アントニオーニ 「太陽はひとりぼっち」

昔の映画の現代的鑑賞法 9
 
太陽はひとりぼっち
 
太陽はひとりぼっちDVD
 
 ミケランジェロ・アントニオーニの『太陽はひとりぼっち』は、何度観たか分からない。
 それほど気になる映画なのだ。
 何が気になるのかというと、これほど「異界」の存在を暗示した映画はほかにないからだ。
 
 これはホラーでも SF でもない。
 にもかかわらず、この映画には主人公の女性(モニカ・ヴィッティ)が、この世ならぬ「異界」と接している瞬間を捉えた映像がふんだんに出てくる。
 
太陽はひとりぼっち50023
 
 何気なく描かれる郊外の風景。
 どこにありそうな建物。
 風にそよぐ木。
 
太陽はひとりぼっち50032
 
 カメラはそれらを即物的にとらえているだけなのに、なぜあれほど不気味で美しい映像になるのか。
 美しさそのものが、この世の美しさではないのだ。
 
 映画は、男女が重苦しく語り合うシーンから始まる。
 カーテンに閉ざされた暗い部屋だ。
 
 女は、婚約者である男から別れようとしている。
 しかし、男には、なぜ女が自分から離れたがっているのか、その理由が分からない。
 
太陽はひとりぼっち4
 
 別れる理由を執拗に問い詰める男に、女は「分からない」とつぶやいて、その視線から逃れようとする。
 実際に、別れる理由が女にも分からないのだ。
 倦怠、軽蔑、嫌悪、幻滅。
 女が男に愛想を尽かす理由を一つずつ掲げてみても、そのどれにも当てはまらない。
 
 2人の会話は堂々めぐりを繰り返し、それに飽きた女がカーテンを開ける。
 朝が来ていた。


 
 どんよりとした光りの中に、異界が姿を現す。
 まるで、発射準備を終えた宇宙船のような形をした不思議な塔が、窓の外にこの世ならぬ風景を浮かび上がらせている。
 塔の頂上は展望台のように広がっていて、あたかもカサを広げたキノコのように見える。
 
 建物の周囲には人の気配がなく、まるで地球の最終戦争が終わった後のような荒涼感が漂っている。
 現在でありながら、すでに「過去となった未来」がそこに横たわっている。
 
 この未来と過去が入れ替わるような不条理感こそ、アントニオーニ映像の核を構成するものといっていいだろう。
 キノコ型の建物を見た瞬間から、女の心にスイッチが入る。
 でも、そのスイッチは ON を意味するのか、OFF を意味するのか、それは彼女にも分からない。
 
太陽はひとりぼっち5
 
 女は、朝の光に満たされた歩道を歩き、一人家路につく。
 たった今まで、あれほどの重苦しい時間を過ごしてきたというのに、すでにその記憶すら希薄なものになっている。
 

 
 女の気持ちは、どこに向かっているのだろう。
 
 結婚、愛情、家庭。
 そういう言葉に象徴される濃密な人間関係が解体していく世界に向かって、彼女は歩き始めている。
 彼女が求めているのは、解放感でもない。
 「解放」を感じるような自我が、すでに彼女にはない。
 
 人間への関心が希薄になっていくことと同時に、彼女の見つめる風景は濃密さを増していく。
 風景が、人に代わってコンタクトを求めるようになってくる。
 
 女友達の逃げた犬を追いかけて、彼女が夜の公園を歩くシーンは、この映画でも白眉といえるシーンだ。
 
太陽はひとりぼっち50019
 
 犬の姿が視界から消え、彼女はがらんとした広場にたった独りで取り残されたことに気づく。
 突然、暗い空に向かって伸び上がっていた無数のポールが、一斉にカランカランと乾いた音をたて始める。
 ポールに絡まるロープが、夜風に揺れているだけなのに、彼女にはそれが何者かの発するメッセージのようにも思える。
 
太陽はひとりぼっち50016
 
 人の姿が途絶えた夜の公園に、「異界」が舞い降りてくる。
 ポールを見上げた彼女の視線は、次に広場の真ん中にたたずむブロンズ像をとらえる。
 膨れた腹を突き出す、かわいい天使の像だ。
 
