天才 井上陽水 ( 「傘がない」 の凄さ)

  
 井上陽水ってミュージシャンは、天才ではないのか。
 さっきまで NHK の番組『LIFE 井上陽水~40年を語る』を見ていて、そう思った。

 「天才」というのは、自分の凄さみたいなものは確信しているけれど、「どう凄いのか」ということを自分で説明できない人のことをいう。

井上陽水フォト

 私はあまり井上陽水の良きファンではなかったため、彼をめぐる言説空間で、彼が一般的にどういう評価を下されているのか、また彼自身が、自分をどのように語るのかを聞いたことがない。
 さっき、はじめて彼の (歌声以外の) 肉声を聞いたようなものだ。

 その第一印象は、なんと平凡なことしかしゃべらない人間なのだろう … というものだった。
 謎めいた歌詞が散りばめられたシュールな歌が多いので、さぞや特異な芸術家意識をふんだんに振りまくエキセントリックな人間なのだろうと予測していたのだが、まぁ、おだやかな “普通のおっちゃん” 。

 彼の関係者のインタビューもたくさん挿入されていたけれど、誰一人、彼を神格化した人間はいなかった。

 きっと、誰もが気楽につき合える人間だったのだろう。
 番組の進行も、彼をことさら「謎めいた孤高のアーチスト」風に仕立てずに進んでいく。

 しかし、私は、今でも彼の初期の大ヒット曲『傘がない』をはじめてラジオで聞いたときの、突然、背中に氷を押し付けられたような冷気を思い出す。
 それは決して心地よいものでなかった。
 
 都会では、自殺する若者が増えていると、新聞の報道は伝える。
 … というのが、その歌い出しの部分。
 しかし、それよりも問題は、傘がないことだ。
 歌に唄われる主人公は、そのことを、ひたむきに嘆く。
 
 これから君に会いに行かなければならないのに、外は雨。
 なのに、「傘がない」 。
 自殺する若者が増えているなんてことは、どうでもいい。
 「問題は、傘がない」

 この訴えは、たぶんその当時これをリアルタイムで聞いた人間をみな凍らせたことだろう。

 テレビのインタビューで、井上陽水は、この歌の歌詞が、自分の意図を超えてさまざまな解釈を勝手に呼んだことを打ち明ける。

 当時は、学生運動が急速に終焉に向かっていた季節であったから、この歌を、政治闘争に敗れた若者の「うつろな心情」を表現したものであると解釈する人が多かったらしい。
 
 誰だったか、後に、この歌の出現を「社会的な問題に背を向けるミーイズム(じこちゅー主義)世代の登場」を最初に歌った曲などと捉えていた人がいたことを思い出す。

 しかし、陽水は、
 「別にそんなふうに考えて作った歌ではないんですよ。ただ単に、周りが政治の季節であったというだけのことで…」
 と (いう感じで) 淡々と話す。
 で、話はぷつんと途切れてしまう。
 彼が、この歌に込めた思いは、語られないままだった。

 もし、彼が自作を解説できる「言葉」が本当に持っていないとしたら、そこに彼の天才性があるのではないか。
 すなわち、彼は思いついた歌詞以上のことを、何も考えていなかったわけだから。

 なのに、歌は、彼の想いを超えて、なにがしかのメッセージを含んでしまう。
 生み出されたものが、作者の計算以上の世界を図らずも創ってしまう。
 それは、天才以外にはできないことなのだ。
 
 つまり、天才は、受け手に過剰な読み込みを行わせてしまう「何か」を持っているということに他ならない。たとえ、本人が意図しなくても。
 
 私は、いまだにこの『傘がない』という歌が自分の胸に突きつけてくるものの正体がつかめずにいる。
 最初に聞いたとき、どこかホッとするような解放感と、これじゃいけないんだという焦燥感と、取り返しのつかないものを失ってしまったという喪失感と 様々な方向に自分の感情が分裂してしまったことを思い出す。

 そして、その「分裂の感覚」は、今もなお胸にうずいている。
 もし、番組の中で、井上陽水が、この歌に託されたメッセージを上手に解説したとしても、きっとこの思いは消えなかったに違いない。
 時代を超える歌というのは、そんなものだ。
 好きな歌ではないけれどね。  
 でも、忘れられない歌なのだ。
 
 

  
  
参考記事 「本物の天才とは (ジミ・ヘンドリックスの神話)」
 
 

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天才 井上陽水 ( 「傘がない」 の凄さ) への10件のコメント

