本物の天才とは (ジミ・ヘンドリックスの神話)

  
 2010年秋、NHKのBSハイビジョンで、 『伝説のギタリスト』 という番組が何夜かにわたって放映された。
 その第2夜の 「偉大なるパイオニア」 で紹介されていたベンチャーズ、B・Bキング、チャック・ベリー、ジミ・ヘンドリックスのライブを見て、かなり感じるものがあった。
 圧巻だったのは、ジミ・ヘンドリックス。

 
 
 実は、この人、ベスト盤を含めてレコードで 2枚、CDで 3枚ほど持っている。
 われらの時代の “伝説のギタリスト” だから、ほとんどのヒット曲は知っている。
 
 だけど、正直、それほど楽しい演奏だと思ったことがなかった。
 特に、ライブ盤のCDは退屈そのものだった。
 
 しかし、今回改めてそのライブを見て、圧倒されて、言葉も出なかった。
 やっぱり 「聞く音楽」 ではなく、 「見る音楽」 というものもあるのだ。
 僕らの世代には、 「ロックの黎明期から知っている」 という何か傲慢な思い込みがあって、肝心なことを見落としていたのかもしれない。
 
 ライブの合間に、解説者として登場しているチャーが、 「彼は天才としかいいようがない。たぶん、演奏しているときは何も考えていない。思いのままに弾いて、それでとてつもない音を作り出す」
 …というような意味のコメントを添えていた。
 
 「天才」 というのは、自分が 「天才であることを説明できない人」 、だけどその業績には、誰もが感服することしかないような人として、 「秀才」 とは区別される。
 その場合の 「秀才」 とは、 「自分の才能の由来を言葉で説明できる人」 という意味だ。
 
 長い間、このような 「天才」 観が支配的で、計算づくでその才能を誇示する 「秀才」 を小ばかにする風潮がまかり通っていた。
 
 しかし、神々がその才能に嫉妬するほどの天才というのは、この世に存在しない。
 世にいう 「天才」 は、それぞれ言葉にしないまでも、自分の創造世界を表現する方法論を努力で勝ち取った人のことをいう。
 生まれたままの状態で、神々ですら嫉妬するような才能を持つ 「天才」 というのは、ロマン主義が作り出した神話に過ぎない。
 
 だが、ジミ・ヘンドリックスに関してだけは、その素朴な天才信仰をそのまま信じてもいいような気がした。
 それは、レコードやCDという、音だけを再生する技術からは “見えて来ない” 部分だった。
 
 言葉は陳腐だが、 “神がかり” という表現を使ってもいい。
 それは、ライブ映像を見て、はじめて見えてきたジミ・ヘンドリックスの凄さだといっていい。
 
 「憑依 (ひょうい) 」 という言葉がある。
 人間が、何か霊的なものに支配された状態のことを指し、古代宗教のシャーマニズムなどは、 「シャーマン」 という霊媒師が神がかりになって、部族に 「神々のメッセージ」 を伝えるという役目を果たしていた。
 ジミ・ヘンドリックスのライブを見て最初に感じたのは、その 「シャーマン」 だった。
 
 この世に、 “この世を超えたもの” が降り立ち、憑依状態にあるシャーマンを通じて神々のメッセージを伝える。
 ジミのライブを見ているうちに、そのシャーマンの儀式が行われている現場に偶然まぎれ込んだような錯覚すら抱いた。
 
ジミ・ヘンドリックス002
 
 解説者のチャーによると、ジミ・ヘンドリックスという人は、エレキギターが “電気を使った楽器” であることを自覚的に追求した最初のギターリストだという。
 
 チャーは、ワウワウペダルなどの一連のエフェクターをスタジオに持ち込み、自らジミのギターテクニックをなぞりつつ、その玄妙な音の由来を説明してみせた。
 
 たぶんジミ・ヘンドリックスは、それらのエフェクターを、まるで子供がはじめて親から玩具を与えられたときのように無邪気に触りまくり、驚き、音の感触を研究し、その “電気音” の宇宙的な広がりに無限の可能性を見出したのだろう。
 
 そういった意味で、彼は 「研究の人」 であったかもしれない。
 どのエフェクターを、どのように作動させれば、どういう音が生まれるか。
 そのようなしたたかな計算もやり尽くしただろう。
 
 しかし、彼のライブパフォーマンスは、そのような計算をあっけなく超えた。
 おそらく彼は、ライブの場で、自分の作り出した 「新しい音」 に、常に遭遇していたに違いない。
 自分で作り出した音に自分自身が引きずり込まれ、常に新しい世界と対峙しなければならなかったわけだ。
 
 実は、その前の晩に、エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジのライブも見ている。
 ジミー・ペイジの率いるレッド・ツェッペリンの60年代後半から70年代にかけてのライブを見て、 「やっぱりスタジオ録音の方がいいな」 と思ってしまった。
 
 ジミー・ペイジも、いわゆる 「天才」 といわれるギターリストの一人だが、そのライブでは、彼は計算された世界の果てまでは見ていないことに気づいた。
 そこには、60年代文化の特徴であった “アングラ” 的な部分…つまり 「装われた狂気」 のようなものはあったけれど、それは 「計算された狂気」 で、ロック産業の磁場を離れるものではなかった。
 
 しかし、ジミ・ヘンドリックスのライブには、 「先が見えない」 ことに対する畏れと恍惚が備わっていた。
 
 だから、音としては未完成だ。
 意図的に起こすハウリングもたくさん交じる (それゆえ、CDなどで聞いていると疲れる) 。
 
 しかし、映像が伴ってくると、それらのノイズが、脳髄の奥にまで染み渡る官能な音色に変る。
 
 ロックとは、永遠に未完である音楽のことを指し、未完であるがゆえに、その先にある世界に誘われる音楽であることを、ジミ・ヘンドリックスは身をもって実証した人であった。
 
 「自分が今出している音のその先には、何があるのか?」
 「こうなれば、行くところまで行くしかないな」
 
 ジミ・ヘンドリックスには、そういう思いが夜毎のライブで去来したと思う。
 心身の消耗が激しくなるわけである。
 
 彼はドラッグのやり過ぎといわれる謎の死を27歳で迎えることになったが、それは、神々がはじめて一人の人間の才能に嫉妬した結果であったように思う。 

▼ 「フォクシー・レディ」

関連記事 「ロックって何よ?」

参考記事 「キツネ目の女 (トラッドロック夜話 5)」
 
  

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本物の天才とは (ジミ・ヘンドリックスの神話) への2件のコメント

  1. にしむら より:

    井上陽水の記事から飛んできました。
    私もどちらも大好きです。
    Jimiの映像を見たときに、全身から音が出している衝撃に生涯のFanになってしまいました。
    同時に思ったのは、この人は長生きできないだろうなとも思いました。
    すでに亡くなっていましたが。

    • 町田 より:

      >にしむら さん、ようこそ
      にしむらさんも、“Jimiの映像” にやられてしまったクチですかぁ !!
      あれはやっぱり鳥肌モノですものね。
      まさに、ロックの精神そのものという感じがします。

      陽水の歌詞も、それにまったく劣ることがないくらい凄いと思います。
      特に、『ジェラシー』を聞いたとき、“やられた !! ” と思いました。
      「はまゆりが咲いているところをみると、僕らは、海に来ているらしい」
      …だなんて。
      これはどういう情景なのだろう?
      主人公たちに海は見えているのだろうか、見えていないのだろうか?
      なんとも、この世にありえないような風景が展開していそうな気配がします。
      どちらも凄い人たちですね。
       

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