荒野のディラン

 
ボブ・ディランジャケ001

 ボブ・ディランというアーチストを語ることは、私にはとても難しい。
 ビートルズのデビューとほぼ同じ頃に登場し、60年代、70年代を代表する数々の名曲をリリースし、現在も第一線で活躍するスーパーアーチストなのだが、なぜか私は、ボブ・ディランという歌手を自分の中にどう位置づけたらいいのか、いまだによく分からない。

 彼の歌を聞いていると、なぜか 「歌」 とは異なる “別の何か” を聞いている、と思うことが時々あるからだ。

 それは、凍てついた荒野の彼方 (かなた) から、闇を突き抜けて響いてくる、正体定かならぬ者の 「叫び」 のようなものかもしれない。
 母親に、「誰も叫んでいませんよ。安心して眠りなさい」 と言われながらも、ふと目を覚まし、耳をすませると、山を越え、谷をくぐり抜けて、枕もとに忍び寄ってくる声。
 そういうものを感じることがあるのだ。
 
ホッパー07

 私は音楽にあまり “思想性” を求める習慣がないので、洋楽でも J ポップでも、ほとんど 「音」 としてしか聞いたことがない。
 たまに、「サウンド」 として気に入った歌があれば、ようやく歌詞カードを開き、何を主張したいのかな ? と気にとめる程度なのである。
 だから、ボブ・ディランの歌が当時のラジオから流れ出した頃、「サウンド」 にしか関心のなかった私は、あっさりと “聞き逃していた” のだと思う。

 ようやく、ボブ・ディランの曲が耳に入ってきたのは、『風に吹かれて』 (1963年) からである。
 しかし、それは彼のオリジナルではなく、PPM (ピーター・ポール&マリー) のカバー曲の方だった。
 メロディも覚えやすく、コード展開も簡単な曲だったので、そのうち歌詞カードを見ながらギターで弾くようになった。
 そのとき、はじめてボブ・ディランの曲だということが分かった。

 興味を持ってオリジナルの方も聞いてみたら、「まったく別の歌か ? 」 と思った。
 PPM の方は、メロディラインを忠実になぞりながら、歌詞もしっかり聞き取れるクリアな声で歌っている。
 それに比べ、実作者であるボブ・ディランは、メロディラインをたどるのもおぼつかないような節回しで、聴衆に罵声を浴びせるように、ぶっきらぼうに歌っている。
 嫌だな … と思った。

 なぜ 「嫌だな」 と思ったのか。

 後から思うと、私はボブ・ディランの “歌声” に、
 自分を脅かすもの、
 自分を安住の地から連れ出そうとするもの、
 自分のアイデンティティを奪おうとするもの、
 … の “気配” をかぎ取ったのだと思う。

 それが、さっき言った、「凍てついた荒野の彼方から、闇を突き抜けて響いてくる “叫び” 」 なのだが、もちろん、PPM の歌と聞き比べた頃は、そのようなイメージは、まだ固まっていない。
 ただの 「下手な」 歌声に過ぎなかった。

ボブ・モニュメントバレー002

 その後もボブ・ディランに対しては冷淡な距離を取り続けながら、私は 「音」 として派手なもの、サウンドがカッコいいもの、曲として耳になじみやすいものを洋楽に求め、ニューロック、アートロック、ハードロックなどといわれる新しいロックサウンズの方に傾倒していった。

 そういう新しいグループの曲には、気に入ったものがいっぱいあった。
 ザ・バーズの 「ミスター・タンブリマン」
 ジミ・ヘンドリックスの 「見張り塔からずっと (All Along The Watchtower) 」
 ザ・バンドの 「アイ・シャル・ビー・リリースト」

 みんないい曲だなぁ … と思って、それらの曲をコレクトした自分のオリジナルテープなどを作っているときに、ふと気がついた。
 お気に入りだと思った曲は、みなボブ・ディランの曲だったのだ。

 そこで、再び興味を感じて、ボブ・ディランのオリジナル音源と聞き比べてみた。
 すると、やはり自分には、カバーしているサウンドの方がみな心地よく聞こえてしまう。
 反対に、美しい歌だと思ったものでも、ボブ・ディランが歌うと、どこか不安定で、落ち着かない気分になる。

 そこから次々と疑問が湧いた。
 
 ボブ・ディランが、なぜアメリカで人気を保っているのだろう ?
 日本にも熱狂的なディランファンがいるのは、なぜだろう ?
 彼のいったい何が、多くの人たちから評価されているのだろう ?
 彼の魅力を読みとれない自分には、何が欠けているのだろう ?

