エロ画像の時代的変化

 
 なんかの間違いで、たまたま下品なアダルトサイトを開いてしまうことがある。
 …つぅか、少し告白してしまえば、「もしかしたら、そういうサイトがあるのかな?」 などと、ちょっと研究のつもりで、たまたまそういうサイトを開いてしまうことがある。
 
 さらにもう少し正確なことをいうと、実はかなり期待して、そういうサイトを開いてしまうことがある。
 
 最初に偶然 (←しつこいね)、こういうサイトを開いたとき、驚いたのは、生身の女性が登場する画像と同じぐらいの割り合いで、アニメ・コミック系画像のアダルトサイトがいっぱいあるという事実だった。
 
 そこでは、ほとんど幼児のような顔をした美少女たちが、それとは不釣合いなくらい豊満な肉体をさらし、汗をしたたらせ、苦悶と恍惚をないまぜにした表情であえいでいる。
 
アニメ系少女003
 
 そのような画像がふんだんに登場するのだが、不思議なことがひとつ。
 どのアニメの少女たちの肉体も、ちょうど浮世絵の美人画が見事に規格化されていたと同じくらい、どれも判で押したように規格化されているのだ。
 
アニメ系少女002
 
 特に、顔の均一化がはなはだしい。
 顔の縦横比では、だいたい横の方が長く、目が顔の面積の3分の1を占めるほど拡大され、鼻は小さく「レ」の字状に描かれているだけ。
 
アニメ系少女005
 
 もう少し前のアニメ系アダルトサイトでは、作者の個性というものがはっきりと表に出ていて、描かれる少女たちの表情にも多様性があったように思うが、最近はとみにこの画一化が進行しているようだ。
 
 これはいったい何を意味しているのだろう。
 
 私なんかは、世代的にそうなのかもしれないが、2次元平面に描かれるマンガ、アニメ系画像にあまり欲情するということがない。
 昔の上村一夫の劇画や、つげ義春の一部のマンガには時として、ドキっとするくらいのエロい画像があって、ときどき実用書として使わせてもらったことあるが、今のアニメアダルト画像には、私はまったくエロさを感じない。
 
上村一夫イラスト01
▲ 上村一夫 作品

つげ義春イラスト01
▲ つげ義春 作品 
 
 ましてや、オタクでなければ見極められないような「萌え要素」の微妙な差異などにはまったく無頓着なものだから、どの作品の少女が一番エロっぽいか…などという判断のつけようもなく、ただただ似たような画像展開に呆然としてしまう。
 
 東浩紀氏の『動物化するポストモダン』という本を読んでいて、ひとつ発見があったのは、このような画一化されたアニメ少女の画像が、今の世の中では、写真・動画による実物の女性画像と同じくらい、いやそれ以上のリアリティを持って、男性の性衝動を吸収する対象として機能しているという指摘だった。
 
 俺は、アニメ少女では立たない。
 だから、「世の中変ってしまったなぁ … 」という感慨を強く持った。
 
 そこで考えたことは、「リアリティの変容」ということだった。
 
 大げさにいえば、「人間」というものを捉えるときのリアリティが変ってきているということなのだが、しかし、それは今の時代に始まったことではないのかもしれない。
 
 もしかしたら、生身の人間画像に欲情するというのは、ひょっとして、写真や映画という近代に出現したテクノロジーに感性を規定された「近代的人間」に特有の欲情の仕方だったんではないかと、最近では思うのだ。
 
 たとえば、江戸時代に描かれた春画は、禁制が長く続いた時代でも、密かに江戸町民の間に飛ぶように売れた。
 歌麿のような有名な絵師も、今日では「芸術」として評価されるような格調高い浮世絵を量産する一方、密かに春画をどんどん発行していた。
 
浮世絵春画
 
 それが、当時の男女の欲情を処理する対象として、生身の人間とつるむのことと同等の価値を有していたのだ。
 
 そして、そのような浮世絵春画は、喜多川歌麿だろうが、葛飾北斎だろうが、基本的に似た画風を持つ均一性を保持していた。
 
 もちろん、丹念に見比べていけば、そこにはそれなりの作者の「個性」が反映されていることも見えてくる。
 しかし、パッと見では、その個性の差異は見極めがつかない。
 
 そのような浮世絵春画の画一性は、まさに微妙な「萌え要素」の違いだけしかない現在のアダルトアニメ少女の画一性と同じなのではないか。
 そして、そのような画像が性衝動を吸収する対象として復活してきたということは、画一的であるかどうかなどを問わないセクシュアリティというものが生まれてきたのではないか。
 そんな風にも思うのだ。
 
