庄野潤三 『静物』 に見る異形の自然

 
 庄野潤三の短編集 『プールサイド小景・静物』 (新潮文庫) を買った。
 通勤電車の中で気楽に読める手頃なサイズの小説集が欲しかったからだ。
 
庄野「静物」表紙
 
 家に戻って何気なく書棚を見たら、同じ本が、ちょっとホコリを被ったまま天井近くの棚にひっそりと刺さっていた。
 買ったことを忘れていたのだ。
 悔しいけれど、私にとってはよくあることだ。
 
 でも、そこでがっかりせずに、はじめてこの本を買ったつもりで、順を追ってページを繰ってみた。
 やっぱりそのほとんどを忘れている。
 … というか、もしかしたら本を買ったはいいが、読んでもいなかったのかもしれない。
 
 収録されていた七つの短編にはそれぞれ独特の空気があって、どれも不思議な気分にさせられた。
 どの作品も、昭和25年から35年までの間に書かれたものである。
 最初に発表された 『舞踏』 からすでに60年経つことになる。
 
 しかし、読んでみると古びていない。
 特に、『舞踏』 と 『プールサイド小景』 などは、今のテレビ局が単発ドラマの原作として使っても、十分に通用するような話だ。
 テーマは 「不倫」 。
 平和に暮らしている幸せな家族に、そっと忍び寄る夫婦の危機。
 小説全体を “のんびり感” が覆っているだけに、そこに入った亀裂の深さが逆に浮き彫りになり、作品全体が不思議な透明感を持った悲しみに包まれている。
 
 しかし、この手の作品なら、昔から名手はたくさんいた。
 むしろ、興味深いのは、『相客』 、 『五人の男』 、 『蟹』 、『静物』 といった、家族の肖像をさりげなく描いた “おとなしい” 作品群の方である。

 その中でも一番奇妙な味わいを持つのは、本の表題の一つとして掲げられている 『静物』 である。
 この作品は、村上春樹が 『若い読者のための短編小説案内』 でも採り上げたことがあるので、それに触発されて、にわかに最近の若者にも読まれるようになったと聞く。
 
 読んでみると、確かに、ある意味で村上春樹好みの作品という感じもする。
 主な登場人物は、父親、母親、そして女の子と2人の男の子である。
 その家族の中で繰り広げられる日常生活の一コマ一コマが、何の脈絡もないまま並列につながっているだけの作品なのだ。
 
 たとえば最初の章は、子供たちが、父親にせがんで釣り堀に連れていってもらい、意気込んで釣糸を垂れるのだが、何も釣れず、最後に父親が小さな金魚を一匹だけ釣って家に帰るところで、プツッと終わる。
 事件が起こるわけでもなく、しゃれたオチが用意されているわけでもない。
 他の話も大同小異だ。
 5人家族の平和なやり取りを淡々と描いたスケッチが続く。
 
 なのに、この作品全体から、うっすらと不思議な感覚が立ち昇ってくる。
 常に、文字として書き込まれていない何かがここには居座っている。
 
 その正体のひとつは、簡単に探し出せる。
 夫と妻との間にときおり忍び込んで来る 「すきま風」 だ。
 
 ある晩、父親はそばで寝ている妻のことを、ふとこう考える。
 「おれの横にこちらを向いて眠っている女 …… これが自分と結婚した女だ。15年間、いつもこの女と寝ているのだな。同じ寝床で、毎晩」
 
 結婚したどの夫にも必ず訪れる、ごくありきたりの感慨かもしれない。
 しかし、これは、読者にはじめて伝えられる父親の 「内面」 なのである。
 家族を平等に愛し、のんびりと、平和に暮らしている父親は、実は心の奥底では、きわめて冷静に、妻との間の距離を測っている。
 
