全共闘運動の総括

   
 「ゼンキョウトウ」という言葉は死語なのか、まだ生きているのか。
 今の若い人たちにこの言葉を発しても、イメージの湧かない人が大半だろう。
 
全共闘安講
 
 「全共闘」とは、今から40年ほど前、日大・東大などの学園紛争に端を発し、日本全国の大学に拡大していった学生運動の全国組織のことである。
 この運動は、現在「団塊の世代」といわれる人たちによって支えられ、「全共闘世代」といえば、「ビートルズエイジ」などという言葉とともに、彼らの世代を代表する名詞の一つとなっている。
 
 ところが、1960年代から70年代にかけて、日本全国で展開された「全共闘運動」というものを総括する視点というものは、すでに半世紀近くが過ぎようとしているのに、この間ほとんど提出されたことがなかった。
 
 なぜなら、この運動に関わった当事者たちが、ほとんど沈黙を守ってしまうか、仮に、何かを語ろうとする人たちが出てきたとしても、その多くは、パーソナルな詠嘆(えいたん)に彩られたものが多く、そのようなセンチメンタリズムが、結局彼らの免罪符としてしか機能しないような形で完結してしまうからだ。
 
 また、社会学的なアプローチをしたものの多くは、高度成長時代に実現した「豊かな生活」をどう処理したらいいのか迷った学生たちの “集団アレルギー” という見解に終始する。
 
全共闘001
 
 そのような状況の中で、少しずつだが、あの時代を生きた若者たちの青春群像をもう一度問い直そうという試みが始まっている。
 それも、彼らより若い世代がそのことの重要性に気づいている。
 
 たとえば、桐野夏生氏と『対論集「発火点」』で対談した作家の星野智幸氏(1965年生=44歳)は、その対談の中でこう語る。
 
 「僕は、全共闘世代周辺の男の書き手や表現者をどこか信用していないところがあって、彼らの書くものは既得権を守るための観念でしかないように思っている。
 だから、桐野さんの作品に強烈な生々しさを感じたとき、60年代・70年代的のリアルな世界観に初めて触れた気がした。
 桐野ワールドは、ある種の『闇』というか、裏社会とかアングラなどという60年代・70年代のカウンターカルチャー的な世界観によって作られていると思う」
 
 つまり桐野氏の小説を通じて、星野氏は、あの時代にだけリアルに存在した世界の実感を初めて手に入れたというわけだ。
 
 そのような認識に立って、より自覚的に、より精密にそれを作業化したライターとして、小熊英二氏(1962年生=47歳)がいる。
 
 彼は、『1968』という上下巻に分かれる壮大なレポートを書き上げることによって、1968年が運動のピークであった全共闘運動の本質に迫ろうとしている。
 
全共闘1968上 全共闘1968下
 
 実は、この本は未読で、以下に語る言葉はメディアの批評欄に載っていたものの “孫引き” でしかない。
 しかし、その批評欄に載っていた紹介文だけで、私はその著作の方向性というものをある程度捉えることができた。
 そして、小熊氏の抱いている真摯な態度に共鳴することができた。
 
 氏は、この大著の構想を抱いたとき、元全共闘運動家に、5千通のアンケートを発送したという。
 しかし、返ってきたのはその1割強でしかなかった。
 そのことから氏は、「彼らがいまだに言葉がみつからない状態のままでいる」ことを確信したそうだ。
 
 小熊氏はいう。
 「1970年前後の、全共闘運動のビラやパンフレットなどを読んでいると、一見、教条的な左翼用語、生硬な言葉づかいばかり並んでいるように見える。
 ビラ、パンフだけでなく、雑誌や単行本も読んだが、当時の若者の言葉は、その多くが生硬で、拙(つたな)い。
 そうした拙い文章の中に、彼らなりの不幸が表現されているとも感じた」
 
 その不幸とは何か。
 「彼らの不幸とは、同じ体験を持たなかった世代と共有できる言葉をつくれなかったことである」
 と小熊氏はいう。
 
 そして、彼らの運動を、何らかの目標獲得をめざす「政治運動」としてみるならば、彼らから学ぶべき遺産はほとんどない、と断言する。
 
 しかし、彼らの行為を「政治運動」として見るのではなく、「表現活動」として見るならば、むしろ彼らの貧しい言葉の中にこそ、その運動の本質を見極める材料が潜んでいるのではないか。
 貧しい言葉の一群のなかに埋もれた断片を拾い集めることによって、何かが現れてくるのではないか。
 
全共闘1968上UP
 
 小熊氏にそのようなことを感じさせたのは、一人の女子学生が、ある活動家から『60年安保闘争』の話を聞いた後に綴った手記の1行を拾ったからだ。
 
 その女性はこう書いているらしい。
 「(60年安保闘争の時代は)とてもすばらしいです。でも、(70年を闘う)私には何もないの。それで闘ってはいけないのでしょうか?」
 
