荒野の思想

   

 
 「荒野」 に惹かれる。
 
 2年ほど前にレンタルモーターホームを運転して、アリゾナ、ユタ一帯に広がるグランドサークルを旅したことがあったが、途中、クルマを止めて写真を撮ったのは、 「荒野」 の画像ばかりだった。
 
 視界を遮る物が一つもない、恐ろしいばかりのフラットな土地が出てくると、私は道路脇に止めたクルマから降り、地平線を眺め、写真を撮った。

 同行したカミさんは、私がその風景から何を感じているのか、ほとんど理解できなかったようだ。
 当然かもしれない。
 私自身が、よく分からないのだから。
 
荒野のモーターホーム
  
 昔から、「荒野」 に惹かれた。
 それが、なんだか自分の 「ふるさと」 のような気がするのだ。
 
 だから、「荒野にたたずんで叫んでいる預言者」 という旧約聖書的なイメージに、何か自分の原点があるように感じることがある。

 預言者が、何を叫んでいるのか分からない。
 それはただの音であって、言葉としては聞こえない。
 その音を、人は 「風」 と呼ぶのだろう。
 
 荒野を飽きずに眺めている私に向かって、 
 「あなたの内面には、とても寂しいものが沈んでいるに違いない」
 と、カミさんはいう。
 そう言われても、自分に思い当たるフシはない。
 強いていえば、「風」 の歌を聞きたいだけなのかもしれない。

 都会を行き交う 「言葉」 は常に “意味” を伴うけれど、荒野を舞う 「言葉」 は、ただの 「風」 でしかない。
 言葉の原点は荒野にあり、言葉の行き着く先も、また荒野でしかありえない。

 坂口安吾という作家の書いたものを、ほとんど読んだことがなかった。
 若いときに、『堕落論』 と、『白痴』 を読んだくらいか。
 あまり意味が分からなかったし、それほど面白いとも思わなかった。

 しかし、最近、坂口安吾を論じた批評家の “安吾論” を読んでいて、ハッとしたことがある。
 安吾は、「荒野」 を 「ふるさと」 と言っているというのだ。

 安吾の 『石の思い』 というエッセイの中に、こんなくだりがある、とその批評家はいう。
 
 「安吾が、(小説家の) 北原武夫に、風景のよい温泉はないかと尋ねられて、新鹿沢温泉を教えたところ、北原が憤慨して帰ってきたという話がある。それは 『浅間高原にあり、ただ広漠たる涯のない草原で、樹木の影もないところ』 だったからだ。 

 安吾は、『北原が、あまり本気になってその風景の単調さを憎んでいるので、そのときはじめて自分の好む風景には一般性がないのではないかと疑い始めた』 と書いている」
 
 そこまで読んで、私は、「あ、同類がいる」 と思った。
 そして、私なら、坂口安吾の勧めている温泉を、きっと気に入っただろうと思った。
 
 安吾の作品のタイトルには、よく 「風」 とか 「木枯らし」 という言葉が使われるらしい。
 『木枯の酒倉から』
 『風博士』
 『風と光と二十の私と』……

 安吾を語った批評家はいう。
 「風とは、いうまでもなく空気の運動である。われわれは空気を空気としてつかめないので、それを風で把握する。ギリシャにおいても、インドにおいても、古代から 『精神』 というのは、もともと息とか風のことをいった。『インスピレーション』 というのは、空気を吹き込むことを意味する。そういう精神的な営為が 『風』 としてとらえられてきた」
 
 つまり、安吾は、形がない … にもかかわらず感じられるもの、現実的な手触りのあるものを 「風」 と呼んだ、という。
  
 安吾が、その 「風の吹く荒野」 を 「ふるさと」 といったのは、どういうことなのだろう。

 安吾の 「ふるさと」 という言葉は、とっても不思議な使われ方をしている。
 それは私たちが通常使う 「ふるさと」 という言葉から、さらに遠いところに向かっている。
 少なくとも、「ふるさと」 という言葉にこもる 「温かみ」 や 「懐かしさ」 のようなものが、安吾の 「ふるさと」 からはストンと抜け落ちている。
 
 『文学のふるさと』 という安吾のエッセイでは、冒頭にシャルル・ペローの有名な童話 『赤頭巾』 が引用されているらしい。
 子供向けに、ハッピーエンドに仕立てられた童話と違って、原作はもっとシンプルだという。
 
 可愛い女の子が、森の中のおばあさんを見舞いに行く。
 それをおばあさんに化けた狼が、ムシャムシャと食べてしまう。
 原作はそこでストンと終わってしまう。
 
 それを引用して、安吾は次のように書く。
 
 「私たちは、いきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで、戸惑いながら、しかし、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない 『ふるさと』 を見ないでしょうか」
 
 ここで突然出てくる 「ふるさと」 は、ほとんどの読者を戸惑わせる。
 しかし、この感じが、私にはよく分かる。
 そこは、「風の吹いている荒野」 なのだ。
 
 共同体の教訓話に回収される前の、つまり 「物語」 という構造に収拾される前の、さらにいえば、「言葉」 としての説明を獲得する前の、人間が何かに出遭う瞬間の 「驚愕」 (= ときめき) が、そこに現れているように思う。
 
