「構造」 しかない村上春樹文学

 
 出版不況のさなかというのに、何かと話題の多い村上春樹。
 「ノーベル文学賞」の候補者としてもたびたび名前の出る、今や日本で最も知名度の高い作家だが、その人気の高さゆえなのか、あるいは作品そのものが解釈の多様性を秘めているのか、村上春樹という作家そのものを論じる“村上本”がやたらと多い。
 
 現在そのなかでも最も新しいと思われるのが、大塚英志さんの書いた『物語論で読む村上春樹と宮崎駿 - 構造しかない日本』(角川oneテーマ21 7/10 初刷) である。
 
物語論で読む村上表紙01
 
 私はこの大塚英志さんの著作に以前からかなり注目しており、 『「おたく」の精神史 1980年代論』 、『物語消滅論』 、『リアルのゆくえ』と、書店で目に付いた著書は欠かさず購入して読んでいた。
 マンガ雑誌の編集者としてスタートし、やがてマンガの原作者となっていった人だから、得意分野はサブカルチャー全般なのだが、民俗学から現代思想に至るまで幅広く研究対象を拡げ、今もっとも脂の乗った現代文化ウォッチャーの一人といえるだろう。
 
 生まれは1958年。 「新人類」とか「おたく」とかいわれた世代に属する。
 私がこの大塚さんの著作に触れたのは、『「おたく」の精神史』(04年)からだったが、それまでの団塊世代的な “上から目線” のアカデミズムとはまったく違った、現場叩き上げのしぶとさと、腰の据わり方のどっしり感があって、(泥臭いけれど)ものすごく頼もしいライターが現れたという思いを持った。
 
 この手の “批評本” の書き手は、士官学校を出て、軍略などの講義をしっかりマスターして軍に配属された高級将校の雰囲気を漂わす人が多いのだが、大塚さんは、実際の地形や敵味方の士気の違いを観察してから戦略を立てていくという、戦場の最前線に立つ下士官の雰囲気がある。
 
 つまり、大塚さんの言説には、銃弾が耳をかすめている場所に立っているという緊迫感があるのだ。
 特にマンガ、アニメ、ゲームというオタク系カルチャーを論じる視点には、まさにその渦中にいて、それぞれのキャラクターのビジュアル的な出来映えさえ把握できる人間の強みが感じられる。
 
 その注目している大塚さんの “村上春樹論” である。
 もう表紙を見ただけで、中身を拾い読みすることもなく、すかさずレジに向かった。
 ただ、読む前に、結論も分かっていた。
 「構造しかない日本」
 このサブタイトルが、村上春樹をどのように論じているかを余すことなく伝えてくる。
 
 つまり、村上春樹がなぜ世界中に人気があるのかといえば、それは、彼の作品が、民族・文化の差異を超えて、どんな読者をも説得できる「構造」をしっかり持っているからだ、ということなのだ。
 その「構造」とは、要するに「物語として構造」であり、世界中に流布している民話、童話、ファンタジーなどを構成する「基本骨格」のことを指す。
 
 … と書くと、大塚さんが村上春樹を肯定的に捉えているように感じられるが、しかし、「構造しかない」という言い方には、同時に村上作品の中枢は “がらんどう” であるという意味も含まれている。
 
 この本は、その村上作品の “がらんどう” ぶりを検証していく本となっているのだが、それがハリウッド映画の『スター・ウォーズ』、オウム真理教、宮崎アニメの『風の谷のナウシカ』などといった、誰もが身近に感じられる話題を参照する形で出てくるので、すべての叙述がものすごい具象性を帯びる。およそ文芸批評という近寄りがたい理屈っぽさから全く解放されているのだ。
 
 では、彼が村上春樹の小説に見る「物語の構造しかない作品」とはどういう意味なのだろうか。
 
 その前に、まず「物語」という言葉から、人々はどのようなイメージを思い浮かべるだろうか。
 そこから話を進めないと、この本のテーマがよく見えてこない。
 
 で、「物語」というと、まずは桃太郎やら浦島太郎という日本のおとぎ話を想像する人がいるはずだ。
 あるいは、映画「ロード・オブ・ザ・リング」の原作となったトルーキンの『指輪物語』のような児童文学を思い浮かべる人もいるだろう。
 広義の意味でのエンターティメント小説全般を連想する人もいるかもしれない。
 