 人間の感じるリアリティというのは、何が基準となるのか。
 考えてみると、そう簡単に答は出せない。
 
 たとえば江戸時代の歌舞伎。
 あれはもともと人形浄瑠璃が元になったものであり、それを人間の置き換えたところから発展してきたという。
 だから、歌舞伎における「大見得(おおみえ)」のような、身振り手振りを大げさに見せる誇張された演技などは人形浄瑠璃から来たものだといわれる。
 
 肝心なことは、当時の観客は、その誇張された大げさな演技に「リアリティ」を感じていたということなのだ。
 
歌舞伎画像
 
 現代の観客は、「写実性」に乏しい歌舞伎を観ながらも、代わりに、そこで表現されている「様式美」とか「象徴性」を評価する。
 
 しかし、そのような評価は、近代演劇が完成したことによって見えてくる「視点」に過ぎない。
 江戸時代の観客は、あの仮面のようなメイクや、大げさな演技や、誇張された言い回しこそ、「人間の真実」だと信じていたように思う。
 
 どういうことか。
 
 写真や映画のように、等身大の生身の人間が演じる表現形式よりも、定型化され、画一化された人間像の方が「リアルだ」と感じるような視点を、本来人間は持っているということにほかならない。
 
 ヨーロッパの中世美術に関しても、近代以前の宗教画は、みな稚拙 (ちせつ)な画一性を見せていた。
 近代絵画は、そこから脱却して、「人間の真実」を描くようになったといわれるけれど、もし中世の時代に生きていた人々が、中世美術と近代美術を見比べる機会があったとき、果たしてどちらに「リアリティ」を感じるかというと、それはまた別の話だ。
 
ヨーロッパ中世美術01
 
 浮世絵も、歌舞伎も、ヨーロッパ中世美術も、それなりに「人間とはこうなんだ」という当時流布していた人間の「概念」を忠実に描いたものだった。
 そのとき、そういう画像の方が、当時の人々にとっては、 “リアルな画像” だったといえる。
 
 歌舞伎において、隈取りした役者が、拳を振り上げ、カッと目を見開いて「怒り」を表すとき、江戸時代の観客は、
 「これぞ人間の怒りだぁ!」
 と心を打たれたはずだ。
 
 それは、怒りを「象徴したもの」でもなく、「形式化したもの」でもなく、まさにそれこそが怒りの「真実」だったのだ。人間の怒りというものは、そのようにして表現されなければならないものだったのだ。
 
 近代になって、写真や映画というテクノロジーを獲得した人間は、人間の「怒り」には様々な表情が伴い、様々な発言となって表れることを知った。
 
 しかし、それをもって「リアリティ」が獲得されたというわけにはいかない。
 それは、近代社会だけに通じる「人間というものの概念」を手に入れただけなのかもしれない。
 
 近代に生まれた映画的人間表現が、演劇に対する考え方を変えたのは、日本の歌舞伎だけにとどまらない。
 たとえば、「オペラ」という演劇形式を、現代人には見えづらいものにしてしまった。
 
オペラ画像01
 
 オペラにおいては、もっとも緊迫した状況は、必ず「歌」で表現される。
 人の生き死に関わるせっぱ詰まった状況の中で、一刻を争う場面に限って、悠長な「歌」が始まる。
 オペラに不慣れな現代人は、そのまどろっこしさに耐えれらない。
 
 しかし、それは「映画」のような近代的な時間表現に慣れてしまった人間の感じ方に過ぎない。
 
 オペラにおいては、この時間感覚が転倒する。
 
 “悠長” な歌が唄われる時間こそ、オペラにおいては、登場人物にとって最も機敏な判断が要求される緊張した「時間」なのであって、そこにこそ、せっぱ詰まった「人間の真実」が表現されている。
 
 ところが映画的な時間の流れに慣れてしまった現代人は、その逆説を理解できない。
 映画は、徹頭徹尾、 「時間管理」というものが人間の大事な仕事として浮上してきた近代の表現方法だから、時間というものが、人間の感情の起伏と無関係に、規則正しく均等に流れていくものという前提によってつくられている。
 
 オペラには、このような「近代的時間」というものがない。
 それは、表現方法の「進化」とか「進歩」によって語れるものではなく、単に、時代によって「人間の真実」の捉え方が違っているということを意味しているに過ぎない。
 
 そう考えると、写実的な写真・映画的女性像よりも、画一化されたアニメ少女たちにセクシュアリティを感じる男の子たちが増えてきたということは、 「近代」 という時代が生んだ人間の感受性にも変容の兆しが現れてきたことを物語っているように思える。
 