 この夫は、15年経っても、一緒に暮らす妻を、「妻」 としてではなく、あまたいる 「女」 の一人として遠くから眺める視線を放棄してはいないのだ。
 夫のクールな意識が突然頭をもたげてくるこのシーンは、水面にさざ波が立つくらいの微かな不安を、作品の中に撒き散らす。
 
 またある日、夫は家の中で昼寝しているときに、「女のすすり泣き」 の声を耳にしたと回想するくだりがある。
 妙だなと思って、台所を覗いてみると、妻はほうれん草を洗っていた。
 「何か音がしなかったか?」
 と夫が妻に尋ねると、
 「いいえ、何か聞こえました?」
 と妻は晴れやかな顔をこちらに向けた、というのである。
 
 結局、夫には 「すすり泣き」 の犯人がいまだに分からない。
 場面はそこで変わり、話は子供たちのドーナツ作りに移っていく。
 
 しかし、読者には分かってしまう。
 たぶん、この夫は、かつて妻をすすり泣かせるようなことをしてしまったのだ。
 そして、もしかしたら、一見仲むつまじそうに見える夫婦の間には、いまだに深いクレバスが口を開けていて、2人ともそのクレバスから目を背けているのかもしれない。
 読者にそう思わせる何かが、ここでは暗示されている。
 でもそれが何であるか、作者は語らない。
 
 日常生活を脅かす陽射しの陰りは、ほんの一瞬で姿を消し、ほとんどの場合、ちょっぴり退屈な日常性が何ごともなかったかのように復活する。
 多くの人が、この 『静物』 にときおり顔を出す 「不安の徴候」 に注目した。
 そして、その 「不安の徴候」 こそが、この牧歌的で微温的な小説をピリッと引き締めるタガになっていると指摘した。
 
 しかし、『静物』 という小説は、夫と妻の関係が明らかになれば、作品全体を貫く奇妙な味わいの秘密が解けるのかというと、そうではない。
 夫の心理状態がどうであれ、妻が求めるものが何であれ、それとは関係ないところで、不思議なものが迫り出してくる。
 その不思議なものを探る前に、以下の場面を見てみたい。
 
 ある日父親は、男の子に、イカダ流しをしていた “川の先生” の話をする。
 「川の先生は、川のことにかけては人とは比べものにならない名人で、川に魚が何匹いて、どっちの方向を向いて、何をしているということまできっちり言い当てる。
 この人と一緒に釣りをしていて、『あとひとつ』 というと、そこにはあと一匹しか魚が水の中にいないということなんだ」
 それを聞いて、男の子は 「すごい!」 と言う。
 
 その話のついでに、父親は釣りをしていると必ず現れてくるキツネの話をする。
 キツネはカゴに入った釣った魚を狙っていて、石を投げても、ヒョコヒョコと避けるだけで立ち去らない。
 そして、油断をしていると、カゴを加えてすーっと走り去る。
 聞いている男の子は 「あーあ」 とがっかりした声を出す。
 
 「学校の花壇を掘っていたら、土の中からおけらが一匹出てきたの」
 と、女の子が父親に話す。
 「そのおけらはね、誰それさんの脳みそ、どーのくらい? って聞くと、びっくりして前足を広げるの」
 そういって、女の子は両方の手でその幅を示す。
 「そのおけらの前足の幅でね、みんなの脳みその大きさが分かるの」
 
 男の子がボール箱の中に入れておいた蓑虫 (みのむし) がある日いなくなる。
 子供は、蓑虫を庭の木からつまみあげ、裸にして、木の葉っぱや紙切れと一緒に箱の中に入れ、巣をこしらえる様子を観察するつもりでいたのだ。
 
 その蓑虫がどこかに姿を消す。
 しばらくすると、蓑虫はいつのまにか子供の勉強部屋に巣を作って収まっている。
 父親は、戸外に巣を作るはずの蓑虫が家の中に巣を作っている様子を見て、不思議な気持ちになる。
 