 ようやく、私はボブ・ディランというアーチストが秘めている 「謎」 にたどり着いたのだ。

ボブ・ディラン342302

 ボブ・ディランの曲が、なぜアメリカ人に人気があるのか ?
 (ちなみに、2007年のアメリカの 「ローリングストーン・マガジン」 誌が選んだ、「ロック史上最も偉大な500曲」 のベスト 1 に選ばれたのは、ボブ・ディランの 『ライク・ア・ローリング・ストーン』 だった)

 彼の歌が、なぜアメリカ人に評価されるのかという問に対する答は、ある程度簡単に出せる。
 ボブ・ディランが 「英語」で歌っているからである。
 つまり、英語が聞き取れない私などは、彼の歌をただの 「音」 としてしか捉えられないのに対し、アメリカ人たちは 「詩」 として聞く。つまり彼らは、詩を通して伝わる 「意味」 をつかんでいる。
 
 「意味」 が分からなければ、ディランの歌の “良さ” は理解できない。
 そのことに気がついて、歌詞カードをいくつか拾ってみると、確かに、不思議な光彩に満たされた世界を語る歌詞が多い。

 … が、何をいいたいのかよく分からない。

 初期のプロテストソングですら、政治権力や社会体制に対する抗議の中に、意味不明の哲学的、文学的なフレーズが入り込んでくる。
 こんな難しい歌を、ポピュラーソングとしては単純明快なカントリー&ウエスタンの伝統しかないアメリカ人が理解できるのか ?
 そんな気すらした。

ボブ・0020

 しかし、自分にとっての最大の 「謎」 は、ボブ・ディランの作った曲を、他のアーチストがカバーすると、なぜ心地よく聞こえ、ボブ・ディランが歌うと、なぜ “落ち着かない気分” になるのか … ということだった。

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 そのうち、ぼんやりと … だが、ひとつのイメージが固まってきた。
 『新約聖書マタイによる福音書』 10章34節から39節。

 …… 私が来たことを、地上に平和をもたらすためだと思ってはならない。
 平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
 私は、父を、娘と母を、嫁としゅうとめを “敵対させる” ために来たのだ。
 私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。
 私よりも、息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない。
 また、自分の十字架を担って、私に従わない者は、私にふさわしくない。
 自分の命を得ようとする者は、それを失い、私のために命を失う者は、かえってそれを得る……。

 キリストの言葉だという。
 
 人に 「愛」 と 「平和」 を説いていたはずのキリストが、なぜ、このような不安に彩られた教えを、突然語ったのか。
 家族をいつくしむことを説いていたはずのキリストが、なぜ、家族を引き裂くような教えを語ったのか。
 私は、ある思想書にこの一節が引用されているのを読んだとき、とても奇妙なものを感じたと同時に、目のまえに突然 「荒野」 が広がったような、身の引きしまるような戦慄を感じたことがあった。

ボブ・ディランMバレー

 キリスト教というものにさほど関心を持たず、「困ったときに助けてくれるもの」 というぐらいの、素朴な信頼感しか持ち合わせていなかった私は、この一節に、イエス・キリストの厳しさと怖さを感じた。
 しかし、その 「怖さ」 は、人を強力に引き寄せてしまう、抗 (あらが) いがたい 「力」 から来るもののようにも思えた。
 
 家族の呪縛から解き放たれた、孤独と向き合う 「場所」 
 思考を閉ざす微温的な愛に自足せず、真理を見すえる 「場所」
 この世の掟 (おきて) が通じない、絶対的な 「場所」

 その場所がどんな所なのかよく分らないけれど、キリストの言葉は、
 「人間には、とにかく跳ばないことには着地できない “場所” がある」
 ということを教えているように感じた。
 
 ボブ・ディランの、あのぶっきらぼうな、人を突き放したような 「声」 は、まさに 「跳ばないと着地できない場所」 から響いてきたような 「声」 だったのだ。

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 彼の歌が、なぜ私を不安な気持ちにさせるのか。
 その声が、なぜ自分を 「安住の地」 から引き離すようなものに聞こえてしまうのか。

 それは、「剣を持ち、家族を引き離すためにやってきた」 というマタイ伝のキリストの言葉を連想させたからである。
 そして、それが私にはまた、人間に 「自立」 を促がす言葉であることも分っていたのだ。
 いつかは、親元を離れ、… つまりは充足された 「共同体」 を離れ、独りで 「荒野に立て」 という教えでもあることに気づいていたのだ。
 そのことに気づいても、気づいていない振りをしていたから、それが 「不安」 に感じられたのだ。

