因果律を欠いた世界 「不思議の国のアリス」

 
 ルイス・キャロルの 『不思議の国のアリス』 という童話を知ったのは、年齢でいうと、4歳ぐらいだったと思う。
 幼稚園に入る前のことだから、当然、文字も読めない。だから、母親に読んでもらった。
 
不思議の国のアリス絵本
 
 童話の絵は、今でも頭の中に浮かんでくる。
 ディズニーのような様式化された可愛らしさを持った絵ではなく、西欧古典絵画のタッチに近い、子供の感情移入を拒絶するような大人のタッチの絵だったように記憶している。
 
 話の流れは、日常生活の因果律を無視した荒唐無稽なおとぎ話で、今風にいえば、「ナンセンス」 とか 「シュール」 という表現がぴったりの作品であった。
 
 しかし、母親の膝の上に座って読んでもらったその童話は、4歳の私にとってはぜんぜん荒唐無稽でもなく、ナンセンスでもなく、シュールでもなく、極めて現実的な感触を漂わせた物語だった。
 
 それは、あたかも夢を見ているときの気分に似ていた。
 夢といっても、目が覚めてから反芻するときの夢ではない。
 夢の渦中にいる状態といったらいいか … 。
 
 夢のなかでは、 “不可解” なことは何も起こらない。
 うさぎが人の服を着て、人間の言葉をしゃべろうが、トランプの兵隊が動き出そうが、夢を見ている当人は、そのことを別に不審に思わず、当然のこととして了解している。
 
アリスしゃべるウサギ
 
 それがバカバカしいことであると分かるのは、目が覚めて、夢であったと自覚したときである。
 
 目が覚めたときに、なぜ夢のことを “バカバカしい” と思うかというと、我々は、日常生活で体験する様々な “事件” を、前後関係や因果関係にまとめてしまう習癖を身につけているからだ。
 
 事件には必ず原因があり、それが一定の法則性に貫かれたプロセスをたどり、その結果として表れたのが、いま目の前に起こっている 「事件」 だ …… という思考方法になじんだ我々は、原因と結果がつながらない事件は、みなバカバカしいものと排除するクセを身につけている。
 
 夢の中の出来事は、そのバカバカしさの典型である。
 
 夢には、因果律がない。
 そこには、「偶然」 すらもない。
 
 「偶然」 というのは、確率が限りなくゼロに近づいた 「必然」 でしかなく、結局は因果律の法則性を前提とした概念に過ぎない。
 夢は、因果律のない 「必然」 なのである。
 
電車の中001
 
 たとえば、夢の中で、仕事先に行くために乗ったタクシーが、いつのまに電車に変わっていても、我々はそれを不思議だとは思わず、まったく “当たり前のこと” として了承している。
 そして、その電車が、戦地に送られる兵士を乗せる列車であることが分かり、会社にいくはずの自分が、いつのまにかその兵士の一人になっていても、それを “運命” のように了承してしまう。
 
 そのような、脈絡のない世界が展開することを、「ナンセンス」 という。
 ナンセンスというのは、「意味がない」 というような使い方をされる言葉だが、「意味」 というものが、「原因」 と 「結果」 がセットになった因果律からもたらされるものだとしたら、夢の世界というのは、その因果律を失ったもうひとつの 「現実」 なのである。
 
町の中のキリン
 
 因果関係への理解が乏しい幼児においては、夢の世界は、現実と地続きになっている。
 
 幼児の私にとって、『不思議の国のアリス』 の世界は、荒唐無稽な作りものではなく、町の路地の通り一つ隔てた裏側で、あるいは、家の廊下ひとつ隔てた隣りの部屋で、自分には見えないけれど、ひっそりと広がっているもう一つの世界だった。
 
