匈奴 (きょうど) の話 4

 
【司会】 『歴史講座』の時間です。今回は “遊牧民の文化と歴史” というテーマで、下連雀大学の町田先生のお話をうかがっております。
 今日はその4回目として、シルクロード交易が生まれた背景と、遊牧文化が現代社会にもたらしたものなどについて語っていただくことにいたします。
 それでは先生お願いします。
 
【町田】 はい、皆さまこんにちは。
 さて、前回は、匈奴に対抗するためにですね、漢がユーラシアの西側に住む月氏(げっし)という民族と軍事同盟を結ぼうというところまでお話したと思います。
 で、その使者として張騫(ちょうけん)という男が選ばれたわけですが、今日はこの張騫が漢にもたらしたものとは何であったのか、ということをお話することにいたしましょう。
 
 月氏というのは、イラン系の人々といわれています。つまり、鼻が高く、目も青い人たちだったわけですね。ですから、月氏の国に着いた張騫は、はじめてアジア系以外の民族と出会うことになります。
 
張騫像
▲ 張騫
 
 苦労に苦労を重ねてようやく月氏の国にたどり着いた張騫は、月氏の人々からとても親切にもてなしてもらうことができました。
 けれども、月氏の方は、肝心の漢との軍事同盟の話だけには乗ってくれません。
 
 月氏の王がいうには、
 「そりゃ、昔は確かに匈奴は憎かったよ。しかし、だんだん月日が経ってくるとなぁ、恨みというのはやがて薄れるものじゃよ。
 今、月氏はこの土地に来て民は愉快に暮らしておる。みんな匈奴と戦うよりも、今の平和な暮らしを続けることの方が大事なんじゃ。分かるかな? 張騫殿」
 
 張騫が何度誘っても、月氏の答えは変わりませんでした。
 張騫は仕方なく、中国に帰ることにします。
 しかし、月氏の土地にいる間に、西域に関する様々な情報を手に入れます。
 張騫はその情報を土産に、13年ぶりに武帝のいる長安に戻ってきます。
 
 「なに? 漢の使者を勤めた張騫と名乗る男がお目通りを願っていると? 誰じゃそれは? いやぁ思い出したぞ。おうそうだった! 余が10数年前に月氏に使者として遣わした男だ。おお通せ! 通せ!」
 武帝は、大喜びで張騫を迎え入れます。
 
武帝像
 ▲ 武帝
 
 「陛下、残念ながら月氏との同盟は結べませんでした。深くお詫び申し上げます」
 「まぁよいよい。張騫よ、10年の間大儀であった。それよりいったい何があったんだ?」
 
 張騫は匈奴に捕らえられたこと、そこから逃げ出したこと、そして月氏に行って今まで見たこともない、聞いたこともない物にたくさん出くわしたこと。そして、月氏の土地から、さらに西や南に広がる様々な国のことを武帝に話したのです。
 武帝にとってはどれも初めて聞くことばかり。
 しかも、張騫の話し方も上手だったのでしょう。その後張騫は毎晩武帝に招かれて、西域にまつわるいろいろなことを話すことになったわけですね。
 
 この張騫の情報によって、中国人は西にはローマという大帝国があったり、南にはインドという広くて暑い国があるなど様々なことを知るようになります。
 またこのとき、ナツメヤシとかキュウリ、葡萄酒などといった、中国の人々が口に入れたことがない食べ物や飲み物の情報ももたらされます。
 
 しかし武帝を一番喜ばせたのは、西域に棲息する馬の情報でした。
 なにしろ漢が匈奴に勝てない理由の一つが騎馬部隊の違いだったわけです。
 匈奴の馬は、体は小さいのですが、そのかわり忍耐力が強く、粗食に耐え、よく走ります。
 エサなども、人間が用意しなくても、放っておけば勝手に草原の草を食べてお腹を満たします。
 
 それに対して、中国側にも騎馬部隊がいるのですが、中国の馬は走ることは早くても、持続力がない。食べ物も人が用意したエサしか食べない。これでは匈奴の騎馬隊に立ち向かうことはできません。
 しかし張騫がいう西域の馬はどうもそれとは違うらしい。
 
