アントニオーニ 「赤い砂漠」

 
昔の映画の現代的鑑賞法 15  「赤い砂漠」 (1964年) 》
 
 遊覧船に乗って、埠頭沿いに並ぶ工場群を見学するツァーが人気を得ているらしい。
 
 「工場」。
 それは、かつては無味乾燥で、うるおいがなく、「風景」として鑑賞するのには最も適さない建物とされていた。
 ところが最近は、その巨大工場が居並ぶ殺風景なたたたずまいに、「幻想美」や「哀愁」を感じる人たちが増えているという。
 「工場萌え」などという言葉もあるようだから、「工場鑑賞ツァー」という企画がウケているというのは本当の話かもしれない。
 
 確かに、鉄骨やパイプ類が複雑に絡まりあう巨大な工場が、ライトに照らされて夜の闇に浮かび上がるとき、ちょっとした SF 映画のワンシーンを見るような気分になる。
 

 
 「効率」と「生産性重視」の原理に貫かれた近代工場は、無駄なデザイン性を峻拒するがゆえに、峻厳な威容を誇り、近寄りがたい神秘性を獲得する。
 そこに「美」を見出した「工場萌え」というのは、いわば倒錯した嗜好かもしれないが、そこに “今風” の美意識を感じることはできる。
 
 
 
 それにしても、工場のような殺風景で無機的な建物が、人々の興味の対象になるというのは、どういうことなのだろうか。
 
 たぶん、工場がいま急速に「なつかしい風景」になろうとしているからだ。
 
 赤くたぎった鉄が鉱炉を流れていくような光景が「豊かな生産」を意味する時代は、もう20世紀で終わってしまった。
 人々は、ようやくそのことに気づき始めたのだ。
 人を集中的に集め、効率よく配分し、大量にモノを生産するという工業社会が、時代の産業をリードする主役から降りつつある。
 そう感じる人々の無意識が、工場の風景にノスタルジックな美を見出したり、SF チックな思い入れを重ねたりするようになってきたのかもしれない。 
 
 ミケランジェロ・アントニオーニ監督が1964年に撮った『赤い砂漠』という映画は、いってしまえば、この「工場萌え」をテーマにした先駆的な作品である。
 冒頭から登場するイタリアの工業都市ラヴェンナの工場風景。
 奇怪な円錐形の煙突が建ち並び、動物の臓腑のように入り組んだパイプが縦横に張り巡らされ、むき出しの鉄柱が林立する近代工場が描写される導入部の映像は、たぶん当時の観客を、うるおいのない殺伐とした心境にいざなったことだろう。
 

 
 この映画がつくられた60年代当時は、急速に工業化を遂げる社会においては、人間がそのテンポに追いつくことができず、人々の心が荒廃していくという観察が主導的であった。
 おりしも工業社会がもたらす「公害」が問題になり始めた時代でもあり、文化人の主張の中にも、「工場」に象徴される近代的な工業空間に対してネガティブな印象を強調する論調が目立った。 
 
 当然アントニオーニも、そういう風潮を意識に据えながら、工場を舞台に選んだはずである。
 つまり、この映画の主役を務める人妻(モニカ・ヴィッティ)が受ける精神的な受苦の根源には、人間疎外をもたらす近代工業社会の「悪」が絡んでいるという意識が彼にもあったように思う。
 
赤い砂漠モニカヴィッティ
 
 主人公の人妻は、交通事故の後遺症として、精神をわずらっているという設定になっている。
 彼女は、人を信じることができないし、人と心を通わすことができない。
 そして、そういう自分自身に対し、不安を感じ、怖さを感じている。
 殺伐とした工場の描写は、その彼女の心に映った心象風景といえるだろう。


 
 … にもかかわらず … である。
 彼の描き出す工場は、奇妙な美しさを漂わす。
 奇怪な紋様を描く工場のパイプ群は、さながらアブストラクト(抽象)アートのようであり、炎を噴き出す煙突群は、前衛芸術を試みるアーティストのパフォーマンスのように見える。
 
