村上春樹の 「謎」

 
 村上春樹という作家は、自分のことや自分の書いた作品についてあまり語らない人だという印象を持っていた。
 メディアにも出たがらない
 もちろん個人の私生活を明かしたり、時代や政治についても直接語ることもない。
 
 とにかく彼には、マスコミが期待する「作家像」などを演じる気はまったくない。
 サラリーマンのように、定刻がきたらデスクの前に座り、夕方までは律儀に執筆に励む。
 休日には、決められたコースを黙々とジョギングする。
 そのようなクールでストイックな生活を守っている人という印象が私にはあったので、そういう人が、「小説作法の秘密」などを得々と人に向かってしゃべる図というのが想像できなかった。
 
 ところが、米国プリンストン大学での講義を基に書かれた『若い読者のための短編小説案内』(文春文庫)という本では、彼は珍しく自分の小説作法の奥義をいろいろと披露している。
 
若い読者の村上
 
 もちろんこの本は、吉行淳之介、安岡章太郎、庄野潤三といったいわゆる「第三の新人」と呼ばれる作家群の短編小説を解説するもので、彼が自作の小説を語るパートはほとんどない。
 
 しかし、他人の短編を解剖するだけであっても、そこには当然「作家」村上春樹の視線が加わるわけだから、その「視線」のゆくえを追うことによって、読者は、村上春樹の小説作法というものをたどることができる。
 
 では、村上春樹流「小説作法」というものは、どんなものなのだろう。
 それを考えるためには、彼がこの著作で採り上げた「第三の新人」たちの作品の中から、そのどんな部分に注目しているかを探ってみると分かりやすい。
 
 村上春樹が「第三の新人」たちの作品を解析するとき、彼はどんな作家に対しても、必ず次のような表現をどこかに据えている。
 「この文章は謎に満ちています」
 「その先からが謎です」
 「謎が解けたわけではありません」
 
 とにかく「謎」という言葉が、この本にはふんだんに出てくる。
 読者が読むかぎり「謎」でも何でもないようなところに、村上春樹は「謎」の匂いを嗅ぎ出す。
 おそらく、それは天性のものなのだろう。
 「謎」の匂いを嗅いだとき、初めて彼の文学的感性は生き生きと働き出すようだ。
 
 「謎」とは、見えている部分の奥に、見えない「何か」を感じることである。 
 それに関する村上春樹の嗅覚は敏感だ。 
 たとえば、長谷川四郎という作家の短編に出てくる風景描写の特徴について、彼は次のようにいう。
 
 「むずかしい言葉なんかひとつも使っていないのに、骨格がぴりっとしている」
 「感情を具体的に表現する言葉はひとつも出てこないのに、その奥にある寂寥感がすぅっと伝わってくる」
 
 つまり、彼は、言葉として表現されていないものこそ、作品を決定していると言っているのだ。
 たとえば、長谷川四郎が書いた『阿久正の話』という短編を語るとき、村上春樹は、この戦後社会を生きるしがないサラリーマンのうらびれた日常生活の話に、戦場の「硝煙」の匂いを嗅ぐという。
 
 「この阿久正という主人公は、戦争に行ったなどということは一言も言ってはいませんけれど、ひょっとして、兵隊として戦争を体験した人間じゃないかと思うのです。
 本の活字の間から、非日常的な匂いとして、戦争の影を感じることがあるのです。
 そのときに、自然発生的に “何か訴えかけるもの” がかもし出されます」
 
 ここに、村上文学の極意が語られているように思う。
 つまり、「何か訴えかけるものをかもし出すためには、言葉として書かれないものの存在が必要だ」と彼はいうのだ。
 言葉を変えていえば、文学とは「謎」があって初めて成立するものだ、ということにほかならない。
 
 一般的な小説やドラマの世界では、「謎」は常に解明されるために存在し、克服されることでその使命を終える。
 「謎」は、あくまでもストーリーを予定調和の世界に着地させるための「お膳立て」であり、「プロセス」であり、時には「抵抗」である。
 
 だから、良い「推理小説」というのは、この「謎」が読者の前に大きな「抵抗」として立ちはだかるものとされる。
 そして、その頑強な「抵抗」が主人公たちの合理的・論理的な推理の力で打ち破られたときに、読者が得るカタルシス指数も高くなる。
 
 しかし、村上春樹の文学では、そのような「謎の克服」よりも、むしろ「謎の発見」こそが重要となる。
 彼が「第三の新人」の作品を語るとき、どの作品からも必ず「謎」を取り出して見せたのは、自分もまたそのように「謎」に意味を見出す作家であったからだ。
 
 彼の小説における「謎」は、まさにブラックホールのように機能する。
 中心点は虚無なのに、その虚無に向かって、すべてのものが渦巻くようにそこに流れ込んでいく。
 彼の小説が、みなどこか終末論的なメランコリーを漂わせているのは、いずれはこの虚無へむかって流れていかざるを得ない万物の哀しみがあるからだ。
 