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 ユダヤ系の家庭に育ったボブ・ディランが、なぜユダヤ教を離れ、プロテスタント系のクリスチャンになったのかは分らない。
 私には、ユダヤ教とキリスト教の教学的な区別もつかない。

 しかし、ひとつ言えることは、彼のあのヒリヒリするような孤独感をたたえたダミ声は、ユダヤ教やキリスト教の風土である 「荒野」 の声だったということだ。

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 彼の歌には、この世をどこか別の場所から眺めるような 「超越者」 の視線がある。

 ノックしながら天国の扉を見つめる “ビリー・ザ・キッド” (天国の扉)。
 西から昇る (!?) 太陽を浴びて解放される “私” (アイ・シャル・ビー・リリースト) 。
 道を行く騎士や女たちの姿を、監視塔の上から眺める “王子” (見張り塔からずっと) 。
 いつになれば空が本当に青く見えるのか ? と問う “男” (風に吹かれて) 。

 そこには、歌の中で登場する主人公が、普通の視線では視ることのできない不思議な世界を視ている様子が描かれている。

 そのような、「見る主体」 と 「見られる対象」 の絶対的な乖離 (かいり) を伝える “まなざし” があってこそ、あの歌い方が選ばれたのだと思う。

 あのぶっきらぼうなしゃがれ声は、ディランのナマの声ではない。
 歌に超越的な “まなざし” を導入させるために、戦略的に導き出された声といっていい。
 だから、テーマが様々な方向に広がっていく後期になると、もう彼は普通の声に戻っていく。
 しかし、フォークギターを抱えてステージに立った初期のディランは、見事に 「荒野を吹く風」 の声で歌った。

ボブ・モニュメントバレー25

 私は、夜ディランのその声を聞くと、どこか遠いところに連れ去られるような気がしてくる。
 それが怖い。
 だけど、行かなければならない。
 そう思う。
 今日でなければ、いつの日にか。

▼ 「ロック史上最も偉大な500曲」 のベスト 1 に選ばれた 「ライク・ア・ローリングストーン」
  
 
参考記事 「荒野の思想」
 
参考記事 「宗教がわかれば世界はみえるか ? 」
 
参考記事 「宗教書ブーム (ふしぎなキリスト教) 」
 
参考記事 「答のない問」

参考記事 「イエス・キリストのトークショー」
 
  
  

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荒野のディラン への2件のコメント

  1. スパンキー より:

    ちょっと衝撃を受けました。私にとってボブ・デイランは伝説のアーティストでしたので、町田さんの言葉を通して、彼の凄さを知った次第です。
    (山を越え、谷をくぐり抜けて、枕もとに忍び寄ってくる声)と(凍てついた荒野の彼方から、闇を突き抜けて響いてくる “叫び”)という町田フレーズは、ディランの歌声を端的に言い表していますね。と同時に町田さんの詩的センスに脱帽!
    また、ユダヤ教やキリスト教の風土が「荒野」ということさえ、私は知りませんでした。コレ、良い勉強になりました!
    しかし、やはり人はやがて「荒野」をめざす存在なのでしょうね?フォークルも当の昔に歌っていましたし。私個人としては、山の頂上をめざしたい気分です。
    いずれにしろ、とても鋭く、読み応えのある文章を堪能させて頂きました。

  2. 町田 より:

    >スパンキーさん、ようこそ。
    昔、確かにフォーク・クルセダーズの歌に 『青年は荒野をめざす』 という歌がありました。
    それは、今から思うと、このような60~70年代のボブ・ディランの歌を生んだ同じ精神風土から生まれていたのかもしれませんね。
    昔からボブ・ディランという人には、その風貌とか、歌詞の作りなどから、どこか旧約聖書に登場する “荒野をさまよう預言者” というイメージを持っていたのです。
    その印象から、こんな記事を書いてしまったのでしょうね。
    預言者たちの言葉は、昔から 「怖いもの」 に決まっていたようです。
    なぜなら、何も感じないまま安穏 (あんのん) と暮していた人々に、「目覚めよ」 と脅すわけですから、一種の 「脅迫」 ですよね。
    でも、その 「脅迫」 から、人々は自分の生き方を問い直すきっかけが与えられるわけですから、それは 「荒野に連れ出される」 ことを意味しているのかもしれません。
    コメント本当にありがとうございました。
     

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