 そして、工場の壁やらパイプ類に塗られた不思議な赤色。
 それは、工場に働く労働者に注意を促がす「赤」ではなく、無機的な映像の中に生々しいアクセントを添える「赤」であり、工場機能とは無縁な、無意味な「赤」だ。


 
 つまり、アントニオーニは、生産拠点としての工場を採り上げながら、工場そのものは「生産性」とはまったく関係のない、巨大な抽象芸術であるという視点を持っていたことが分かる。
 
 今回、このレビューを書くにあたり、ネットに上げられた諸批評を当たってみた。
 すると、アントニオーニが舞台として選んだ工場を「暗澹とした …」「救いのない …」と形容する論調と相半ばするくらい、「美しい」という捉え方があることも判明した。
 
 「美しい」と表現する人々の心情には、今の「工場萌え」に通ずる部分があるのだろうけれど、そういう現代的な美意識を、すでに60年当時のアントニオーニが持っていたということが驚異だ。
 
 彼の描く工場は、モノをつくる生産現場が当然持っているはずの「熱い力動感」に欠けている。
 煙突からは、常時真っ赤に燃える炎が立ち昇り、敷地内を火事のような噴煙が埋め尽くすことがあろうとも、それは、どこかおとぎの世界の出来事のように現実感がない。 
 そこには、ジョルジョ・デ・キリコが描く北イタリア諸都市に漂う、空漠とした静けさが漂っている。
 
キリコ062 
 
 アントニオーニの捉えた工場風景は、限りなくキリコの描く「廃虚のような街」のイメージに近づいていく。
 
 思えば、工場も廃虚も似ている。
 それは、ともに「生活」がぽっかりと失われた空間である。
 廃虚の本質は、かつてそこで営まれた人々の「生活」が霧散し、その抜け殻だけが取り残されているという「空虚感」にある。
 
 工場も同じ。
 モノを生産するという機能に特化した建物なのだから、そこに、人が生活できるような影を探すことが難しい。
 ともに、「人間の不在」を暗示させるような空間なのだ。
 
 だからこそ、それは「人のいない世界」へ人間を導く「入口」となる。
 工場も廃墟も、ともに異界への「通路」という役割を帯びている。
 主人公の人妻がわずらっている神経症というのは、いわば「異界」の存在を感知した人間のメタファーとして読み解くことができる。
 
 この映画に繰り返し登場するタンカーや貿易船やヨットなども、また「異界」を象徴する。
 
 主人公とその夫、さらに同僚の家族たちが過ごす掘っ立て小屋での休日。
 埠頭に建てられた掘っ立て小屋の窓を、突然巨大なタンカーの横っ腹がふさぐ。
 
赤い砂漠貿易船
 
 どこの国の船なのか、小屋のそばに着岸した目的は何なのか、主人公たちにはそれが分からない。
 その場にいた誰もが、錆びた古めかしい船体に言い知れぬ威圧感と不安感を抱く。
 中でも、精神が不安定な主人公の人妻は、それだけでパニックに陥る。
 彼女だけは、その船がこの世のものならぬ「異界」からの使者であることに気づいたからだ。

 
 
 この映画では、途中、美しい白浜と透明な水に恵まれた海岸の描写が挿入される。
 主人公の人妻がわが子に語る “おとぎ話” に登場する風景なのだが、その平和で牧歌的な風景が、どういう意図であったにせよ、殺伐とした工場風景や、不気味なタンカーとの対比として持ち出されたことは明らかである。
 
 だが、その美しい海の彼方には、1隻の無人のヨットが浮かんでいる。
 青い海の上にひるがえるヨットの白い帆は、とても美しい。
 なのに、操る人間の姿が見えないということが、その映像を観客の心に不安の影を投げかける。
 このシーンにおいても、「船」はまたしても異界からの使者という役割を負わされている。