 氏は、この空虚感から掘っていけば、現代までつながる穴が掘れるのではないかと直感したという。
 
 その女学生の残した言葉は、全共闘世代の残したアジ(テーション)演説、アジビラ、立て看板などに書き綴られた言葉の戦闘性とは遠くかけ離れた、夜空にほの見える星の揺らぎのようなものでしかない。
 
 アジビラのメッセージも、女子学生の言葉も、どちらも貧しい。
 しかし、そこから小熊氏は、遺跡調査を行う考古学者のように、埋もれた文化の手触りを注意深く掘り起こしながら、あの時代の全容に迫ろうとする。
 
 そして、
 「あの時代に生まれた左派の言葉では、当時の『現代的不幸』も表現できなかったし、その結果として、現代の空虚感もすくい取れなくなっている。
 (しかし、言葉の貧しさの底に埋もれたものを拾い集めていくうちに)その原因も見えてきた」
 と語る。
 
 それがどんなものであるのか、残念ながら、未読の状態でこの記事を書いている私には、まだ分からない。
 
 しかし、確実にいえることは、全共闘世代より下の世代が始めたこのような作業に応えるために、全共闘世代といわれる人たちが、なんらかの責任ある回答を出さなければいけない時期が来たということだ。
 
 確かに、あの当時を生きた若者の中で、「全共闘」運動に参加した人たちはほんの一握りでしかなかった。
 それ以外の多くの人は、政治活動とは無縁の青春を送った人たちで、その中には、心情的に共感しながら活動に参加しなかった人もいれば、そのような政治活動に激しい嫌悪感を抱いた人もいる。
 
 しかし、だからといって、その人たちも、下の世代から突きつけられた問に対し、永遠に顔を背けてはいられないように思う。
 
 「俺はあの連中が嫌いだった」と、あたかも自分はその外側に立って、冷静に観察しているような態度をとった人でも、逃げられない何かがあるはずだ。
 学生運動が世界的な叛乱の兆候を示した時代において、その道を選ばず、別の道を選んだという “選択” の中にも、やはり「時代の影」が刻まれているはずだからだ。
 誰もが、同じ時代の空気を吸ったのだ。
 
全共闘1968下UP
 
 実は、かくいう私こそが、まさにその「全共闘世代」の一員である。
 今まで、「彼らは…」などという “他人ごと” のような態度を装う言葉を連ねながら、モロに当事者なのだ。
 
 私は、活動のリーダー的存在でも何でもないし、アジ演説をしたこともなければ、アジビラを書いた経験もない。
 しかし、学校を封鎖したときのバリケードの中の空気を知っているし、デモの隊列に混じって行進したときの、瓦礫(がれき)がむき出しになった歩道の感触も知っている。
 投石が飛び交い、それが耳元をかすめていくときの擦過音も知っている。
 
 だから、あの時代の空気が何であったか。
 それを皮膚感覚的に知っている世代だ。
 そして、その中に、「生きた歴史」があるように思う。
 
全共闘002
 
 「歴史」とは、その時代の政治状況や経済状況を分析したからといって、その全貌が分かるというものでもない。
 封印されていた機密文章が出てきたからといって、何かが解けるわけでもない。
 
 たとえば、世界大戦のさなか、空襲に怯えて塹壕(ざんごう)に逃げ込んだ人々が嗅いだ土の壁の湿った匂い、遠来のように鳴り響く爆撃音を怖がって泣き出す子供の声。
 そういった、「生きた感触」こそが、歴史の真実を語る。
 
 だから、今、全共闘世代の下の世代が、あの時代の「歴史」をたどろうと決意したことに対し、それに答えなければならないような気持ちになっている。
 
 小熊英二氏は、私たちの世代の一人である女子学生の残した「私には何もないの」という虚しい一言から出発しなければならなかった。
 その困難な道を選んだ誠実さに、私たちの世代は応えなくてはならない。
 小熊氏の全共闘「批評」は、それまでの全共闘「批判」とは根本的に違っていると信じている。
 
 今まで下の世代から湧き起こっていた「批判」は、すべて、
 「あいつらは、豊かな時代に暴れるだけ暴れて、ちゃっかり優良企業に就職し、現在は年金を持ち逃げしようとしている」
 …といったたぐいの、表層的な怨嗟(えんさ)でしかなかった。
 
 そのような怨嗟から出てくる糾弾は、せいぜい「やつらに冷や飯を食わせて、俺たちの世代の手当てを厚くしろ」という “物取り的” な結論しか導き出さない。
 小熊氏の「全共闘批評」は、それとは違っている。
 
 私は、小熊氏のような真摯な指摘をまずいったん受け入れて、私たちの世代の言葉の貧しさから出発しなければならないと思っている。
 
 「言葉が貧しかった」と指摘されたことは、逆にいえば僥倖(ぎょうこう)だった。
 それは、「世界」を上手に語るあらゆる「観念」を捨てよ、といわれたようなものなのだから。
 