キリコ2
 
 彼はいったいどのようにして、物語の真ん中にブラックホールのような謎を仕込むのだろう。
 そのことを明かす面白い例がある。
 
 彼は、小説(特に短編小説)を書くとき、全体の構成などを考えてから書き出すことはあまりないのだという。
 たとえば、
 「その女から電話がかかってきたとき、僕は台所に立ってスパゲティをゆでているところだった」
 という書き出しの1行がひらめけば、彼は、もうその先を考えずに書き始める。
 
 で、書きながら、
 … その女は誰だろう?
 … いったい僕に何の用があるのだろう?
 などと、浮かんでくる「謎」を自分自身が解明するために書き進めていく。
 すると、さらに「謎」が「謎」を呼び、雪だるまのように肉を付けながら転がっていく。
 
 しかし、核心となる謎は、最後まで明かされることはない。
 なぜなら、作者の村上春樹ですら、十分につかんでいないことがあるからだ。
 
 村上春樹はこの著作の最後の方で、あと数行を残したぐらいのところに、次のような言葉を記す。
 
 「優れた作家はいちばん大事なことは書かないものです。優れたパーカッショニストがいちばん大事な音は叩かないのと同じように」
 
 私は、この彼の一言を読んで、村上春樹の小説の秘密がほぼ分かったような気になった。
 
 たいていの文学が「足し算」の文学だとしたら、村上春樹の文学は「引き算」の文学だったのだ。
 引き算では、答として出された数より、答には出てこない「引かれた数」が意味を持つ。
 「答」は、引かれた数の残骸でしかない。
 
 しかし、その残骸は常に、引かれない前の「姿」に人間の想像力を向かわせる。
 村上春樹の文学というのは、廃虚の中にたたずんで、その建物が朽ちる前に存在していた「幻の原型」に思いを馳せるようなものなのかもしれない。
  
  
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村上春樹の 「謎」 への4件のコメント

  1. スパンキー より:

    読んでいて、フフン、なるほどと頷いてしまう村上春樹の分析、とても興味深く読ませてもらいました。
    いつも彼の作品を読んでいて、最後にポカンと口を開けたような空虚な読後感があったのですが、その謎が解けたような気がします。
    筋違いの解釈ならゴメンナサイネ!
    町田さんの分析には、いつも驚かされます。どんなものも丸裸にする洞察力。ホントに怖い。
    文芸評論に転向したほうが良いように、ムカシから思ってはいましたが、どう?

  2. 町田 より:

    >スパンキーさん、ようこそ。
    >「彼の作品を読んでいて、最後にポカンと口を開けたような空虚な読後感…」
    まさに、言い得て妙です!
    その不思議な空虚感こそが、村上春樹作品の真髄であり、その空虚感を何かの 「意味」 で満たしたい人がいっぱいいるため、彼の作品は多くの読者を得ているし、また多くの評論を生んでいる理由になっていると思います。
    だから、逆にこの 「空虚感」 に非人間的な冷たさを感じる人もいるわけで、「アンチ村上春樹派」 もたくさん存在しているようです。
    でも、アンチが出るくらいじゃなければ本物の作家とはいえないでしょう。
    私は、村上春樹の 「空虚感」 に惹かれます。その空虚感というのは、ある意味、この世にないものが降臨しているという感じで、そこには、我々が暮らしている世界とは別の世界が広がっているという感じがするからです。
    私たちの今の社会は、常に「意味あるもの」、「回答のハッキリしたもの」 ばかり追い求めている感じがします。
    でも、本当の文学というのは 「この世には回答のないものがある」 ということに気づかせてくれます。
    村上春樹はそういう世界を教えてくれるように感じます。
    スパンキーさんの感受性は、そこのところを見抜いているように思えました。

  3. より:

    村上春樹氏、デビューの頃から(エッセー以外の)ほぼ全部の小説を楽しませてもらいました。好きな作家さんです。
    彼特有の人を食ったような比喩表現が、ちょっとした情景描写のみならず、ストーリーの根幹に関わるキャラクター(羊男、ねじまき鳥とか)にまで及ぶところなども、ほんと謎(?)が多いです。
    そういった謎が、村上ワールドを想像するときの象徴としていつまでも頭に残るし、むしろ象徴をより印象づけるための方法を積極的に編みだそうしているのではないだろうか。三つ星シェフが大きな白い皿にほんの少しの上品な料理を三つ星的に盛りつけるみたいに。
    (失礼しました)

  4. 町田 より:

    >雷さん、ようこそ。
    >「三ッ星シェフが、大きな皿にほんの少しの上品な料理を盛り付ける…」
    この比喩こそ、まさに村上春樹的!
    雷さんの表現力も素晴らしいですねぇ。
    村上春樹の創造する登場人物はみな不思議な存在感を持っていますよね。
    おとぎ話の主人公のように非現実的なのに、妙にシリアスで、それでいてどこかトボケたユーモアがあって、ホントに 「謎」 が多いです。
    私の気になる人物は、初期の短編から 「ハードボイルドワンダーランド」 にまで登場していた 「鼠」 です。
    常に主人公 「僕」 の影のような存在でありながら、その影が実体の 「僕」 から遊離して独り歩きを始めるような感じ。
    私は 「鼠」 のファンです。

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