 で、実際それはすべて正しい。
 「物語」といった場合、今われわれが手に取れるほとんどの “面白い小説” をそうくくってもかまわないだろう。
 
 で、問題は、この「物語」と、たとえば一般的にいわれる「文学」とはどう違うのかということなのだ。
 この差をはっきりさせることが、この『物語論で読む村上春樹……』という著作を理解する手がかりとなる。
 
 まず「物語」。
 昔話に代表されるように、私たちが子供時代によく聞かされた「物語」というのは、どんな国に伝わるものでも、どこか似かよったところがある。
 たとえば、桃太郎が鬼ヶ島に出かけて、鬼を退治した後、宝物を持って帰ってくるというような話は、ギリシャ神話やロシア民話にも似たような話があり、今なお狩猟採集生活を送るような民族にも伝わっている。
 
 このことに着目したロシアの研究家が、ロシアに残る無数の魔法民話を分析したところ、どの民話も、見事なまでに31の最小単位に規則正しく分けられることを発見したらしい。
 
 そのような基礎研究を元に、ジョセフ・キャンベルという神話学者が、研究対象をさらに広げて世界中の「物語」を調べたところ、その多くが、
 ① 主人公の旅立ち
 ② 試練を通じて獲得される主人公の自立
 ③ 成長した主人公の帰還
 というような三つの展開部を持っていて、その ① から ③ の間には、
 「神秘の世界へ通じるゲートの通過」
 「主人公を助ける仲間との出会い」
 「主人公をパワーアップさせる魔法使いの登場」
 「主人公を誘惑する悪の女神」
 などといった、きわめて共通したエピソードが散りばめられていることが分かったというのだ。
 (※ 実際には、キャンベルはもっと違った用語を使って、さらに細かい例証を挙げている)
 
 このような話から、多くの人がすぐに思い浮かべるのは、映画『ロード・オブ・ザ・リング』であったり、『ナルニア国物語』であったり、あるいはゲームの『ドラゴンクエスト』であったりするのではなかろうか。
 そうなのである。
 これらの映画やゲームは、みな昔話のスタイルをきわめて忠実になぞっているのだ。
 
 神話学者のグレン・キャンベルは、それを、
 「物語には共通した構造がある」
 と表現する。
 つまり、国や文化や民族は異なっても、世界に伝わる英雄伝説は、みな同じ骨格を持っているというわけだ。 
 
 世界の国々で伝承された「英雄物語」というのは、子供が成人して立派な大人になるためのモデルケースを語り継いだもので、いわば子供の成長過程をなぞっている。
 そのような自己実現の話は、成長途上にいる子供に希望と勇気を与える。
 そして、それは、人生を「人間の成長過程」のように捉えている大人たちをも鼓舞するから、親子ともども幸せを得ることができる。
 
 かくして、このような構造を持ったものは、小説であろうと、映画であろうと、ゲームであろうと、無条件に全世界に歓迎されるというのである。
 大塚英志さんによると、ジョージ・ルーカスの制作した『スター・ウォーズ』こそ、このキャンベルの原理を完璧なまでに再現した「物語構造」の代表例なのだという。
 
スターウォーズポスター01
 
 で、ここからが本題なのだが、大塚さんは、
 「村上春樹の小説がこれほど世界的にヒットする理由は、彼の小説もまた “物語の構造” に支えられているからだ」
 という。
 大塚さんは、彼の代表的な長編である『羊をめぐる冒険』が、いかに『スター・ウォーズ』と似ているか、そしてその両者が、いかにキャンベルがいうところの「物語の構造」に忠実につくられているかを、一つひとつの例を挙げながら検証していく。
 
 そして後書きにおいては、最新作の『1Q84』こそ、村上春樹がついに本格的に『スター・ウォーズ』をめざした小説だと結論づける。
 『スター・ウォーズ』も『羊をめぐる冒険』も、世界の人たちから認められたのだから、それは素晴らしいよね!
 ……と誰でも思うところだが、大塚さんはそう思わない。
 
 「 “物語” というのは、近代文学が苦労して手に入れてきたリアリズム、すなわち人間の本当の姿に迫るという “文学” の成果を放棄するものだ」
 というのが、どうやら大塚さんの主張らしい。
 
