レプリカントの命 (ブレードランナー論序説)

 
 通勤で使っている駅前で、屋台のラーメンを食べていたときのことだった。
 
屋台のラーメン屋さん
 
 「酔いざましに、ラーメンを食って解散しよう」
 … という感じの初老のサラリーマンが3人。酒臭い息を漂わせながら、肩を寄せ合うようにカウンターに陣取り、ラーメンがどんぶりに注ぎ込まれるのを持っていた。
 
 そのうちの1人が、駅を囲んだビルのネオンの見上げながら、ふと言った。
 
 「まるで『ブレードランナー』の世界だな」
 
 その一言は、胃の中にほとんど収まったラーメンの味を反芻しつつ、どんぶりの底に沈んだ残りの汁を飲み干そうとした私の無防備な心を不意打ちした。
 
 思わず私も、初老のサラリーマンの視線を追って、林立するビルの夜景を見上げた。
 何の変哲もない、普通のネオンに彩られた駅前のビル群。
 しかしその情景を、1982年 … もう30年近く前に封切られたSF映画『ブレードランナー』と重ね合わせる人がいたとは。
 
 確かに、その映画の中で、主人公のデッカード(ハリソン・フォード)は、高層ビルの建ち並ぶわい雑な路地で、屋台のヌードルを食べるのだ。
 
 そのサラリーマンの一言に対する同僚の反応はまったくなく、話題は自然にゴルフかなんかの話に移っていたけれど、もし、そのラーメン屋台が酒を出す店で、私に一滴でもアルコールが入っていたら、私はきっとビルのネオンを見上げたサラリーマンに声をかけて、映画のことを話し始めただろう。
 
 映画の中でデッカードは、怪しげな東洋人が経営するラーメン屋の屋台に座り、ヌードルに入れる生玉子を、四つ注文する。
 店のおやじは、
 「ふたつで十分ですよ、四つは多すぎですよ」
 と日本語で答える。
 

 
 アメリカで劇場公開されたとき、日本語をしゃべるオヤジのセリフには英語の字幕が入ったのだろうか。
 それとも、それはストーリー展開には意味のない、ただのエキゾチックな効果音として処理されたのだろうか。
 

 
 いずれにせよ、映画の中で「近未来」として設定された21世紀のロサンゼルスは、安っぽいオリエンタリズムと、無機的なテクノロジーが何の根拠もなく同居する無秩序で猥雑な都市デザインを与えられていた。
 それは、確かに、初老のサラリーマンがラーメン屋の屋台から見え上げた光景にどことなく似ていなくもなかった。(せいいっぱい感情移入した場合の話だけど …)。
   
映画ブレードランナーわかもとのCM
 ▲ 『ブレードランナー』 に描かれた未来都市には、日本髪を結った東洋人の女性が宣伝する胃腸薬 「わかもと」 のCMがひんぱんに登場する
  
 数年のスパンで観たくなる映画というものがあり、『ブレードランナー』は私にとってその一つである。
 いまわが家には「プロデューサーズ・カット版(劇場公開版)」と「ディレクターズ・カット版(監督による再編集版)」の2種類のDVDがあり、交互にそれを観たりしているが、観るたびに “感じ方” が変わったり、新しい発見があったりして、けっこう飽きない。
 SF映画としてはすでに「古典」なのだろうが、その後につくられた数々のSF作品などと比べても、やはり断然新しい。
 
 この夏、BSで『スターウォーズ』全6作を再放映するという企画があったので、放映時間に家に帰れたときは、観られるものはすべて観たけれど、はっきりいうと、退屈だった。
 
 1970年代から80年代にかけて、同じSF映画として一世を風靡した『スターウォーズ(シリーズ)』と『ブレードランナー』だが、『スターウォーズ』には画面に見えるもの以上のものは何ひとつ現れない。
 
 それに比べ、『ブレードランナー』は、絶えず画面では見えない世界が奥に潜んでいることを伝えてくる。
 
 では、「画面に見えない世界」は、監督がわざと隠しているのか? 
 そうではなく、画面に見えない世界は、観客の脳内に存在するということを訴えてくる。
 
 こういう言い方もできようか。
 『ブレードランナー』には、監督や制作者たちの計算を離れたノイズ(雑音)がたくさん混入しており、それがある意味での豊かさをもたらしているのだが、あくまでもノイズに過ぎないため、制作者たちも、そのノイズが生む “豊かさ” を指摘する言葉を持てない。
 
