日本人は変わるか

空と木155
 
 東北・関東大震災が起こってから、ほぼ 3週間。
 震災被害地のレポートを続けていたテレビも、福島県の原発事故の状況解説と、日本経済の行く末の解析などに軸足が移り始めている。
 テレビのニュースを見ていると、現に、パーツの供給ができなくなって、商品生産が難しくなった工場がたくさん出てきたなどという報道が多くなった。
 たぶん、これから多くの日本人にとって、自分の生活基盤に対する不安がきっと大きな問題になっていくだろう。
 
 一方、テレビと違って週刊誌は、編集 → 印刷 → 流通という手間がかかる分、発売されるまでにタイムラグがあって、今、ようやく震災の生々しい状況を伝える記事が満載されるようになった。
 それらの報道記事と一緒に、レギュラー執筆陣たちのエッセイ、コラムでは書き手が今回の震災で何を感じ、何を考えたかを伝え始めようとしている。
 
 それらを読む限り、やっぱり、何かが変わってきたように思う。
 『AERA』 では、連載を続けてきた演出家の野田秀樹が、同誌の 「放射能がくる」 という特集内容が 「風評被害を拡大する無責任な企画である」 と批判し、エッセイの連載を自ら打ち切った。
 そして、その批判内容を、 『AERA』 の方も連載最後の記事として堂々と掲載した。
 
 やっぱり、何かが変わってきている。
 批判、中傷、非難なども含め、メディアに飛び交う言論の中で、どこに “真実” があるのか、それをどう発見すればいいのか。
 そういったことを、原点に立ち戻って、もう一回考え直そうという空気みたいなものが生まれてきたような気がする。
 雑誌などにコラムを寄せるレギュラー執筆陣の原稿を読んでもそう感じるし、ブログなどに自分の身辺雑記のようなものを綴っていたアマチュアの人たちが書くものを読んでも、同様に感じる。
 
 戦争以外で1万人以上の犠牲者を出し、現代文明の象徴であった原子力発電所をもあっけなく崩壊させた今回の震災に見舞われ、さらに計画停電で光のない生活を経験した多くの人が、自分の生き方を問い直すことを迫られている。
 大げさにいえば、そんな感じ。
 
 その問い直しの “網目” をろ過された言葉でなければ、誰にも信用されない。
 何かを発言する場合でも、変わった意見を述べて人に認められたいとか、目立ちたいとかいうパフォーマンスが通じなくなった、と言い換えてもいいかもしれない。
 プロ、アマ問わず、文章を書いて誰かに読んでもらいたいと思っている人たちには共通して、そのような気持ちがあるように思うのだ。
 
 「一過性のものだよ」
 という人もいるかもしれない。
 「衝撃が大きいからみな動揺しているだけで、そのうち日常性が復活すれば、みな元の精神状態に戻る」
 そういう意見も、聞こえてきそうな気がする。
 
 そうかもしれない、とも思う。
 しかし、違うようにも思う。
 少なくとも、今の自分は違う。
 
 実は、私のブログというのは、その日その日ネタを見つけて書いているわけではなかった。
 ブログなど書く時間もなくなる忙しい時期が来ることを考慮して、時間のあるときに書き貯めておいたものを小出しにアップしていたに過ぎない。だから、3月11日の震災に見舞われる前に、準備していたいくつもの原稿があった。
 
 ところが、それをもうアップする気が起こらない。
 あれだけの震災に直面してしまうと、それまでに書いていたものの大半が、もう人の心に届かない原稿になってしまったように思うのだ。
 
 逆に、人の書いたもので、 「心に届かない」 記事を多く発見してしまう。
 今までは、そんなふうに他人の文章を読んだことがなかったのに、あれ以来、人の文章を読む基準も変わってしまったような気がする。
 
 何も、今回の地震や原発事故に関して、
 「自分の感想や意見を述べていないとダメだ」
 と言いたいのではない。
 
 テーマなどはどうでもいい。
 「人の心に届く言葉を書いているか?」
 ただ、そのことだけに関心が向かっている。
 つまり、 “普遍性” を獲得しているか?
 ということなのだ。
 
