ゴジラの降臨

 
 怪獣映画というのは、初代ゴジラで終わってしまったのではないか。
 『東宝特撮映画 DVD コレクション』(990円)を買って、昭和29年に公開された初代ゴジラの DVD を観て、そう思った。
 
 ゴジラシリーズはいろいろ観ているし、この初代ゴジラの映像も、何かの機会でチラっと見たことはある。
 しかし、スルーで観たのは、実は今回が初めてだったのだ。
 
 なにしろ、この映画が公開されたとき、私はまだ4歳でしかない。
 こういう映画が日本で生まれ、巷の評判となっていたこともよく知らなかった。
 あらためてじっくり観て、圧倒された。
 その後に制作されたゴジラ・シリーズは何だったんだ?
 この迫力にかなうものは、その後つくられてはいないのではないか。
 そんな気もした。
 
 この最初のゴジラ映画の特徴は、圧倒的な「暗さ」だ。
 テーマが暗いとか、ムードが暗いといった意味での暗さではない。
 もちろん、それも少しはあるが、文字通り「画面の暗さ」がすさまじい。
 
ゴジラ001
 
 モノクロの重苦しいほど暗く彩られた背景をバックに、さらに闇よりも濃いゴジラの姿が浮かび上がる。
 「じゃ真っ暗じゃん!」
 と思う人もいるだろうけれど、ちゃんとライティングがある。
 それが炎に包まれた東京の全景であったり、防衛隊のサーチライトだったする。
 
 そのような、かすかな光を浴びて、小山のようなゴジラのシルエットが、ゆっくりとビル群の向こうに姿を現わす。
 それはもう「怪獣」ではなく、地上に降臨した「神の影」である。
 
 ゴジラは、東京の繁華街を破壊しながら、内陸部へと向かう。
 そのとき堅牢なビル群が次々と灰燼に帰す。
 しかし、そこには意外といっていいほど静けさが漂っている。
 普通のパニック映画なら、ビルが倒壊するときの衝撃音がここぞとばかりにとどろきわたるはずなのに、どのビルも、ゴジラという「神」の裁きをしょう然と受け入れる旧約聖書の民のように、沈黙を守ったままひれ伏すように倒壊していく。
 
 その光景は、厳粛であり、神秘的であり、絶対的である。
 それは、人間の意識に舞い降りる「畏れ」というものが何であるかを説く映像でもある。
 
 このような神々しさを、もうそれから後のゴジラ映画は取戻すことができなかったような気がする。
 それは、まさに、モノクロ映画であることの特性を十二分に発揮した画像が生み出すものであり、その後のカラー版のゴジラ映画や、さらに高度なCGテクノロジーを駆使したハリウッド製怪獣映画とは根本的に異なる世界だといっていい。
 妙な言い方かもしれないが、モノクロフィルムが描き出す黒い闇に「生命」が宿っているのだ。
 
 もちろんゴジラの黒いシルエットにも、不思議な生命感があるし、さらにその背後に広がる夜の闇にも、混沌としたエネルギーを包み込んだ、ねっとりした生き物の気配がある。
 それが、ゴジラに独特の存在感を与えている。
    

 
 「リアル」であることと「存在感」があることとは違う。
 『ジュラシック・パーク』や『ハリウッド製ゴジラ』 に出てくる怪物たちは、自宅の庭を横切る「野良猫」のようなリアルさを持っているが、庭に「象」が立ちはだかったときのような衝撃を与えない。
 初代ゴジラが黒々とした巨体から発散させるのは、この恐ろしいほど威厳に満ちた存在感だ。
 
ゴジラポスター003
 
 この最初のゴジラ映画には、かなり濃厚な思想性がある。
 なにしろ、映画のサブタイトルが「水爆大怪獣映画」なのだ。
 昭和29年 (1954年)という年は、日本漁船の第五福竜丸という漁船が、ビキニ環礁でアメリカの水爆実験の犠牲となるという事故が起きた年だ。
 
 さらに、1950年代という時代をみると、広島、長崎で原爆を浴びたという生々しい記憶が、人々の意識にまだしっかりと刻まれていた時代でもある。なにしろ、原爆が投下されてから9年しか経っていないのだ。
 ゴジラは、人間の水爆実験によって、放射能を自己強化のエキスとして巨大化した太古の恐竜という設定になっているのだが、そのことの持つリアリティというものが、多くの日本人に共有されていた時代であったといえる。
 
 今の時代は、地球上にこんなにまで核兵器が大量に配備されているというのに、そのことに対する人々の恐怖は、不思議なほど薄らいでいる。
 ところが、初代ゴジラが生まれた時代を生きた人は、たった一発の核兵器ですらも、それが炸裂したときはどれほどの惨事をもたらすかということに関して、現代人よりはるかに鋭敏な感受性を持っていたように思う。
 初代ゴジラは、その時代を生きた人々の感受性抜きにしては、つくれなかったような映画である。
 
 そういった意味では、ゴジラを「核の惨事」のメタファー (比喩)と捉えることは可能だ。
 おそらくこの映画の制作者たちも、ゴジラにそのような寓意性を込めたつもりであっただろう。
 しかし、画面に登場するゴジラは、そのような寓意性を超えて、何か人間にとって根源的な「恐怖」を感じさせる圧倒的な重々しさを持っている。
 それは「核」よりも恐ろしい何かだ。
 
ゴジラ005
 
 この初代ゴジラをリアルタイムで観た人の中には、その後何度も悪夢にうなされたという人がけっこういる。
 その気持ちが、よく分かる。
 私もまた、幼年期にこの映画を観ていたら、きっと悪夢にとり憑かれたことだろう。
 
 何かの本で、原初の人類を一番悩ませていたのは、飢えでも戦争でもなく、「悪夢」だったということを読んだことがある。
 もしかしたら、科学の発達も哲学の進歩も、人類を悩ませていた「悪夢の克服」が目的だったのかもしれない。
 フロイトが夢の原理を “科学の言葉” で説明するようになって、ようやく人類はそこから脱却することができた。
 しかし、それは「脱却」ではなく、ただ「フタを閉じた」だけではなかったのか。
 暗闇の中から、地獄の劫火を背景に、闇より濃いゴジラがゆっくりと姿を現すとき、そこには原初の人類を悩ませていた「悪夢」が降臨しているようだ。
  
   
参考記事 「最も新しい言葉が、真っ先に死んでいく」
  
 
 

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