公園の不思議な空間
 
 ティム・バートン監督の 『アリス・イン・ワンダーランド』 の興行成績が 『アバター』 を抜いたという。
 
アリス・イン・ワンダーランド00
 
 私は、この 『アリス』 の映画を見ていないので、品評はできない。
 しかし、メディアに散見される批評では、どうやら正統的なハリウッド製ファンタジーだという。
 
アリス・イン・ワンダーランド001
 
 今までのハリウッド製ファンタジー映画の流れを見ていると、みな 「夢の世界」 を描いているようでいて、「夢」 そのものを描いているわけではなかった。
 つまり、荒唐無稽のストーリーを展開しているようでいて、そこには、現実世界の因果律がそのまま貫かれていることが多かった。
 それは、「物語 (ファンタジー) 」 の宿命かもしれない。
 
 昔から世界的に流布した 「物語」 には、常に不変の骨格が備わっていた。
 「物語」 とは、どんなに現実ばなれしているように見えても、まさしく100%因果律のみによって構成された世界のことをいう。
 
 たとえば、「選ばれた子供」 は、共同体の長老の予言によって自分の 「運命」 を悟り、魔法の力によって 「英雄」 になり、「悪」 を倒すために故郷を離れる (異界へおもむく) 。
 そして、窮地に陥るが、仲間の力を借りて悪を倒し、故郷に帰還する。 
 多くのファンタジーはそのような筋書きをたどるが、その展開は見事なくらい因果律の連鎖によって語られる。
 
ドラクエ
 
 「因果律」 という言葉は、「誰もが共通して理解できる物事の構造」 と訳すと分かりやすいかもしれない。
 だから、その因果律を前提として紡ぎ出される 「物語」 は、それぞれの民族固有の英雄を生み、民族に共通した嘆きを深め、民族の生きる希望となった。
 ハリウッド製ファンタジー映画は、その民族固有の物語を人類共通のものとして普遍化する役目を果たした。
 
 しかし、「夢」 は、他者とは共有できない。
 「物語」 のような他者と共有できる因果律を欠いているからだ。
 
 夢の不思議さが、常に不安とセットになっているのは、その不思議さを誰とも共有できないという “さびしさ” や “心細さ” がもたらすものなのかもしれない。
 
 原作の 『不思議の国のアリス』 は、この夢の雰囲気を濃厚に残した作品だったと記憶しているが、映画の 『アリス・イン・ワンダーランド』 は、夢の世界を創り出したのだろうか。
 
アリス・イン・ワンダーランド0021
 
 

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因果律を欠いた世界 「不思議の国のアリス」 への6件のコメント

  1. 磯部 より:

    私もまだ観てませんが、監督のティム・バートンは、不思議なものを撮りますよね?
    「シザー・ハンズ」のときも同じくジョニー・デップとコンビを組んでましたが、ありきたりのハリウッド映画ではありませんでした。
    なので、きっとこの作品も夢の世界をつくれると、私も期待しています。
    が、どうもこの監督は意味がわかないんだよなー!

  2. kamado より:

    夢と因果律の関係、興味深く読ませていただきました。
    私の場合は夢は3タイプあるように思います。
    ひとつは、町田さんの言われているタイプで、目が覚めてみるとバカバカしいと感じる因果律のない夢。
    二つ目は、夢の中で「そんな馬鹿な!」と夢に突込みをいれている自分がいる、そんな夢。
    三つ目は、展開が自由自在、思うようになる夢。これはたぶん、半覚醒状態なのかも知れません。
    まああと目が覚めたら覚えていない夢もありますが、上記のどのタイプか判らないですね。
    最近の傾向としては上記の後ほど多くなるようなので、今思ったのですが、睡眠の質の問題かと危惧しておりますと言わずに、老化ではなく円熟味が増したのだと考えるようにしたいと思います。
    因果律で思ったことですが、最近釈迦の教え、原始仏教に興味があります。神秘性や絶対神・存在を認めていない、因果応報ではなく因果律、非常に合理的で、科学的ですらあるその教えは宗教というよりも哲学と言えます。
    ただ残念なことに、煩悩の塊のような私ですので敷居が高く、遠くで仰ぎ見るような感じでおります。
    私もジョニー・デップを観に「シザー・ハンズ」に連れて行かれましたが、なかなか魅力的なジョニー・デップと映画でした。モノクロタッチのようでしたが、内容をあまり覚えていないのが残念です。
    『アリス・イン・ワンダーランド』観に行こうか迷っております。 