 しかし、そのノイズは、観客の脳内にバクテリアのように侵入し、不協和音とハーモニーの繰り返しによる発酵を重ね、いつしか独立した妄想世界を醸成する。
 
 この夏、面白い本を発見した。
 加藤幹郎 著『「『ブレードランナー」 論序説』 (筑摩書房)
 
 
 
 新宿の紀伊国屋書店で、平積みになったうえに、さらに同一平面の壁を占領するように何冊も飾られていたから、てっきり新刊なのだろうと思って、買った。
 
 買って、奥付を見たら2004年9月が初刷り(2007年4月2刷り) 。
 すでに、6年前に書かれた本であったのだ。
 それなのに、派手に新刊扱いのように売っていたため、ついつい手にとってしまったわけだ。
 たぶん、私のような “ブレランオタク” の中高年というのがいっぱいいて、それに関する書籍を定期的にこのように扱うと、その購入率が高まるのかもしれない。
 
ブレードランナー未来都市の鳥瞰
▲ 『ブレードランナー』 に描かれた未来都市。ビルの高層階にはお金持ちのための心地よい環境が整備され、下層では、酸性雨が降り注ぐ路地裏を貧しい人々が享楽を求めて行き交っている。この丸いビルには、SF映画の古典 『メトロポリス』 (1925年) へのオマージュ (敬意の念) が込められているという
 
 20世紀を代表するSFカルトムービーといわれる『ブレードランナー』には、あまたの解説書や批評書が存在すると聞く。
 しかし、その手のものを読むのはこれがはじめてだった。
 
 「映画『ブレードランナー』についてはすでに多くのことが語られている。にもかかわらず、やはりなにごとも語られてはいない」
 という本著の冒頭の一句に、まず惹かれた。
 
 著者の加藤氏はいう。(引用ではなく、強引な意訳だけど…)
 
 「この映画には、“謎解き” の要素がたくさん散りばめられながらも、明確な回答が与えられていないため、そこがファンの心を吸引する “甘い蜜” となる。
 たとえば、インターネットにアップされるファンサイトの記事には、登場人物意味のない動作をひとつひとつ取り上げ、 “そこに込められた謎” を語りたがる無数の人たちの声がひしめいている。
 しかし、その大半は、問う必要もない問に対しての回答だ。『ブレードランナー』は、そのような些末な問に一つ一つ解釈を施して満足できるような映画とは根本的に異なる」
 
 … と、ここまで書いてきて、ふと、この映画を知らない人たちに、どんな映画なのか説明する必要があるように思えた。
 だから、ちょっと簡単な説明を加える。
 
 物語の背景となる世界は、こんな感じ(↓) だ。
 
 この映画に設定された “21世紀の地球” では、環境汚染が世界的な規模で進み、お金持ちたちの間では “汚れきった地球” から脱出して、快適な惑星リゾートで暮らすことがステータスになり始めていた。
 しかし、地球外惑星に人間が暮らせるような環境を造ることはそう簡単なことではない。
 なにしろ、太陽の猛火に焼かれる金星や、生物の棲めない乾燥しきった火星に、地球と同じ生活空間を造ろうというわけだから。
 
 そのため、環境整備の基礎工事を行う労働力として、人間と同じ土木作業能力を持った人造人間(レプリカント)が製造されるようになった。
 
 地球外惑星の苛酷な生活環境に耐えるため、レプリカントには、炎暑や極寒の中で生き抜ける壮健な身体を与えられたが、人間の生活圏を混乱させないように、製造されてから4年後に作動停止する(つまり自動的に死ぬ)ようにプログラミングされた。
 
 レプリカントたちの寿命を4年に限定することは、人間との摩擦を避けるという意味以上に、レプリカントの買い替えサイクルを早めるという意味もあり、それを製造する会社(タイレル社)の利潤を高めることにつながっていた。

 
▲ タイレル社の社長室。夕陽の残光の中に、古代神殿のような円柱がシルエットとして浮かぶサマは荘厳な美しさに彩られる
 
 当初、レプリカントには、自分たちの苛酷な労働条件に疑問や不満を抱かないように、喜怒哀楽のような「感情」が与えられなかった。命令された仕事を黙々とこなす文字どおりの「機械」で、作業中に破損すれば解体されて投棄された。
 