アニメ系少女006
 
 そういうことを研究するために、ときどき(いやいやながら !!)アダルトサイトを閲覧しているのだけれど、今後はもう少しアニメ系アダルトサイトもしっかり調査しなければならないと思っている。
 そのうち、だんだん立ってきたりして…。
 

▲ この娘、最近ちょっと気に入っている
    
 
参考記事 「キリコの世界」
 
関連記事 「エロ漫画の現在」
 
 

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エロ画像の時代的変化 への31件のコメント

  1. TJ より:

    今のアダルトアニメは明るいシチュエーションと、悪く言えばありえないサイズの体のパーツがそそらないです♂ 昔のエロ漫画の類は生活臭のあるエロなんで表情や腰から尻にかけてのラインや乳房もリアリティーがあるんですよね!!
    今のアダルトアニメは顔も体も洋風で和風が少ないようにも。。

  2. 町田 より:

    >TJさん、ようこそ。
    TJさんと同じような嗜好なので、かなり安心しました。
    昔のエロ漫画、良かったですよねぇ! おっしゃるように、人間のプロポーションというものが、不自然な誇張なく、リアルに追求されていたように思います。70年代の石井隆なんか、暗くて、淫靡で良かったなぁ…。永井豪なども、ギャグ漫画のタッチだったけれど、しっかりエロしてましたよね。
    「和風」ってのはツボですね。石井隆も上村一夫もしっかり和風でした。
     

  3. ミペット1号試作品 より:

     そーいえば、私もCMオーディションとか、何回か行ったことあるけど、若い男の子は申し合わせたみたいにビジュアルロック系と、ホスト系で。あれもなんだか不思議な光景でした

  4. 町田 より:

    >ミペット1号試作品さん、ようこそ。
    今の若い男の子たちは、申し合わせたようにビジュアルロック系とかホスト系カッコをしていても、そういう着こなしが似合うぐらい、みなきれいになりましたね。顔も細いし、背も高いし。
    私のようなオヤジの出る幕は本当になくなりました。
    …ボヤいても仕方がないんですが。
     

  5. 北鎌倉 より:

    日本の春画では陽物(男性器)が巨大化されて描かれます。それを、江戸の浮世絵師は「ありていに描いては趣がないからである」といってます。
    そのまま描けば生臭いことを知っていました。現実から離れたら、無責任に面白がることができたのですね。
    江戸中期には西欧の遠近法を知っていましたが、絵師たちは、実意で惚れ合ってしまったら遊びは終わる、という吉原の意識と同じで、写実のつまらなさをよく知りぬいていました。
    宮沢賢治の春画収集は数十センチになったといわれています。そのデフォルメは、「単なる省略ではなく、心理的な昇華も行われている」と本質論を書いています。

  6. 北鎌倉 より:

    男女交接図というのは、三万年前、旧石器時代に人類が初めて絵を描く技術を身に付けたときからの画題です。
    生命体としての義務は、種の存続ですから、その辺を重視したのは正しい在り方でした。交接があからさまであるべきでないもの、としたのは宗教でしょうか。
    統一的主教が不在の日本は、ポルノに関して、三万年前のおおらかさがそのまま継承された稀有の国といえます。
    儒教神学や仏教も存在しましたが、生活を支配するまでの影響はなかったようで、日本人は実に上手に文化を扱っていました。つまり、ホンネとタテマエの上で、生物的な安定を大切にしてきたのです。その絶妙なバランス感覚は驚きです。
    拘束されずにはぐくまれたので、西洋の、宗教に干渉されたポルノと違うのはですから当然でした。その違いは絶対的にアカルイのです。交接は子孫繁栄につながるので、メデタイ。陰ではなく陽、負ではなく正、常に強いものであり続けたのです。

  7. 北鎌倉 より:

    鎌倉期の戦乱から江戸末期まで淫画(交接図)は、よろい入れにお守りとして必ず入れました。それは日清戦争まで「勝ち絵」としてザックにつめ込まれました。淫画と女性の恥毛を身に付けていれば、敵の矢弾にあたらないと。商家では、淫画を蔵に入れておくと火除け、魔除けになると信じられていました。
    交接は基本的に明るいもので、売淫を「売り笑」といい、淫画を「笑い絵」「笑い本」というのもそのためです。歌麿や北斎が見たら、日本人はなんていやらしくなったんだ」というにきまってます。スケベからイヤラシクくなった。
    スケベは生産的で明るく、生活の活力です。イヤラシは非生産的で暗く、趣味の世界です。日本のポルノは正から負の時代になった。これを「退行」というべきか「文明」というべきか。
    西欧の文明は確かに素晴らしい、でも、アフリカ的段階やアジア的段階を<包括>するのではなく、捨て去ることで、いち早くとおりすぎてしまいました。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      ポルノグラフィー(交接図)に対する文化論的な考察、非常に興味深く拝読。
      特に日本の春画に関する絵師たちの心構えのところなど、よい勉強をさせていただきました。