  3. 町田 より:

    >磯部さん、ようこそ。
    「シザー・ハンズ」は未見ですけど、けっこう話題になりましたね。
    ジョニー・デップは、本当にいろいろな役をこなせるすごい役者ですね。何よりも、自分に対するイメージが観客の中に固定されるのを一番嫌がっているように感じます。だから、彼の役柄は、次から次へと前作を裏切るようなものばかりチャレンジしている結果選ばれたように感じます。
     ティム・バートンは 『猿の惑星』のリメイク版を観ただけですけど、オリジナルの骨格をうまく利用しながら、一味工夫のあるエンディングに持っていったことが印象に残っております。
     

  4. 町田 より:

    >kamado さん、ようこそ。
    「夢がどこまでコントロール可能なのか」
    これは考えると、面白いテーマですね。
    睡眠の質などによって、半覚醒状態のままなら操作できるということも可能なのかもしれません。
    「そんな馬鹿な!」 夢の展開に突っ込みを入れることができたら、もうそれは「夢」 ではなく、映画やTVですね。
    私も、おぼろげながら、これは 「夢」 かな…と夢を見ている渦中に思ったことがあります。意識のどこかが覚醒しているのでしょうね。
    因果というのは、世界に対する “説明体系”ですから、世界を語るどんな宗教も必ずその根幹は外してないように思います。
    そのなかでも、原始仏教というのは、ひたすら因果の根幹に迫ろうとした教えだったのではないでしょうか。「因果」… 「因果律」という言葉そのものが仏教用語ですものね。
    やっぱり古代人にとっても、夢はやっぱりワケの分からない世界だったのかもしれまえん。そこから、「予知夢」 とか、 「夢占い」 といった、覚醒しているときの “合理” で解釈しようという考え方が生まれてきたのかもしれませんね。
     

  5. kamado より:

    半覚醒状態とレム睡眠の違いが今ひとつ解からないのですが、実際夢に突込みを入れていることが良くあるのです。確かに漫画ですね。
    昨夜のbsのabcニュースで、睡眠がとれない遺伝的な脳の病気で亡くなった人の話がありました。
    脳は筋肉と同じで、休ませなければ疲れてしまう。登場した米国の医者のコメントでした。
    因果と宗教の関係はそうなのですが、似非宗教では相変わらず「因果応報」で信者を脅し、コントロールている現状が酷いので、つい書きなぐってしまいました。
    古代人といえば、六条の御息所の生霊ではないけれど、夢に出てきた人はその本人の意思なり思いで出てきたのであって、夢を見ている人のせいではないと捉えていたようですね。
    「昨夜俺の夢に出てきたけど、一体何の用だったんだい?」
    なんて会話はあったのでしょうか。
    昔misiaの曲「眠れぬ夜は君のせい」に「今夜夢の中どうか逢いに来て、~」という歌詞があったのを思い出しました。生霊は恐ろしいけれど、これはロマンチックで宜しいですね。

  6. 町田 より:

    >kamado さん、ようこそ。
    夢を見る理由を科学的に解明しようとするとき、kamado さんのおっしゃるように、夢に 「脳を休ませる機能」 があるということを指摘している学者さんもいらっしゃるようです。
    詳しいことは忘れましたが、覚醒しているときの脳は、自分の周りに起きている様々な事象を 「因果律」 の法則に則って整理しようとして、目まぐるしく活動している。
    その活動から脳を解放させるために、夢の世界では、脳を因果律の “呪縛” から解いてやる。
    …違っているかもしれませんが、確かに、そんなような説があったように記憶しています。
    夢が、時にアートや文学におけるインスピレーションの源になるというのは、そのような因果の呪縛から解放されるところにあるのかもしれません。「常識に捉われない発想」 というのですかね。
    だから、夢を題材にした絵画や小説もけっこう多いですね。
     

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