 ここで、もう一度「物語」と「文学」の違いを見てみることにしよう。
 
 今みたいに新聞やテレビのない時代、ニュースの伝達は人々の口伝(くちづて)によって行なわれるしかなかったが、難しい事件が起こったりすると、現代みたいにワイドショーのコメンテーターなどがいなかったから、それをどう解釈したらいいのか分からない人も出てくる。
 
 そこで、起こった事件を「教訓話」のような形で解釈させるという方法ができあがった。
 つまり「真犯人は誰だ?」みたいなややこしい話になると、とりあえず魔女やら妖怪やらのせいにしておけば、あとは、「だからご先祖様を大事にして、ご先祖様の霊に守ってもらおう」という結論でめでたしめでたしとなる。それが説話であり、物語の原型だ。
 
 しかし、近代以降、世の中がどんどん複雑になってくると、このような物語の説明では、現実の動きを把握できなくなってくる。
 ものすごく乱暴に言い切ってしまうと、そこで生まれてきたのが、近代文学だということになる。
 
 近代文学が成立することによって、はじめて、
 「善良な人間でも、時にどす黒い狂気を心に宿すことがあり、乱心して最愛の妻を殺してしまった」
 という事件があったときに、それを魔女や狐憑きのせいにしない説明体系が生まれたのである。
 
 「物語」への回帰は、大塚さんから見れば、近代の「文学」がせっかく手に入れた「人間の真実」を見ようとする努力を放棄するものであった。
 
 それがまだ小説や映画のようなエンターティメントの領域ならいいが、そのような「物語」を実生活の中で実現し、物語のめざす理想郷を現実化しようとした人たちが出てきたらどうするのか。
 
 大塚さんは、かつて日本中を震撼させたオウム真理教事件にその事例を見出し、さらには、ブッシュ政権下に行なわれたイラク戦争もまた、「アメリカの正義」と「悪の権化であるフセイン」という「物語構造」に依拠する形で進められたと指摘する。
  このような物語的思考が日常的にも蔓延していくことによって、人々の世界観が単純化していくことに、大塚さんは危惧を抱く。
 
 「物語」は、人間を弱者と強者、善と悪などの単純な二元論に集約していくため、そこに登場するキャラクターはみな抽象化される。
 物語の主人公たちは、ある意味、みな理想化され、それがゆえにみな類型化され、個性を失っていく。
 
 村上春樹の小説に出てくる人物が、みな「喪失感」を胸に秘めながらも、どこか超然としていられるのは、彼らが「物語」のキャラクターだからだと、大塚さんはいう。
 
 村上春樹の主人公たちの特徴である、淋しさを抱えたクールさとか、スマートさというのは、極端にいえば「心の空洞化」を意味しているのであり、それは「物語構造」を持った読み物でなければ登場し得ない人物たちなのだという。
 
 本書はさらに、日本のアニメーションの第一人者、宮崎駿についても、その代表作の中から「物語構造」を抽出し、それがゆえに世界的なマーケットに進出し得たことを喝破していく。
 だから、この本は、昨今話題となっている「ジャパンクール」を手放しに評価することへの警告の書でもあるのだ。
 
 すなわち日本のアニメ、ゲーム、ファッションなどのサブカルチャーが世界に進出したことについて、「日本の文化が世界に届いた」と喜ぶことは早計であり、むしろそこには、ただ世界に共通する「物語構造」があったと見るべきだ、という。
 
 いやぁ、(異論はあるが)とにかく面白い本だった。
 読みやすいので、あっという間に読んでしまった。
 そして、村上春樹についていうならば、私はこの本からひとつ発見したことがあった。
 
 それは、なぜ私が村上春樹に惹かれるのかという秘密を、大塚さんの指摘から逆に気づかされたことだ。
 
 「 “構造” はあるが、中身は空っぽである」
 
 ものすごく端折った言い方をすると、大塚さんが村上春樹の小説に抱く感想はそのようなものだ。
 
 だとするならば、私は、その村上春樹の “空っぽ” であるところに魅力を感じていたのだ。
 装われたニヒリズムではなく、本物のニヒリズム。
 それは時に人間を魅了する。
 
