映画のノイズ (ターミネーター3 を観て)

 『 ターミネーター3 』(2003年公開)をDVDで観る。
 未来の地球で起こるアンドロイド(ロボット)と人間の戦いにおいて、戦いに敗れたアンドロイド側が、自分たちが負ける原因をつくる人間側のキーマンを除去するために、タイムマシンに乗って、未来の世界にから現在の世界に飛んでくるという話。
 
ターミネーター3DVD
 
 主人公は、未来の戦争で人間側を勝利に導く科学者なのだが、アンドロイド側はそれを事前に封じ込めようとして、科学者を葬り去るために暗殺用アンドロイド(ターミネーター)を差し向ける。
 シリーズ1作目では、その不気味なターミネーターをアーノルド・シュワルツネッガーが好演して大ヒット。
 これが彼をスターの座に押し上げるきっかけとなった。

  
 
 3 は、そのシュワルツネッガーが、今度は人間側を助けるアンドロイドとなり、未来社会から送られてきた女性型ターミネーターと闘うという設定。
 女性型ターミネーター「TX」を演じる女優(クリスタナ・ローケン)がチャーミング。美しい容貌と肢体を持ちながら、人間の心を持たない冷酷な殺人マシーンとして機能するというアンバランスさがこの映画の魅力になっている。
 
 
 
 見せ所は、とにかくアメリカ映画らしい自動車や建物をド派手に壊しまくるアクションシーン。
 人間をワイヤで吊るしてCGと絡めるという非現実的なアクションとは違い、あくまでも肉体と肉体、自動車と自動車がフィジカルにぶつかりあう古典的なアクションであることが特徴となっている。
 確かに、「撮影中にけが人が出なかっただろうか」と心配させるほどのリアリティは確保できたが、単にそれだけの映画ともいえる。
 見終わった後には何も残らない。
 
 私のような旧世代人間は、こういう最近のハリウッド系アクション映画を観ると、どんな映画もみな同じに見えてしまう。
 視聴覚に携わる神経をシャワーを浴びせるように刺激するという意味で、遊園地のジェットコースター的な映画が増えたような気がする。
 つまり、アクションは派手だが、そこに登場する人間たちは、行動も思考も観客に分かりやすいようにパターン化され、視神経を心地よくマッサージされることだけを望んでいるお客の「ノイズ」にならないように設定されている。
 
 「ノイズ(雑音)」とは、いわば監督が表現したかったものと、実際に表現された映像のズレだ。
 監督の意図したものが、100%のうち10%ぐらいしか達成できなかったもの。
 あるいは逆に、150%ぐらいまで過剰になってしまったもの。
 そういうように、監督の独りよがりで観客には伝わらないものも含めて、映画には、そういうアンバランス感が混入してくることがある。
 
 たとえば、
 好意とも侮蔑とも取れるような、俳優のあいまいな笑い。
 あるいは、俳優が何かを凝視しているところを写しながら、その凝視している対象を紹介しないようなカメラワーク。
 何かを言いかけて、言葉を止めてしまった唇のアップ。
 そういう解釈不能の映像を差し挟むことは、画面のスムーズな流れに竿をさすという意味では、ノイズでしかない。
 しかし、そういう微かなノイズの中に、逆に、その監督が描こうとしたものが何であるかを観客に想像させる余地が生まれる。
 
 小説では、これを「行間を読む」と表現をする。
 つまり、文字として刻印された言葉と言葉の空白に、作者の複雑な思いやその苦闘ぶりを読むことをいう。
 「行間を読む」とは、文学のノイズに耳を傾ける行為だ。
 近代に生まれた小説という文学は、読者がこのノイズに注目することによって、市民権を得た文芸形式ともいえる。
 そこが、定型化された主人公たちが活躍する中世の叙事詩と異なる点だ。
 村落共同体のような社会で生きていても「パターン化されない自分」があるということを、近代になって、人々は小説から知るようになる。
 … というか、パターン化されない個人というものを小説が “つくった” わけだね。
 
 映画におけるノイズもまた、観客に向かって、「パターン化されない観客」という立場があることを教えてくれる。
 このざらつき感・抵抗感がないと、観客は生理的快感のおもむくままに、スムースな流れに乗って最後まで押し流されてしまう。 
 で、「面白かったね、気分がさっぱりしたね」だけの映画になってしまう。
 