      日本の性文化の明るさ、おおらかさというものは、西洋の陰にこもったようなネクラな性文化とよく対比されますね。北鎌倉さんがご指摘されているとおり、そこには宗教観の違いというものがあるのでしょう。
      なにしろ、「姦淫を空想するだけで、実際の姦淫と同じだ」とキリスト自身が言っているわけですから、キリスト教文化圏の人たちは、ずいぶん暗い性意識のもとに暮らしていたのでしょう。

      しかし、性欲や姦淫を “罪” として抑圧することによって、西洋は独自の精神文化を形成してきたようにも思います。その代表例がフロイトの研究ですよね。
      フロイトの諸説は、“文学” としては面白いのかもしれませんが、性を「アカルイもの」と認める文化を形成してきた日本人には当てはまらないこともあるのかも。

      西洋で、カフカ文学が特異な位置を占めるのは、カフカが、人間心理をフロイト的因果関係の外にあるものとして描いたからなのかもしれない。
      北鎌倉さんのコメントから、ついそんなことまで思ってしまいました。
       

  8. 北鎌倉 より:

    自分が絵を描く立場で春画を見ると、普通の浮世絵は、静止しているところがほとんどです。美人絵はもっとそういったプロマイド的なものですし、役者絵もその一瞬を撮るというスチール写真の感じがします。時間を封じ込めたい、前後の時間のすべてを入れ込みたいという願望があったのではと。
    春画の、あんなにも不自然な、関節を違えてしまいそうな形になっているのですが、少し前にこの手はちゃんとやはりその位置にあったし、顔もそっちを向いていたという、時間のずれを一度に同じ画面に、部分部分を切り離して描いたんじゃないか、だから、一連のスローモーションを見るように見ることができるんじゃないかと。
    全体で見るとデッサンなどぐちゃぐちゃなんですが、部分部分で見ると、大変にリアルです。芳醇な時間をなんとかして封じ込めようという意欲を感じるんです。

  9. 北鎌倉 より:

    浮世絵は、全体として一枚の絵ですが、実際には、身体の部分部分の線を、時間性を切り離す(分化させる)ことによって、一枚の絵にしています。だから実際には、一枚の絵の中に、様々な時間性が入っているので、デッサンとしておかしくても、ちっとも奇異な感じを受けません。
    マンガの表現法も同じですね。ストーリーをそれぞれの時間性に分けて、コマとして描く。しかも、コマの中の絵も、それぞれに、線の役割に分けて、「ワク線」、「フキダシ」、「画像」、「効果線」というように分化させています。
    日本のマンガは手塚治虫の出現からとなっていて、それ以前は「前史」扱いですが、実際には、江戸の春画には、線を分化させて表現し、それを読者が再構成して(頭で埋めて)、絵を読むという行為がすでに行われていたのです。

  10. 北鎌倉 より:

    平賀源内が秋田藩の家臣に洋画の技術を教えたことから始まった「秋田蘭画」を、当時の絵師は「つまらない」と判断して西洋画に屈服しませんでした。
    合理的に描かれた西洋絵画と比べたときの浮世絵のおかしな部分、一枚に絵の中に実際の時間と矛盾する「時の流れ」が描かれていたりします、一枚の日本画に、春から冬にかけての景色の移り変わりが描写されていたりしますが、こういう技法にこだわっていたのは、日本画の遅れという主張がありますが、むしろ科学主義を超えた未来主義と考えられます。
    西洋絵画が一瞬を対象にしたスチール写真だとすれば、浮世絵はビデオです。一枚の絵の中に一連の時間の移り変わりを表現する手法を芸術の域にまで極めています。
    一枚の春画で、手足の部位がいろいろな方向を向いています。一連の動作を一枚の絵に収め、しかも一瞬の姿をとらえるのではなくて、数十分の時間の経過があの一枚の中に表現されているわけです。それを受け取る側はわかっていたわけですから、発信する側との関係が非常に熟成された関係にあったわけですね。

  11. 北鎌倉 より:

    西洋絵画は隅から隅まできちんと描きます。日本の浮世絵や掛け軸は隙間だらけで何も描かれていないところがあります。上に山、下に家並みがあって、中間に何も描いてない真っ白な空間がある。西洋人は「ナッシング」と感じてしまいます。
    江戸の粋人は、その空白部分に山と里の道のりとか、時空そのものを感じ取ることができたし、その間の部分に「意」が込められていることを知っていた人たちが多かったわけです。その「意」の間を上手に配置できる人を「意の匠」、「意匠」と表現したのがよくわかります。
    西洋絵画よりも、未知を内包する表現に、浮世絵・日本画はなっています。
    浮世絵や日本画の学者は本当にお粗末で、マンガにおける空白表現を、本気で勉強してないんですね。
    少女漫画家の紡木たくの作品を見たら、その空白のコマが時間継起の表現であり、同時に心理表現にもなっていることが明瞭にわかります。マンガでは全く違和感なく空白表現は自由自在に使われていて、起源をたどれば伝統的に日本画で昔からやられていました。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      江戸時代の春画が、1枚の絵の中に “時間の連続性” を封じ込めようとする試みだったという説はとても面白いと思いました。
      イタリアの未来派の運動も、絵画という空間表現のなかに時間軸を導入しようとする試みでしたが、春画の絵師たちは、それよりも100年も前にすでにそういう実験を行ってきたということなんですね。

      また、絵画における “空白” の考察も面白く拝読。
      私もまた、「空白(余白)」こそ日本文化の真髄ではないかと思っています。
      空白とは、形にはならないけれど、「無」ではないもの。
      北鎌倉さんは、それを「意が込められたもの」と表現されてますが、もちろんそれは、ときに「時の流れ」を意味していたり、ときには「人間心理」を包み込むものであったりする。
      つまり、そのときごとに、「余白」は “形” を超えた何ものかの存在を鑑賞者に伝えるものだということなんでしょうね。

      長谷川等伯の描いた屏風絵に『松林図屏風』というものがあります。
      北鎌倉さんならすでにご存じだと思いますが、霧に包まれた松林の情景を描いただけの絵で、そこから何ともいえない上品で、さびしい静寂観が漂ってきます。

      それを際立たせているのが、空白なんですね。
      空白のなかに、松の枝が漂っている。
      その絵からは、松の群生している場所が特定できない。海岸なのか、山林なのか。それとも、広大な日本庭園の一角なのか。
      すべては “余白” のなかにぼんやりと浮かんでいるだけなんです。

      しかしながら、その絵からは、大地を覆い尽くす静寂感が襲ってくる。
      おそらく、(北鎌倉さんがご指摘されたように)細部まで明瞭に書き込まれた西洋絵画では、この静寂観は表現できなかったでしょう。

      この “余白の感覚” は俳句のような日本文学にも貫かれており、まさに日本文化の中軸に位置する美意識ではないかと思っています。
       

  12. 北鎌倉 より:

    町田さんの日本の美意識というのを、自分の実技経験での探求から言うとこうなります。
    白い画面に線を引きます。このとき、描く線の方に意識が集中するのが西洋絵画です。日本の絵は、白い画面、空白、の方を描くのです。等伯を仕事で模写したとき気づいたのですが、等伯は、空白を描くのと、画面全部を埋め尽くす絢爛豪華な襖絵の二通りの描き分けができました。
    空白を描くという言い方がこれまで通じたことはないのですが・・・。
    日本人は紙に向かって、紙と自分の手とが非分離に作用しえるのですが、西欧人は紙は分離した向こう側に在り、こちら側の手は分離していて、そこを結合するようにしか描けないのです。
    もちろん日本人も分離した線を意識して描くことはできます。でも日本人は身体的に、実体を区切る線にはなっていません。広重の版画で「庄野 白雨」がありますが、線は実体ではなく「白雨」とまで言っています。つまり自然に非分離の線を日本人は描きうるのです。

  13. 北鎌倉 より:

    浮世絵に関してもう一つだけ。当時浮世絵は、手に取って見るものでした。壁に掛ける一般絵画とこの点が違います。
    一般絵画は距離を置いて見ますから、まず絵のどのあたりを見るかというと、全体の構図です。そして絵のボリューム、迫力、奥行き、リアリティ、そういうものを感じ取る鑑賞方法に重点が置かれます。
    浮世絵は、手に取って眺める。その場合、細部を順を追ってみていくという鑑賞方法になります。ですから、描かれている小道具を見たり、着衣の模様を見たり、大首絵(バストショットの人物画)でしたら、額の生え際の彫りの細かさを見たり、米粒のような歯並びを見たりという楽しみ方になっています。この鑑賞法は重要で、こういう見方をするために、彫りの技術はどんどん進歩しましたし、絵の表現方法が、人体デッサンを正確に描くのではなく、部分をつなぎ合わせたようなキュービズムお人体になっています。それが不自然に感じないのは、見ている方もそのようにバラバラに見ているからです。ここのところを考えないと、どうして浮世絵はああいう形で完成したのかがわかりにくいのです。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      描画に対する日本の絵師と西洋の画家の意識の違い、とても興味深いお話でした。
      どうもありがとうございます。
      特に、二つ目のコメント。西洋の絵と浮世絵の技法上の違いを「壁にかけて見る絵」と「手に取って見る絵」との違いから説き起こすくだりは、なるほどと思いました。