 「陛下。西域の馬は長距離を走り、力も強く、逞(たくま)しく、漢の馬よりも匈奴の馬よりも優れております。なんでも天馬の子孫とかいうことで、走った後は血の色をした汗をかきます」
 
血汗馬
▲ 血汗馬
 
 血の汗というのが、どういうものかよく分かりませんが、記録には「汗血馬」という表現が残っています。
 多分、今でいうアラブ馬みたいな馬だったんでしょうね。
 この時代まだサラブレッドなどという馬はつくられていません。
 サラブレッドというのはヨーロッパ人が、色々な速い馬をかけ合わせて人工的につくった馬ですから、それが生まれるまでは、アラブ馬が最高級の馬だったのでしょうね。
 武帝は、その西域の汗血馬が欲しくて欲しくてたまらなくなりました。
 
 「う~ん、その馬が欲しい! 陳(ちん)はその馬を手に入れるぞよ」
 
 こうして、張騫の話をきっかけに、漢と西域の間で、馬を手に入れるための交易ルートが開かれることになります。それがシルクロードの始まりともいえるでしょう。
 
 やがて、西域の馬を手に入れた漢は、それに合わせて匈奴風の騎馬戦術を取り入れます。
 匈奴風の騎馬戦術というのは、馬を走らせながら弓を射るという戦い方ですね。
 これはなかなか慣れていないとできないことです。
 しかし、匈奴の男たちは、生まれたばかりの頃から羊に跨って、ネズミを弓で討つ訓練をするぐらいですから、食べることも寝ることも、何でも馬の上でできてしまうわけですね。
 
 で、この時代の乗馬術というのは、現代よりもっと高度な技術が要求されたわけですね。
 どういうことかというと … 専門的になってしまいますが … この時代にはまだ鐙(あぶみ)というものが発明されていなかったわけですね。
 
 鐙…。鐙というのはですね、鞍の下に吊るされているワッカのことですね。
 そこに足を突っ込んで、姿勢を支えるわけです。これがないと、現代人は誰も馬に乗ることはできません。
 しかし、昔はそれがなかったわけですね。
 
 では、どうしていたか? 
 股に力を入れてですね、ギュっと馬の背中を締め付けていたわけですね。
 これは凄い力がいるんです。
 匈奴の人たちはそんな状態で弓を射ったり、刀を振るって突進したりしていたわけです。これには相当の訓練が必要だったことでしょう。
 
匈奴像1
 
 ま、そういう馬に慣れた兵士たちが、漢の歩兵部隊に全速力で向かってきて、一斉に矢を放つ。
 漢の部隊が反撃に出ると、今度は一斉に逃げ散ってしまう。
 で、漢の兵士が追うことに疲れてヘタリ始めると、まだ全速力で近づいてきて矢を放つ。
 これが伝統的な遊牧民の戦い方で、弓と馬が基本になっているわけです。
 しかも、それをこなすには幼い頃からの訓練の蓄積がいるわけですね。農耕しか経験のなかった漢の人々が長い間匈奴に勝てなかったのは、そういう理由もあったんですね。
 
 しかし、やがて漢もですね、匈奴に対抗して、馬術と弓に優れた兵士たちを養成するようになります。
 そして、服装も改めます。
 なにしろ伝統的に中国の男はスカートのようにひらひらした着物を着ていたわけですね。軍隊も変わりありませんでした。
 しかしそれじゃ馬に跨がれないというので、騎兵は全員が匈奴のようにズボンを履いて、バックルの付いたベルトを締めるようになります。この「ズボン」と「バックルベルト」というのも、遊牧文化がもたらしたものですね。
 
 で、漢も匈奴のように馬を上手に乗る兵士をどんどん育成します。
 兵を指導するには、まず将軍が馬術と弓が上手でなければならない…ということで、中には匈奴以上に、弓と馬が上手な将軍も出てくるようになります。
 
匈奴の話 矢
 
 対匈奴戦で大きな手柄を立てる衛青(えいせい)という将軍は、幼い頃に匈奴の友達から乗馬を習ったという人ですし、武帝に一番愛された将軍、霍去病 (かく・きょへい) などという人は、走る馬の上で逆立ちしながら矢を討って的に当てたというくらいの弓の名人でした。
 