 昔の映画監督は、そのへんを心得ていて、登場人物の心がストレートに画面に出ないような演技を、わざと役者に求めた。
 しかし、最近のハリウッド映画は、俳優の「分かりにくい演技」を極力排除しようとする。
 俳優の演技もストーリーも徹底的に定型化し、代わりに、視神経的な刺激が効率よく観客に伝わるような映画づくりを進めている。
 
 この『ターミネーター3 』という映画は、最近のハリウッド映画のそういった特徴をよく備えた作品であるが、私にとって面白かったのは、「人間の心を持たない」とされるターミネーターたちの方がはるかに人間っぽくて、逆に、悪いターミネーターに追われる人間の主人公たちの方が “つくりもの” っぽい印象に描かれていることだった。
 
 つくりものっぽく見える理由は、喜怒哀楽の表現がまったくパターン化されているからだ。
 主人公たちは、「人間というものは、こういう “刺激” をインプットされると、必ずこういう “反応” をアウトプットする」という、まるで正確な機械のような行動を観客に示す。
 
 それに対し、表情を凍らせた寡黙なターミネーターたちは、「耐える人間」 の風格を漂わせている。
 彼らは、心の奥に去来する思いを静かに封印し、与えられた任務だけに忠実になろうとする真面目人間の悲哀を表現しているかのようだ。
 どっちがターミネーターなんだよ…と、つい思ってしまう。 
 
 私のような旧世代の映画ファンは、俳優たちのパターン化された演技というものに “つくりものっぽさ” を感じてしまうのだけれど、たぶん、新世代の映画ファンにとっては、そこはどうでもよいことなのかもしれない。
 それよりも、「絵の動き」が大事なのだ。
 アクションはスピーディーに。音は大きく。色は鮮やかに。
 高度に発達した視聴覚文化の中で育った若い観客たちにとっては、映像の鮮烈度が「リアリティ」を決定する。
 戦闘シーンなどでも、鮮血がほとばしり、首が飛び、切られた腕が宙に舞う映像を執拗に描きながら、さらに「バスッ!」、「ドサッ!」という効果音を強調する。
 そういう傾向は、日常感覚をコミックで養った人たちの求めるものに近い。
 
 たぶん、映画あるいはテレビドラマにおいて、人々が感じる「リアリティ」というものが変わってきているのだ。
 主人公たちの感情の動きはパターン化し、代わりに映像のテンションを高める。
 それが現代的な「リアリティ」の出し方なのかもしれない。
 私のような、小説などをベースに日常感覚を養った世代は、このコミック系のリアリティに物足りなさを感じるのだけれど、人間の感覚は時代の文化やテクノロジーに準拠するものだから、そんなことを言っても時代から取り残されていることを吐露するようなもの。
 新しいリアリズムを獲得した人たちからみれば、何をやっているのか伝わらないような俳優の演技など、まどろっこしいだけ。
 現代の映画シーンにおいては、ノイズは文字どおり「ノイズ」でしかなくなったのだろうと思う。
  
 

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映画のノイズ (ターミネーター3 を観て) への2件のコメント

  1. スパンキー より:

    元々、ハリウッド映画の脚本家たちは、ギリシャ神話を参考に幾つかのパターンを組み合わせてストーリーをつくるらしいので、「おっ、この話は何処かで観たことがあるような」という映画があっても不思議はないですね。
    行間を読む、時代を知る、相手を思う。こうしたちょっとした気遣いや行為は、もはやノイズに成り下がってしまったのでしょうかね?
    寂しい限りです。

  2. 町田 より:

    >スパンキーさん
    さすが、クリエイト系・アート系に強いスパンキーさんらしい分析ですね。
    ギリシャ神話の話は知りませんでしたが、ハリウッドでは、人間が最も感動するというエピソードをデータベース化したコンピューターで映画のシナリオを作るというシステムまで開発されているようなので、人類の残した神話などから話を持ってくるのは、彼らは得意でしょうね。
    >「行間を読む」、「時代を知る」、「相手を気遣う」という人間の心は、今後もゼロになることはないと思ってはいます。
    たぶん、今までとは違う新しい「人に対する気遣い」のようなものが生まれ、育っていくでしょう。
    そうなるといいと思うし、そうなってほしいとも思います。

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