      このような考察を一度まとめて、ご本などを出されることも検討されてはいかがでしょうか。掲載可能な図版などが添えられたら、なおのこと説得力が増すようにも思います。
       

  14. 北鎌倉 より:

    町田さんはわからないことの面白さを繰り返し言っておられます。カフカもフロイトもラカンも面白いです、それは人類が言葉以前に、「視覚や感覚で考えていた」時期の、膨大な時間の長さの面白さでもあります。言葉で言えない、わからない、ではなく、人間自体がミステリーであることの面白さなのですね。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      ≫「人間自体がミステリーである」というご意見、まったく同感です。
      現在世界中で、とりわけこの日本で、人文科学的な研究が急速に衰えてきて、カフカ、フロイト、ラカンという固有名詞からなにがしかの趣向をそそられる人がどんどん姿を消しつつあるようです。

      以前、古本屋に本を売りに行ったことがあるのですが、結局人文系の研究書や解説書などは引き取ってもらえず、買取してもらえたのは自然科学系の本か料理の図鑑でした。別の店では人文系の本を引き取ってもらえたものの、その値段は古紙程度の金額でした。

      店主たちがいうには、もう人文系の本は書棚に置いてもほとんど動かないのだそうです。特に「世界の名著」シリーズなどといった全集モノは書棚を独占するだけだから引き取らないといっていました。
      昔は、そういうものを買っていく人がたくさんいたそうですが、そういう人たちも高齢化したのか、書店に足を運ばなくなり、若い人は最初から興味がないとか。

      人文系の研究が面白いのは、いみじくも北鎌倉さんがご指摘されたように、「人間自体がミステリー」という視点から出発するところにあります。
      こういう観点で自説を掘り下げていく人は、やっぱりヨーロッパ系の人が多く、カフカもフロイトもラカンもみなヨーロッパ人ですよね。

      ところが、戦後、計量分析を中心としたアメリカの学問が主流になってきて、経済学や政治学のみならず、心理学などにおいても、人間を計量的に解析する手法が導入されるようになりました。文学的・哲学的な精神分析学がケミカルな脳科学にとって代わられていくのも、そういう流れから生まれてきたものでしょう。
      たぶん、このとき “人間存在をミステリーとして面白がる” という余裕が駆逐されたのでしょうね。

      でも、北鎌倉さんのように人間を見ていらっしゃる人がいるかぎり、人文系的精神はまだ生きていることが確認できました。
      心強い限りです。

      ただ、まぁ、もう一度人文系の学問に人々の興味が向いて来る時代が来るとしたら、それはAI がもっ進化したときかもしれません。ディープラーニングなどによって、AI がこれまでの人間とはまったく異なる思考過程を歩み始めたら、ひょっとしたら、そのとき「人間とは何か?」という問が再び生まれ、“ミステリーとしての人間” に関心を持つ人が現れるかもしれない。
      … とも思ったりしますが、どうなんでしょうかね(笑)。
       

  15. 北鎌倉 より:

    自分も抽象画家だった期間があって、そのとき抽象彫刻や絵画を徹底して見たことがあって、キャラリーなんか一人もいなくて、友達と行っても全員分かろうとするんですよね。
    私たちが一日の出来事をどれほど思い出せるかというと、たった何時間後にほとんどを忘れています。むしろ忘れることで生きていけるといった方がいいんですね。そう考えると、抽象への道筋は思うほど難しくはないんです。誰だって、忘れることで何かを省き、何かを残し生きています。そうすることで、初めて全体につならなるのですから。
    私たちは「言語」によって、ことさらに抽象や象徴概念をつくるのではなく、生き物として本来そうしたミステリーを内に備えています。抽象作品には、はっきりと人為があります。でもその人為は、機能や合理、数値や統計という人為ではなく、「いのち」を、自然の様相に向けて開こうとする営みとしてのそれなのです。
    抽象への道筋が困難なのではなく、私たちが困難を生きているのです。抽象表現の「かたち」が指し示してくれるうつくしさは、そうした私たちのミステリー、神秘だといえるのではないでしょうか。

  16. 北鎌倉 より:

    狐と人間の交接の江戸時代の記録があるんです。狐との交接のときの局部の痛みは只ならぬそうで。その激痛は牝狐が男と交わったときも同様で、ほおっておくと「腐脱」するそうでオソロシイんです。でも交わった後、狐は必ずその処置法を教えていくんです。こういう話は枚挙にイトマがありません。
    もちろん事実ではなく、そういう共同幻想の中にどっぷりつかった人たちの記述です。当時の人々は狐を共存者としてみていて、相互関係が成立してるんですね。
    産業革命(科学)以後、それらは迷信(共同幻想)として科学から類別されました。でもそれは逆に、自然の方から、人間(科学)が、類別されたのですね。その過程で、切り捨てられた迷信とともに、動物を同じ世界の共存者としてみる眼差しや、人間だけを優位に見るのではなく、相互関係の中で見る眼差しも、切り捨てられてしまった。
    インデアンの昔話でも、古代の人間は、動物と人間は、当然のように情交をかわすことができたと信じられています。動物は皮を脱ぐと、人間の姿になったし、人間も動物の姿になることができた。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      近代科学から「迷信」というレッテルを貼られて価値をはく奪された民間の説話の方に、ある種の豊かさがあるというのは確かなことですね。

      自然科学の見地に立てば荒唐無稽ながら、「自然」を象徴する動物と人間がコミュニケーション手段を共有していたというのは、今でもいろいろなシーンで繰り返されているのではないでしょうか。
      子供たちが読む物語などというのは特にそうですよね。

      ≫「迷信とともに、動物を共存者として見る眼差しも捨てられてしまった」
      確かにそうですが、一方で、そういう人間側の後ろめたさの代償として、今のペットブームがあるのではないかという気もしています。
       

  17. 北鎌倉 より:

    いまと同じくペット道楽が江戸でもありました。猫、犬、小鳥、虫と多種多様で、そのいずれも「物合わせ」という品評会がありました。
    なかでも面白いのはノミの品評会で、拡大レンズを使って、ノミの色、つや、形、さらにジャン能力を競うのですが、大の男たちが、しかつめらしく寄り添って、ノミを見比べるのは想像するだけでおかしいです。
    ノミで趣味の世界を思い出したのですが、江戸では指先に乗るような家財道具を拵える細工職人の技術が大変に重宝され、名工の物となると本物の箪笥の十倍も高価でした。これは純粋に大人のホビーで、男女ともに愛玩しました。
    日本庭園も自然のミニチュアの志向とも言えますね。電化製品の小型化lへの志向性として、現代にも残っていますね。これはいったいどこから来るのか、不思議です.一見すると江戸時代の、空前の260年という平和がもたらしたように見えますが、もっと以前の、日本人の自然観まで遡ることができるのかもしれません。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      ノミの品評会やら、指先に乗るような家財道具を愛でる風習など、江戸期に顕著になってきた日本人のミニチュア志向が、現在の家電の小型化まで受け継がれているというご指摘は面白いですね。
      日本のナノテクノロジーが世界的に注目されているといわれるようになって久しいですが、それも日本人の伝統的な嗜好が反映されたものなのでしょうね。

      微細なものに神経を集中するという日本人の性向は、いったい何が起源となっているのか。考えてみると興味深いものがあります。盆栽などを見ていても、あれって一種の “宇宙” ですものね。ミクロのものとマクロのものを同一空間に集約してしまうという発想はほんとうに面白いです。
       

  18. 北鎌倉 より:

    スズメの転んでいるところって見たことがない。
    これは飛べる身体構造と反射神経の問題であると同時に、彼らが言葉による意識を持たないことにも因るんじゃないか。
    スズメは死ぬまで「変」にならない。
    逆に考えると、私たちの生命に「変」の可能性が組み込まれていることが、文学を生みだしたのではないか。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      ≫「スズメは転ばないのに、人間はバランスを崩して転ぶことがある。その転ぶことによって、人間は文学を生み出したのではないか」

      面白い省察だと思います。
      要するに、「文学」というのは、欠損から生まれるもの。不完全性の自覚が、モノを書かせる動機になっていると。
      哲学的であると同時に詩的な言説だと感心しました。
       

  19. 北鎌倉 より:

    大友克洋のリアルさは「盆栽」的なんです。欧米のリアルさは、凹凸が組み合わさって全体が構成されてることからきています。だから顔や人体から動物から建物までブロック状に分化し再構成ができます。アメリカのアニメーターが、日本のアニメ「かぐや姫」をたどれないわけです。
    ではどうやって大友はリアルな絵を作ったのか。一言でいうと、人物と背景のすべてを、同一の価値意識で描いたのです。はじめて大友の作品を見たとき、カップラーメンとかの何でもない小物が異様にリアルだったのです。
    大友を一躍有名にしたのは『童夢』の一コマです。超能力の老人と少女が対決して、老人を壁に念力で押しつけ圧殺しようとします。その場面は、壁が円形に凹んで老人が苦痛の全身が描かれているだけです。まったく無音で効果線もなしです。この目に見えない強圧の描写の画力に、高橋源一郎をはじめみんな驚いたわけです。それは主語と述語で言えば、述語で描くリアルさです。人物中心ではない、脇役の中に人物も含めてしまう方法です。主客を分離しない、非分離の方法です。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      大友克洋さんの “リアルさ” というのは、人物と背景を同一の価値として捉えたところから来るもの、というわけですね。
      つまり、主客を分離しない、非分離の方法だと。