 人間はどこかで「空無」に触れたいと思うことがある。
 空無に触れる感触は、リセットするときの感触である。
 私が村上春樹の小説に、時として感じていたのは、このリセットの爽やかさだったのかもしれない。
 
飛行機雲と3本の樹
 
 大塚さんは、村上春樹の小説作法について、
 「本来、意味など何もないのに、いかにも意味ありげな言葉、事件、人物を登場させ、読者に魅力的な “謎” を提示するが、本来、意味など何もないのだから、真相は一向に究明されないし、事件は解決しない。しかし、これが読者の気持ちをいつまでも引きつけておくための最大の小説作法なのだ」
 という。
 
 正確な言葉ではないが、大塚さんの気持ちを意訳すると、そのようなことになる。
 大塚さんは、そのことを否定的に捉えるが、私はこういう小説が好きである。
 
 「何もない」
 
 それは、数字でいえば0(ゼロ)なのだが、ゼロは無限にも通じている。
 「何もない」ということは、その先には、人智では把握することのできない、つまりは、この世では見ることのできない豊穣さが拡がっていることを暗示している。
 
 特に『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』、『午後の最後の芝生』などといった初期作品群には、その中心に0(ゼロ)が居座っているという空気が強い。
 
 突然、話は変わるが、私はかつて出張のついでに伊勢神宮を見物に行き、そこで20年ごとに遷宮するときの候補地というのを見たことがあった。
 見事に、な~にもない場所だった。
 ただ、しめ縄で囲まれた大地が広がり、そこに午後の木漏れ日と風が揺れていた。
 
 そのな~んにもない空間を見て、落ち葉が湖水に落ちたときのような波紋が、心に中に拡がった。
 
 あの、突然湧き起こった波紋は何だったのか。
 … なんて問われても、何にもないんだから意味など浮かばない。
 「神秘」「峻厳」「高貴」「空虚」などといった既成の言葉では全く説明のつかない何かだった。
 
 村上春樹の、特に初期の短編群は、その伊勢神宮の「何もない」空間に吹いていた風を思い起こさせる。
 
 もしかしたら、大塚さんが指摘するのとは逆に、村上春樹が小説の中で実現してしまったものは、世界に通用する「物語構造」ではなく、この「な~んにもない空虚さ」の持つ清々しさという、極めて日本的なエッセンスだったのではなかろうか。
 
 アメリカ的なアイテムと固有名詞が横溢し、翻訳調の文体で書かれた彼の小説世界には、チャンドラーの粋でもなく、フィッツジェラルドの洒落でもなく、東洋的無常観が渦巻いている。 

 「どんにあがいても、真実にはたどりつけない」
 という徒労感、空虚感、寂寥感。
 
 そのような村上文学のニヒリズムが、過剰な「意味」ばかり追い求めることに慣れていた欧米の読者には、エキゾチックに見えたのかもしれない。
 
 そういった意味で、村上文学で後世に残るものは、作品の中に「意味」を持ち込まなかった初期短編だけという気がしないでもない。
 
 その「意味のないこと」に村上自身が焦り始め、なにがしかの「意味」(テーマ or メッセージ) を盛り込もうとした『アフターダーク』以降の作品は、ひょっとして後世に残らないかもしれない。
 
 
 参考記事 「物語との戦い」
 
 
 

カテゴリー: 映画&本   パーマリンク

「構造」 しかない村上春樹文学 への8件のコメント

  1. 妻の旧姓は村上 より:

    いったい村上作品の変遷は、なぜこのような軌跡をたどらねばならなかったのか。
    「意味がないことの意味」に対する偏執的な嗜好、が最初からあったのではないのか。
    最初から「意味」に幽閉されている作家ではなかったのか。
    村上作品のニヒリズムは、「意味」に対するニヒリズムではない。他者に対するニヒリズムがあるだけだ。彼の作品の主人公たちは、最初期から、みな必死に「この世界」と「自分」の「意味」を追いかけている。
    この人は、最初から「この世界と自分の意味」ばかり追いかけていたのだ。それを「意味がないことの意味」にして表現したって同じことだ。
    そうやって「この世界の意味」や「自分」に執着してきたから、「オウム」につまずいたのだ。
    「この世界の意味」に執着するとは、「自分」に執着することだ。「風の歌を聴け」からずっと、「自分」に執着している人間ばかり書いてきた。
    この世の人間は、誰もが「自分」に執着し、この世界の「意味」を問うて生きている。だからその作品は、世界中で通用する。その「執着」に対する免罪符を与えてくれる機能(魔力=魅力)を持っている。だからみんな、一度ははしかのように魅せられてしまう。
    しかし「何もない」ことは、「魅力」ではない。そんな単純なことじゃない。村上春樹は、それに「魅力」という「意味」を与えた。
    彼は、日本文化の上澄みを上手にすくい上げて世界文学に仕立て上げて見せた。
    いったいあの、「この世界の意味」に対する並々ならぬ関心は、なんなのだ。彼は、冷蔵庫の隅に残った無意味なママレードの瓶にも、みごとな「意味=魅力」を付与してみせる。
    それが、彼の、「自分」に対する並々ならぬ関心と他者に対するニヒリズムから来ているものだということが、このごろやっとわかりました。
    われわれは、村上春樹が好きな「自分」に対する関心から逃れ、他者に目を向けることができるか。現代人は今、そこにおいて、時代から試されているのだと思います。

  2. 町田 より:

    妻の旧姓は村上さん、ようこそ。
    なかなか考えさせる材料をたくさん含んだコメントをありがとうございます。
    ただ、文面を何度も拝読し、コメントの真意を理解するように務めたのですが、村上春樹が 「この世界の意味に執着すること = 自分に執着すること」 にこだわっていると判断された根拠が何に由来するのか、それが最後まで分りませんでした。
    一言でいうと、このコメントに盛られた批評が、村上春樹という作家に対する作家論なのか、それとも作品論なのか、そのへんの区別が、私にはよく飲み込めませんでした。
    たぶん、村上春樹の最近の政治的行動や、作品以外のコメントなどから、村上春樹という作家が 「自分に執着している人間である」 とご判断されたのではないかと思いますが、少なくとも私が読んだ限りにおける初期作品の中においては、私はその作品群には 「個に執着する」 片鱗を匂わすものは何も感じませんでした。
    さらに百歩譲って、その作品群の中から、自己にのみ執着し、他者の存在を冷酷に無視するような態度を取っているように思えるキャラクターが登場したとしても、それは 「ニヒリズム」 とは言わないでしょう。それは世間一般でいう 「エゴイズム」 ではないでしょうか。
    ニヒリズムというのは、自分も無化してしまうことをいいます。
    要するに、「妻の旧姓は村上さん」 は、「自分に対しては執着し、他者にはニヒルな村上春樹を許せない」 とおっしゃりたいのでしょうけれど、それはあなたの倫理から来るものなのですか? それとも美意識から来るものなのでしょうか?
    「免罪符」 というような言葉を使われるところをみると、そこに倫理的な価値判断が働いているように見受けられますが、(そうだとしたら) そもそも文学は、善も描けば悪も描くわけで、低俗であるか、上等であるかという差異はあっても、倫理的に悪であるとか、善であるとかを問うても意味がないことです。
    また、美意識に由来する判断だとしたら、それは書物が秘める光の乱反射のような多様性のひとつに感応したということですから、妻の旧姓は村上さんと異なる感じ方をした人がいても、そこに優劣は生じません。
    ただ、「妻の旧姓は村上さん」 のご指摘は、決して軽くいなすつもりはありません。自分もこれを機に、村上春樹を容認する自分を再度自己検証することにいたします。

