テロリスト歳三

 
 小説が好きな連中と酒など飲んだとき、ときどき「自分の読んだ小説ベスト10」のような話題になるときがある。
 自分にとってのベスト10とは何だろう …。
 腕組みなぞしながら、つらつら考えると、そのときの気分によって、ランクインする小説はころころ変る。
 
 しかし、必ず入るだろうと思われるのが、司馬遼太郎の『燃えよ剣』。
 これは、この先どんなに新しい小説を読んでも、生涯変ることはないような気がする。
 
燃えよ剣
▲ 『燃えよ剣』
 
 『燃えよ剣』は、新撰組の中軸を担った土方歳三の生涯を描いた小説で、ここに登場する歳三は、あくまでもダークヒーローである。
 なのに、最近 … 特に若い人たちと話すと、土方歳三はむしろ爽やかなカッコいいサムライというイメージがあるらしい。 
 4~5年ぐらい前か。NHKの大河ドラマで、歳三や勇を主人公にしたドラマなども放映されていたから、彼らを颯爽としたヒーローと感じる世代が育っているのかもしれない。
 
 しかし、私が少年時代だった昭和30年当時、新撰組といえば悪の代名詞だった。
 明治維新の志士たちを殺戮する獰猛なテロリスト集団だったのだ。
 実際、写真を見るかぎり、新選組幹部の近藤勇も土方歳三も、平然と人を斬ってきた人間の凄みを漂わせている。

 
▲ 近藤勇 画像
 
 勇の写真からは、ドーベルマンや土佐犬といった、戦う番犬の獰猛さが感じられ、歳三の写真には、優男の風貌を裏切るように、唇の端に酷薄そうな微笑みが浮かんでいる。
 

▲ 土方歳三 画像
 
 はっきりいうと、彼らの顔は怖い。
 「人ひとりの命は、地球より重い」と教える戦後ヒューマニズムの世界で暮らしてきた我々とはまったく異質の倫理を生きていた人間たちの顔に見える。
 
 司馬遼太郎は、『燃えよ剣』ではっきりと新選組がテロ組織であることを謳っている。
 彼らは、「勤王派」の人間であればみさかいなく斬りまくり、粛正という恐怖政治で組織を鍛え上げた。
 その戦闘方法や粛正方法も、相手の油断に乗じた不意打ちや騙し討ちが多く、しかも、その計画は狡知を搾り出して周到に練られたものばかり。
 そういった意味で、今風にいえば、彼らは高度に訓練された「テロ組織」だった。

 このような陰湿さに、組織内の人間は長く耐えられるものではない。
 そのため、歳三は、「剣の暴力」を神聖化して組織の団結を維持し、隊士の不満を「恐怖の力」で押さえつけようとした。
 
新撰組はっぴ
▲ 新撰組結党の 「精神」 を表す 「誠」 の文字
 
 このような歳三のメンタリティを説明するために、司馬さんは、歳三が百姓の出身であったことに着眼する。
 
 武士に生まれつかなかった “卑しい百姓” は、いかにしたら武士になれるのか。
 歳三は、「人を斬ること。闘いに勝つこと」だけに専念できる殺人マシンと化すことに、その答を求めた。
 
 彼は「武士道」を掲げながらも、実際の戦闘においては、百姓のケンカの延長として武術を捉えていたという。
 田畑の水争いなどで互いに権利を主張しあうとき、百姓同士の争いは陰惨を極める。
 田んぼのあぜ道に隠れて、いきなり後ろから棍棒で殴りかかる。
 卑怯だろうが、ずるかろうが、勝者としてその場に立ち尽くした者が「正義」だ。
 
 歳三は、そのようにして自分流の「武士道」を築き上げていく。 
 本物の武士たちが行う剣術道場での立ち会いなどは、歳三にすれば典雅なスポーツにしか見えなかった。
 
 「人を斬るための剣を持ちながら、今の武士たちは、剣を自分たちのステータスを満足させる飾りのように思っていやがる」
 
 歳三にもし教養があれば、彼はそうつぶやいただろう。
 そしてさらに、
 「今の時代では、武士という言葉は単なる “階級” を意味しているに過ぎず、 “戦士” であることを意味していない」
 と弁舌を奮ったに違いない。
 
 ただ、歳三の考える武士は「斬り合いに強い男」というイメージを超えるものではなかったから、「美学」にはなっても「哲学」にはならない。
 
剣1
▲ 剣
 
 人を斬ったことによって、どんな世界が実現するのか。
 そういう哲学的かつ政治的な省察は、歳三の頭の中には生まれない。
 彼は、自分が斬った薩長浪士たちが頭に描くような「日本国改造アイデア」など、おそらく一度たりとも考えたことはなかったろう。
 
