ザ・ウォーカー

 
 BS放送で、 『ザ・ウォーカー』 という映画を見た。
 核兵器も含めた大規模戦争により、文明が崩壊した未来世界の話だ。

 生き残った人々が、崩落したビルの中で、乏しい物資を奪い合うようにしながら生活している。
 街は、撤去されない瓦礫が散乱したまま。
 どうやら、その状態がもう何十年も続いているらしい。

 無秩序な街を仕切っているのは、暴力にものを言わせて市民を脅かしながら見せかけの秩序を維持しているボス。
 そのボスに従う、いかにもチンピラギャングという風貌のヤクザな男たち。

映画「ザ・ウォーカー」001

 その街に、主人公 (デンゼル・ワシントン) が、ある目的を持った旅の途中に寄る。
 なんで、こんな映画がこの時期にテレビ放映されるのか。
 ついこの前に起こった東日本大震災の生々しい記憶が人々に心にとどまっているうちに放映すれば、人々の関心を引きつけられるとでも思ったのか。

 それはともかく、つまらない映画だと思った。
 最後はどうなるのか? という関心だけで見続けてしまったけれど、時間の無駄だった。

 ここ10年ぐらいか、ハリウッド映画では新手の “人類滅亡物語” がやたら多く作られている。
 2007年の 『アイ・アム・レジェンド』
 2008年の 『地球が静止する日』
 2009年の 『ノウィング』 
 2010年の 『ザ・ロード』 ……

 人類滅亡の原因は、細菌だったり、宇宙人だったりとかいろいろだけど、繰り返し繰り返し描かれるのは、荒涼とした瓦礫の世界とバイオレンス。
 そういう映画を全部見たわけではないけれど、基本的には、絶対安全な場所に身を置いている観客が、 「あんな世の中になったら大変ね」 と、安堵しながら映画館を出るという作品になっている。

 『ザ・ロード』 は原作を読んだだけだが、まさにバイオレンスの極致というようなストーリーだった。
 荒廃した地球上のあっちこっちに、乏しい物資を奪い合う無法者のコミュニティが形成され、その連中に見つかったヨソ者は惨殺されて “食料” にされてしまうだけ。
 いよいよ食べるものが無くなると、今度は同じコミュニティの弱者から順に食料にされてしまう。

 『ザ・ウォーカー』 という映画でも、人肉食を匂わせるエピソードが出てくる。
 そこには、
 「人間は生き延びるためには、同胞の肉すら食う動物なのだ」
 という冷酷な “哲学” が信じられているようでもある。
 
 なぜ、アメリカ人たちは、こういう冷徹なストーリーを好むのか?
 たぶん、キリスト教を深く考えたことのない人たちの教義理解が影を落としているのだろう。
 つまり、「人間はもともと罪深い存在なのだ」 というところだけを切り取って鵜呑みにしてしまう人たちの浅い信仰の世界。
 そこでは、「神に帰依して、罪を免じてもらわなければならない」 ということのみが結論となる。
 最近のハリウッド映画の人類滅亡ものは、「最後の審判」 というビジョンだけをコケ脅し的に使って、無知な人たちを欺く、新手の布教活動なのかもしれないとすら思う。
 
 現に、 『ザ・ウォーカー』 は (ネタバレごめん!…だが) 、聖書が重要な役割を果たしている。
 主人公は、たった1冊の聖書を届けるために、ひたすら広大なアメリカの原野を歩いていく。
 ただただ 「西」 に向かって。

 どこの誰に、その聖書を届けるのか?
 何のために届けるのか?

 それは主人公にも分かっていない。
 ただ、神が 「それがお前の使命だ」 と心にささやいたのだという。
 人もクルマも通らない原野を、彼はずっと歩き続ける。
 だから 『ザ・ウォーカー』 なのだ。

 そして、いくたの危機を乗り越え、彼はその使命を果たす。
 めでたし…、めだたし…。

 だけど、腑に落ちない。
 神は、その一冊の聖書を目的地に届けさせるために、その主人公が何人もの人間を殺していくのを、黙って容認するのか?