 
 無人のヨットはどこから来て、どこに去ろうとするのか。
 それがこの世ならぬ場所から来て、この世ならぬ場所へ帰っていこうとしていることは明白だ。
 
赤い砂漠画像1
 
 アントニオーニは、繰り返し、繰り返し、ひとつのことを言おうとしているに過ぎない。
 「この世のどこかに、異界への通路が口を開けている」
 

 
 異界とは何か?
 自分が自分になる場所。
 あるいは、自分が自分でなくなる場所。
 不安が渦巻き、立ってはいられないくらい怖い場所。
 にもかかわらず、この世とは別の「美」に満たされた場所。
 
 そういう場所を感知することを、60年代当時は「不条理」という言葉で表現した。
 
 この映画を含め、アントニオーニのつくる映画は難解だという指摘が多いが、突如人間の前に姿を現す茫漠たる「異界」が人間にとって「難解」なのは、無理からぬことだろう。
 
 
アントニオーニ 「欲望」
  
アントニオーニ 「太陽はひとりぼっち」
 
アントニオーニ 「夜」
 
  
 

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アントニオーニ 「赤い砂漠」 への8件のコメント

  1. くわがた より:

    坂口安吾は、1940年代の時点で、「私は無機的な工場の眺めが好きだ。それは、うっとりするほど美しい。それは、古い道徳や美意識の廃墟であり、そこから新しい精神が生まれてくる」というようなことをいっています。
    彼は、その時点ですでに「ポストモダン」であったらしい。安吾再評価の機運はあるのでしょうか。

  2. 町田 より:

    くわがたさん、ようこそ。
    坂口安吾が1940年当時に、すでにそういう指摘をしているのですか。
    それは良いことを教えていただきました。やっぱりあの作家はすごいですねぇ。
    ただ、引用された文面から察するに、安吾は 「ポストモダン」 よりむしろ工場の 「モダニティ」 の方を評価しているような気もします。
    詳しくは分かりませんけれど 「古い道徳や美意識」 という戦前的規範を壊す新しさを工場の景観が持っている…というようにも読めるのですが。
    だから、今の時代の人たちが感じている 「工場萌え」 とは少し異なるのかな…という気がしないでもありません。
    原典を読んでいないので、なんともいえませんが、いずれにせよ、良いことを教えていただきました。ありがとうございます。
     

  3. Pollen より:

    はじめまして。昨夜「赤い砂漠」を観たのですが、ストーリーに不可解な点があったので検索しているうちに、たどり着きました。

    アントニオーニは僕も大好きな監督で、主要作はほとんど観ているのですが、その魅力をどう表現していいのか分かりませんでした。他の作品のレビューも読ませていただいたのですが、町田さんのレビューはアントニオーニ映画の魔力をとても明晰で的確に表現されていて、大いに共感し、参考になりました。

    アントニオーニが撮る人気を全く欠いた風景や事物の「あの感じ」。それは日常見慣れたものでありながら、荒廃や退廃というのとも違う、現実世界には決して存在しえない空気を満々と湛えている…あの感じを「異界」という言葉で表現されたことに、全く我が意を得ました。当時、派手な視覚効果や音楽を用いた「サイケな」映画は多々ありましたが、僕にはアントニオーニ映画の不穏な静寂の方が、言葉本来の意味ではるかにサイケデリックに感じられます。「赤い砂漠」のモニカ・ヴィッティや工場の空虚な美しさ、「太陽はひとりぼっち」「欲望」の謎めいたラストシーン…すべてが忘れられません。

    町田さんは音楽もお好きなようですが、もしご存じでなければ、オランダの80年代初頭のニューウェイブ・ユニットMARK GLYNNE&BART ZWIERのアルバム「HOME COMFORT」を手にしてみてください。音楽から漂う異様な霊気はもちろん、裏ジャケの写真はマストロヤンニとジャンヌ・モローが絶望的に抱き合う「夜」のあのシーンですから。