 この霍去病という人は、10万人に1人出るか出ないかと言われるほどの軍事の天才だったらしく、若くして … それこそ20歳そこそこで大将軍になり、華々しい戦果を上げますが、なんと23歳で死んでしまいます。
 「去病」という字は「病気が去る」という字を書きますが、名前にそんな字を当てるということは、幼い頃から病弱だったのかも知れません。
 彼が死んだあとの武帝の嘆きは相当深かったという話です。
 
 とにかく、霍去病や衛青といった優秀な将軍に軍を率いさせた漢は、徐々に匈奴を圧迫していきます。
 最終的には漢が勝利し、匈奴は破れて分裂してしまうのですが、勝った漢の方も、この戦いでヘトヘトになってしまいます。
 
 武帝の時代は、漢が国際国家へ雄飛する華々しい時代でもありましたが、反面、恒常的に戦争が行われていた苦しい時代でした。
 その時代をつくった武帝という人は、どこかアメリカのケネディ大統領に似たようなところがあるように思えます。
 ケネディは「フロンティア」という標語のもとに、アメリカ主導型の経済開発を発展途上国に向けて “輸出” します。
 
ケネディ大統領像
 
 そして人工衛星を打ち上げ、ロケットを開発して宇宙開発を推進します。ちょうど漢の武帝が西域開発を押し進めていくのとよく似ていますよね。
 しかし、そういう華々しい事業とともに、ケネディはベトナム戦争を開始するわけで、そんなところが対匈奴戦を開始した武帝とも似ていますね。
 その結果多くの人々が死に、経済は破綻し、やがてそれが国を衰退させる原因になりました。
 ケネディも武帝も、ともに人気のある為政者ですが、戦争による被害を人民に強いたという点では、手放しで喜べないリーダーだったともいえますね。
 
 ま、しかし、それでもケネディがアメリカの第一次黄金時代を築いた大統領として人気が薄れることがないように、武帝も漢王朝を代表する皇帝として人気が薄れることはないでしょう。
 
 えー、今回はですね、遊牧民族の歴史ということで、東アジア最初の遊牧文化を築いた匈奴をテーマにお話をしましたが、最後にこの遊牧が現代社会にもたらした意義について、お話いたしましょう。
 
 遊牧という文化は、今の社会情勢から見ると、どんどん貧しくてなって、やがて滅び去る文化だと思われがちです。
 しかし、私たちの生活の中に根を下ろした遊牧文化は不滅ですね。
 例えば、バターやチーズを食べるとかですね、ズボンを履くとか、バックル付きのベルトを締めるとかですね。普段の身の回りの生活そのものの中に遊牧文化が根づいているわけですね。
 
 しかも彼らの生き方は、これからの地球環境を保護するという視点で有力な智恵をもたらせてくれます。
 なにしろ、人間の文化の発展というのは、みな自然環境を人為的に加工したり、破壊したりする方向で築かれたものばかりなわけですね。
 文化のことを英語で「カルチャー」といいますが、その意味は「耕す」という意味ですね。
 つまり大地を加工して耕すということが文化の始まりだったわけです。
 そうやって人間は野に穴を掘り、山を崩し、木を切り倒し、獣を殺して文化を発展させてきたわけです。
 しかし遊牧だけが、人間の方を、逆に自然に合わせようとした生き方だったんですね。
 
 囲いを作ってそこで家畜を飼う方法と、遊牧の違いは何か?
 遊牧というのは、動物を放し飼いにすることですね。動物は自然のままに放置しておくと、勝手に水飲み場に移動したり、季節に応じて草のおいしい地域に移動したりする習性があります。
 
 遊牧というのは、基本的にはそういう動物の自然の習性に従って、それに伴って人間も移動していくという、ま、実に動物優先の思想に基づいているわけですね。
 そういった意味で、動物に「寄生」して生きていくという、ま、実に奇妙な生活スタイルでもあるわけですが、ある意味は実にエコロジカルな暮らし方でもあるわけです。
 動物が行きたい場所に人間も移動し、動物が寝泊まりするところで寝る。だから遊牧民は家を造らずテントで生活します。
 