  3. Yama より:

    町田さん、またまた刺激的なテーマを選択されましたね。ありがとうございます。
    私はまず「物語」の用語、用法にこだわらさせてください。
    東浩紀さんらアニメ系?の評者が、「ポストモダン、すなわち物語の力が衰えた世界において、それでも物語を語ろうとすればどうなるか」なんて使う時の物語。この物語の特質は①ウソ、恣意的に作ったもの②しかし包括的意味体系を備えている③結果人を鼓舞する特徴をもつことであり、聖書に代表される宗教もマルキシズムもみんないわば大「物語」とする用法だと思います。
    一方、今回の大塚さんが村上春樹小説の「物語の構造」性というときの「物語」は昔話などを念頭においた従来用法の面白い「物語」かな。
    村上小説の面白さの秘密はこの二つの「物語」から。構造的作りの面白さを説明するときは①旅立ち②自立③帰還の筋立ての従来の物語=昔話との共通性から説明できる。
    次に、空虚性の魅力(あるとすれば)は、東さんらの用法の「物語」があぶり出すウソ性から説明できる。村上人物の空虚性は、類型化されたキャラクター性に由来するという大塚さんの指摘は秀逸と思う。登場人物は抽象類型化されれば、当然彼らは意味体系を唱導しないということでしょう。その結果、カラッポ感。そこに感覚的に共鳴する人が多いのでしょうか。
    しかし、村上小説にはストーリー上も、天から魚が降ってきたり、霊界と行き来したり風の、超現実的場面が出てきてこれはオハナシと思い知らされる箇所が多いじゃないですか。あそこで、私は白けるのです。これは、単なるお話じゃあないか、そのくせ意味体系も教えてくれないじゃないか。何が言いたいんだろと(笑)。
    作者が意味を問いもがいているように感じないのは、安直な読み方なんでしょうね。

  4. 妻の旧姓は村上 より:

    もう一言書かせてください。
    私には、たいした倫理観も美意識もありませんよ。いくらなんでも、そんな安っぽいところでどうこういっているんじゃない。
    村上春樹の小説がこんなにも売れていて社会現象になっているということは、われわれは何かを試されているということでしょう。
    そして大塚氏の批評だけでなく、一般読者だって、多くの人が諸手をあげて飛びついていっているだけの意識でその本を買ったのではない。
    私はもう世の中なんか関係ないというところで暮らしているけど、あなたはそうじゃないでしょう、時代と戦っている人間として、自分は試されている、という意識はないのですか。
    「何もない」ことの日本的美意識ということなら、私だって、懸命に考えていますよ。もしかしたら、しがらみがない分、あなたよりも。
    でも、そんなことは、どうでもいい。「意味」に幽閉されてしまっている時代、という問題があるじゃないですか。そして、逆説的にものすごく「意味」や「自分」にこだわってる作家じゃなければ「風の歌を聴け」というような小説は書けない、ということです。「個に執着」しないというかたちで執着している作家でなければ、あそこまで執着しない小説はかけないのだろう、とこのごろ思えてきた、問い言っただけです。
    少なくとも、あなたが言うほど薄っぺらに読んでいるつもりもないですよ。
    それは、キャンピングカーで旅をすることの本当の喜びとはどんなものか、という問題でもあるでしょう。
    べつに村上春樹が許せないなんて思っていない。われわれの時代はいま、村上春樹と「個に執着する」という問題を共有しているのではないか、と思っただけです。

  5. 町田 より:

    >Yamaさん、ようこそ。
    深い省察に満ちたコメントをありがとうございます。
    いやぁ、おどろきました。今回のテーマに対し、先の 「妻の旧姓は村上」 さんと同じように、これほど真摯で意義深い反応をいただけたことにびっくりしています。
    Yamaさんがこだわる 「物語」 の二つの用法、よく分りました。
    東浩紀さんがいうところの 「物語」 というのは、論壇でよく使われた 「大きな物語」 の意味ですね。宗教、マルキシズム、あるいは正義、人類などという用語を代入できる 「物語」 のことです。大塚英志さんは、もちろんこの 「大きな物語」 についても、愚直なくらいに考えられている方ですが、今回の著作ではYamaさんのおっしゃるように、説話論的な物語体系に限定して話を進められています。
    大塚さんが、なぜこの説話論的 = 昔話的な 「物語」 論で村上春樹を論じようとしたかというと、村上春樹という人が、団塊の世代、すなわちその多くが 「大きな物語」 を問題にしていた世代であったにもかかわらず、彼はそこに組みさなかった作家であったという認識がまずあったからでしょうね。
    大塚さんという批評家は、「大きな物語」 の無効性がはっきりした時代に、いかにしたら、ポストモダン的なタコツボ状態に安住することなく、リアルな現実を直視できる 「個人」 とか 「主体」 を回復できるかというアクロバティックな戦いを続けられている方のように思えます。
    その彼にとって、村上春樹が 「大きな物語」 が成立する前の説話論的な 「物語」 に回帰するのは、敵前逃亡であるように感じられたのだと思います。
    実は、私もまたYamaさんと同じように、ファンタジー風の色彩が強くなる中期以降の村上春樹にはあまり共感を感じていません。しかし、「大きな物語」 の失効した白けたような時代の寂しさを“気分”として表現した初期の短編群には、どうしてもノスタルジックな思い入れを持ってしまうんですね。
    それもまた、自己執着であると指摘されてしまえば、それまでの話ですが…。
    とても良いコメントをいただきました。Yamaさんの読み方は決して安直ではありません。
     