  1. Take より:

    陽水さんの『傘がない』然り、河島英五さんの『てんびんばかり』然り、その風刺の中に知ってはいけないものを見たような気になった時、その歌の大きさを感じたような思いがあります。
    でも確かに、その年1972年浅間山荘事件をTVで見たあと、『すげー』とか言いながらもグランドに飛び出して野球をしたものです。
    小学生の僕としては、学生運動も、そこから異常な方向に行ってしまった過激派の革命的な社会変革よりも友人と楽しく過ごす方が大切だったわけです。
    そこで人が亡くなった事実は自分のものになっていなかったですね。
    番組は見損なってしまいましたが、そうですか・・・・そんな発言があったんですね。興味深い話です。

  2. 町田 より:

    >Takeさん、ようこそ。
    >「風刺の中に知ってはいけないものを見た」 …ために、その歌の大きさを感じるというのは、なかなか含蓄のある言葉のような気がします。
    私たちは、見なくてすんだために幸せであった領域から追われ、汚れたように見える真実の世界も知ることによって、その両方を含む 「大きなもの」 を知るようにできているのかもしれません。
    浅間山荘のリンチ事件というのは、その後に起こったオウムの事件と同じように、いまだに 「見たくはない世界」 なんです。しかし、その 「見たくない真実」 が、逆に、今でも何かを考えることの緊張感をもたらしていることも事実なんです。
    僕らの世代の特徴なのかもしれないんですけど。
      

  3.  _  より:

    月刊playboyだったと思うけど、陽水のインタビューで
    浅間山荘事件のとき、大林監督らとTV見ながら
    バカだなとか言いながら、マージャンしてたと読んだ記憶があります
    泳げたいやきくんじゃないけど、偶にそういう拡大解釈されるものが出てくる
    それは、意図したものと言うには無理があるのではないでしょうか

    • 町田 より:

      > _さん、ようこそ
      コメントをいただきながら、肺血栓という病気で2ヶ月ほど入院しておりましたため、返信が遅れ、申し訳ございませんでした。

      _さんの井上陽水の歌に対する印象について、まったく同感です。
      ある歌に、その時代の風潮に対する寓意が込められているかどうかということは、まったく聞き手だけの問題にすぎませんよね。
      仮に作者が、その歌に何かの意味を込めたとしても、それが聞き手に伝わるかどうかはまた別の問題のような気もします。

      ただ、ある歌が、作者の意図を離れ、まるで独り歩きするように一つの時代精神を体現してしまうということはときどき起こります。
      井上陽水の『傘がない』という曲は、まさにそのような曲の一つであるようにも思えます。
       

  4. ジャッカル より:

      お久しぶりですネ。ジャッカルです。

     町田様のお呟き ”独り言”への参加お許しあれませ。
    GWの真っただ中、私め陽水さまのコメントを拝読させていただきました。
    Take様の仰る様に時は移ろうモノみたいにその時々の方の気持ち等ほったらかして、いろんな事件、事故、歴史的な背景をしょいこんでたり全く別件のモノやったり勃発したりしますネ。後でそうだったんや!等と悩んだり後悔したり考え込んだりですよね。同感!
     町田様の取り上げてらっしゃる井上陽水さんのお話もほんまにその通りですよね。
     陽水さんのトークや喋りの深意、真意がいつもあの方の独特の雰囲気で煙に包まれたみたいに訳わからんわ!!で終わっちゃいますよね。
     で、どうだったんやろ?なんて自分の中で反芻するんやけど・・・。答えがでぬまま。 
     でやっぱり 傘がない!で終わります。
     三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地での割腹自死の報道を聞き、高校生の私めにはに時代錯誤した天才作家としか思わなかった。それから大学での安アパートの一室で陽水の傘が無いを聞く。雨が降ってて隣町の彼女に逢いに行くのに傘が無い!
     その前の下りが新聞の一節を読んで聞かしてくれた。何だか聞いてたら切なくなってきたのを思い出します。陽水はホントは何か大声で言いたかったんちゃうやろか?
     