匈奴10
 
 で、彼らは基本的に、動物を殺しません。もちろん飼っている羊などの肉も食べたでしょうが、それは実に計画的に小規模で行われただけで、基本は動物の乳製品…バターやチーズ、ヨーグルトですね。そういうものを食べていたわけです。
 
 彼らは自分たちの財産である動物を、簡単に殺して減らしてしまうようなバカなことはしません。
 匈奴は確かに漢の土地へ略奪に行きました。
 しかし、その気持ちの中には自然を守る匈奴が、自然を破壊する漢に対して抗議行動を行ったと解釈できないこともないわけです。
 なにしろ、匈奴の生活の場である草原は、草が生えている限り豊かな土地であるわけですが、この土地を掘り返して畑などを作り始めると、とたんに砂漠になってしまいます。
 
匈奴12
 
 乾燥した土地を無計画に耕作地にすると、1~2年はなんとか農作物も育つのでしょうけれど、やがてすぐにカラカラに乾いて砂漠化する。
 そうなると、もともと生えていた草すらも二度と生えないわけですね。
 これは現代になって、やっと農業科学の常識になったようですが、ほんの30年ぐらい前まではまだそれほど認識もされていなかったんですね。
 
 現に共産中国も北朝鮮も、その初期の農業政策では、本来耕作に適さない山や草原を農地化して、逆に土地を荒廃させていました。つい最近までそんなことを繰り返していたわけです。
 
 しかし、2000年前の匈奴たちは経験的にそういうことを知っていたのでしょう。
 漢の人口がどんどん増えて、農民たちが草原に現れ、そこを開墾し始める。
 ところが元来が農耕に不向きな土地だけに、結局そのまま草も生えない砂漠にしてしまう。
 匈奴にしてみれば、動物を養うための大切な資源を損なわれてしまうわけで、そういう漢民族の行動がとても許せなかったでしょうね。
 
 草がなければ、動物を養えない、仕方がないからその元凶をつくった漢の土地に略奪に行こう…。
 彼らの意識の中にはそういった切羽詰まったものがあったかもしれませんね。
 
 漢と匈奴の戦いも、単なる大国同士の勢力争いというだけでなく、こういう自然観の違い、生活思想の違いというふうに捉えていくと、また違った面が見えてくるかもしれません。
 
 …というわけで、そんなところで今回のお話を終わらせて頂きます。では、皆様ごきげんよう。
 
【司会】 下連雀大学の町田先生のお話でした。
 
 『歴史講座』の「遊牧民の文化と歴史」は今回で終わります。

 匈奴の話 1
 
 

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匈奴 (きょうど) の話 4 への2件のコメント

  1. 磐梯寺 より:

    いやぁ残念です。これで終わってしまうのですか。この連載は本当に楽しみでした。まだこの後、班超や李陵、中行説の話が出てくるのかと思っていたのですが・・・
    特に中島敦の「李陵」は漢文の香りが漂う傑作です。もちろん中島敦の作品も素晴らしいのですけれど、それを町田さんの語りでぜひ読んでみたかった。きっと中島李陵とはまた違った面白さが出てくるのではないかと思っています。次回はそのあたりもぜひお願いします。

  2. 町田 より:

    >磐梯寺さん、ようこそ。
    コメントを拝読し、磐梯寺さんの文学に対する造詣の深さに感銘を受けました。
    班超、李陵、中行説。みな 「西域」 の伝説となった人々ですよね。「ロマン」 という言葉が安っぽくなっちゃって、あまり使いたくないのですけれど、私などはこういう人たちの名前を聞くだけで、ロマンを感じます。
    >「中島敦の李陵とは異なる語り口…」 などと過大な期待をお寄せいただくと、本当に困ってしまいます。私も中島敦のあの作品は大好きですけど、あの語り口など、千年かかっても及びません。
    ただ、せっかくそうおっしゃって頂いたので、いつの日か、それを目標に少しでも追いつく努力をしてみたいと思います。
     

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