  6. 町田 より:

    >妻の旧姓は村上さん、またのお越しをありがとうございます。
    コメントのお返事で、「薄っぺらに読んでいる」 というような印象を与えてしまったとしたら、申し訳なく思います。決して、そのような気持ちで書いたのではなく、「妻の旧姓…」 さんの村上春樹を評する視点がどこにあるのかということを確認したかっただけのことです。
    それが、この2度目のコメントではっきりしました。問題とされる箇所が、とてもクリアに伝わってきたように思います。
    おっしゃるように、「個に執着する」 ことの逆説として、一切の執着から逃れたような作風が誕生するというカラクリは、確かにありえますね。
    ただ、村上春樹が 「自分に執着する」 度合いの強い作家であったにせよ、その彼が書いた作品をどう受け止めるかは読者の恣意性に任されるように思います。
    読者は、作者の作品を “誤読” する権利がありますし、いったん生み出された作品は、作者のものであると同時に読者のものでもあるからです。
    私の場合、彼が 『風の歌…』 や 『ピンボール』 を書いていた70年代の末期、自分の手元から数々のものが失われていくことにいたたまれないような心境に陥っていたときに、消え行くものに執着しないことの救いを授けてくれたのはあれらの作品でした。
    自分はそこで何かから脱皮できたような記憶があります。
    「個に執着する」 ということの問題がせり出してきた時代に、村上春樹とどう向き合うかという 「妻の旧姓…」 さんの抱えられているテーマはよく分りました。
    その問題に真摯に向き合われて、どのような地平が拓けてきたのか。それをまたお教えください。
     

  7. Yama より:

    町田さん、お返事ありがとうございます。
    形而上学的な分析は別にすると、ウ~ん、我々キャンカー乗りに痛いのは旧姓村上さんの最後の疑問「それは、キャンピングカーで旅をすることの本当の喜びとはどんなものか、という問題でもあるでしょう。」ですね。。痛い。
    定年後はこれ一筋の生活にしたい風に、私も思いつめていますから。なんなのでしょうね?
    今は、といえば「キャンカーで出かけて、山を眺めながら小説を読み、時には形而上的な思索にふけるのが極上の喜び」と言えるのですが。。
    どうです、うまく両者を止揚したでしょう(笑)。

  8. 町田 より:

    >Yamaさん、度重なるコメントでのお気遣いありがとうございます。
    「形而上学」「止揚」など、いい言葉ですね。
    キャンピングカージャーナリズムでは、なかなかこういう言葉を使うシーンがありません。レイアウトの解説や、装備品の紹介などで、いきなりこういうタームが出てきたら、みんな引いちゃいますものね。
    そんな堅苦しい言葉を使うと、なんだか気取っているように思われてしまうし、第一、そういう言葉で説明できるものがひとつもありません。
    しかし、そういうタームが不自然でなく使えるキャンピングカーの言説空間があったとしたら、そこでいったいどのような世界が見えてくるのか。
    ふと、そう思わないでもないのです。
    今はなるべく分りやすい言葉で、無理なく、自然に、キャンピングカー旅行が新しい文化として定着するようなテキストを書いているのですが、言葉というのは、最初はその言葉の意味が十分理解されてなくても、ひとたび定着してしまうと、一気に世界を変えてしまうことがありますよね。
    いずれは、そっちの作業にも手をつけてみたいのですが、とりあえず、今は「キャンピングカー」を「RV」と呼ぶのはどうか? という小さなところから呼びかけを行っているところです。
    現在は「RV」というと、圧倒的にクロカン系SUVをイメージする人たちが多いのですけれど、もし序々に「RV」が「キャンピングカー」を意味するのだという認識が浸透してくると、そこにキャンピングカー旅行を新しい文化としてプレゼンできるチャンスが生まれてくるような気もしているのです。 
     

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong> <img localsrc="" alt="">