全共闘安講
 
 私たちの世代は、たとえば「人間性」という言葉を、その意味を深く考えることもなく、“非人間的” な時代に拮抗する言葉として無邪気に使い続けていた。
 
 学園紛争も、街頭デモも、その目的は「反戦」、「帝国主義打倒」などという言葉に集約されながら、その根底にあったものは「人間不在」の社会体制に対する無邪気な抗議だった。
 
 多くの60年代文化人の発想が、「人間疎外社会からの脱皮」という心情的なモチーフに貫かれていたことを思えば、それは当然のことであったかもしれない。 
 60年代的イデオロギーは、すべてそこから発していたが、肝心の 「人間」という概念そのものがイデオロギーであったことを、当時の若者たちは無邪気に見過ごしていた。

 その無邪気さが、私たちの世代の「言葉の貧しさ」を生んできたのではなかったか。
 そこには「人間性」を語る無数の「観念(哲学)」は存在したが、「人間」はいなかったように思う。
 
 今の私は「人間とは何か?」ということを、もう一度問い直す必要に迫られている。

 「人間って何?」
 と問うことは、今の世では、野暮ったいものに感じられるかもしれない。
 誰もがそれに面と向かい合うことを恥じらっているようにも見える。
 しかし、人間が人間であるかぎり、この問は不滅であり、同時に答はない。
 
 もちろん、今の私にも、それを容易に言語化できるような言葉などない。
 ただ、その答えの出ないものへの “手触り” にこだわり続けることが、私たちの世代に残された責務のように思っている。
   
  
 参考記事 「 『言葉を失う』 ということの意味」
 
 

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全共闘運動の総括 への2件のコメント

  1. Yama より:

    全共闘、あれは何だったのか。。
    むずかしい問題ですね。いいかげんなことを言うと、ビシバシあっちこっちから批判が飛んできそうで、身構えてしまいます。
    69年70年、米国にいましたが、彼らは“Student Power” と呼んでいました。ご存知のようにこの動きは、世界で共時性がありました。おそらく、ベトナム戦争を契機に資本主義と共産主義の両思想が鮮烈にぶつかり合いましたから、若者特有の理想主義、自我意識の伸張するプロセスの中で、共産主義的思想の枠組みを借りて、自分の生き方を声高に論じた若者が多かった、ということではないでしょうか。
    米国では、アカの思想なんぞはまともに取り上げられませんが、徴兵されベトナムに送られる恐怖は現実の問題でしたから、やはり若者は自国のベトナム政策をめぐって、政治的なかかわりの中で、自分の生き方を考えざるを得なかった。社会との“relevance”(関連性)の有無、というものいいをよく耳にしました。
    日本の場合、徴兵の恐れがない分、世界と自分の捕らえ方が極めて観念的になったという面はあるかもしれません。結果、マルキシズム哲学の枠組みを借りてきていますから、町田さんのご指摘のように、「人間とは何か」の最終的問いに対して、自分の頭で考えるという詰めは甘かったかもしれません。だから、全共闘運動=単なる青春の腫れ物(一時的なモノ)論におとしめられる面があるかも。
    しかしこの「人間とは何か」のものいいになると、町田さんもおそらくご記憶にあるとは思いますが、小田実、開高健らの同人誌、その名もズバリ、「人間として」という本も70年初頭にありましたよね。あの人たちは、あの当時、「人間とは何か」について、共産主義ドグマから解き放たれて、どういう視座から、どう根源的に考えていたのでしょうかね、新めて読んでみたい気になりました。

  2. 町田 より:

    >Yamaさん、ようこそ。
    「全共闘」 を語るとき、その同時代を生きた人間は、やはりどこか身構えてしまいますよね。Yamaさんのお気持ち、よく理解できます。
    70年当時のアメリカは、まさに戦争の当時国でしたから、徴兵されるかどうかという瀬戸際で若者が抗議行動を行ったという意味は非常に理解できるのです。
    しかし、日本の場合は、Yamaさんがおっしゃるように、そのへんがあいまいですね。なぜ、あのような活動が日本で行われたのか。その 「心」 の部分の掘り下げが今までなかったのでしょうね。
    もちろん観念的な思想の領域ではものすごい勢いで、運動を支える 「理論」 というものが生み出されました。
    しかし、そのような 「観念」 領域と、「心」 の間には、とてつもない空洞があったのではないでしょうか。
    その空洞部分に、小熊英二さんなどの世代は 「言葉の貧しさ」 を見出したのだろうと思います。
    小田実、開高健という方々の 『人間として』 という本に何が描かれているのか。私もまた興味を感じます。彼らは文学者として、「観念」 としてまとめることのできない人間としての “手触り” というものを探ろうとしていたのかもしれませんね。
    いま私は、「人間」 という “考え方” がいったいいつ、どのようにして生まれてきたのか、そういうことに関心があります。
    それは一生かかっても答の出ないものなんでしょうけれど、その手がかりを知る意味でも、少しずつ 「古典」 と呼ばれるようなものも触れてみたいと考えているところです。
     

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