 そもそも、武士の時代が終わろうとしていた時代に、武士になろうということ自体、とてつもないアナクロニズム (時代錯誤)である。
 司馬遼太郎はそこに歳三や新撰組の悲劇を見た。
 
 しかし司馬さんは、同時に「時代の流れに逆らっても、おのれの信じる道を曲げない男」として歳三を描いた。
 
 彼は、歳三の冷酷さに「意味」を与えたのだ。
 
 『燃えよ剣』の中の歳三は、自分の想う武士道を守るために、世間の悪評が重なることを恐れることなく、一番の汚れ役・嫌われ役を進んで引き受けていく。
 
 そして、そのことを誰にも弁明しない。
 はなっから他人の理解などを求めないのだ。
 
 弁舌に酔う勤王派の志士たちに対し「黙して語らず。ただ斬るのみ」の男を演じ続ける。
 そこには「理屈は人をなまらせる」という偏狭な信念に裏打ちされた、歪んだ精神がある。 
 しかしながら、その偏狭な信念がもたらせるヒリヒリするような緊張感と、その緊張感を糧として生き抜く男の「美学」は伝わってくる。
 
栗塚旭の歳三
▲ 栗塚旭さんがテレビドラマ 『燃えよ剣』 で演じた土方はカッコよかった。
 
 結局、私がこの『燃えよ剣』に感動したのは、それまでは「悪の権化」に思われてきた男にも、別の角度から光りを照射すれば、そこに「美学」があることを発見したからだ。
 
 この小説の魅力は、負から正へ、邪から聖へと鮮やかに転換を遂げるときのダイナミズムにある。
 だから、土方歳三を最初から「まばゆいヒーロー」としてイメージしている人たちには、この逆転の輝きが見えない。
 
 司馬遼太郎が、この『燃えよ剣』を書き始めたのは、司馬さんの人気を確定した小説である『竜馬がゆく』の連載の真っ最中だった。
 
 時代に対する鋭い洞察力を持ち、日本の進むべき道へのグランドデザインを描き、人に愛され、人を愛することを知る坂本龍馬。
 龍馬と歳三は、何から何まで対極にいる人間同士だ。
 
 司馬さんが本当に描きたかったのは、坂本龍馬の方だったろう。
 ところが、書いているうちに、正反対の道を選んだ歳三への好奇心がつのって仕方がなかったのではなかろうか。
 
坂本竜馬
▲ 坂本龍馬 画像
 
 日の下にさらされた物には、常に「影」がある。
 幕末の激動期。竜馬という人間に陽光が当たり、彼の存在感がますます輝いていくのと同じタイミングで、ダークな世界を生きた歳三の「影」も濃さを増していく。
 
 歳三の真骨頂が発揮されるのは、むしろ新撰組が崩壊してからだった。

 鳥羽伏見の戦いにも敗れた新撰組と幕軍は、北海道まで逃れ、五稜郭に立てこもる。
 しかし、官軍と幕府軍の戦いは、もう結末が見えていた。
 戦うための「大義」も、もう幕府軍からは奪われていた。
 
 にもかかわらず、歳三は、わらじと羽織を捨てて、ブーツとフランス風の軍服に着替え、武士のシンボルであった髷まで切り落として、官軍に最後の決戦に挑む。
 
 戦いに勝ち目のないことを悟った幕軍大将の榎本武揚などは、すでに気持ちが講和に傾いている。
 しかし、歳三は、負けの見えた戦いに「死に場所」を求めた。 
 彼は彼なりに、これまで斬り殺してきた無数の薩長浪士、そして粛清してきた隊士たちに、自分もまたその後を追う形で、落とし前をつけようとしていたのだろう。
  
新撰組のぼり
▲ 新撰組 隊旗
 
 最後の決戦の日。
「函館政府・陸軍奉行」という肩書きを持つ歳三は、その肩書を使わず、官軍の前で剣を抜き放ち、「新撰組副長、土方歳三!」と名乗りをあげる。
 
 そして、それを聞いた官軍は “白昼に龍の蛇行を見たごとく” 恐れおののく。
 … ことになっている。
  事実は少し違うらしいけれど、司馬さんの描く歳三の心意気は、読者の胸を打つ。 

 人は、龍馬のように生きるためには、天才に生まれつかなければならない。
 しかし、並外れた決意さえ持てば、凡人でも歳三のように生きることはできる。
 
 『燃えよ剣』が、多くの人に奮起をうながす書として読まれたというのは、この小説が、逆境を迎えた人間には誰に対しても平等に、とてつもないパワーを与えるからだと思う。
  
 
※ 司馬遼太郎ネタ 「斎藤道三の最期」

※ 司馬遼太郎ネタ 「秀吉の成金趣味」

※ 司馬遼太郎ネタ 「司馬遼太郎文学のリズム」

 

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