    どうも、初コメで長文、失礼いたしました。またご縁がありましたら、ブログ拝見させていただきます。

    • 町田 より:

      >Pollen さん、ようこそ。
      はじめまして。
       
      Mark Glynne/Bart Zwier 、YOUTUBE で探して聞いてみました。
      すごいですねぇ!
      なんともいえない、不安定な不協和音の底に沈んでいる静けさと冷たさ。
      ちょっとサティの雰囲気もありますね。
      おっしゃるように、まさにアントニオーニの映像がかもし出す 「この世の裂け目」 からこぼれてくる音のように感じました。
      良いものを紹介していただきました。ありがとうございます。
       
      ミケランジェロ・アントニオーニは、私もまた大好きな映画監督なので、Pollen さんのように、好意的にご理解いただく方からのコメントは、本当にうれしい限りです。
      「気の合った仲間」 を一人得たような気分です。
       
      アントニオーニの映画は、見るたびに新しい発見があるように思います。
      私もまたそれに触れるのが楽しみなのですが、Pollen さんの方でも、何か新しい発見があったら、またお教えください。
       
      今後ともよろしくお願い申し上げます。
       

      • Pollen より:

        レス、ありがとうございます!

        「HOME COMFORT」は、YOU TUBEにアップされているのは比較的地味なナンバーで、アルバム全体だと他にもエレキギターやドラムが入ったロック的な曲もあるのですが、トータルなムードは大体あんな感じです。本当に「孤高」という言葉がぴったりの、時代からもジャンルからも孤絶した素晴らしいアルバムです。僕はこのアルバムを聴く度、ぼんやりと発光したとても美しい死体を見詰めているような気分になります。あまりいい例えではありませんが(笑)、フランス盤の再発LPやジャケ違いのCDなら比較的安く入手できると思いますので、ぜひ聴いてみてください。

        「赤い砂漠」ですが、ミーハー的なことを言わせていただくなら、モニカ・ヴィッティのファッションが素晴らしいですよね。鮮やかなグリーンのロング・コート、紫のセーター、白い縁取りの黒のハーフ・コート…とてもシンプルなのに、今の目で見てもすごくおしゃれですよね。周囲の寒々しく荒涼とした風景が、余計に彼女の美しさを引き立てていると思います。最近はアラフォー女性が人気みたいですが、女性が映画でファッションを学ぶなら、ヘプバーンなんかよりぜひモニカ・ヴィッティを参考にしてほしいものです。ダサダサな僕が言うのもなんですが(笑)。

        • 町田 より:

          >Pollen さん、ようこそ
          「HOME COMFORT」 、もう少し聞いてみたいと思いました。
           
          >「時代からもジャンルからも孤絶した …」 という表現はぴったりですね。
          “例え” 、よく分かりますよ。
          ブライアン・イーノの音などにも、非常に近いかもしれませんね。
          YOUTUBEで、「Thursday Afternoon.avi 」 という曲 … というか 「音?」 がアップされていますけど、近い雰囲気があります。
           
          一時 「環境音楽」 などという言葉が流行りましたけれど、Mark Glynne/Bart Zwier も、ブライアン・イーノも、そういう “ジャンル区分” からさらに融け流れていく気配を持っているように思います。
           
          モニカ・ヴィッティのファッション、おっしゃるように素晴らしいですね。
          着ているもののセンスも良いけれど、ザクッとした感じで着こなしている (あのちょっと崩れたような) 風情もいいですね。
          それが、なんだか、彼女の心の隙間に吹く風を表現しているような感じで…。
           

  4. ルミちゃん より:

    ピントをぼかして映し出される工場群、煙突から天空に向かって吹き上げる炎、この時点で赤い砂漠とは、人々の暮らす環境を、公害で汚染された環境を意味していることが、誰にでも薄々感じられることと思います.

    映画に入る前に、アントニオー二がこの映画を撮るに至った経緯を、私なりに簡単にまとめておこうと思います.