    • 町田 より:

      >ジャッカルさん、ようこそ
      ごめんなさい !
      最近は、この旧ブログの方を開く機会も減り、せっかくのジャッカル様のコメントをしばらく見落としておりました。
      返信が遅くなったことをお詫び申し上げます。

      で、>>「陽水はホントは何か大声で言いたかったんちゃうやろか?」
      … というところですね。
      これは、ほんとに「謎」としかいいようがない。

      きっと、大声で何かを言いたかったはずだ、と私もまた思うのです。
      でも、それをやってしまえば、アジ演説にはなるかもしれないけれど、歌にはならない。
      そう判断したところに、陽水の凄さがあるんでしょうね、たぶん。

      で、また、おそらく陽水は、「ホントに言いたかったこと」を言葉にするのが上手にできなかったんだと思います。
      それを表現するには、「歌」しか方法がなかったんでしょうね。

      もし、彼が「言いたい言葉をうまく言える技術」を持っていたら、きっと彼は作家か評論家になっていたのでしょう。
      でも、彼は、そういう方向に行かないで、「歌」を選んだ。
      彼のその決断のおかげで、僕たちは素敵な歌に巡り合えることができたのだろうと思います。
       

  5. masa より:

    久しぶりに 傘がない 聞きました 揚水が好きです この曲も好きですが
    どうしても GFRの孤独の叫びのパクリ が頭の中で邪魔をしてしまいます
    こんなことを感じるのは自分だけでしょうか?

    • 町田 より:

      >masa さん、ようこそ
      確かに、グランドファンク・レイルロードの「孤独の叫び」と、陽水の「傘がない」は、似たようなメロディラインを持ってますね。しかも、この陽水のライブバージョンは、スローでヘビーなテンポで始まるという意味で、GFRの演奏スタイルと似ていると思います。私も masa さんに指摘されるまで気づきませんでした。

      二つの曲の成立時期を見てみると、GFRの「孤独の叫び(Inside Looking Out)」が1969年。その原曲であるアニマルズのバージョンが出たのが1966年。
      それに対し、陽水の「傘がない」は1972年ですから、陽水が曲想をパクる時間的余裕はあったと思われます。

      しかし、聞き比べてみると、やはりこれは偶然似たメロディーラインになってしまったのかな … と思わないでもありません。陽水の潜在意識のなかに「孤独の叫び」のメロディーが鳴っていて、それが無意識のうちに作曲時に影響したということはあるかもしれませんが、そこには、意図的に「パクってやろう」というほどの気持ちはなかったのではないかと感じます。
      あくまでも情緒的は判断に過ぎませんが。
       

  6. 通りすがり より:

    私がこの歌で着目すべきは
    「君に逢いに行かなくちゃ」ならない理由だと思っています。
    なぜここまで執拗に、まるで取り憑かれたように、
    君に逢いに行かねばという思いに駆られているのか?

    自殺する若者たちの増加、将来への漠然とした不安・・・
    時代を覆う閉塞感を主人公自身も強く感じているはずです。
    ともすれば、彼もまた自らの死を選ぶ可能性だってあるのかもしれません。

    見えざる力に窒息し、圧殺させられそうな自分。
    そんな時に求めるものは、ただ一つ「救い」です。
    それが今は「君」であり、たとえひと時の安らぎであっても
    彼はそれを心から渇望している。
    だからこそ、傘がなくとも、ずぶ濡れになってでも
    ぬくもりを求めて逢いに行かなくちゃならないのだと。

    主人公は、決して「しらけた自己中」でもなければ、「無関心な若者」でもありません。
    でなければ、陰鬱とした社会の象徴である冷たい雨が
    彼の心にしみることなんてないはずです。

    むしろ、それとは対極にいる、か弱き存在であり、
    「助けてくれ!」「自分を救ってほしい!」という
    祈りにも似た悲痛な思いが込められたのが、この歌なのではないでしょうか。

    • 町田 より:

      >通りすがり さん、ようこそ
      素晴らしい解釈だと思います。
      “君に逢いに行く” ことの切実さ、そして逢えないことの個的な辛さや悲しさの方が、抽象的な情報としての「都会で自殺する若者」よりも重いものであることは確かなことですね。
      そういった意味で、ここで歌われているのは、抽象論としての社会学や政治学では捉えることのできない個体の存在の重み、といったようなものでしょうか。
      そういうふうにこの歌の本質を捉えた 通りすがり さんの解釈は素晴らしいと思います。

      ただ、一方では、この歌から「深刻な社会現象に対してあえて目をつぶり、個的な享楽をしっかり守っていきたい」という若者の心情が浮かんでくることも否定できないわけですね。
      もちろんそう理解することは、この歌詞を表層的に解釈したに過ぎませんが、そうだとしても、そこにはまた別の切なさがあるかもしれない。

      そういった意味で、たぶんこの歌は “両義的” なんでしょうね。
      決して一つの解釈には収まりきらない底の深さが感じられます。

      「両義的である」ということは、その両義性に気づいた人間を不安にさせます。
      でも、私はその「不安」こそが、真に深くて鋭いものに触れたときの人間の偽らざる気持であるかのようにも思います。
       

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