島尾敏雄・贋学生

 今回の東日本大地震が起こる直前にアップしようと思っていたブログ原稿がある。
 しかし、あの大震災の直後、その原稿を公表する気にはとてもならなかった。
 「それどころじゃないだろう」
 と自分は思ったのだ。
 しかし、先ほどちょっと読み返してみて、妙に今の状況を語っているような気もした。
 公表していいのかどうか、いまだ迷っているけれど、とりあえず、書いたときの原文をそのまま載せてみる。

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 いちばん危機が迫った社会というのは、一見、平和な相貌をしている。
 大地は豊かな恵みを人間に与え、物資は潤沢に整い、時間はのんびりと流れ、人々の声は明るい。
 ちょうど、太平洋戦争直前の日本がそうだった。
 今のわれわれは、あの戦争の悲惨な結末を知っている。
 だから、戦争が近づいてきたことに対し、多くの人々が不安な思いに駆られていたと思い込みがちになる。

 だが、必ずしもそうではない。
 戦争は、平和な相貌に彩られた社会の中で、ひっそりと身を隠してネズミに近づく猫のように、静かに迫っていたのだ。
 「危機」 とは、およそそのようなものだ。

 最近、島尾敏雄の書いた 『贋学生』 (講談社文芸文庫) という小説を読んでいて、ふとそんなことを考えた。
 昭和25年に発表された小説である。
 著者が昭和11年頃に通っていた長崎高商時代の思い出を核とした物語で、前半は、授業をサボって、友人2人と諌早、長崎、島原、雲仙などを旅行したときの “思い出話” という体裁を取っている。

島尾敏雄「贋学生」表紙

 主人公の 「私」 は、友人たちと長崎の海の夕凪を楽しみ、町の食堂でオムレツに舌鼓を打ち、旅館の仲居さんの色っぽい仕草にどぎまぎする。
 描かれる情景は、どれも古き良き時代の日本の風情をしっとりとたたえ、出会う人たちはみな人情味に溢れ、主人公たちは、旅の楽しい思い出を次々と蓄積していく。

 しかし、文学者としての島尾敏雄の感性は、そのような平和な日本に、夕暮れの影のように忍び寄る戦争の気配を見逃してはいない。
 市民の生き方や思想傾向をチェックする “移動警察 (特高) ” の刑事が、電車の中で自分たちを見張っているのではないかと怯え、戦争の気配を察して退去した外国人が置き去りにした犬が、野良犬として哀れな姿をさらしていることに、やりきれなさを感じたりする。

 が、それは、必ずしも、 「明確な不安」 という形をとっていない。
 旅行から帰ってきた主人公は、校庭で、三八式歩兵銃を担いで軍事訓練に励むが、それは 「気持ちの良い汗をかく戦争ごっこ」 でしかない。
 軍事訓練が終わると、学生たちは街に出て、映画館や喫茶店に寄り、カフェやおでん屋で雑談にふける。

 確実に近づいてくる戦争は、ここでは、夏の終わりに、かすかに漂う秋の気配として感知されるだけなのだ。
 色づいていた秋の木々が、いつの間にか葉を落としていたことに気づいた時の、いわれのない不安。そのような、微妙な 「空気の変化」 としてのみ描かれるに過ぎない。

 だから、そのような 「日常生活の中に見え隠れする不安」 は、一見すると、学生という中途半端な身分を生きている 「私」 の不安定さから来るものであり、思春期特有の過剰な自意識の産物であるとも取れる。

 本当は、この話を小説としてまとめた時の島尾敏雄は、特攻魚雷艇の指揮官として出撃命令を待っていた人間であり、死を覚悟した人間の心の揺れ動きを見つめる体験を持っている。
 だから、彼は、戦争が忍び寄る時代の 「危機」 を、いくらでもそれらしい言葉で表現することができたはずなのだ。
 しかし、この小説は、そういう言葉では語られなかった。
 そこに、私は逆に、戦争が忍び寄ってくる時代の 「空気」 というものを教えてもらったように思う。 
 平和な日常の中に漂う、漠たる不安。
 それを、島尾敏雄は、友人の一人である 「木乃」 という学生から受ける “言葉にならない違和感” を通して表現する。