    沿革1.公害、及び公害に対する認識
    日本では水俣病、ヨーロッパではライン河がどぶ河になり、北アメリカの五大湖では釣った魚を食べることができなくなった.公害がどんどん深刻さを増していったのはこの映画の撮られた頃.けれども、高度成長の直中にあって経済成長が優先され、公害対策、公害防止などという考えは、人々の意識に存在しないと言わなければならなかった.(非常に薄い問題意識しかなかった)
    沿革2.芸術家としての使命感
    公害そのもの、その実態を描き問題提起するのは、新聞でありテレビであり、そうしたメディアの役目である.映画の役目、芸術の役目とはそうした問題にかかわる人々の心を描くことにある、アントニオーニはこう考えたはず.そのために、前衛的表現を用い全体をオブジェで構成した.

    さて、映画に入りましょう.この映画の場合、順序立てて物語を追う作品ではありません.書きやすいように順序は前後しますが、映画全体を捉えるこに注視します.
    異常と人間性.結論を先に書けば、公害という異常な出来事に対してどの様に対処すべきか、そこに置ける人間性を問いただすことを目的とした映画である.その過程において、あるいはその目的のために、変(異常を想わせる)な人々が描かれる、こう考えると、映画全体がなんとなく見えてくるのでは.

    人間性.「あなた、右?、左?」、ジュリアーナに聞かれてコラドは、「ぼくは人間性を信じている」と答えるのですが、この言葉を、映画全体を修飾する言葉として拾い上げておきましょう.公害に対する考えは思想、信条の問題ではない.イデオロギーの問題ではなく人間性の問題であると言ったのです.

    変な人、あるいは変なやつら、人間性としてこう想わせるような色々な人間が、ジュリアーナの回りに描かれる.海辺の小屋の宴会.変な出来事.SEXに関する人間性を描いた出来事、としておきましょうか.

    子供の玩具.ジュリアーナが異常をきたした原因が夫婦関係にあるのが、なんとなく窺い知れると言ってよいでしょう.子供の玩具、時代の最先端と言ってよい玩具ばかりなのですが、けれども幼稚園の年頃の子供の心を育てる玩具であるかと言えば、何か違うみたいに想えます.これらの玩具は父親が揃えた物と考えるのが自然、他方、子供が病気を装って母親にねだったのは、昔話でした.夫と妻の子供の教育に対する人間性の違いが、心のすれ違いの原因が描かれているみたい.

    夫とコラド、この二人のジュリアーナとの関わりがやはり一番重要.夫のジュリアーナに対する態度、ジュリアーナに対する理解は冷めた感じを受けます.それに対してコラドは、ジュリアーナを理解しよう、なぜジュリアーナが異常をきたしたのか、なんとか理解しようと努めているのですね.ジュリアーナの病気、つまり異常な出来事に対しての理解にかかわる人間性を、夫とコラドによって描いています.

    海辺で戯れる少女の挿話もオブジェですね.人間嫌いの少女は自然と戯れて過ごすのが好き.その回りに不思議な出来事が起きる.歌声がするが姿は見えない.どこからともなく聞こえてくる歌声は、自然が彼女を呼んでいる、と言ってよいのでは.
    「小さな岩たちはまるで生き物のようだった.そして、その歌声はとっても優しかったわ」.映画全体がオブジェ、全体が異常を示すならば、その中のこのオブジェは、正常を示すと言ってよいのでしょう.

    心を病んだジュリアーナが、公害そのものを、あるいは、公害を発生させ放置する、人間の病んだ心を現している.
    ラストシーン.煙突を指さして「煙が黄色いね」、と、子供が聞く.「毒だからよ」とジュリアーナ.「鳥は知ってるから飛ばないわ」
    ジュリアーナは医者から病気のことは考えるなと、病気を忘れれば治ると言われたみたい.忘れれば治る病気を忘れられない苦しみ、それが逆説的に示すものは、毒と知りつつも公害をまき散らし続ける、分かっていても直そうとしない、人間の社会全体の愚かさと言ってよいのでしょう.

