「トリハダ」 携帯電話の恐怖

 
 「ホラー」 というのは、映画にしても、小説にしても、それを生理的に嫌悪する人と、マニアックにのめりこむ人と、好みがはっきり分かれるジャンルのような気がする。
 うちのカミさんなんかは、ホラーを極端に嫌がる。
 たまに、ちょっと 「怖いネタ」 に話を振ると、 「あなたの顔だけで十分」 と、私のことを巨大化したゴキブリでも見つめるような眼で、露骨な嫌悪感を示す。
 映画 『20世紀少年』 (2009年) がテレビで話題になっていたとき、そぉっと後から、
 「あそぼー」
 っと声かけたら、いきなり電気掃除機の柄で、引っ叩かれたことがあった。
 あれは、ホラーというわけでもねぇのにな…。
 
 ま、私自身は、昔から怪談話が好きで、A・E・ポーとか、ブラックウッドのような怪奇小説風味の短編とか、SFでも、レイ・ブラッドベリの幻想的ライトホラーみたいな小説を好んで読んでいた。
 そんなわけで、古典的なホラーのスタイルというものはよく分かっているつもりなんだけど、やっぱりホラーというのは、時代によって変るものだという印象を、最近は強く持つようになった。
 
 ちょっと前、 『トリハダ』 というホラー・テレビドラマを観たときに気づいたのだけれど、いかにも 「現代のホラー」 だなぁ…と思ったのは、携帯電話の使い方だった。
 携帯電話に着目した最初のホラー作品としては、秋元康の 『着信あり』 がある。
 
着信あり01
 
 便利なアイテムとしてすっかり定着した携帯電話が、 「死のメッセージ」 を送ってくるというところが、なんとも怖い話だったが、着眼点そのものが、いかにも現代的だと思った。
 
 TVの 『トリハダ』 シリーズにも、携帯電話がよく登場する。
 もちろん、電話そのものが 「恐怖の小道具」 として描かれる話もあるのだが、そうではなく、友だちとの会話や恋人との連絡を務める道具として、しょっちゅう携帯電話が使われる。
 しかし、電話の向こう側にいる人間が、はたして本当に 「友だち」 なのか? …と考えると、それを保証する根拠は、実は何もないのだ。
 声が 「友だちの声」 だ。
 相手がしゃべる内容に、それまで共通の話題を交わしていた者同士の連続性がある。
 
 かろうじて、それだけが、電話の主を確定する根拠となっている。
 だけど、それは本当に、相手が自分の友人であることを実証する根拠となりうるものなのか?
 「振り込め詐欺」 の例をあげるまでもなく、巧妙に仕組まれたワナに、人間はコロっと騙される。
 声が似ていれば、しらばく話してから、間違い電話だったことに気づくこともある。
 ましてや、「友だち」 と信じていた相手が、妖怪 (のような邪悪な存在) だったら?
  
 一度そのことに気づくと、電話というものが、はたして 「何と何をつなげるものなのか?」 という根本的な疑問に遭遇する。
 電話のつながった向こうの世界が、 「この世」 であるとは限らないのだ。
 
 このような恐怖は、同じ電話でも、まだ固定電話の時代にははっきりと見えてこなかった。
 固定電話は家族全員で使うものだから、話したい相手がすぐに電話口に出てくれるとは限らない。
 たとえばガールフレンドと電話で話したいと思っても、固定電話の場合は、口うるさい彼女の親父に取次ぎを頼まなければならないこともあるだろうし、家族が聞き耳を立てているかもしれないので、込み入った話もできない。
 だから、固定電話の時代は、相手と確実なコミュニケーションを取ろうと思ったら、結局は、顔を合わせて話し合うしかなかった。
 しかし、その非効率性との引き換えに、相手の意志も、その信頼性も把握することができた。
 
 ところが、パーソナルに使える携帯電話は、面と向かって話さなければならないという面倒くさい手続を解消した。
 いつだって、どこだって、話ができるし、話さなくてもメールの交換ができる。
 だから携帯電話の普及は、他者との距離を一気に縮めたかのように思える。
 
 しかし、実は、距離は遠のいたのだ。
 親しいはずの “相手” の影が不鮮明になり、かろうじて 「声」 と 「文字」 だけが、相手とつながるツールとして残されたに過ぎない。
 
