アレクサンドリア

 エジプトに 「アレクサンドリア」 という街がある。
 紀元前に、マケドニアのアレクサンダー大王が建設した都市で、古代より地中海貿易の要所として栄えた。
 ローマ帝国に併合されていた時代には、文学、歴史、地理学、数学、天文学、医学などの諸学問の栄える古代北アフリカ最大の文明都市となっていた。

 そのローマ帝国の末期、その街で、ヒュパティアという女性科学者が活躍していた。
 哲学者であり、天文学者でもあった。
 一説によると、この時代において、すでに、後にコペルニクスの唱えた 「地動説」 をイメージできるような感受性を備えた女性であったらしい。

 そんな彼女の生涯をテーマにした映画が公開された。
 タイトルは 『アレクサンドリア』 (原題アゴラ) 。

映画アレクサンドリア

 見たいんだけど、この時期はちょっと無理。
 DVD 化されてから見ることになるだろう。

 なんでこの映画が気になったかというと、ここでは彼女が、キリスト教徒の迫害によって無残な最期を遂げる、と紹介されていたからだ。

 昔から、古代ローマ帝国を舞台に選んだ歴史劇は、キリスト教徒が迫害されるシーンをさんざん撮り尽くしてきたが、ここでは逆転されている。
 “開かれた学問” を目指す知的な女性が、逆にキリスト教徒から迫害されるのだ。

 紀元400年代の地中海世界では、すでにローマ帝国によって “国教化” されていたキリスト教による宗教体系・文化体系の書き換えがものすごい勢いで進んでいた。
 キリスト教化された人々は、それまでの古代文明を 「異教的で背徳的な文明である」 という理由で、ことごとく排撃し、それまでの文化施設を破壊し始めていた。

 それまでのローマ帝国の文化というのは、多神教を背景にした “何でもあり” の世界だった。
 いわば 「価値の多元化」 が認められた社会なわけで、科学や天文学、哲学などの隆盛も、価値の多元化を認める人々の自由な精神によって支えられたものだった。

 だが、この時代のキリスト教は、 “神の教える一つの真実” 以外のものを認めなかった。
 極端に原理主義的だったのである。それは、ある意味で 「科学」 を否定するものであり、 「哲学」 を封じ込めるものであった。

 人間が、この世に起こる不可思議な現象に対して、 「なぜ?」 と考えることは、神の創った世界を疑うことである。
 したがって、この世に 「疑問」 や 「懐疑」 はあってはならない。
 だから、 「科学を支える精神は人間の自由にある」 と説く女性学者ヒュパティアの思想は、その時代のキリスト教徒たちから見れば、忌むべき異端の思想だったのだろう。

 この 『アレクサンドリア』 という映画のレビューを読んで、まず思い出したのは、辻邦生の書いた 『背教者ユリアヌス』 という小説である。

 ユリアヌスは、キリスト教国家となったローマ帝国の皇帝でありながら、キリスト教化された宗教・文化体系になじめず、ギリシャ・ローマ時代の宗教を復活させ、キリスト教徒によって破壊された古代の神殿を次々と再建していった人である。

 彼は、価値の多元化を認める古代宗教の精神を尊いものとして、それを認めないキリスト教聖職者の持っていたさまざまな特権を取り上げた。

 当然、当時のキリスト教会の実力者との暗闘が始まる。

 キリスト教徒側からすれば、ユリアヌスは、 「時代に逆行する野蛮な暴君」 であった。
 もちろん、彼の “宗教革命” が成就しなかったのは、キリスト教教義が全ヨーロッパを覆っていったという、その後の歴史が証明するとおりである。

 この小説は感動的であった。
 宗教と哲学、宗教と思想を考えるときの原点となるような物語だと思った。

 映画 『アレクサンドリア』 に注目したのは、テーマが同じだという期待があるからだ。
 ヒュパティアを惨殺し、ユリアヌスの業績を葬り去ったキリスト教的世界は、その後ヨーロッパをどう変えたのか。

 「暗黒時代」 といわれる中世をもたらした。

 この時代、無知であること、貧しいことが美徳とされ、ギリシャ・ローマの古典文学は焼かれるか、捨てられるかして消滅させられ、古代文明の遺跡は 「悪魔の宮殿」 とされて、近づく者すらいなかった。