映画「ザ・ウォーカー」002

 この主人公。
 銃を撃てば100発100中。
 山刀を奮えば、バッタバッタと死体の山。
 それでいて、至近距離から銃で撃たれても、生き延びてしまうのだ。
 この男には “神の加護” による不死身の生が与えられているから、他人の死には無頓着だといわんばかりに。

 そういう人間が、 「人類の文明の復興」 を託されるという設定が、なんかうすら寒い。
 不思議だ。
 キリスト教の神さまって、そういう神さまだったの?
 キリストって、 「右の頬を打たれたら、左の頬も差し出せ」 と言った人ではなかったの?
 どうも、この映画を作った人たちは、そこからすでに間違っていたようにも思う。

 この映画には、 “人間” がいない。
 神と、聖書の教えをすでに知らない “無知な動物たち” がいるだけ。
 なぜなら、大規模戦争が終わったあと、人類は戦争を起こさせた原因が聖書にあったとして、残存するあらゆる聖書を焼き尽くしたことになっているからだ。

 だから、 “正しい教え” はこの世から姿を消し、残った人類の心は荒廃し、すでに聖書すら知らない若者がたくさん生まれているという話になっている。

 そういう設定にリアリティがあるとはまったく思えないが、逆にいうと 「聖書がなければ人心は荒廃する」 という制作者たちの思い込みで作られた映画であるということが、そこに露呈している。

 同じ核戦争による人類の滅亡を描いた 『渚にて』 (1959年) では、 「人間はなんてバカなことをしてしまったのだ … 」 という嘆きは語られるが、そこに神の意思を認める志向はなかった。
 あくまでも、人間の犯した過ちに、人間が自ら責任を取らなければならないという覚悟がほの見えていた。
 そこが大きな違いだ。

 だから 『渚にて』 は、人間の愚かさと人間の崇高さを同時に描いた、無類の反戦映画となりえた。
 しかし、 『ザ・ウォーカー』 には、 「人間の反省」 という視点は出てこない。
 タフな肉体と精神に恵まれた、信仰の厚い者だけが結局生き延びるという話。
 ハリウッドの娯楽映画は、あきらかに後退している。
 
 
 参考記事 「渚にて」
 
 

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ザ・ウォーカー への2件のコメント

  1. aki より:

    今のこの国の空気、どこかで感じたことがあるなぁと思いを巡らせてみて、少年の頃に深夜テレビで観た『渚にて』だったことを思い出しました。
    漂う空気の匂いのようなものが同じだったことは記憶にあるけれども、詳しいストーリーを忘れてしまっていたので、早速DVDを取り寄せて観てみました。
    観終わって、それまでの政府や東電をバッシングする気持ちが失せ、ただただ止められなかった社会の一員としての自分を腹立たしく思っています。
    少しだけ言い訳をするならば、何もしなかったわけではなく、自分に出来る限りのことを継続してやってきたとは思うけれども、3.11前にその努力が何の変化も生み出さなかったことへの無力感...まさにこの映画に登場する人々と同じ気持ちです。

  2. 町田 より:

    >aki さん、ようこそ。
    コメントありがとうございます。
    『渚にて』 を観られた後の適切で正直な感想、こちらにもしっかり伝わってきました。
    >「なんで (あの流れを) 止められなかったのか」
    その一言に、万感の思いが込められているように感じました。
    あの映画では、 “戦争” というカタストロフが描かれるので、3・11とは少し違うかもしれませんが、戦争のようなものの場合、国家や政府が勝手にやったことを一個人が止めるというのはしょせん無理なことのような気がします。
    しかし、「なぜ自分は止められなかったのか」 と問うときに、その個人は “個” を超えた “人類” …といえばいいのか、人と人のつながりが想定される広い世界に関わることができるのだと思います。
    確かに、今のこの国の空気は、あの映画で描かれた空気感に近いように思います。
    だから、私もすぐにこの映画のことを思い出したのでしょう。
    でも、一つだけ違いがあります。
    あの映画では、人類はすべて滅んでしまうという設定になっています。
    しかし、被災地で亡くなられた方にはお悔やみを申し上げますが、残された我々はまだ生きています。
    生きている限り、一人一人の声を結集して、戦争を回避することを訴え続けていくことは可能です。
    あの映画のラストシーンで、「同胞よ、我々にはまだ時が残されている」 という横断幕が、虚しく風に舞っている情景が描かれましたが、あのメッセージこそ、制作者が観客に訴えたかったことなのだと思いました。
     

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