ベルイマン「沈黙」

 
 スウェーデンのイングマール・ベルイマン監督が撮った『沈黙』(The Silence) に接して、驚いた。
 今から40年ほど前に作られた作品なのに、最近の映画にない「難解さ」があって、それがすごく新鮮だった。

 「分かりやすいこと」を一義的に追求してきた最近のドラマにはない、ある種の “生々しさ” といったらいいのだろうか。
 「監督が用意できるのはここまで。後は勝手に考えてくれ」という “素っ気なさ” といえばいいのだろうか。
 その「優しくない」ところが、この映画の美しさにつながっている。

 日本で公開されたのは1964年。
 この時代には、まだこのように、ひたすら神経を研ぎ澄ませて映像の可能性を追求していた監督がいたのだ。

▼ 『沈黙』が日本公開されたとき、ポスターに採用されたカット
沈黙048

 Wikipediaを引用すると、次のような映画ということになる。

 「翻訳家で独身の姉とその妹、妹の幼い息子の3人が列車の旅の途上にある。
 病気を抱える姉の体調を考慮して、一行は途中下車し、見知らぬ土地のホテルに逗留することになる。

 冷戦下の共産圏を思わせるその地では、言葉も充分に通じない。
 ホテルで過ごす時間の中で、姉妹がずっと触れることを避けてきた葛藤が、次第にあらわになっていく。

 閉ざされた空間、限られた登場人物、削ぎ落とされたセリフによって、ドラマは進行。
 カフカ的ともフロイト的とも称される思わせぶりな象徴表現も含めて、難解な作品との評がつきまとう。
 ポルノグラフィ以外で、初めて女性のオナニーを映像化した作品としても知られる。日本初公開時には成人映画に指定された」

 一部表現を変えたが、この映画を適切に紹介した文だと思う。

 しかし、このような筋立てが、最初から分かりやすく観客に提示されるわけではない。
 「削ぎ落とされたセリフ」 … と表現されるとおり、上記のようなあらすじを観客が理解するためには、かなりの推理力と想像力が要求される。

 ▼ 常に妹に干渉しようとする姉のエステル(イングリッド・テューリン 左)。姉に反発して敵意を燃やす妹のアンナ(ヨルゲン・リンドストレム 右) 。二人の心理的格闘を軸にストーリーが進行していく。
沈黙025 
 
 観て感じたことは、ヨーロッパの「光」の無慈悲さと、「闇」の深さだった。
 
 実際に、光と影のコントラストを強調したモノクロ映像は対象の明暗をはっきりと際立たせる。
 しかし、そこで描き分けられる「光と闇」は、文字どおり人間の「弱さ」を光のなかに浮かび上がらせ、人間の「酷薄さ」を闇のなかで開花させる。

 その光と影が拮抗する世界で、西欧の人間たちが、何を見て、何を悩み、何を求めているのか。
 そんなことが、観客の意識の底まで碇 (いかり) のように沈み込んでくる映画なのだ。

▼ 二人の女と少年は、言葉も通じない見知らぬ街のホテルに泊まる
沈黙027

 公開当時「難解」という言葉がよくレビューに使われたが、こうして改めて観てみると、決して難解ではない。
 ある意味、分かりやすい。
 これは、キリスト教が個人の精神世界を侵食した風土に生きる人たちの葛藤のドラマである。
 その一言で、たぶんこの映画が抱え込んだテーマはすべて解説できる。

 主な登場人物は、3人だが、その3人にすべて “役割” が振られている。
 翻訳家でインテリの姉は、象徴的な表現を使えば、「キリスト教の教義」に殉じようとする “司祭” である。
 彼女の心を支えているのは、知性であり、倫理であり、愛である。

沈黙031

 その姉の干渉を嫌い、自由奔放に性欲を満たそうとする妹は、“悪魔の誘惑” に負けた愚衆である。
 妹が背負わされた役割は、神に救われるべき “哀れな” 人間である。

 そう書いてしまうと、キリスト教の教義を図式化した作品のように思われるだろうが、ところがドッコイ、映画はそっちの方向には収斂していかない。

 「愛」を説き、「知性」と「倫理」を他者に強要する姉のエステルは、一方では、不安定な状態にさらされている自分を紛らわすかのように、酒とタバコに溺れ、人の見ていないところでオナニーに耽る。
 彼女は、見知らぬ男と奔放にセックスを楽しむ「妹」のことを軽蔑し、嫉妬しながらも、独りで死んでいくことの怖さに耐えられず、心身ともに「妹」に依存することで生きながらえようとする。
 
