和” を作っていくときの障害になることもあるように思うんです。だから、モビリアではセンターホールを避難場所として使ってもらうときも、そこには衝立を置きませんでした。
 結局、外からの情報も取れないし指示系統も混乱しているような状態では、みんなの和を保つのはお互いのコミュニケーションしかないんです。そうなると、衝立がそれを邪魔してしまうこともあるんです」
 
 大事なのは、その緻密なコミュニケーションを軸とした生まれるコミュニティ。
 モビリアを避難場所として暮らした被災者たちは、そのコミュニティの力でうちかってきたと蒲生さんはいう。


▲ 蒲生哲 氏

 「とにかく、震災に遭うということは、世の中の常識が変わることを意味します。たとえば、お金があれば何でも買えるという常識は、そこでは通用しません。お金があっても米がない、クルマがあってもガソリンがない … などということが当たり前のように起こります。
 そういうときに、一人でものを考えるには限界があるんです。みんながそれぞれ意見を出し合っていかなければ、非常時は乗り切れない」
 
 結局は、被災者同士の団結力だけが、最悪の事態を回避させる力となると蒲生さんは見る。勇気、冷静な判断、お互いの信頼感など、被災から立ち直るための力は人々のコミュニケーションの中から生まれてくるという。
 
 ただ、すべての避難所に衝立がまったく要らないということにはならない。衝立が必要かどうかは、集団の規模によるのではないか、と蒲生さんは観測する。
 お互いに顔を見知った人々で構成される100人程度の集団なら、衝立はない方がコミュニケーションが図れる。
 しかし、見ず知らずの人たちが混じる1,000人規模の避難所ではプライバシーの確保も必要になるだろうし、衝立も必要になるだろう。
 
 このあたりの判断は、その集団をまとめるリーダーの仕事となる。
 蒲生さんは、講演の中で、そのリーダーの選定にもアドバイスを与える。
 リーダーを選ぶ場合、もし被災者の中に市町村などの自治体の長がいれば、その人が望ましいという。
 
 「やはり、みんなが選挙で選んだ人ということになれば安心感も生まれますし、信頼関係を結びやすくなります。
 ただ、あまりにもリーダーと周囲の人たちとの関係が近すぎると、今度は意見対立が起こったときに、どちらの言い分も分かってあげたい気持ちから、的確な方針提起が出せなくなることもあります。
 そういうときは、その施設を管理している立場の人が、決め事を発表するときの代理を務めればいいのではないでしょうか。
 そして、リーダーのサポート役を務めるサブリーダーがいれば、リーダーに振りかかる激務を解消することにもなりますし、構成員と連絡を取るパイプも太くなる」
 
 このあたりのアドバイスには、実際に避難場所を運営してきた人の体験がにじみ出ているように思う。
 
 
仮設住宅地に生まれ変わったモビリア
 
 現在、モビリアのテントサイトには168棟の仮設住宅が建設されている。
 三陸地方では仮設住宅建設に適した平地が少ない。また陸前高田市全体が津波の被害を受け、瓦礫撤去もままならない状態だから、新たに建物を建てられるような場所がない。
 そこでこのモビリアが仮設住宅建設地として選ばれることになった。
 サイトには、水道設備も電源も用意され、広さも100㎡の土地が確保されている。芝生もあり、さらに緑豊かな植栽で区画されているので、視覚的にも美しい。まさに理想の仮設住宅建設地といえよう。


 
 正直、33億円もかけたキャンプ施設を、当分の間 「キャンプ場」 として使えないのはもったいないという気持ちが蒲生さんにもなくはなかった。
 「しかし、今はそんなことを言っている場合ではない」
 と蒲生さんは、復興支援施設の責任者という新しい立場に立つことに気持ちを切り替えた。
 