 これらの、父親と子供が語り合う世界はいったい何なのだろう。
 
 テーマはみな 「自然」 である。
 この小説では、冒頭の金魚釣りから始まり、必ず同じ道をたどろうとするイノシシの話、あくまでも前へ前へと進むアユの話など、父と子供たちの会話に必ず 「自然」 が登場する。
 
 テレビゲームも携帯電話もない昭和35年。
 子供たちの遊びのフィールドがアウトドアだったことは分かる。
 しかし、父親と子供たちの対話の中で、これほど自然を相手にした話が繰り返されるとなると、そこに庄野潤三がなにがしかの意図を込めたことを感じないわけにはいかなくなる。
 
 作者はどういうつもりで、繰り返し繰り返し、「自然」 というテーマを父親と子供たちに語らせたのだろうか。
 
 たぶん、庄野潤三は自然の持つ 「超越性」 を、この作品の中に導入したかったのだ。
 人間が、可能な限りの人智を奮っても制御できないもの。
 人間のつくり出す秩序を軽々と超えて、人間などには関わることのできない大きな秩序を形成しているもの。
 そのような 「超越的な存在」 を、庄野潤三は 「自然」 というシステムに仮託して、子供と父親との会話の中で示唆しようとしたのだ。
 
 実際の話題として登場する 「自然」 は、どれもたわいない。
 父親が子供に語る自然は、現代人がノスタルジックにいつくしむ 「失われた自然」 でもなければ、文明に猛威を振るう 「怒れる自然」 でもない。
 
 にもかかわらず、「自然」 は不思議な世界を人間にかいま見せる。
 おけらは、子供の 「誰それさんの脳みそ、どのくらい?」 という問に素直に反応して前足を広げ、蓑虫は勉強部屋の片隅に巣を作る。
 それらに触れることによって、主人公の父親は、自分たちの力を超えた何者かの存在を無意識のうちに感じとる。
 
 この 『静物』 という作品は、舌を巻くほど見事な描写力を誇っている小説である。
 特に、子供たちが見せる無邪気な会話や仕草。
 それを、これほどまで克明に写し取った作者の技量は、並大抵のものではない。
 
 しかし、そのようにして獲得されたリアリティは、逆に 「リアリズムでは獲得できない世界」 があることも、地面に落ちた影のように映し出してしまう。
 それが、「消えた蓑虫が、ある日こっそりと勉強部屋に移動して作ってしまった巣」 なのだ。
 
 この 『静物』 という小説に備わる “奇妙な味わい” は、日常生活の中にぬっと顔をさらす異形のパワーとして 「自然」 を捉えたところから生まれている。
 村上春樹は 『若い読者のための短編小説案内』 の中で、ここに登場する子供たちを、作者の 「イノセンス (無垢) 」 への憧憬が表現されたものとして捉える視点を披露していたが、そのイノセンスこそ、子供たちが無意識に備えている 「自然」 への親和性と解釈することもできる。
 
 つまり、自然に対して、その懐 (ふところ) に無心に飛び込んでいける子供というのは、この世に屹立している 「超越的なるもの」 の存在を大人に知らしてくれる 「使者」 なのだ。
 
 庄野潤三がこれを書いた昭和35年という時代は、まだ都会生活を送る人々の間ですらも、自然をテーマに語るときの素材がこれほど溢れていたのだ。
 しかし、今ここで描かれたような自然と接することができるのは、人里離れた山奥にでも行かなければ無理になった。
 だからこそ、『静物』 という作品が、不思議な光芒を放つように感じられるのは、逆に今の時代かもしれない。
 
 

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庄野潤三 『静物』 に見る異形の自然 への10件のコメント

  1. 尾崎 より:

    こんばんは。
    とても参考になる解釈でした。
    ところで、第9章については
    どう思われますか?
    私は、第9章が気持ちわるくて仕方ないのですが。

    • 町田 より:

      >尾崎さん、ようこそ
      尾崎さんにご指摘いただいて、「静物」の9章をちょっと読み直してみました。
      確かに “異様” ですね。
      書かれていることは、この家族が、伯父さんから胡桃をもらい、それを子供たちに分け、子供たちがその胡桃をどう扱ったかというだけの話です。
      事件性もなければ、ドラマ性もない。
      この「静物」という作品の中でも、もっとも地味なエピソードの一つといっていいのではないでしょうか。

      しかし、尾崎さんが「気持ち悪くて仕方がない」と感じられた “異様” さは際立っていますね。
      その感覚がどこから生まれているのか。
      たぶん、「胡桃」という対象に向かう作者の視点が、偏執狂に近いほど緻密化されているからでしょうね。

      作者の叙述は、伯父さんにもらった胡桃を家族にどう配分するのか、家族たちが、それを食べたり、こすり合って遊んだりしながら、その胡桃をどう扱ったのか。
      その経緯だけが丁寧に描写されています。

      つまり、そういう記述の正確さと精密さが、「胡桃」という対象の小ささに比べ、バランスが悪いほど肥大化しているわけですね。
      そのため、描かれた対象と、それに関わる人間の意識のアンバランスなほどの比重の違いがくっきりと浮かび上がり、それが普通の人間の日常感覚とは異質なものを招きよせる力になっていると感じました。

      もっとも平凡なものが、もっとも狂気をはらんでいるという逆説。
      こういう作風をモノにできる庄野順三という人は、やはり恐ろしい人だと思いました。
       

  2. 尾崎 より:

    お返事、ありがとうございます。
    とても納得です。もっとも平凡なものがもっとも狂気をはらんでいる、
    町田さんの解釈は深いなあと思いました。
    もう一度読むと、確かに胡桃についての描写は丁寧ですね。
    この、工事現場の人は、本当にクルミを食べたと思いますか?
    一瞬の間に胡桃を真っ二つに割って食べるなんて
    不可能だと思うのですが。
    そもそもこの女の子の話自体に現実味があまり感じられません。

    • 町田 より:

      >尾崎さん、ようこそ
      なるほど !
      >>「女の子の話自体に現実味があまり感じられません」 ……

      そこがこの章のポイントなのかもしれませんね。
      ご指摘いただき、私もまた、この9章の持つ不条理感の秘密に少し近づけたように思いました。

      確かにこの家族のなかで、この女の子は、誰も近づけないような独特の世界を持っています。
      その話に現実味が感じられないというのは、女の子がウソ話を作り出しているというよりも、ヴィジョネール(幻視者)としての資質が関与しているような雰囲気がなきにしもあらずです。

      たぶん女の子が、道路工事の労働者が胡桃を真っ二つにきれいに割ったことを目撃したのは、“ほんとうのこと”でしょう。
      しかし、それは事実とは異なる女の子の心理における “ほんとうのこと” なのかもしれない。
      作者は、そこのところに、あえて言及していませんね。
      むしろ巧妙に、リアリズムに則った手法で、それを伏せている。
      だからこそ、隠された真実が、見えないところで、もそもそと蠢動している気配が伝わってくる。

      そこのところに着目された尾崎さんの読み方も鋭いと思いました。
      勉強させていただきました。
      ありがとうございます。
       

  3. 尾崎 より:

    女の子は幻視的要素を含んでいると、
    なるほどです!!!
    町田さんの読みはほんとうに鋭いです。
    私のほうこそとても勉強になりました。
    いま、この章を研究しているので、
    とても参考になりました。
    ありがとうございます。

    • 町田 より:

      >尾崎さん、ようこそ
      こちらこそ、ありがとうございます。
      この9章を研究されているとのこと。
      その言葉に、とても興味を抱きました。
      差支えなければ、いつの日にか、研究の成果の一端をお教えいただけますでしょうか。
      気が向いたらでけっこうですが…。
       

      • 尾崎 より:

        ありがとうございます!
        ぜひ報告させてください!
        この静物を読んでいる人って少ないので
        町田さんと意見交換ができてよかったです。
        私の拙い考えにも意見いただきありがとうございました!
        自分の研究がさらにいいものになりそうです!