 しかし、苛酷な労働の反復がレプリカントの神経回路に、新しい回路を開くようになったのか、あるいは製造上の不手際なのかよく分からないのだけれど、個体としての「意志」と「感情」を持つレプリカントが現れるようになった。
 
 そのようなレプリカントたちは、しばしば宇宙船の密航を企てて地球に戻り、人間との間にいざこざを起こし始めた。
 そういう無法化(?)したレプリカントたちを捕獲して解体(殺戮)する作業員が「ブレードランナー」と呼ばれる警察の特殊部隊であり、主人公のデッカードがその一人というわけだ。
 
ブレードランナープリスとロイ
▲ 地球に潜入したレプリカントのプリス(手前)とロイ
 
 そして、今回もそのようなレプリカントの4体が、密かに開発中の惑星基地を脱出。人間に混じって宇宙船に潜み、地球に戻ってくるというところで、この話は始まる。
 
 4人の目的は、延命。
 すなわち、4年に限定された “命” を、せめて普通の人間並みに伸ばせないかという願いが、彼らの地球潜入の目的となっている。
 
 彼らは、自分たちを製造したタイレル社の社長に直談判して、延命への処置を施してもらうつもりでいるのだが、「法を犯したレプリカント」は即座に解体(殺戮)される運命にあることを知っているため、彼らの行動は、最初から “犯罪” の匂いを帯びる。


▲ いつも残忍そうな表情で登場するレプリカントの首領格ロイ
 
 …… というのが、この映画の大まかな骨子だ。
 
 こう書くと、人間とロボットの戦いを描く『ターミネーター』のようなアクション映画を連想する人が多いと思うが、この映画に漂う空気には、どちらかというと暗く、静かで、物憂く、内省的だ。
 
 著者の加藤氏は、この映画全体が1940年~50年代にかけて制作された「フィルム・ノワール」の系統を引き継ぐ映画だと指摘する。
 
 フィルム・ノワールという言葉は、一般的には「暗くてクールなギャング映画」というニュアンスで受け取られているが、そういった個性は映像的な特徴から生まれたものらしい。
 
 すなわち、夜の都市に垂れ込む霧、噴き上げる蒸気、点滅するネオンサイン、乗り物のヘッドライト、タバコの紫煙がよどむ暗い部屋 ……
 心に傷を持つ登場人物たちが、そういった環境を背景に、逆行の中に浮かび上がるところにフィルム・ノワールの映像的特徴があったが、『ブレードランナー』は、それが1980年代に復活したものだという。
 
フィルムノワール「マルタの鷹」
▲ フィルム・ノワールの代表作といわれる 『マルタの鷹』 (1941年) 。ハンフリー・ボガードの出世作
 
 つまり、フィルム・ノワールに出てくる人物たちは、追う者(探偵、刑事)も追われる者 (犯罪人) も、いずれも逆光の暗がりから抜け出せないような「スネに傷を持つ者」であり、どちらが勝利しても 「敗残者の自覚」 を抱えた者同士なのだから、観客にカタルシスを与える明快なハッピーエンドは訪れない。
 確かに、そういった雰囲気は、この『ブレードランナー』にもある。
 
 最初に劇場公開版としてリリースされた「プロデューサーズ・カット版」においては、一応ハッピーエンドらしき結末が用意されている。
 だが、そのハッピーエンドは、故意に通俗的なメロドラマの体裁を採ったとしか思えないような、なんと投げやりで、虚無的なハッピーエンドであったことか。
 
 しかし著者は、このハッピーエンドが用意されたことで、観客が意識することもなく、そして監督ですらも意図しなかったこの映画の「本当のテーマ」と「主人公」が確定されたという。
 
 その論考に対して詳しくフォローする余裕はないが、考え方の筋道として面白いな … と思えた部分をいくつか列記する。
 
 まず、この映画の冒頭には、絶えず “地獄の炎” のような猛火を噴出する未来都市の情景が登場する。
 そして次に、その情景を見つめている「眼球」のアップが一瞬だけ浮かび上がる。
  
 
  
 多くの観客は、当然スクリーン上に現れた巨大な「眼球」に違和感を抱きながらも、結局、次の画面展開に心を奪われ、「眼球」のことは忘れてしまう。
 
 だが、著者はこの「眼球」は誰のものなのか? と食い下がる。
 
 著者が考える “眼の持ち主” は、最後になるまで明かされない。
 それは監督のリドリー・スコットがメディアのインタビューで答えた “眼の持ち主” とも違っている。
 
