桐野夏生 「ローズガーデン」

 
 村野ミロは、桐野夏生のメジャー作家デビューを飾る『顔に降りかかる雨』のヒロインとして誕生した女性・私立探偵である。
 このミロは、2作目の『天使に見捨てられた夜』でも活躍し、チャンドラーの創出したフィリップ・マーロウのように、桐野夏生のその後の作品をスルーで飾るメインキャラクターになるかのように思われた。
 
 クールで、頭の切れもよくて、大胆。
 村野ミロは、そういう、ハードボイルドミステリーの主役を務めるにふさわしい性格を持ちながら、同時に、制御できない自分の弱さと自己嫌悪を内に抱え、それを押し殺しながら、あくどい個性を持つ人々と冷静に渡り合う。
 
 まさに、古典的なハードボイルドヒーローの定型を与えられたミロだが、それまでのハードボイルドヒーローと異なるところは、よくドジを踏むこと。
 それも、他者の情状を酌量しすぎて、ビジネスとしての事件解決を放棄してしまうという「弱さ」から来るドジが多い。
 そこがミロの  “愛すべき欠点”  となり、小説の主人公としては、読者の感情移入を受け入れやすいキャラクターになっていたといえるだろう。
 
 ところが、桐野夏生が、『OUT』や『柔らかな頬』という今までのミステリーの規範を破るような、人間の根源的な強さ、弱さ、恐ろしさを描く作家になってからは、誰にも愛された村野ミロというキャラクターも、変貌を遂げる。
 
 ミロがデビューした1993年の『顔にふりかかる雨』のミロと、2002年の『ダーク』に登場するミロは別人のようだ。
 『ダーク』に登場するミロには、もはや内なる弱さを仮面で隠し、クールに物事に対処しようとするハードボイルドヒーローの面影はない。
 義父の突然死を目撃しながら、助けもせずにその情景を凝視し、時には犯罪にも染まり、レイプされた結果によって生まれた幼児の手を引きながら、ヤクザや警察組織の追求を交わして逃避行をもくろむ女性に変っている。
 初期の作品で表現された「強がる弱い女」から完全に脱却した「荒ぶる女」がそこにいる。
 
 その変貌の謎は、にわかに読者には伝わらない。
 しかし、ひとつだけ、そのミロの変貌の秘密を明かす、重要な短編集がある。
 2000年に発表された『ローズガーデン』だ。
 
ローズガーデン
   
 短編集『ローズガーデン』は、村野ミロが登場する四つの短編で構成されている。
 そこに収録された作品は、基本的にサスペンスをベースにして、初期ミロの面影を濃密に残したエンターティメント色の強いものが中心となっている。
 
 ただ、ひとつだけ、例外的な作品がある。
 表題にもなった、書き下ろしの『ローズガーデン』だ。
 初出一覧を見ると、この短編だけが、 『OUT』『柔らかな頬』を経た後の作品だということが分かる。
 それ以外の3篇が、 『顔に降りかかる雨』、『天使に見捨てられた夜』に見られるハードボイルド小説のテイストを引きずっているものだとしたら、 『ローズガーデン』だけは異質だ。
 
 主人公のミロは、まだ探偵となる前の高校時代の姿をはじめて読者の前にさらすのだが、それは、自分だけの特異な世界に閉じこもる不思議な少女としてのミロである。
 どちらかというと、この後に書かれる『ダーク』に登場するミロに近いのだが、 『ダーク』のミロともまた違う “捉えどころのなさ” がある。
 “ミロシリーズ” の中でも、ひときわ謎の多い女になっているのだ。
 
 それは、この作品が、ミロの元夫であった河合博夫の視点で描かれているからでもあるが、私には、 『顔に降りかかる雨』のミロから『ダーク』のミロに至るまでの間に位置するミロを、作者が十分な性格づけを行わないまま書き始めたからではないか、とも思えるのだ。
 いわば「エアスポット」に落ちたミロである。
 
 しかし、だからこそ、ここに登場するミロは、他のシリーズに出てくるミロとは一線を画する、深い 《闇》 を抱えている。
 その 《闇》 はまた、男の情熱も、欲望もすべて吸収しながら、けっしてその出口を指し示すことのないブラックホールでもある。
 
