カミュの『異邦人』

 
 日陰もない炎天下に体をさらしていると、脳内の水分が蒸発し、脳がスカスカのスポンジになってしまうような気がする。
  
 すべての思考を停止させるような、真昼の太陽。
 そういう陽射しの中に立つと、いつも思い出す小説がある。
 アルベール・カミュの『異邦人』。
  
 
 
 はじめて読んだのは中学生のときだった。
 一読して、何が何だか分からないような衝撃を受けた。
 
 読書が嫌いなガキではなかったので、この『異邦人』に接するまで、もちろんいろいろな大人の小説も読んでいた。
 しかし、『異邦人』は、それまで読んだどの小説とも違っていた。
 それまでの小説には「あった」ものが「なかった」のだ。
 最初のページから、それは「何かがない小説」だった。
 
 「今日ママン(母)が死んだ。もしかしたら昨日かもしれないが、私には分からない。おそらく昨日だったのだろう」
 
 … という介護施設で暮らす母の死を知らせる電報を受け取った主人公の独白には、圧倒的な空白の「白さ」が露出していた。
 もうその最初の1行から、その主人公が、普通の人間が持つような家族愛とか、人の死を悼む神経というものを持ち合わせていない、体温の違う生き物の気配が刻まれていた。
 しかし、同時にその1行は、人間の心には「家族愛」とか、「死を悼む神経」の外側に広がる荒野があることを教えているような気がした。
 
 『異邦人』は何かが決定的に欠けていて、その欠けているものこそがテーマであるように思えたが、作者が何を訴えたいのか、中学生の自分には見当もつかなかった。
 
 しかし、この世には、「意味」をたどろうとしても、たどり切れない世界があり、「意味」をたどろうとすること自体が無意味な世界がある … という感触だけはつかめた。
 
 主人公は、母親の葬儀に “儀礼的” に参加した後、すぐに恋人と海水浴を楽しみ、砂浜でけだるい愉楽にまみれた時間を過ごし、最後は、太陽の暑さでもうろうとなった意識にうながされ、意味もなくアルジェリア人を射殺する。
 
 アルジェリア人を撃つ砂浜の描写がすごい。
 
 あの異様な静けさは、一度読んだら忘れられない。
 脳細胞が溶け、意識が混濁し、心も身体も衰弱していきそうな強烈な陽射しの中で、主人公は、極北の冷気に浸されるような絶対零度の世界に降りていく。
 
 どこまで降りて行くのか?
 
 人を射殺するという行為が、どのような動機からも導き出されない場所まで降りていく。
 「原因」と「結果」が決してつながることのない荒野のような場所まで。
 
荒野
 
 そういう世界を見事に描いたという意味で、『異邦人』はいまだに「文学」の極北に位置している。
 
 カミュが「不条理の作家」と呼ばれるのは、「条理(因果律)」が支配する世界を否定したからではない。
 条理の「外部」を描いたからだ。
 
 「文学」とは、言葉を使いながら、言葉が届かない世界を描くものだということを、カミュから学んだような気がする。
 
 炎天下にたたずむと、いつもそのことに思い至る。
  
 

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