 しかし、この論考の終わり頃に、著者がこの眼の持ち主を特定することで、真のテーマが何であるかということが、それこそ宇宙規模で迫り出してくるという壮大なスケール感を読者は味わうことができる。
 そして、それと同時に、この物語の本当の主人公は誰なのかという、最大の疑問も明らかにされる。それは、まさに監督のリドリー・スコットでさえ意図しなかったものだ。
 
 以上のことに関して興味のある方には原典をあたってもらうことにして、さしあたり、著者が発見したこの映画のテーマを意訳してしまうと、次のようなものになるだろう。
 
 「近代の人間観を支える背景となっているものは “私は私である” と信じる自己同一性の神話であるが、それが実は、近代社会の排他的・差別的な文化を生み出してきた元凶となった。
 そのことを、この映画では、 “自我” を持たない存在として差別されるレプリカントと、彼らを差別する人間の境界を曖昧にしていくことで語ろうとしている」
 
 … ということを、著者は言いたいらしい。
 
 人間の感情を持たない(はずの) “機械” として製造されたレプリカントが、4年に設定された生存期間の短さを知って苦しむことで、どんどん人間以上の感情を獲得していき、いつしか生命の長さに鈍感な人間を乗り越えていくという物語。
 『ブレードランナー』という映画はそうとも読めると、著者は語る。


▲ レプリカントのロイが最後に見せる人間を超えるほどの美しい笑顔
  
ブレードランナーデッカード
▲ レプリカントの “解体” を職業としていたデッカード (ハリソン・フォード) は、皮肉にも、タイレル社のつくった新型レプリカントであるレイチェル (写真 ▼) と恋に陥る。
 映画の中のレイチェルはどう見ても 「人間」 なので、 画像的には 「機械と人間の恋」 というスキャンダラスなインパクトには乏しい

ブレードランナーレイチェル
 
 面白いと思ったのは、著者がリドリー・スコットが編集し直した「ディレクターズ・カット版」と「プロデューサーズ・カット版(劇場公開版)」を見比べ、後者の方を高く評価したことだ。
 
 両者の最大の違いは、デッカードのヴォイスオーヴァ(モノローグ)が入るか入らないかというところにある。
 監督のリドリー・スコットは、当初映像だけでデッカードの内面を語らせようとしたらしい。
 しかし、これには制作者たちの内部でも批判が上がった。
 「彼が何を考えて行動しているのか、さっぱり分からん」というのである。
 
 そこで、プロデューサーの判断で、デッカードの心の動きを観客に知らせるために、ハードボイルド小説っぽいモノローグが挿入されることになった (という話を昔どこかで読んだ) 。
 
 コアな “ブレランオタク” は、これを「通俗的だ!」と非難し、モノローグの入らないディレクターズ・カット版の方を支持したが、『ブレードランナー論序説』の著者の加藤氏は、逆にモノローグ入りの方を「物語としてはウエルメイドだ」と高く評価している。
 
 当初、私もモノローグの入らないバージョンの方を支持していたが、それは、すでにこの映画を何回も見て、状況が把握できていたからだろう。
 
 またエンディングにも、両者には大きな違いがある。
 プロデューサーズ・カット版の方は、メロドラマっぽい通俗的なハッピーエンドが用意されているが、ディレクターズ・カット版は、ハッピーエンドの予兆を漂わせながら、それを観客の判断に任せるようなヒネリの効いた終わり方に変わっている。
 だから、口うるさいマニアは、ディレクターズ・カット版の方を「芸術性が高い」と評価する傾向があるようだ。
 
 一般的に、プロデューサーズ・カット版(つまり劇場公開版)というのは興行収益を目的とした商業主義的なバージョン。
 それに対し、ディレクターズ・カット版は、芸術性を維持しようとする監督の良心 …… というような分け方をされがちである。
 
 しかし、著者はこの映画に限っては、興行的な成功を意識したプロデューサーズ・カット版の方が、テーマを読み説くには効果的な仕上がりになっているという。
 逆に、名監督といえども、必ずしもその作品を完璧に支配下においているわけではない … とも。
 
 作品というのは、いったん作者の手を離れてしまえば、すでに作者も寄せつけない自立した “生き物” になる、というようなことなのだろうか。
 『ブレードランナー』という映画は、そのような、監督の制御すら受け付けない怪物に変身した奇跡の映画ということらしい。
 だとしたら、まったく同感である。
 
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