    • 町田 より:

      >ルミちゃん さんようこそ
       アントニオーニの映画に対するご意見を頂戴したコメントのなかで、この 『赤い砂漠』 に関するルミちゃん様のご感想がいちばん説得力もあり、かつ心に残りました。
       「勉強をさせていただいた」 という気持ちになりました。

       『太陽はひとりぼっち』 に対するご意見への返信と重なる部分もありますが、もう一度繰り返しますと、アントニオーニがルミちゃん様の感想を耳にする機会があったとしたら、きっと 「そうだ! そのとおりだ」 と我が意を得たりという気分になったかもしれません。
       
       人間の繁栄を推し進めるはずだった “近代文明” が、「公害」 という形で人間にしっぺ返しを食らわせるという問題意識を、アントニオーニが早いうちから持っていたということに関しては、ルミちゃん様のご指摘の通りだと思います。
       そして、そういういびつな現代文明を映画を通して問いただすということが 「芸術家の良心であり、また映画人の務めである」 とアントニオーニが意識していたことは間違いないことでしょう。そのことに関して、ルミちゃん様が実に丁寧に問題を整理して、クリアにそれを指摘されていることに感心いたしました。

       ただ、やはりこの映画も、単なる 「近代批判」 には収まらない何かがあります。それは 「夾雑物」 といえばいいのか、あるいは 「ノイズ」 といえばいいのか、自分でもよくわからないのですが、ルミちゃん様の理路整然とした整理からはこぼれ落ちてしまう部分があるように感じます。
       
       私は、この映画の 「社会批評的な部分」 よりも、そっちの方に心惹かれます。
       この映画が、いま観ても色褪せないのは、そういう 「公害に対する弾劾」 というメッセージだけではすくいきれない部分があるからだという気がしているのです。

       アントニオーニがこの映画を撮った60年代というのは、冷戦構造のさなかであり、東西のイデオロギー対立があらわになっていた時代で、そのなかで、当時の知識人たちも 「どちらのイデオロギーが優越か」 などという論点で議論をすることが多かったように思います。
       そういう時代に、コラドという登場人物に 「ぼくは人間性を信じている」 というセリフを言わせるアントニオーニの願いがいかに切実であったかは、まさにルミちゃん様のご指摘のとおりだと感じました。

       しかし、そこで言葉にされた 「人間性」 も、60年代当時の文脈で語られていたものに過ぎず、現代社会ではもっと複雑な “人間性” と向かわなければならなくなっていると感じます。

       ある意味で、60年代当時に使われていた 「人間性」 という言葉は、わりとイデオロギッシュだったかもしれません。
       それは、「あらゆる民族や政治思想を超える普遍価値」 という意味合いで使われていましたが、いま思うと、その言葉自体が絶対的な力を持つイデオロギーになっていたのではないかと。
       アントニオーニの映像は、彼の頭の中で構築された概念としての 「人間性」 を超える、真実の人間が抱える何か過剰なもの … あるいは逆に何か欠如したものまであぶりだしているように思えてなりません。

       そこが、この映画の射程距離の長さになっている。
       『赤い砂漠』 が現代にも通用するのは、たぶんこの映画が、アントニオーニの考えていた時代の 「人間性」 を超えたテーマを内包していたからではないでしょうか。
       
       もちろん、そんな将来のことまでアントニオーニが計算していたとは思えない。
       彼の無意識の中にあったものか、偶然なのかは分かりませんが、この映画は、「人間性」 というナイーブな言葉だけでは語り尽くせない、何か人間が根源的に抱え込んでしまう “不透明な” 霧に包まれた領域まで踏み込んでいると感じます。

       「公害」 という邪悪な社会環境をもたらした古典的な工場風景が、なぜ現代人にとって美しく見えるのか。
       私は、そういう不可思議な人間の感受性の方に、むしろ好奇心を持ちます。
        

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