 そこに、現代の恐怖が入り込む 「隙間」 が生まれた。
 これを即物的な言葉で言い直すならば、違法ドラッグの売買でも、援助交際の誘惑でも、殺しの請け負いでも何でもアリの無法地帯が、まったく悪びれることもなく日常生活へ侵入してきたことを意味している。
 
 携帯電話という、パーソナルな通信機関の完成形態のようなものを手に入れた現代人は、ある意味で、究極の個人主義を実現したともいえる。
 しかし、そのような 「個」 の極北に立った人々が目にしたものが、不安に彩られた茫漠たる 《荒野》 だったとは。
 これを 「文明の皮肉」 といわずに何といおう。
 
 さて、その 『トリハダ』 (YOU TUBE) から、携帯電話の怖さを語る一篇をひとつ。
 深夜に、独りで見ないように。
 

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「トリハダ」 携帯電話の恐怖 への6件のコメント

  1. 北海太郎 より:

    町田編集長、こんにちは。久々に書き込みをさせてください。今日のお題の「携帯電話」私の先輩50代後半の方なのですが、3ヶ月前に携帯電話を無くしてしまったということで、なかなか周りとの連絡が着かなくなりました。
    私たちも集まりなどがあるときに携帯というのは便利すぎてありがたみがなくなり、感謝する、電話に出てくれてありがとうなどというのは本当に無くなってしまいましたよね。できれば携帯など無くなればどんなに今の人間はいい感情を持てるようになるだろうと思う昨今です。
    しかし、その先輩、とうとう最近携帯電話を再度申し込みをしたようです。一度は携帯で繋がらないという事に快感を覚えたと言っていたのですが。
    周囲の人達から「繋がらないんだから、連絡しなくてもいいんじゃない」という言葉もでるありさまで、一人村はずれ(古い)状態になってしまいました。
    その状況が続くと本当に焦り始めたのか、再度の申し込みをしたという訳です。
    恐ろしい社会になりましたよね。本当に。
    私も携帯電話を持ったのは皆がまだ使っていなかった頃からでした。便利な電話が出たなと思って、通話料も高かったのですがノキアという携帯を持っていました。
    それが今から、12年前の話です。
    今やこの状況です。
    仕事をやめる頃になったら、本当に先輩のように携帯をやめるのも人間をやめない一つの手段かもしれないですね。
    情報とはなんなのでしょうね。
    繋がるというのはどういう事なのでしょうね。
    不思議な時代になりました。
    そのうち、かみさんとキャンピングカーに乗って日本中を旅するのがいいです。
    そうします。きっと。
    私は、やはり古いのかな。もう少しで50になりかけですが、立派に腹だけは中年なのですけれどね。

  2. 町田 より:

    >北海太郎さん、ようこそ。
    現代人が、いかに携帯電話という存在に依存しているかということを、北海太郎さんのコメントを拝読し、今さらながら実感した次第です。
    つまり、それがないと、自分が“村八分”にされてしまったような孤独感すら持つということですね。
    それは、「便利さが生んだ孤独」ともいえるもので、現代社会特有の孤独だといえるような気もします。
    不思議ですね。そのような道具がない時代には、人間それでも何の不満もなく暮していたのですから。
    「便利なこと」 というのは、「忙しいこと」 を一つ追加することだという気もしています。「情報の流通が早い」 ということは、それだけ 「時間が短くなる」 ということです。
    >「携帯をやめるのも、人間をやめない一つの手段」 というのは鋭い洞察だと思いました。
    でも、一度便利なものを手に入れると、人間なかなか元には戻れない。私も、もう携帯電話がないと、仕事も私生活もお手上げです。
     

  3. Get より:

    書斎の電話が鳴りました。
    部屋の隅の椅子から立ち上がり、卓上の電話を一瞥。
    ”なんだ、ウチの電話番号だ”
    発信元は私の電話です。
    勿論私が電話を自分に向けて掛けた訳ではないので、
    メッセージ無しで6回の発信音で終わり。
    今度は立ち上がらなくていいように、送受機を椅子まで持って行きました。
    小一時間してフッと疑問が湧きました。
    送受履歴をチェックしても先ほどの我が電話番号の発信レコードが表示されません。
    かかってきた番号は固定電話で4回線あり、寝室、キッチン、居間と書斎です。
    書斎の回線が Mother Line です。
    ケータイは契約を更新していないので、単にPCとして使用しています。
    ケータイは電話としては機能しません。
    家には私と犬だけ。
    試しに我が電話番号を入力。
    かかりません???