        • 町田 より:

          >尾崎さん、ようこそ
          報告を楽しみにしております。
          尾崎さんの着目点は素晴らしい。
          おかげで、こちらも今一度『静物』という小説を味わい直すような気分になりました。
          ありがとうございました。
           

  4. 尾崎 より:

    町田さん、お久しぶりです。
    ぶじ、9章の研究を終えることができました。
    静物の章ごとに主題を見つける研究をしているのですが、
    9章の主題を「日常に潜む異様」としました。
    その根拠として以下のようにまとめました。

    この章は特別大きな事件がおこるわけではなく、
    いたって平凡な日常の一コマである。
    しかし、読むとなぜか気味悪さを感じる。
    一体なぜ、気味悪さを感じるのか。
     私達は、その理由に人間の意識の差が関係していると考えた。
    なんてことないことないのに、気になるととことん気になる。
    人間の意識は不思議なもので、今まで普通だったことに、
    ある日突然、違和感を覚え、気味悪さを感じる。
    意識すればするほど、どんどん気味悪さが増してくる。
    行き過ぎると普通がなにか分からなくなってくる。
    私達の日常には「あるはずない」が潜んでいる。
    その「あるはずない」に気づくか気づかないかは、人それぞれである。

    女の子の胡桃を通して体験したことを中心に読みといていきました。
    この主題を考えれたのも町田さんのおかげです。
    本当にありがとうございました。

    • 町田 より:

      >尾崎さん、ようこそ
      9章の研究、無事終えられたようで、まずはおめでとうございます。またお疲れ様でした。
      >>「日常に潜む異様」
      まさに、その通りですね。

      とりとめもない日常の中に、突然紛れ込んでくる「気味悪さ」。
      そのときに生まれる人間の意識の断層。
      そこに「違和感」や「君の悪さ」の出所を突きとめたことは慧眼であるように感じます。

      この「意識の断層」はなぜ生まれるのか。

      たぶん、我々の日常的な意識というものは、さまざまなメディアによって構築された世界観をそのままなぞっているのではないかと思います。人間は、誰にでも自分自身すら制御できない<闇>のようなものを抱えているのですが、それを「心理学」の言葉で解説したり、「無意識」という言葉に還元したりして、誰でもが納得のいく “合理的な” 説明形式に変換してしまいます。
      だから、そのような説明体系で解析される人間の意識は、どのような “真実味” を帯びているように見えても、しょせんその時代を主導する説明体系をなぞっているにすぎないように思います。

      庄野潤三が描いた『静物』は、そのような合理的な説明体系からこぼれてしまったモノをすくい上げたのではないでしょうか。
      そのときに、最初に見てしまった日常性の “隙間” を解説する言葉はありません。それは言語化される以前のものだから。

      私は、人間がこの「言語化される以前のモノ」を見ることを “リアルな体験” というのではないかという気がします。
      人々は、その “リアルな体験” をなんとか自分自身に納得させるために、時に心理学の用語を借り、時に社会学などの成果を応用し、「万人が理解できる」世界像に変換していくわけですね。
      しかし、そのときに、原初に出現した “リアルなもの” は抽象的なロジックに変換され、当初の「違和感」や「気味の悪さ」を喪失していきます。

      尾崎さんがおっしゃられた >>「今まで普通だったことに、ある日突然、違和感を覚え、気味悪さを感じる」ということは、いったんロジックに変換されたものが、再び原初のリアルな相貌を剥き出したことを伝えてらっしゃるのではないかと感じました。

      庄野潤三の9章の世界は、まさに人々が言語を獲得して自分を納得させる以前の、人間が最初に接した “リアルなもの” を見つめた章ではないかという気もいたします。
       

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