レニ・リーフェンシュタール 「オリンピア」

《 昔の映画の現代的鑑賞法 10 》
 
「オリンピア (民族の祭典・美の祭典) 」
 
 オリンピックが近づいてくるたびに、思い出す映画がある。
 レニ・リーフェンシュタールが、1936年に開かれたベルリン・オリンピックを撮ったドキュメント映画 『オリンピア (民族の祭典・美の祭典) 』 だ。
 
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 この映画については、常に評価が割れる。
 スポーツドキュメントとしては、「いまだこれを超えるものがない」 といわれるほどの秀作であることは誰もが認めるものの、ナチスドイツの政治的プロパガンダとして機能したということで糾弾されることも多い。 
 「史上最悪の政治的意図を秘めた史上最高のスポーツドキュメント」
 などといわれることもある。
 
 女流監督であるレニ・リーフェンシュタールは、戦後ナチスドイツに加担したことを否定したといわれているが、その才能をヒトラーに愛されたことは事実だ。

 
▲ レニ・リーフェンシュタール 
 
 彼女の制作意図がどこにあったにせよ、私は、この映画の一部が “ナチスの美学” を体現していたことを感じないわけにはいかない。
 そう思う根拠は、この映画の導入部にある。
 
聖火の点灯

 映画が始まって、スタジアムに選手が入場してくるまでに、この映画では約10分ほどのイントロダクションが用意されている。 
 最初に登場するのは、ギリシャ神殿の廃虚 (おそらくパルテノン) だ。
 オリンピックの起源はギリシャにあり … という説明なのだろう。

 しかし、そこに映し出されるギリシャ神殿は、我々のよく見る 「澄み切った空を背景にたたずむ均整の取れた神殿」 ではない。
 戦争の終わった直後の、硝煙が漂ったままの廃墟を写したような神殿だ。
 神殿の映像に続いて、たくさんのギリシャ彫刻が紹介される。

 これも肉体美を謳ったギリシャ精神を表現する意図なのだろうが、そこに映し出される彫刻は、どれも見事といっていいくらい、肉体の一部が損傷しているものばかり選ばれている。

 確かに、腕の部分を欠いたミロのヴィーナスのように、ギリシャ彫刻のなかで完璧な姿で温存されているものを探し出すことは難しい。
 しかし、胴体を切り離された頭部だけの彫像や首のない像の映像が延々と続くと、人間の死体を並べられたような気分になってくる。

 彫刻の映像を引き継ぐ形で、今度は生身の人間の裸体が映し出される。
 退廃の影一つない、純朴なドイツ人女性が、無邪気にラジオ体操のように腕を振り回している。
 その姿には、ナチスが推奨したといわれる 「農夫の妻」 を思わせる素朴な健康美が横溢している。

 だが、その女性も、やがて特撮の炎に包まれていく。
 炎のエネルギーと人間の躍動美を合体させようという趣旨なのかもしれないが、どう見ても焼死のイメージしか浮かばない。

 肉体美と健康美に彩られるはずの古代ギリシャ風モチーフが、なぜこうもふんだんに死のイメージに満たされなければいけないのか。
 別にレニ・リーフェンシュタールが、自らのドキュメントを死の匂いで満たそうとしたわけではあるまい。
 古代ギリシャの地で、オリンピックがどのような祭典として生まれたのか、レニ・リーフェンシュタールは、おそらく彼女なりにオリンピックの本質を追求しようとしただけなのだろう。

 しかし、この映画がヒトラーをはじめ、ナチの首脳陣のお気に入りだったことは確かだ。

 ナチスという政権は、デザイン表現において何よりも 「死の匂い」 を好む政治権力であった。
 例えば建築。
 ナチス好みの擬古典主義様式といわれる建築は、古代ギリシャ・ローマ建築のスタイルに取り入れながら、ギリシャ・ローマ建築の装飾性を剥ぎ落とし、質感を無機質にした感じの近代建築である。
 重厚長大ではあるが中身が空洞の感じで、完成された瞬間に廃虚のように見える建物だ。
 廃虚とはまさに建物が放つ 「死の匂い」 に他ならない。
 
ナチス建築
▲ ナチス建築
 
 ポスターやビラのたぐいにしてもしかり。
 戦時中、ドイツの町中に貼られたという戦意高揚のためのポスター集を見る機会があったが、そこに描かれるのもドクロだったり、死せる戦友を背負って歩く兵士の図だったりと、これまた死の匂いで満たされたものが多い。
 
ナチスポスター1 ナチスポスター2
▲ 戦意高揚のポスターでさえ、どこか 「死の匂い」 が漂ってくる
 
 戦火、死体、廃虚。
 映画やポスター、建築などに現れるナチス美学に一貫して漂う 「死の気配」 をどう捉えたらいいのか。
 
SSの徽章
▲ ヒトラーの親衛隊(SS)の徽章はドクロだ
 
 ヒトラーとその幹部たちが夢見た 「第三帝国」 は、現実的な “帝国” というより、多分に夢想の帝国といった色彩が強い。
 はかない夢の帝国を、どうしたら永遠のものとして維持していくことができるか。
 
 条件はひとつしかない。
 帝国が霧散する前に、その構成員がすべて死ぬことである。
 帝国が滅んだ光景を誰一人見ることがなければ、それこそ 「不滅の帝国」 である。
 ナチス流の 「死の美学」 とは、ナチスの永遠性を夢想する逆説から生まれている。
 
 死の中に永遠を見るというのは、きわめて文学的な感受性である。
 文学的な感受性で現実政治を行うことの恐さをナチスは教えてくれたわけだが、またそれがゆえに、ナチスの無気味な美学がいまだに人々を惹きつけるのも事実だ。
 
 『オリンピア』 は、この象徴的なプロローグが終わって、やっと具体的なドキュメントに移る。
 とたんに画面も明るくなり、登場する選手たちの顔も自然な表情に描かれる。
 その構成は、現在のスポーツドキュメントの手本となったといわれるだけあって、モノクロの画面独特の詩情が立ちこめ、表現のしようがないほど美しい。
 
 しかし、インパクトの強さでは、プロローグに漂っていた無気味な美学にはるかに及ばない。
 だからこそ、… ともいえるが、この映画は政治に 「美」 が求められることの怖さも教えてくれているような気もする。
   
  
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