    時間は午後の3時ごろ。
    天井の天窓から差し込む光が随分と柔らかくなってきたと感じます。
    廊下伝いに吹いてくる涼風は、もう秋の気配。
    書斎から庭に向けて開けたドアーへと吹き抜けます。
    当たり前に平和な初秋の午後の出来事でした。

    夜中の就寝中にベッド脇の電話が鳴りませんように。
    我が電話番号が表示されませんように。
    もしかかってきたらホラーですよ!

    秋の方が怪談話は怖いです。
    なんだって、なかなか夜が明けないんですから。

    • 町田 より:

      Get さん、ようこそ
      いやぁ、怖いお話 !!
      それ、実話ですよね ?
      背筋が寒くなりました。
      もし、作り話だとしたら、極上のホラー小説になりそうです。

      夏に怪談を鑑賞するという習慣は、人間の想像力が怖さで満たされると毛細血管が収縮し、よって体内の血流が下がって身体が冷えるから … という話を昔聞いたことがあります。(間違っていたらごめんなさい)
      「夏のお化け話」 というのは、つまりは需要と供給の問題だったんですね。

      だから、本当に怖い話が真実味を増すのは、夜の深さが増していく「秋」 。
      指摘されて、納得がいきます。
      秋の太陽がどんどん低くなり、地上を這う木の影などが次第に伸びていく風情というのは、どこかさびしくて、ホラーっぽいものと親和性が高そうです。
       

  4. Get より:

    文筆にセンスがある人がこれを元にしたら、
    結構怖~いホラー小説に仕上げられるかもしれませんね。

    これを元にホラー小説に挑戦。
    相手は電話代を払っている誰か、詰まり私だとします。
    私が送信先の私に向かって発する言葉。

    ”何のために私に電話をかけてくるのか?いい加減にさらせ~”!
    と、自分に怒鳴るか?

    或は、結構よそゆきの声音で。
    あなたは私ですね?困りましたね、このナンセンスには。

    ここまでいくと、何やらの教祖様が登場。
    ”あぁ、霊が付着してます。お祓いで追い出しましょう”
    で、縛られたり、叩かれたり、中ずりされたり、火責め水責めです。
    命からがら、法外なお祓い料をとられ、もう電話代を払うどころではない。
    それにより迷惑電話とのコネクションが無くなりました。
    適当にに目出度しでした。
    と、こんな展開になってしまいました。

    好材料、生かすも殺すも仕掛け人次第ですね。
    御ブログは、いかなる主題もグイグイと引き込まれて読み終わります。
    私、精一杯シナリヲを書いてみましたが、
    しかし私にはその才が無いので、お笑いになってしまいました。
    編集長ー、後を引き継いで極上のホラー仕立てにしてくださーい!!

    数日前に転んで左後頭部を打撲。
    一時はカボチャにごとくに腫れ上がり、必死で冷やしました。
    不思議体験はこれが故だと思われます。
    全ての不思議体験は我が脳の働きに由るものだと解釈しています。
    しかし怖いものは怖いので厄介です。

    • 町田 より:

      Get さん、ようこそ
      素敵じゃないですか !!
      ホラー風の話が一転、コミカルなコント風の小ばなしとなる。
      その逆転のあんばいが鮮やか。
      これはこれで、けっこう楽しめました。

      それよりも、転倒されて後頭部を打たれたとのこと。大丈夫ですか?
      頭の打撃は、自覚症状がなくても神経が傷んでしまうことがある、とよく聞きます。お大事に。

      霊視体験とか、超常現象体験などというのは、脳内のちょっとした異変が反映したものというのは、ある程度科学的に実証されているようですね。
      でも、私は「お化け」がいた方が楽しいと思います。
      源氏物語の生霊とか、小泉八雲の怪談小説集とか、ある程度の霊視体験みたいなものを信じないと面白く読めませんものね。
       

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