夏の広がり (蠍座公演 『夏』)

 
 「夏」というのは、季節のことを指すのではなく、「広がり」 を暗示するときの別名ではないかと思うことがある。 
 「春」とか「秋」という言葉に、広がりは感じられない。
 さらに 冬」という言葉には、背を丸めて首を縮めるという印象が絡んできて、より一層「広がり」とは結びつかない。
 
 しかし、「夏」という言葉には、海や山で遊ぶというイメージが刷り込まれているせいもあって、言葉の背後にとんでもなく広大な世界が広がっているという印象があるのだ。
 
 「夏の午後」といえば、暑さと同時に、生き物の気配すら途絶えたような静寂が広がっていく雰囲気があるし、「夏の夜」といえば、トロリとした闇の深さが足元を浸すような気分になる。 
 
 「夏」は、目に見えている世界の彼方に、もう一つの別の世界が口を開けていることを暗示する特別な季節である。
 

 
 自分がそんな思いを抱くようになったのは、一つの演劇がきっかけとなっている。
 文字どおり、『夏』というタイトルの劇だった。
 
 1960年代の末頃。
 たぶん、まだ高校生ではなかったかと思う。
 誰かと一緒に見に行ったと思うが、それが誰だったのか思い出せない。
 どうして、そういう劇を見に行くことになったのか。
 それも定かではない。
 
 つまり、劇にまつわる周辺の記憶はすっぽりと抜け落ちているのに、「夏」を感じたという印象だけは、強烈なものとなって残っているということだ。
 
 場所は東京・新宿。
 劇場名は『蠍座 (さそりざ) 』。 
 商業的な成功をめざす劇場では採り上げてもらえないような、前衛的な演劇、実験的な映画を専門的に扱う小劇場だった。
 
 小劇場公演というのははじめてだったので、客席に座ったときは、そのあまりにもシンプルな舞台設定に目が飛び出るほど驚いた。
 それまで、「劇」というのは、舞台上の役者を遠く離れた客席で眺めるものだという思い込みがあった。
 しかし、蠍座の舞台は、そういう演劇の常識を180度ひっくり返すものだった。
 
 まずステージがないのである。
 もちろん、幕などもない。
 出番を待つ役者が隠れるような場所もない。
 
 一応、 “ステージ” らしきスペースはあった。
 しかしそれは、客席最前列の前にかろうじて空けられた “通路” のようなもので、もし劇が始まれば、最前列の客は、セリフと同時に吐かれる役者の吐息すら顔に浴びることになるだろうと思われるような “舞台” だった。
 
 演じられたのは、ロマン・ヴェンガルテンという人が書いた 『夏』 。
 演出家は、当時日本でも活躍していたフランスの演出家ニコラ・バタイユ。
 
 主役は加賀まりこだった。
 その加賀まりこが客席の前に設けられた狭い空間で、ほとんど一人でセリフをしゃべっていた。
 
加賀まりこ01
▲ 「小悪魔」 と呼ばれて人気を博した若き日の加賀まりこ
 
 ところが、これが凄いのだ。
 冬の公演だったというのに、舞台の奥から濃密な「夏」の匂いがどんどん溢れ出し、それが止まらないのだ。
 
 舞台装置なんて単純なのである。
 照明器具を備え付けるための足場のようなパイプに、人工の葉っぱをたくさん絡み付けたものが置かれているだけなのだ。
 それが “夏の森” を表現しているわけだが、そのチープでシンプルな舞台装置から、熱帯のアマゾンに広がっているような「夏」が押し寄せてくる。
 役者の足元を照らす、直径1mほどのスポットライトですら、物憂い午後を暗示する夏の木漏れ日のように見えてくる。
 
 観ているうちに、濃密な夏がねっとりと肌に絡みつき、鼻孔から脳内に侵入し、身体中の細胞を夏の漿液(しょうえき)に満たしていった。
 演劇というものの 「魔法」 をはじめて知った。
 
 舞台装置がシンプルならばシンプルなほど、逆に、役者の演技やセリフが「魔術化」する。
 加賀まりこさんは、客全員に「ほら夏よぉ~!」という催眠術をかけていた。
 それ以来、自分には、現実の「夏」と同時にイリュージョン(幻影)の「夏」が存在するようになった。
 
 イリュージョンの夏は、いつまで経っても常夏である。
 イリュージョンの夏では、時計が午後を指したまま止まっている。
 イリュージョンの夏の朝には、夜よりもさらに深い闇が訪れる。
 
 夏は文学が生まれる季節であり、詩が育つ季節だと思う。
 
 

カテゴリー: コラム&エッセイ   パーマリンク

夏の広がり (蠍座公演 『夏』) への3件のコメント

  1. noir より:

    私も蠍座で見ました。ロマン・ヴェンガルテンの 『夏』。加賀まりこと二人の黒手袋をした猫達。

    「夏」というタイトルで、確かに夏の描写なのに、寒気すら覚える「夏」。おっしゃるとおり、異空間にでもつながっていくような、自分の現実が相対化され曖昧になっていくような感覚。芝居が終わってもしばらく現実に戻れなかった。

    ストーリーも言葉使いも翻訳も素晴らしかったし、役者が目と鼻の先で演じるという体験も強烈でした。 忘れられない、とても貴重な時間をもらえました。

    ※トイレに行った時に加賀まりことすれ違ったのに化粧してなかったせいか一瞬誰かわからなくて、サインをもらい損なった。

    ATGとさそり座は、私の青春時代そのものです。

    作者のファーストネームを思い出せなかったので、たすかりました。御礼申し上げます。

    • 町田 より:

      >noir さん、ようこそ
      あの時期、蠍座で『夏』という劇を鑑賞していた人間というのは、そんなに多くないはずです。なにしろ蠍座は客席が限られてしまう小劇場でしたから。

      その希少な時間と空間を共有された方からコメントをいただくなど、とても感激しております。
      しかも、あの簡素な舞台装置のまま行われた実験的な演劇が、まるで “異次元の扉” を開くような奇跡を起こしたことを実感された方からの感想だとしたら、なおさらです。

      私は高校の時に演劇部に所属していて、かなり広い舞台に二度ほど上がったことがあるんですが、そんな経験から、客席と役者が、手を伸ばせばお互いに触れ合うような場所でも「劇」が成立すると知ったことは本当に衝撃でした。

      確かに、あの『夏』という劇の脚本は素晴らしいものでした。
      それがまともに読める状態で保存されていないというのも、何か不思議な気もします。
      加賀まりこ主演のあの公演の録画などがもし残っていたら、とても貴重なものでしょうね。

      ただ、あの時代の空気として、「映画と違って演劇というのは後世に痕跡を残さないことが粋なんだ」…的な気分を当時の演劇人はみな持っていたような気もします。
      だからこそ、こうして何かのついでに、「ああいう劇が存在したこと」を後世に伝えていくことが、われわれ観客の義務となるのでしょうね。
       

  2. noir より:

    ロマン・ヴェンガルテンの 『夏』 。

    日本語訳の本が欲しくて、図書館でもAmazonでも探してもなかった。どこかに売ってないですかね。
    加賀まりこ主演の蠍座公演の録画とか、録音だけでも良いから手に入らないですかね。数万円なら買いたいです。

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong> <img localsrc="" alt="">