 しかし、…… と思うのだ。
 全ヨーロッパを襲ったキリスト教的な世界観というのは、やはり、それまでの人間が抱いたこともなかったような、まったく新しい認識を人間にもたらしたように思う。
 それは、
 「世の中の真実は、人間の観察力とか認識力を離れたところに存在している」
 という考え方であった。
 つまり、絶対的な神でしか知りえない真実。

 そのような真実の前に、ただただ人間は真摯に向きあうしかないという姿勢を取ることを、キリスト教文明は諭した。

 このような考え方は、人間をどう変えたか。
 「いま目の前に起こっていることには、必ず “裏がある” 」
 と考えるようなクセを人間に強いた。

 「裏」 とは、人間の認識力とか観察力を超えたところに存在する “真実” のことである。
 「人間」 が主体であった古代文明社会において、この世に 「裏に隠された真実」 はなかった。
 卓越した観察者の主観が、 「真実」 の全てだった。
 しかし、 「この世には (神しか知りえないような) 人間には見えない真実がある」 という思考パターンは、ある意味、キリスト教が排斥しようとした 「科学の目」 を、逆に育てることになった。

 ここが面白いところだ。
 われわれは、ともすると 「宗教と科学は対立するものだ」 という先入観を抱きがちだが、近代科学というのは、実は、キリスト教的な思考パターンがもたらしたものともいえるのだ。

 神のつくる世界は無謬である。
 それは、完璧な合理主義に貫かれた世界であり、未熟なまま生まれた無知な人間は、その合理性に到達できない。
 そのような、ヨーロッパ人のキリスト者としての “謙虚さ” が、神の合理性を肯定する気持ちを醸成し、それがやがて、近代合理主義をはぐくむ土壌を形成していく。

 こうして醸成された思考パターンの例は、われわれの日常生活の中に、ごく当たり前のように定着している。
 たとえば、推理ドラマとか、サスペンスとかいわれる娯楽形式。
 “真犯人” は、かならず普通の人間の観察力とか推理力を離れたところに存在している。最初に出てくる、いかにも犯人らしい犯人というのは、実は真犯人ではない。
 普通の人間の努力では到達できないような走査方法とか、推理力を働かした超人でなければ、その 「真犯人」 には到達できない。

 そういう思考パターンというのは、きわめてキリスト教的であり、サスペンスという娯楽形式は、まさに神のドラマなのだ。

 20世紀の心理学に決定的な影響を及ぼしたフロイトの精神分析も、神のドラマだった。
 彼の精神分析学では、人間の心の中には、その人でも到達できない “心の闇” が存在しているとされる。
 それをフロイトは 「無意識」 と呼んだが、このような無意識の世界が見出されたというのも、まさに、 「真実は、人間の認識力とか観察力を超えたところに存在する」 というキリスト教的思考パターンがもたらしたものだといえそうだ。

 これはやはり、多神教的な宗教を持った文明圏からは出てこない発想だ。
 なぜなら、多神教的な世界観では、あらゆる価値が等価であり、どんな “真実” が乱立しようとも、それぞれが尊重されるからだ。

 「合理性」 を求めるという意識は、真実は一つしかないという思考を生むから、多神教文明からは、今われわれが知っているような 「近代合理主義」 は生まれない。
 もちろん、 「近代科学」 も生まれない。
 皮肉なことに、古代アレクサンドリアでキリスト教徒の迫害を受けたヒュパティアの試みは、キリスト教化された後世の人間たちによって完成されたのだ。
 
 ただ、そのようなキリスト教的な合理主義が、人間に幸せをもたらせたかどうか、ということは、また別問題である。
 「真実は一つ」 と説く神の合理性は、確かにヨーロッパ人たちに浸透し、結果的に、それが現代文明の主流を形成するに至ったが、そういう世界に生きているわれわれは、それだけで幸せになれたのか。
 
 「この世には、どのような真実もありうる」
 と考えた方が、生きていく上では楽ではないのか? とも思うのだけれど …。
 
 

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