ポスト消費社会のゆくえ

   
ポスト消費社会のゆくえ

『ポスト消費社会のゆくえ』(文春新書)。
 詩人・作家である辻井喬氏と社会学者の上野千鶴子氏が、戦後から現在に至るまでの日本の消費社会の動向を語った対談集である。
 辻井氏の「辻井喬」はペンネーム。
 本名は堤清二氏。
 西武百貨店のセゾングループを率いる総帥として、80年代の日本の消費社会をけん引した企業人だ。
 
 対する上野氏は、自ら「左派」を任じるフェミニストの論客。
 現在も、市場原理主義に対して舌鋒鋭く批判し続けている。
 
 企業経営者と左派文化人。
 本来なら、言葉すら噛み合わないような取り合わせに思えるが、そこは「作家」でもある辻井氏と、消費文化の解析にどん欲な好奇心を発揮する上野氏。
 お互いの立場を深く洞察しつつ、無類に刺激的な「消費社会論」を展開している。
 
 
80年代は広告から “商品” が消えた
 
 話は、辻井氏が西武百貨店の元総帥だっただけに、西武という企業の発展を軸に展開する。
 上野氏は、1970年代末から80年代にかけて、西武のセゾンとパルコが領導した一連の広告戦略を、「世界史的に見ても空前絶後」という言葉を使って評価している。
 
 この時代、糸井重里氏のキャッチコピーで有名な「不思議、大好き」(1982年)とか、「おいしい生活」(1983年)などというパルコ風宣伝が、世の中を風靡した。
 上野氏は、これらの広告を見て、
 「広告から “商品” が消えてしまった」
 と驚く。
 
 あの時期、一時だけ流通した “商品なき広告” というのは、世界のアドバタイジング史上においても例がなく、今後は日本においても、もちろん海外においても二度と出てくることはないだろうという。
 
 このあたりの話は、読者として「もっと突っ込んでくれたらいいのに … 」と思うところだが、そこは対談集。
 談論風発で、話題が盛り上がると、すぐに “さらに盛り上がる話題” にあっけなく移行してしまう。
 そのため、テーマによっては掘り下げ足らないものが混じってしまうことも事実。
 ただ、考えさせてくれるネタをたくさん含んだ対談集ではあった。
 その中で、いくつか記憶に残ったものをご紹介。
 
 
前衛芸術は成り上がりの趣味
 
 西武は「西武美術館」の運営などといった文化活動を行う企業としても脚光を浴びた。
 西武美術館には、従来の美術館では採り上げられそうもない前衛芸術に焦点を合わせたユニークな作品群が集められた。
 すでに評価の安定した誰からも文句の言われない「芸術」を集めるよりも、今の時代を呼吸している若い作家たちの作品を紹介する方が、よりクリエイティブであるはず。
 …と、構想を進めた辻井氏は思ったという。
 
 彼の気持ちの中には、「文化を発展させるのは文化人だけでない。企業人だってそれを果たすことができる」という自信と自負があっただろう。
 
 しかし、上野氏は、「前衛芸術」のような評価の定まらないものに価値を見出すのは、「成り上がりの新興ブルジョワジーの特徴」と喝破する。
 西武百貨店は、三越や伊勢丹という旧世代の「山の手文化」を温存する百貨店に対する批評者というスタンスを取った。
 旧世代百貨店が催す芸術イベントが、ゴッホやモディリアニに関わるものだったとすれば、西武の芸術イベントは、マルセル・デュシャンのような芸術そのものの定義を変えようとした人か、フランク・ステラとかオルデンバーグといった現代美術のアーチストが中心。
 そのような “異端性” は、日本の百貨店文化を俯瞰するときには際立つが、世界史的にみると、きわめてオーソドックスなブルジョワ革命の原理なのだという。
 
 資本主義は、常に少し前の資本主義を「古い !」と否定する形で進展する。
 「自己否定こそ資本主義の論理そのもの」
 と上野氏はいう。
 
 そして、価値の定まらない人材や作品に対して、先行的に才能を見出して投資していく「西武美術館」のやり方は、ベンチャービジネスそのものであり、そのリスクを恐れない精神が西武の隆盛を約束したと評価する一方、
 「 … とはいえ、ベンチャービジネスのなかには当たりもハズレもあって、現代美術も、外れるとただのガラクタ」
 と辻井氏の前で、本質をずばりと言い当てる勇気も忘れていない。
 
 この対談集は、読者によっていろいろな読み方があるだろうけれど、私は、企業側の発想するマーケティング戦略の構造を、上野氏が「社会学」の手法で読み解く本ととった。
 だから、広告業界の理論家たちが提唱した有名な理論にも、上野氏は時として批判的だ。
 
 1980年のバブル隆盛の頃、マーケティングの世界では 「少衆・分衆論」というものが一世を風靡した。
 つまり、消費世界が成熟した結果、個々の消費者の嗜好が細かくセグメントされ、「日本から “大衆” が姿を消した」というもの。
 「しかし … 」
 と、上野氏はいう。
 
 あの時代に「分衆化」したのはお金持ち層だけ。消費を抑制した貧乏人の動向は表に出なかった。
 だから、「分衆」などという水平分化が起こったのではなく、結局は「大衆が階層化される」という垂直分化が起こったのだという。
 今の格差社会の起源を考えるときに、重要な分析かもしれない。
 
 
グローバリゼーションの罠
 
 上野氏がこの本で明らかにしたいことの一つに、今のグローバリゼーションの流れが日本の消費社会をどう変えてきたかという問題がある。
 日本経済は、
 「モノが売れる」 → 「企業収益がよくなって労働者も潤う」 → 「労働者の購買力が上がって、さらにモノが売れる」
 という循環構造によって成長してきた。
 
 ところが、90年代になると、このような内需拡大が所得の分配につながるという日本の成長経済のメカニズムが壊れてくる。
 その原因のひとつは、グローバリゼーションにある。
 と、上野氏はいう。
 
 つまり、日本企業が、中国や東南アジアの賃金格差に注目して生産拠点をそれらの国に移すようになってから、商品は売れても、その利益が日本人労働者に還元されないシステムができあがってしまったというのである。
 かくして、内需は拡大しても、その利益が海外に流出してしまうために、市場の再分配につながらないという、今の雇用不安定社会が生まれることになる。
 巷でいう「日本の格差社会問題」というのは、日本固有の問題ではなく、国際問題だったのだ。
 
 この本は、そういったように、視点を変えて眺めたときに現れる「新しい風景」を見せてくれる。マーケット解析の周辺で仕事をする人にとっては面白い本であるように思う。
 後半では、高度成長期からバブルまでの消費社会をけん引した「団塊の世代」の分析が行われている。
 しかし、それについては稿を改めたい。
 
 

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