 
一人でも多くの人に、この震災体験を伝えることが使命
 
 「自分が生き残ったのは、何かの理由があって残されたのだと思う」
 と蒲生さんは、今の心境を語る。
 
 「多くの友人・知人を失いながらも、私のような人間が生き延びることができたのは、何かの使命を任されたからかもしれない。
 その使命とは、ほかの地で災害が出たときに、少しでもその被害を少なくし、一人でも多くの人命を救助するために、この体験をさまざまな人に伝えていくことではないか。
 確かに、失われたしまったものはあまりにも大きい。
 だからこそ、私たちは、災害の実態を知らない人たちにも、今当たり前にあるものが、あっという間に消えて、二度と戻らないこともあるということを訴えていきたい」
 
 今回の講演も、そのような蒲生さんの気持ちから生まれた。
 
 しかし、キャンプ場運営とは違い、避難所の運営は、人の悩みや苦しみともっと直接向かい合う仕事とともなる。
 
 キャンプ場が仮設住宅地になれば、そこで暮らす人々のプライバシーは確保されることになるが、反面、一人で暮らす人たちの孤独死などの問題も出も出てくる。
 阪神淡路大震災のときには、仮設住宅に収容された住民の地域コミュニティを無視した配分が災いして、お互いの孤立感が深まってしまったという問題が出た。
 そのへんのことも十分考慮して、モビリアでは、それぞれの住民からの相談を積極的に受けるような機会をつくっていくという。
 
 「たぶん、5年…もしかしたら、10年というスパンの仕事になるでしょう」
 と、蒲生さんは、自分の与えられた重責に唇を噛み締める。
 しかし、もう後には引けない。
 質問を受け付ける時間になると、その蒲生さんの覚悟に感銘を受けた聴講者から、真剣な質問が次々と発せられ、質疑応答はそうとうな盛り上がりを見せた。蒲生さんの意図は、この講演においても見事に達成されたことになる。


 
震災に備えて準備しておいた方がよいもの
 
 最後に、災害の心構えとして、蒲生さんが挙げたものを思い出すかぎり書き出してみる。
 
 ① 家族がそれぞれ別々のところにいたときに災害が起こったことも想定して、いざとなったら集合する場所をあらかじめ決めておいた方がいい。
 今回の震災で、携帯電話はまったく役に立たないことが判明した。だから、電話やメールが通じなくても、いざとなったら家族が集まれる安全な場所を取り決めておくことは大事だ。
 
 ② 携帯が通じなくても、マチュア無線は有効だということが分かった。アマチュア無線を扱うには試験が必要となるが、緊急時の連絡用として、アマチュア無線の資格を取っておくといいかもしれない。
 
 ③ 普段から用意しておくと良いものは、懐中電灯とラジオ。あと発電機も備えておけばベター。また、電気が止まっても使えるような暖房設備も用意しておいた方がいい。ファンヒーターは電気が止まると使えない。
 
 ④ 今回の避難経験から分かったことは、コミュニティの力がいかに大きいかということだが、そのような力は一夕一朝 (いっせきいっちょう) には生まれない。やはり普段から職場や地域で、人々のコミュニケーションが円滑に図れるようなコミュニティを作っておいた方がいい。
 
 蒲生さんの講演では、まだ大切なことがたくさん述べられていたが、これだけでも長文のレポートになってしまった。残りはまたの機会に譲りたい。
 
 なお、今後の体験発表は、モビリアのホームページからも発信されるという。
 詳しくは、「陸前高田オートキャンプ場モビリア」 のHPを。
 
 また、日本オート・キャンプ協会が発行する月刊紙 『Auto Camp』 にも、蒲生さんの体験談が連載される。
 
 
参考記事 「命煌 (いのちきらめく ) 」
 
 

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災害避難所としてのキャンプ場の役割 への1件のコメント

  1. 大子広域公園オートキャンプ場 支配人 小松和人 より:

    編集長さん今回、お忙しい中の取材大変感謝いたします。
    編集長のブログは、事細かに内容が書かれ今回の震災を多くの方々に伝わった事と思います。 
    現実を風化させることなく蒲生支配人には、講演活動をして頂きたく感じました。
    当キャンプ場も約50日間の閉園を致しましたが、現在は、通常営業に戻りました。
    モビリアの為にも、頑張りたいと思います。

    編集長様のブログ投稿には本当に感謝申し上げます。

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