      従来の西欧的 “人間観” では、人間は「客体」である自然に対して「主体」として働きかけ、それを観察・格闘・支配することで地球の秩序(オーダー)を維持してきたということになっています。その場合、リアリティーを保証するものは、人間の観察力の精度を上げていくことでした。

      ところが、大友克洋氏の場合、主客を分離しない … つまりは観察する主体と観察される客体を分離しないところから生まれてくるというわけなんですね?
      とても面白い観察であると思いました。
      大友克洋氏が、人間もカップラーメンの容器も同じような熱意でディテールまで描き込むことによって、それまで存在したことのない新しいリアリティにたどりつくという話は新鮮でした。
      つまり、読者はそれまで “人間の先入観” で処理されてきたカップラーメンの容器に、まったく異形の姿を見出したということなのでしょう。

      リアリズムというのは、先入観によって歪められた事物を元の形のまま見出すということですから、異形であるのは当たり前のことなんでしょうね。
       

  20. 北鎌倉 より:

    浮世絵の寸分のずれもない多色刷りや髪の生え際をコンマ数ミリの線彫りで表現した版木など、驚愕の手技もかっては通常の業務でした。それらも失われれば、後世の視点からは目まいのするような神技に映ります。
    上京して最初のアパートが、ちばてつやさんの家の近所でした。隣の部屋にはちばさんのアシスタントがいました。
    ちばさんの原稿の描き方も変わっていました。原稿をコマごとに切り離して描き、仕上げにセロハンテープで張り合わせるのです。乾燥した現場では湯で薄めてインクの乗りを解決します。背景の描き方も、独特で、原稿用紙の外に紙を張り足し、パース(遠近法)を撮ります。ペン入れでは冷たい線になるからと定規を使わないのです
    マンガ制作、出版自体がデジタルへ移行する際中、墨汁でマンガを描くこと自体おそらく日本だけのローカルルールですね。
    新たな産業革命の真っただ中、手塚治虫からはじまった、私たちの知るマンガ文化もまた、黄昏を迎えています。友達のマンガ家はほとんどデジタル描画で、実際に手伝って描いてみると、まあとんでもなく便利です。自分がアシスタント時代に発明した効果線も、神技とほめられて、でも一瞬でパソコンに取り込まれ、自在に使いこなされてしまうのです。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      ちばてつやさんの漫画技法の話、面白いです。
      また、浮世絵の版木に生かされた掘り師の技術の話。これも絵画・漫画の実作をずっと経験されてこられた北鎌倉さんならではの考察で勉強させていただきました。
      確かに、昔の人の技術というのは、失われてしまえば神技に見えるかもしれないけれど、当時としては当たり前の技術であるということは何の世界においてもいえますね。
      たとえばエジプトのピラミッド建設など、よく “謎のワザ” などといわれて、その技法が研究されていますけれど、あれだって、あの時代には普通の技術だったんでしょうね。

      現在、人間が描く線がデジタル描画に移行しているとお話でしたが、その先には、描く主体もAI になっていくんでしょうかね。
      すでにディープラーニングを会得したAI がレンブラントと同じ技法で絵を描く時代になってきているようです。
       

  21. 北鎌倉 より:

    スズメは転ばないに加えて、スズメの体温はとても高いんです。
    私たちが山を登るとき疲れますがあれは重力に逆らうためで、消費エネルギーが多いから体がポッポッと熱くなり顔がほてります。
    空を飛ぶのは、歩くよりさらに大きく重力に逆らうので膨大なエネルギーが必要です。そのエネルギーは体温の熱エネルギーから得ているので、鳥類は体温が高いのです。スズメは何の迷いもなくパッと飛び立ちます。あれができるのは、鳥の中でも一番体温が43度と高いから、重力に逆らえるんです。動物の体温は、地球と自然と動物の関わり合いの中から必然的に決定されてきたんですね。
    人間の36度も直立歩行するようになり、生命の叡智が体温を決定したわけですね。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      スズメの体温の話、とても興味深く拝読しました。
      私は科学系の話題、生物学系の話題にそれほど詳しくないので、とても勉強になりました。
      面白かった。
      ありがとうございます。
       

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