 人は、はじめて出遭った事件には、どう対処していいのか分からない。
 誰かに教えられ、あるいは似通った事例を研究し、何度か経験を重ねることによって、ようやく 「事件」 は 「解決可能な問題」 として認識される。

 しかし、安吾が問題としているのは、「どう対処していいのか分からないような」 、最初に遭遇する事件なのだ。
 
 経験も、知識も、教養も通用しない 「事件」 。
 いわば、裸になった人間が、たった独りで見つめなければならないような 「事件」 。

 それと向かい合う場所が、安吾にとっての 「ふるさと」 なのだ。
 いわば、経験や、知識や、教養の 「外部」 にある場所。
 つまり、「言葉」 が生まれる前の場所。
 
 そこに安吾は、「静かで、透明な、切ないふるさと」 を見る。
 すべての言葉は、そこから立ち現れて、またそこへ還って行く。
 私が感じる 「荒野」 にも、そんなイメージがある。
 
ボブ・モニュメントバレー25
  
 
関連記事 「アメリカの原風景 (モーターホームでアメリカを走る 9)」
 
参考記事 「荒野のディラン」

 

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荒野の思想 への4件のコメント

  1. Yama より:

    奥様はそりゃー、荒野を撮り続ける町田さんの行動を理解できませんね。
    奥方はたいてい「何も無いのに、なんで撮るの??」でしょうね(笑)。
    私の理解では、聖書の「荒野」はシナイ半島の荒地です。荒涼だる砂と岩だけの厳しい自然。モーゼが十戒を受け取る為に上った地、洗礼者ヨハネが神の声を聞けと叫んでいた地も荒地。
    何も無いところでこそ、彼らは神に対峙でき、神の声を聞けると素直に考えたのでしょう。
    坂口安吾の「堕落論」での「荒野」(こうや)は社会制度から一人はみ出して生きる様を「荒野を歩いていく」とたとえているようです。
    けれど、その荒野の一人道を歩く(堕落する)こと無くしては、天国には至りえずとも言っています。
    戦前の虚飾の徳目をかなぐり捨てた境地は、(町田さんが他の書物から捉えられたように)安吾にとっては自分を素直に見つめられる「ふるさと」だったのでしょう。
    町田さんは、言葉ではない風の聴ける荒野、風がそこから立ち現れて、またそこへ還って行く荒野に惹かれている、とおっしゃる。
    失礼ながら、神経衰弱的に相当疲れていませんか?おそらく、言葉を操(あやつ)る長いお仕事だから、既製の言葉の嵐に飽き飽きしているのでは(ブログの返答お疲れ様です)。
    社会常識から隔絶したところ、あーだこーだの既製の言葉が聞かれないところ、ただ風(内なる声)が聴けるところ・・荒野で、ご自分を静かに見つめたいという思いが常にあるのかと。。
    すみません私の勝手な推測でした。

  2. ブタイチ より:

    町田さんのブログは素晴らしいですが…
    今日のYamaさんのコメントもこれまた素晴らしいですね~。町田さんのブログの解説書になっていて…発見がありました。スゴイです。ありがとうございます。

  3. 町田 より:

    >Yama さん、ようこそ。
    今回Yamaさんからいただいたコメントは、まさにこの後にコメントをお寄せくださったブタイチさんの感想で、すべて語り尽くされているように思います。
    ホント、書いた私も気づかなかったような見事な解説で、「へぇー、オレそんな凄いこと書いたんだ!」 って驚いたくらいです。
    でも、うれしいです。
    安吾は別に、ことさら 「荒野」という言葉にこだわっていたわけでもないようですね。「海」 とか 「砂丘」 とか、要するに意味もなく茫洋と広がっている空間、つまりは一種の抽象的空間に、何か根源的なものを見つめていたように思います。
    だから、彼は物理的な空間としての 「荒野」 に安らぎのようなものを感じたりしていたわけではなく、むしろYamaさんのおっしゃるように、>「虚飾の徳目をかなぐり捨てた境地」 としての、一種の抽象的な 「思索空間」 をそこに見出していたのでしょう。
    それはあくまでも抽象力によって捉えられた 「荒野」 であって、現実的な空間としての荒野とは、またちょっと違ったものなのかもしれません。
    それに対して、私の方ははるかに情緒的に 「荒野」 を捉えています。
    たぶん、いみじくも推量されてしまったように、「疲れ」 もあるのかもしれませんね。
    ただ、気の利いた言葉さえつむぎ出せば、自分が思索の最先端にいると錯覚している人たちが多い中で、「言葉」 なんかなんだよ…ってな気分はあります。
    そんなとき、筆を折って、アデンアラビアで武器商人をしていたフランスの若い詩人のセリフが痛快に思えます。
    「人生は辛い辛いといつも言っているような連中は、このへんに来てしばらく暮らしてみるといいのだ。哲学を学ぶためにね」
     

  4. 町田 より:

    >ブタイチさん、ようこそ。
    アメリカの本物の荒野をたっぷり知っていらっしゃるブタイチさんに読まれると、ちょっと恥かしいなぁ…という思いがありました。私の方は、いくぶんブッキッシュに捉えた 「荒野」 なんで…。
    で、Yama さんのコメントの鋭さをしっかり押さえたブタイチさんにも感服してしまいます。
     

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