エドワード・ホッパーの “晩秋”

 
 晩秋。
 この秋の最後の日曜日だ。
 年末よりも、今の方が、一年の終わりという気配が濃い。
 冬になってしまえば、逆に、訪れる春に向かって、生命が待機状態に入っているという気分が強まってくる。
 大地は枯れ果てても、土の中で生命が胎動している気配を感じ取ることができる。
 
 しかし、秋は「終わっちゃったよ… 」の感じ。
 暮れゆく秋の空を眺めていると、パチンコの最後の玉が穴に消え行くのを目で追ってから、おもむろに席を立つときの、あの心境に近づいていく。
 
エドワード・ホッパー004
 
 秋が深まると、光が変る。
 どこか、この世でないところから射してくる光が感じられる。
 落ち葉の上を、ひたすら、細く、長く伸びていく影。
 地平線があれば、それを超えて、さらにその先まで伸びていきそうな秋の影を見ていると、影が、この世界とは違う場所に行こうとしているような気がする。
 
エドワード・ホッパー003
 
 照射角の低い秋の陽は、建物の真横を直撃し、そのために、ただの家の壁さえもメタリカルに輝き出す。
 エドワード・ホッパーの絵を見ていると、いつもその秋の光を感じる。
 この世でありながら、この世界を超越するような光景を作り出す不思議な光。
 ホッパーの絵に表れる光は、時に恐ろしく、時になつかしい。
 
エドワード・ホッパー004
 
 幼い頃に見ていた風景は、大人になって接する風景よりも、はるかに美しく、鮮やかに輝いていたはずだ。
 しかし、それは同時に、世界を「言語」を通してみる習慣を持たなかった頃の、生々しい不安や恐怖にも彩られている。
 ホッパーの絵から漂ってくる怖さというのは、ちょうど迷子になった子供が感じるような怖さに近い。
 
エドワード・ホッパー005
 
 彼の絵から立ち登ってくる言い知れぬ不安感は、幼い日の夕暮れに、買い物をしている親からふとはぐれてしまったときの不安感に似ていないだろうか。
 
 そのとき見ている街の風景は、見慣れた街であっても、この世の風景でない。
 時間が凍結し、物音も途絶え、「世界」が急に “うつろ” になっていく気配が周りの空気に満ちている。
 
エドワード・ホッパー001
 
 大人になったわれわれは、「迷子」の怖さを忘れている。
 
 「迷子になる」というのは、単に親からはぐれてしまったことをいうのではない。
 自分が何者なのかも分からず、どこを目指そうとしているのかも分からないという、人間の根幹を揺るがすような不安と孤独に接する状態を「迷子」というのだ。
 
エドワード・ホッパー002
 
 ホッパーは、「迷子」の不安と孤独を描いた画家である。
 だから、彼の絵に接すると、「自分は今どこにいるのだろう?」と問わざるを得ないような、世界でたった独り孤立しているような哀しみがこみ上げてくる。
 しかし、そこには、とてつもない「なつかしさ」も潜んでいる。
 
エドワード・ホッパー006
 
 「なつかしさ」と「不安感」は、両立する感情なのだろうか。
 ホッパーの絵では、それが見事に両立している。
 彼の絵に漂う「超越的な雰囲気」というのは、その二つが奇跡のように結合したところから生まれてくる。
 秋の不思議な光が生み出す魔術のように。 
  
 
 参考記事 「ハンマースホイの扉」
 
 
 

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