ハートロッカー

 テレビで、2009年に公開された 『ハートロッカー』 を放映していたので、途中から見た。イラク戦争で爆発物処理を担当する工兵の話だ。

 反戦映画を含むあらゆる戦争映画の対極に立つような映画だったので、それなりに関心を持って見守っていたが、現代の戦争というのが、いったいどういうものなのか、それなりに理解できるものがあった。

 しかし、そのあとネットで、この映画にレビューを寄せた人たちの書いたものを読んでみて、ちょっと唖然とした。
 あまりにも酷評が多い。
 好意的な批評もあるのだが、それ以上に、辛辣な言葉で、この映画をこきおろす人々の反応が目立つので、不思議な気分になった。

 ざっと読んでみて、批判した人たちの視点は主に次の二つに大別できる。

 ひとつは、 「映画としての体裁をとっていない」 というもの。
 主人公に感情移入できないし、ストーリーの盛り上がりに欠けるし、カタルシスもない。
 「これがなんでアカデミー賞を取ったのか不思議」 というもの。
 監督のキャスリン・ビグローが、 『アバター』 を撮ったジェームス・キャメロンの奥さんということもあって、 『アバター』 の方が数段面白いのに、なんで、こんな退屈な映画がアカデミーを取ったのか理解できないという意見に代表される声だ。

 もうひとつは、 “アメリカの正義” を礼賛する作品で、 「正義」 の名のもとに、愚劣な戦争を繰り返しているアメリカ人とアメリカという国家への反省がないという種類のもの。
 イラク人をバカにしているし、差別もしているという。
 他国人や他文化に対する畏敬の念を忘れた愚劣な映画!

 そう酷評する声も目立った。

 この両者の視線に対して、自分はどちらもしっくり来なかった。
 「映画として退屈」
 という意見は、まぁ多少は理解できる。
 映画をエンターティメントとして解する人たちにとっては、BGMすらなく、ただただ殺風景で陰惨なシーンが繰り返されるこの映画は、確かに退屈なものに見えるかもしれない。

 しかし、一方の、この映画を 「アメリカの正義を礼賛するからけしからん !」 という視点は、いったいどこから生まれてくるのだろうか。
 そっちの方は、まったく理解できない。

 もちろん途中から見た者が、中途半端な意見を加えることは許されないかもしれないが、自分の見た限りにおいては、これは 「正義を語ることの根拠が崩壊した後に、正義を語ることの虚しさ」 を描いた映画に思えた。

 いうまでもなく、先代のアメリカ大統領であるブッシュが始めたイラク戦争は、 「アメリカの正義」 を守る戦いだった。
 もちろん9・11世界同時多発テロへの報復、イラクが大量破壊兵器を持っている (…と思われた) ことへの制裁。
 そのような、軍事・経済・政治大国であるアメリカのメンツの回復や、先進諸国同士の政治力学、さらには石油をめぐる利権などが絡んで起こされた戦争であったが、それを根底で支えたものは、 「正義は一つなり = アメリカの正義こそ “正義だ” 」 というアメリカ人の覇権意識そのものであったと思う。

 『ハートロッカー』 で描かれる世界は、その “アメリカの正義” が、異なる文化圏、異なる宗教圏に生きる人々に対してはまったく通用しないということに直面した兵士たちの内面を描いている (ように思った) 。

 主人公の兵士は、自分が解体した敵方の爆弾の起爆装置を、あたかも趣味のコレクションのように、後生大事に集めている。
 そして、 「人の生命を奪う装置を集めるのが趣味なんだ」 と平然とうそぶく。

 そこには、颯爽と 「正義の戦い」 を遂行する、かつてのアメリカンヒーローの面影はない。
 優秀で、責任感も強い代わりに、錯誤もよく犯し、ジコチューで気まぐれな、アンチヒーローの面影すら持つ一人の男が描かれているに過ぎない。

 彼は、祖国のアメリカに一時帰宅をして、美しい妻と、可愛い赤ん坊に囲まれる生活を取り戻しても、そこに安らぎを見いだせない。
 むしろ、一瞬にして自分を吹き飛ばすかもしれない地雷を除去する作業こそ、 「自分の生きがいだ」 と言わんばかりに、再び生き生きとした表情で、戦地に舞い戻る。

 それを、 “戦争によって平和の感覚を失ったバカな兵士” と断罪することはできない。

 彼には、もはや 「戦争」 と 「平和」 の、見せかけの二分法が意味をなさなくなっているのだ。
 つまり、 「自分たちの幸せ」 や、 「自分たちの平和」 を “守る“ ために行う戦争といった、アメリカの正義が崩壊してしまっていることを物語っているといえよう。

 9・11以降、 「戦争」 は変わった。
 国境はどこなのか。
 敵はどこにいるのか。
 何のための戦争なのか。
 そういった原理的な命題を理解すれば把握できた古典的な戦争概念がすべてご破算になった。

 新しい 「戦争」 のスタイルを、人々は簡単に 「テロ」 と呼ぶが、イラク戦争以降、そのテロですら、もう昔のテロとは大きく変貌している。

 つまり、テロを仕掛ける人々ですら、 「敵」 が見えないのだ。
 かつてのテロは、倒すべき 「敵」 が明確に存在し、その倒すべき敵を葬り去れば、なにがしかの解決課題が消化されるという法則があった。

 しかし、今のテロには倒すべき 「敵」 が存在しない。
 そのため、一般市民の膨大な人命が失われても、テロの目標は達成できない。
 「アメリカの正義」 という抽象概念が 「敵」 である以上、そのテロには終わりがないからだ。

 だが、一方のアメリカも、まったく何の反省もない。
 ビンラーディンを殺害すれば、テロを収束できると思っているのだとしたら、それはアメリカの末期的症状を語るもの以外の何ものでもない。
 この国は、いったいいつになったら、 「アメリカの正義」 の限界に気づくのだろう。
 テロの標的を見失っているテロリスト同様、アメリカもまた、自分自身の姿を見失っているとしか言いようがない。

 『ハートロッカー』 という映画は、そんな 「敵の見えない」 時代の戦争を克明に描いた秀作であると思う。
 その点、戦うべき 「相手」 と、戦いによって 「守るべき何か」 を明確に訴えた 『アバター』 は、圧倒的に遅れている。それが、建国期のアメリカ人が犯した罪 ( = ネイティブアメリカンの圧殺) を反省するというモチーフをはらんでいたとしても、そこには、ベトナム戦争からイラク戦争まで連綿と続く、 「アメリカの正義」 へのノスタルジーが横たわっている。

 『アバター』 のような映画をアメリカ人がもてはやしていることこそ、その 「アメリカの正義」 に固執する彼らのノスタルジーの強固さを物語っているのではあるまいか。

 このような時代を迎えて、今のところ直接的なテロの危険から外れている日本に住むわれわれに、何ができるのだろう。

 たぶん、何もできない。

 ただ、 「何もできない」 という苦しい宙吊り状態に耐えることで、何か見えてくるものがあるはずだ。

 「アメリカの正義」 でもなく、 「イスラムの大義」 でもない何か。
 未曽有の大震災に直面した今の日本人にこそ、そのどちらにもくみさない何かが見えてくるはずだ。
 
参考記事 「アバターとエイリアン」

 

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