 評論家の池上冬樹氏は、この作品が出た当時の書評欄で、この 《闇》 を「カオス(混沌)」という言葉で表現した。
 至言であると思う。
 カオスとは、豊饒なるものの “錯綜状態” を示すものだからだ。
 
 貧相なものは、決してカオスにはならない。
 『ローズガーデン』は、あたかも主人公の博夫が、ミロを回想しながら分け入っていく東南アジアの熱帯雨林のように、豊饒で、濃密で、混沌としていて、めくるめくような官能性を秘めた作品なのである。
 
 そして、そこには、一般的な「物語」の構造に回収されることのない、人間の剥き出しの「生」の揺らぎがほの見えている。
 たとえていえば、他のミロシリーズが、テレビの「サスペンス劇場」の原作として脚色されてしまう “分かりやすさ” を持っているのに対し、 『ローズガーデン』だけは、かたくなに、TVドラマに脚色されることを拒否している。
 
 万人が納得いくつくりにならざるを得ないテレビではなく、ひとつの「世界観」を持った映画監督の手になるフィルムの世界でなければ、どうしても再現できないような広がりを示しているのだ。
 言葉を変えていえば、「地平線」を見ることのない国内で撮影されたドラマと、「地平線」を背景に持つ海外の原野でロケされたドラマの違いとでもいっていいだろう。
 
 もちろん、インドネシアというエキゾチックな舞台設定が与えられたことから受ける印象もあるだろうが、それ以上に、この作品はテーマそのものが日本離れしている。
 主要な登場人物はみな日本人なのに、昔のフランス映画のような濃密な快楽の追求がテーマになっている。
 
 つまり、 「男は、愛する女の身体を手に入れたときよりも、相手の身体をむさぼりながら、心を手に入れらないことに気づくとき、最も官能的な思いに浸される」という、伝統的なフランス文学やフランス映画に貫かれた 《公理》 を忠実になぞった作品なのだ。
 
 その 《公理》 には、いくつかのパターンがある。
 ひとつは、 “裏切る悪女” というファムファタールの系譜。
 もうひとつは、不倫。
 
 たとえ相思相愛の仲になったといえども、どちらか、あるいは双方に家庭があった場合、相手の「心」を完全に手中に収めるには、「家庭」が障害となる。
 愛の言葉を交し合う濃密な時間の中でも、相手の心に、もしかしたら自分の家庭のことが影を落としているかもしれないという焦燥から、不倫の恋人たちは脱出することができない。
 
 もうひとつある。
 「相手の心」が、自分の心とのスケールの違いによって読めない場合。
 
 相手の女性が、愛とは別の目的で自分を利用しているかもしれない…というのなら、それは  “悪女”  の話の系譜に入る。
 しかし、博夫とミロの関係は、二人の心の「大きさ」の違いとして表れる。
 ミロの心は、博夫が包摂するには大きすぎる、というか、深すぎる 《闇》 を抱えている。
 
 だから、ミロの愛情をたっぷり受けているように思える瞬間があっても、博夫の心は、その 《闇》 の奥底までは届かず、逆に、ミロの心の底から浮かび上がる妖しくも恐ろしい官能性だけを手に入れることになる。
 それは、男が受ける究極の「快楽」と「悲劇」に彩られるしかないようなものだ。
 
 『ローズガーデン』の主役を務める博夫は、仕事のために、インドネシアの大河の中を、小さなボートで、ジャングルの集落目指して遡っている。
 すでにミロとは離婚して、もう2人の間を法的に拘束しあう絆はない。
 
 しかし、博夫の心の中には、いまだにミロに対するうずくような未練が燃え盛っている。
 むしろ、別れたからこそ、失われたものへの執着がつのるのだ。
 
 「 …… 考えてみれば、自分は高校生のミロを、彼女と肉体関係のあったその義父から奪ったときから、ミロの何かを獲得したことがあったのだろうか?」
 
 密林に囲まれた河を遡っていく博夫に、長い陰鬱な旅が、ミロと自分の関係を考え直すきっかけを与える。
   
 博夫は、ミロの不幸の根源を探そうとする。
 そこには、どうしても、ミロが嫌悪しながらも義父との交わりを続けなければならなかったという異様な関係が浮かび上がってくる。
 それは、ミロの精神を、孤独で歪(いびつ)なものに変えたかもしれない。
 