 それを知りながら、妹のアンナは、病に苦しむ姉をホテルに置き去りにして、アバンチュールを求めて街をさすらい、カフェのウェイターを誘惑してセックスを享受する。
 しかし、そのアンナもまた、ひりひりするような孤独地獄にさいなまされている。

沈黙046

 彼女にとっての「姉」は、うわべだけの倫理と言葉だけの愛を訴える偽善者であり、自分の精神の均衡を保つためには平気で他者を抑圧するエゴイストでしかないのだが、妹のアンナには、その「姉」のように自分を支えるものがない。
 「知性」と「倫理」を失ったアンナの物憂く、けだるい寂しさは、情事のさなかにおいても、紛らわすことができない。

 ▼ 病の苦しさをホテルのマネージャーに訴える姉
沈黙054
 ▼ アバンチュールを求めて街をさすらう妹
沈黙024

 姉と妹は、ともに人間が背負う受苦をたっぷり味わいながら、救われるすべを見失っていることでは同じ境遇にいる。

 はたして、この “哀れな二人” を神は救うことができるのか。

 救えない。
 … というか、神は沈黙を保ったままである。

 それがこの映画のテーマだ。
 だから、公開当時、この映画は「神の沈黙」を語る作品だとよく言われた。
 たぶん、キリスト教文化圏に生きる観客は、ストレートにそう解釈するのだろう。

 しかし、私のような非キリスト教文化圏に生きる人間は、そういう図式的な解釈に収まりきれない部分に注目してしまう。

 「神」という言葉は、日本人にはどこか遠い響きがある。
 「神」という言語をどう受け止めればいいのか、普通に生きている日本人には、その言葉を “格納” する場所が「知性」の中にも、「感性」の中にもない。

 ただ、この映画で問われる「神」が、「人間の思考と感覚では理解できない世界」を意味しているということぐらいは分かる。
 長い歴史過程を通じて「神」と向き合ってきたヨーロッパ人においても、神を思うことは その存在を信じるにせよ、それを否定するにせよ)、それは「人間の思考と感覚では理解できない世界に触れる契機」であったはずだ。 

 もちろん、「この世には人間に理解できない世界がある」という思いは、どんな民族にもある。
 それは “宗教” が生まれる前の感覚として、どんな民族も経験的に持っているはずのものだ。
 
 しかし、キリスト教の神だけは、人間の「理解」を最初から拒絶した「沈黙の神」として、人の前に立ち現れる。
 それを信じるも信じないも、すべて人間側に与えられた課題であり、肯定するも否定するも、人間が背負わなければならない課題だ。

 つまり、それは「答のない問い」なのだ。

 私は、そのことを重要と考える。

 「答のない問い」に直面するとき、人は「畏れ(おそれ)」を持つ。
 それは「神」への “畏れ” というものとは少し違う。
 むしろ「人の始原を問うことへの畏れ」、「自分が存在することの不思議さに対する畏れ」ともいうべきもので、いわば「生きることの不安」にストレートにつながる感覚だ。

 そこで、この映画に登場する3番目の登場人物が大きくクローズアップされてくる。
 妹アンナの子供として登場してくる少年だ。

 ▼ 少年の目が “子供の目” でないことが強く印象に残る
沈黙034

 女二人が感じる「人間の受苦」を、この少年は「言葉」として理解できない。
 彼にとって、姉と妹(叔母と母)が葛藤を繰り広げる背景などを理解する力はない。
 しかし、彼はすべてを見る。

沈黙012

 「散歩に出る」とウソをついて、街で出会った男をホテルに引きずり込み、廊下でキスをするシーンもすべて目撃してしまう。
 彼には、母が見知らぬ男とキスを交わすことの意味が理解できなくても、「自分が母に捨てられた子供である」という寂しさだけは、しっかり感じ取れる。

 そして、優しい言葉で「生きることの楽しさ」を説く叔母の心の中に広がる空洞も、直感的に見抜く。

 映画を観ていると、この少年こそ、「沈黙を守る神」ではないかと思えるときがある。
 彼は、人間の葛藤を理解する力も持たず、人を助ける力も持たない弱々しい少年に過ぎない。
 だからこそ、「見る」ことにおいては、非情である。
 容赦仮借なく人を見る。
 だが、見たものに「意味(解釈)」を与える力はない。