 人々の個別な生活感や信条を超えて、どんな人間にも等しく届く言葉を持っているかどうか。
 今、プロの物書きに問われているのは、そのことだという気がする。
 文体なんて、“おちゃらけ” であってもかまわない。
 書いている内容が、不謹慎であってもかまわない。
 
 そういうことではなく、 “考える態度” の真剣さ。自分を見つめ直す視線の厳しさ。
 それが、問われているように思う。
 
 それに関しては、普通の人々の方が敏感だ。
 今回の震災を通じて、被災を免れた人たちの多くが、被災された方々に対し、
 「自分には何ができるのだろうか?」
 と自分自身に問うている様子が、いろいろなところから伝わってくる。
 
 自分自身への問いかけ。
 これはたいへん重要なことだと思う。
 今まで “空気を読み” 、人の意見に逆らわず、周りから “浮いている” と非難されることを恐れて自分の意見を抑えていた人たちが、ようやく 「自分に何ができるか?」 を問うようになったのだ。
 
 「誰か」 に対して、 「自分は何ができるか?」 と問うことは、そこに、自分以外の 「誰か」 、つまり 「他者」 を見出したことを意味する。
 
 つまり、地震や津波で被災されたり、原発事故の危機に見舞われている人たちの苦しい生活を “わが事のように” 感じ、その人たちに対して、「今の自分は無力だ」 と考える人たちが出てきたことを意味する。
 
 そのような認識の変化は、ともすればわが国にも蔓延しそうになっていた、
 「自分さえ幸せならば、他人はどうなってもいい」
 という風潮を押し流すものになるのではなかろうか。
 
 多くの人たちが、今こう言っている。
 「自分は被災していないが、被災地の方々の生活を思うと、胸が痛む」
 
 自分には、何もできないが、でも、なんとかしてあげなければいけない人たちがいる。
 そういう気持ちが生まれるところから 「他者の発見」 が始まるように思う。
 そして、 「他者」 を見出したときに、 “普遍” に至る道が開けるように思う。
 
 

カテゴリー: コラム&エッセイ   パーマリンク

日本人は変わるか への9件のコメント

  1. ムーンライト より:

    そうだ、普遍性だ。
    と、私もそう思います。
    全くそうです。
    古新聞を回収に出す前にいつもザットもう一度見るのです。
    この地震が来る前、「5歳若く見える方法」だとかを書いていたものが色あせて見える。
    「景気が悪くて大変」なんて、あの頃はまだ良かったんだ、と。
    いつも、失ってからじゃないと大切なものが見えないって、何なんでしょう。
    今から一年後、「あの頃はまだ良かった」なんてことにならないように今を大事にしていかなければと思います。
    地震前の新聞はもう処分したのですが、地震以来の新聞を束ねる気にはなりません。
    ここにある人々の気持ちを「回収」に出してしまうような気がして。

  2. JoeCool より:

    米国では9.11の前・後という表現が良くされているそうです。日本では、阪神・淡路大震災の1.17の後、ボランティアが当たり前となり災害の時のかかわりが変わったと感じております。今回の3.11は、小さいところではおそらくメディア・情報との関わりと災害支援の当事者になる手段がいたるところにあることを知り、災害の関わり方がさらに変わることと思います。
    発災直後から様々なサイトが立ち上がり、支援の輪がネットからですが直ぐ拡大してゆきました。災害を受けた自治体・企業からの情報のCopyサイトを無償で立ち上げアクセス殺到でも情報発信を可能としたり、ツイッターで情報を相互発信し、ヤシマ作戦等の災害対応の活動となったり、NHKでさえリアルタイムに災害情報をストリーム発信し、電波の届きにくいビルの中や地方でネット生きているところでは有効な情報手段となり、ラジオもネットで聞くことができ遠隔地からでも被災地の情報を生で聞くことができるなど。
    また、リアルの世界でも変化があり、帰宅難民と化した大量の徒歩寄託者に夜中にもかかわらず店を開けて無償でヒールの女性にスニーカーを配った靴屋さんとか、温かいのみものや、軽食をふるまったお店を多くあったそうです。その情報ツイッターで瞬く間にひろがり、確かに当事者として大変でしたが勇気づけられました。
    今後これを自足的に復旧・復興につなげられれば、本物の変化なのでしょう。
    その様な社会環境に急激に変化してしまうと、その前の社会環境を前提とした感性では、振り返ってもらえなくなってしまうことでしょう。