 しかし、そのような、自分の意のままにならぬ女のざっくり開いた傷口をなめることは、恋する男にとっては、蜜の味。
 そして、それによって切り裂かれる自分の傷口を覗き込むのは、それにもまさる快楽。
 そこには、サディズムとマゾヒズムが渾然一体となった桃源郷がある。
 
 だが、それも、今は失われてしまっている。
 博夫は、喪失感と、いまだ消すことのできない官能のうづきを胸に秘めたまま、濁流の彼方に広がる熱帯雨林を見つめ続ける。
 
 この博夫が見つめるインドネシアの自然には、おそらく、1980年に日本でも公開された映画『地獄の黙示録』のイメージが重ねられているはずである。
 (あるいは、その原作となったジョセフ・コンラッドの『闇の奥』の世界が反映されているかもしれない)
 
 あの映画に描かれたアジアこそ、ヨーロッパ人的な視線で眺められたアジアである。
 エキゾチックな謎と無気味さに満ちたアジア。
 冒険心をくすぐる危険な魅力を秘めたアジア。
 迷路のような、仄暗い奥行きをほのめかすアジア。
 
 それは、19世紀から20世紀初頭にかけての、欧米諸国の植民地争奪戦の時代に培われたアジア像といってもかまわない。
 
 その後、こういうアジアに対する視線は、エドワード・サイードによって「オリエンタリズム」と名づけられ、侵略と収奪を前提に対象化されたアジア観として批判されるようになった。
 帝国主義時代のイデオロギーで粉飾された、強引な作意による虚構のアジア像だというわけだ。
 
 しかし、そのヨーロッパ人たちが描いた虚構のアジア像はまたなんと妖しげな魅力を放っていることか。
 ダヴィッドの描くトルコ王宮のハーレムの画像を持ち出すまでもなく、謎めいたエキゾチシズムに彩られたアジアという構造は、実に官能的な胸騒ぎを招きよせる。
 そこには、帝国主義時代を迎えたヨーロッパ人が、長い間文明的に劣等感を抱き続けてきたアジアに対し、「かつて高嶺の花だった女を奴隷におとしめて犯す」というサディスティックな思いを抱いていた事実が浮かび上がってくる。
 
 ここに描かれたインドネシアは、そのような、どこかヨーロッパ文化のバタくささに彩られたアジアだ。
 非文明的で、非衛生的で、危険で、平気で裏切りそうで、それでいて豊饒で、優雅で、無欲で、無類にエロチック。
 まさに、かつてのヨーロッパ人のサディズムの対象になりそうなアジアといっていい。
 
 実際には、その時代のアジアの自然は、アジア的な視点で眺めれば、もっとエコロジカルな宗教性を帯びていていたはずなのだ。
 
 ところが、あえて桐野夏生は、博夫に、かつてのヨーロッパ人が見たアジアの自然を見つめさせる。
 
 そうする必然性があったのだ。
 なぜなら、そのようなサディズムとマゾヒズムが混在するヨーロッパ的な(とりわけフランス文学的な)視線でみたアジアの快楽を、熱帯雨林を見つめる博夫の目に焼き付けたかったからである。
 

 
 そして、その豊かな官能性を秘めた熱帯アジアの河と密林が、そのままそっくり、博夫が愛してきたミロを象徴していることを、博夫に教えたかったのだ。
 
 博夫たちの乗る船が次第に上流に近づき、周りの密林が険しさを増す頃、博夫ははじめて、自問する。
 「俺はどこに行く?」
 
 ミロから離れるためにやってきたインドネシア。
 しかし、それこそ、実はミロを求めながら、それと決別する旅であったことが、ここで微妙に暗示される。
 
 その後の博夫がどうなったか。
 それが桐野夏生のデビュー作『頬にふりかかる雨』に描かれている。
 
 博夫の「海外出張中の自殺」は、ミロの心に、永遠の重しを与えることになる。
 
 博夫の死を、自分はどう受け止めたらよいのか。
 ミロは、懊悩する。
 その答を模索する苦しさと、博夫への贖罪の意識から、女・私立探偵ミロの彷徨が始まる。
 
 
参考記事 「ファイアーボールブルース」
 
参考記事 「対論集 『発火点』」

参考記事 「桐野夏生編 『我等、同じ船に乗り』 」
  
参考記事 「桐野夏生 『ダーク』」
  

カテゴリー: 映画&本   パーマリンク

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong> <img localsrc="" alt="">