 もしかしたら、それが「キリストの視線」というものではないのだろうか。

 ▼ 少年は、ただ「見る者」として存在する
沈黙011

 映画は、姉が少年に渡した短いメモ書きの言葉を、少年が復唱するところで終わる。
 それは、3人が途中下車して泊まった異国の言葉を教えるメモである。
 
 言葉の音は「シジュク」。宿泊した異国の地で、「精神」を意味する言葉だという。

 「精神」という言葉を少年に託した姉の意図は分からない。
 だが、その言語には、観客を震え上がらせる響きがある。
 そこに、「人間には触れ得ない世界」が暗示されているからだ。
 最後に唐突に出てくる「精神」という言葉には、「畏れを知る心」というイメージが託されているように思えるのだ。

 では、「人間には触れ得ない世界」とは何か?
 何を隠そう、それはこの私たちが生きている「現実世界」にほかならない。
 
 「現実」とは、「理屈」とか「理論」といった思弁的な世界とは無縁の、ただザラザラした手触りだけが生々しく横たわる世界といっていい。

 人は、「現実」を探ることはできない。

 私たちが理解できる「現実」とは、すでに整理された「過去」か、「予想」の範囲を逸脱することのない「未来」のどちらかでしかなく、現在起こっている「現実」に対しては、人は常に「知る」ことから取り残されるようになっている。
 人の目の前で生起する現実は、常にカオス(混沌)にすぎないからだ。
 それは「手触り」としてしか感じることしかできないものなのだ。

 この圧倒的な「現実」の手触りだけが、ベルイマンの世界を支えている。
 映画に登場する少年は、この「現実の手触り」を観客に伝えるために設定された人間であるかもしれない。

沈黙010

 異国のホテルで、退屈な時間を持てあましている少年は、おもちゃのピストルを片手に、ホテル内の探索を始める。
 そして、迷宮のようなホテルの廊下をさまよいながら、次々と不思議な光景に接する。

沈黙009

 そこで見るすべての光景は、少年にとってカオスである。
 彼には、言葉の通じない旅人に親切にふるまうホテルのマネージャーですら、得体のしれない “不思議の国” の住人にすぎない。

沈黙022

 独りで粗末な食事をとるマネージャーの姿を見て、大人だったら、彼の抱える「やるせない孤独」を感じ取ることだろう。しかし、少年の目に映るマネージャーの姿は、何かのまじないに興じる呪術師であったかもしれない。

沈黙016

 彼は、同じホテルに投宿している「小人の旅芸人の一座」の部屋に紛れ込むのだが、そこでは、この世の者とは異なる人々が住む異世界が口を開けている。
 だが、それはメルヘンでもファンタジーでもなく、少年にとっては、カオスに満ちあふれた「現実」そのものの姿だ。

 「この世のどこかに、人間に知りえぬ世界が口を開けている」

 そのような恐ろしさを象徴的に描いたのが、夜の街に突然現れる戦車のシーンだ。

沈黙035

 人が寝静まった深夜。
 ゆくえをくらました妹の影を探すように、姉がホテルの部屋から無人の街路を見下ろしていると、突然、1台の戦車がゆっくりと現れ、静かなうなりをとどろかせながら窓の下を去っていく。

沈黙038

 冷戦下の東ヨーロッパ諸国においては、夜のパトロールに軍隊の戦車が使われたのは珍しくないと聞くが、この悪夢のような戦車の登場は、観客の心に拭いきれない「不安」を刻印する。

沈黙041
 
 その「不安」こそ、「人間が知りえぬ世界」を見た者だけが味わう根源的な不安にほかならない。

 だが、(繰り返しになるが)「知りえぬ世界」は、パワースポットのような “神域” にあるのではない。
 日常的に去来する現実世界にこそ、「知りえぬ世界」が横たわっている。
 
 そのことを、少年の目を通して描いたのが、ほかならぬこの映画。

沈黙014

 この映画が難解なのは、「象徴的」だからでもなく、「芸術的」だからでもなく、「精神分析的」だからでもなく、まさに「現実」を描いたからだ。
 
 
 参考記事 「第七の封印」
 
 

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