  3. JoeCool より:

    米国では9.11の前・後という表現が良くされているとのこと。日本では、阪神・淡路大震災の1.17の後、ボランティアが当たり前となり災害時へのかかわりが変わったと感じております。今回の3.11は、小さいところではおそらくメディア・情報との関わりと災害支援の当事者になる手段としての災害の関わり方がさらに変わることと思います。
    発災直後から様々なサイトが立ち上がり、支援の輪がネットからですが驚くべきスピードで拡大してゆきました。災害を受けた自治体・企業からの情報のCopyサイトを無償で立ち上げアクセス殺到でも情報発信を可能としたり、ツイッター等で情報を相互発信し、ヤシマ作戦等の災害対応・支援の活動として広がるなど。あの、NHKでさえリアルタイムに災害情報をストリーム発信し、電波の届きにくいビルの中や地方でネットにつながることができるところでは有効な情報入手手段となり、また、ラジオもネットでリアルタイムで聞くことができるようになり、遠隔地からでも被災地の情報を生で聞くことができます。(これも”つぶやき”から始まったそうです)
    また、現実の世界でも、帰宅難民と化した大量の徒歩帰宅者に夜中にもかかわらず店を開けて無償でヒールの女性にスニーカーを配った靴屋さんとか、温かいのみものや、軽食を外に机を出してふるまったお店も多くあったそうです。その情報がツイッター等で瞬く間にひろがり、当事者として大変でしたが勇気づけられました。
    今後これを持続的に復旧・復興につなげられれば、本物の変化なのでしょう。
    身近なことでも、つながり・分かり合えれば、自分の小さな行動でも、それが支援となることも広く認知されたのではないでしょうか。誰もが簡単に当事者となれること。そして、それを受け止めてくれる人がいることを知ることで、古くから当たり前の日本に住む人の感性、”おたがいさま”等の感性をよびおこしてくれるたのではないか?と今は思っています。

  4. Jo より:

    米国では9.11の前・後という表現が良くされているとのこと。日本では、阪神・淡路大震災の1.17の後、ボランティアが当たり前となり災害時へのかかわりが変わったと感じております。今回の3.11は、小さいところではおそらくメディア・情報との関わりと災害支援の当事者になる手段としての災害の関わり方がさらに変わることと思います。
    発災直後から様々なサイトが立ち上がり、支援の輪がネットからですが驚くべきスピードで拡大してゆきました。災害を受けた自治体・企業からの情報のCopyサイトを無償で立ち上げアクセス殺到でも情報発信を可能としたり、ツイッター等で情報を相互発信し、ヤシマ作戦等の災害対応・支援の活動として広がるなど。あの、NHKでさえリアルタイムに災害情報をストリーム発信し、電波の届きにくいビルの中や地方でネットにつながることができるところでは有効な情報入手手段となり、また、ラジオもネットでリアルタイムで聞くことができるようになり、遠隔地からでも被災地の情報を生で聞くことができます。(これも”つぶやき”から始まったそうです)
    また、現実の世界でも、帰宅難民と化した大量の徒歩帰宅者に夜中にもかかわらず店を開けて無償でヒールの女性にスニーカーを配った靴屋さんとか、温かいのみものや、軽食を外に机を出してふるまったお店も多くあったそうです。その情報がツイッター等で瞬く間にひろがり、当事者として大変でしたが勇気づけられました。
    今後これを持続的に復旧・復興につなげられれば、本物の変化なのでしょう。
    身近なことでも、つながり・分かり合えれば、自分の小さな行動でも、それが支援となることも広く認知されたのではないでしょうか。誰もが簡単に当事者となれること。そして、それを受け止めてくれる人がいることを知ることで、古くから当たり前の日本に住む人の感性、”おたがいさま”等の感性をよびおこしてくれるたのではないか?と今は思っています。