 木乃は、知らないうちに主人公に近づいてきた同じ学校の学生である。
 彼は、およそ、 「知的なもの」 を感じさせない男でありながら、主人公たちが持ち合わせていない 「世間知」 を身につけた人間である。 

 主人公は、木乃を好きになれない。
 本能的に、自分たちとは別人種だと感じる。
 最初に会った時の木乃の印象は、
 「紺のユカタを、歌舞伎の女形のように、胸元まできっちりと合わせ、人間というより、紫のかたまりが、ぼうっと入ってきた」
 というもので、すでに人間から逸脱した何かを感じさせる存在として描かれている。
 「いやなヤツだ。この人とはつき合うべきではない」
 主人公の 「私」 は、そう直感する。

 しかし、いつの間にか、私生活のすべてが木乃のペースで進むようになり、彼の巧妙なウソ …ということは後で分かるのだが、そのウソに巻き込まれて、最後は主人の友人や、実の父親や妹まで、奇妙な体験を重ねるようになる。

 だが、ウソをつきまくって、周りの人々を狂奔させる木乃の目的が、果たして何であったのか、それは最後まで 「謎」 のまま残される。

 彼は天性の詐欺師であったが、その詐欺行為には “営利” の匂いはまったくないのだ。
 この木乃という男が、実は贋 (にせ) 学生であることが最後に明かされるのだが、そのことによるストーリー的な面白さよりも、むしろ、その木乃の身辺から流れ出てくる存在論的な不安感そのものが、何よりも、ここでは 「忍び寄る戦争の影」 そのものではなかったのか。 
 戦争が近づいてきているというのに、あくまでも平和に見える社会の言いようのないグロテスクさ。
 その気持ち悪さを、島尾敏雄は、木乃という贋学生のグロテスクさと重ね合わせたのではなかったのか。

ダリの絵画02
 
 もちろん、木乃は、近づく戦争の 「寓意」 ではない。
 「暗示」 でもなければ 「比喩」 でもない。
 しかし、時代の空気に、どこか 「グロテスクな匂い」 があり、そこには木乃という男が発散する体臭と同質のものがある。
 たぶん、そういう形でしか、著者はあの時代を描けなかったのだ。

夜の街の戦車

 今の “平和な時代” に、どのような危機が紛れ込んでいるのか、それは誰にも分からない。
 しかし、これだけ 「平和」 なのに、誰もがそれに安住せず、常に漠たる不安を感じて生きているということは、なんらかのカタストロフ (悲劇的な結末) が迫っていることを示唆しているのではないか。
 島尾敏雄の 『贋学生』 をのどかなカフェに座って読みながら、ふと青空を見たりしたときに、そんなことを考える。

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 これを書いたのは、3月に入ってしばらく経った頃だから、数日後に、世の中が激変する事態になろうとは夢にも思っていなかった。
 しかし、 「カタストロフ」 という言葉を自分で使っていたのが妙に引っかかる。
 もちろん、大地震のような自然災害をこのときはまったく意識していなかった。
 ただ、漠たる不安があった。
 一見平和に見える世の中に、こっそりヒタヒタと忍び寄る “危機” 。

 実は、多くの日本人はそれを予感していたのではないかと、今になって思う。
 だから、天地が動転するような未曽有の混乱の中でも、日本人は諸外国が驚嘆するような冷静さを身につけていられたのかもしれない。

 太平洋戦争が勃発する前の日本は、ある意味で、今と同じような擬似的な 「平和」 があった。
 しかし、それが “グロテスク” な平和だったことを、島尾敏雄は見抜いていた。
 大震災が起こる前の日本の “平和” も、そのときと同じような臭いを放っていたのかもしれない。
 
 ただ、それを言葉にする力を誰も持っていなかった。
 今ようやくその “言葉” を、誰もが発見したのかもしれない。

 
 

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