  5. より:

    今回のように社会全体の価値観が大きく変わる時、物事・人の本質が洗い出されるんだなあ、とまさに感じていました。
    明治維新で産業文明に目覚め、敗戦戦奇跡の経済復興を遂げ、この震災の復興を、今見えて来た本質的・普遍的なものを軸として動く社会にするきっかけになったらなと思わずにいられません。それは資本主義に替わる、より普遍的なイデオロギーなのだろうと思っています。

  6. solocaravan より:

    「心に届く言葉」・・・石原都知事の放言ではありませんが、「天罰」ということばが妙に心にひっかかっています。それこそ不謹慎かもしれませんが、ばくぜんと感じていた気分に表現を与えられた気がしたのはたしかです。うまく説明できませんが、来るものが来たというか、ひとつの文明の終わりというのはこんなかたちでやってくるのではないか、というような・・・たしかに自分の中でなにかが変わった気がします。

  7. 町田 より:

    >ムーンライトさん、ようこそ。
    古新聞の内容を読み返してみて、かつての記事や広告が色あせて見えてしまうという感覚、本当によく分かります。
    明らかに、「以前」 と 「以降」 では何か大きな “切断” が生じたということなんでしょうね。
    それと、>「地震以来の新聞を束ねる気にならない。人々の気持ちを “回収” に出してしまうような気がして」 …という感情にも心を動かされました。
    その通りだと思います。
    私たちは、これで何かを捨てたと同時に、捨ててはいけないものを再発見したのかもしれませんね。

  8. 町田 より:

    >JoeCool さん、ようこそ。
    このブログサービスを行なっているホビダスさんのサーバーの問題だと思うのですが、コメント投稿にものすごく時間がかかります。そのため、発信ボタンを何度か押すと結果的に2重投稿、3重投稿になってしまいます。何度もお手間を取らせて申しわけございませんでした。
    頂いたコメントの文面が少しずつ変わっておりますので、投稿した内容をすべて残させて頂きました。
    今回いただいたコメント、「本当にそのとおりだなぁ」 とつくづく感じながら拝読しました。
    私も、今回の災害で、人と人の “輪” がつながったことに対して、ツィッターの力が大きく作用したことを痛感しています。
    地震の起きたとき、北関東から大渋滞の中を11時間かけて帰宅しました。そのときずっとラジオをつけていたのですが、ラジオ局が発信する情報の大半は、視聴者からのツィッターによるものでした。その中で、JoeCool さんが書かれていたように、帰宅難民に対して無償で休憩所を解放したり、温かい飲み物を配ったりしている人々がたくさんいることを知りました。
    たぶん、その時から 「何かが変わった」 という気持ちを持ったように思います。世の中が損得勘定や効率だけで動いていたように思い込んでいたのですが、そうではなかったことを知りました。
    「ツィッターから “人” が見えた」
    という感じでした。
    >「古くから日本人には当たり前だった “おたがいさま” という感性」 を呼び起こしたのが、ツィッターという新しいネットワークだとしたら、日本人は、もしかしたら世界で一番ツィッターの使い方が上手な民族になっていくのかもしれませんね。
     

  9. 町田 より:

    >solocaravan さん、ようこそ。
    石原都知事の 「天罰」 という言葉が、不用意であり、不適切な表現であったことは事実ですが、なんとなく、その言わんとしていたことは多くの人々が感じていたことなのかもしれませんね。
    つまり、「世の中このまま行くとヤバイぞ…」 と思いながらも、資源を無駄に使うことで得られる快適生活や、人の不幸をチャンスと思うような気持ちを捨て切れなかった自分たちが “罰せられた” と感じた人は、案外多かったのではないでしょうか。
    >「文明の終わり」 ということは確かにいえるかも知れませんね。
    私は、これで80年代以来、不況のさなかでも連綿と続いてきた日本の 「ポストモダン的気分」 (はすに構えた方がカッコいい) が払拭されるのではないかという気がしています。

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