太陽はひとりぼっち50021
 
 天使は、何も言わない。
 言わないが、気配で何かを伝えてくる。
 天使が、直接脳に訴えてくるメッセージを汲み取ろうとして、彼女は、穴が穿(うが)たれただけの天使の瞳を見つめる。
 彼女が天使からメッセージを受け取ったかどうかは、観客には解らない。
 
 女が証券取引所に出向いて、自分の母親を探すシーンがある。
 証券マンたちが、もみあい、重なり合い、手を振り上げ、怒号をまき散らしながら、せわしなく動き回っている。
 人とすれ違うたびに、彼らは株価の情報を素早く交換し合い、遠隔地の相場を知るためにおびただしく電話をかける。
 
太陽はひとりぼっち6
 
 証券マンたちの行動は、極めてリアルな経済法則に従っているにもかかわらず、脳の制御を失った人たちが、意味不明の妄言を囁き合っているようにも見える。
 そこは、「不思議の国のアリス」や「ガリバー旅行記」に出てくるような、異界の法則に貫かれたおとぎの国だ。
  

  
 女は、証券取引所で若い証券マン(アラン・ドロン)と出会う。
 どちらともなく惹かれ合って、恋愛がスタートしたかのように見える。
 
 しかし、進展しない。
 
 
 
 女は男の気を引くようなコケティッシュな笑顔を見せるが、それも長続きしない。
 男と一緒に笑い転げたかと思うと、次の瞬間には、その表情を凝固させる。
 
 病んだような物憂さだけが、2人の間を流れていく。
 
太陽はひとりぼっち2
 
 男は「君が分からない」という。
 しかし、女にも自分が分からない。自分の意識をコントロールできる時間がだんだん少なくなっているからだ。
 
 彼女の意識が、この世と異界の境界を行きつ戻りつしていることを暗示するかのように、風景のショットが増えていく。
 
 建設途上のビル。
 雨水を溜めたドラム缶。
 風にそよぐ木。
 幼児を乗せた乳母車。
 
太陽はひとりぼっち乳母車
 
 それらの風景の奥の方には、とてつもない緊張感が張りつめている。
 風景が視線を持っている。
 視線を持って、人間を観察している。
 その視線に、徐々に力がみなぎっていく。
 
 女が、男のアパートを出るシーンがある。
 午後の光が溢れるローマ郊外の街を、彼女はけだるい足どりで歩き始める。
 その歩き方は、満ち足りた情事の思い出を引きずっているようにも見えるし、方向性を見失って途方に暮れているようにも見える。
 
 この後の展開は異様だ。
 そこからラストシーンまで、まだ10分ほどあるというのに、もう主人公の女も、相手の男も画面に登場しない。
 延々と映し出されるのは風景だけ。
 
 大通りを、1頭立ての馬車が白日夢のように通り過ぎていく。
 ヒヅメの音が遠ざかると、岩のような沈黙が被さってくる。
 
太陽はひとりぼっち馬車
 
 遠くのグランドでは子供たちがスポーツに興じているのだが、その歓声は届いてこない。
 空虚な静けさが、街をゆっくりと包んでいく。
 
 街に夕暮れが迫る。
 人気のない道路を1台の路線バスが走っていく。
 家路に急ぐ人たちがバスを降りるが、彼らの背中は、影絵のように実体感を失っている。
 
太陽はひとりぼっち50041
 
 通りすがりの人間がアップで映し出されるときもあるが、その無表情な顔からは精神の動きが感じられない。
 人の匂い、人の気配が急速に画面から遠のいていく。
 
 この映画の最後は、不安感を助長させる音楽の高まりとともに、ギラギラと輝く街灯をアップでとらえた映像で終わる。
 
太陽はひとりぼっち街灯
 
 その街灯は、もはやこの世の街灯ではない。 
 女の意識の裂け目から噴出した「異界」の街灯なのだ。
 彼女が完全に異界へ旅立ったことが、そこで暗示される。
 
 怖くて、美しい映画である。
 私は、この映画の意味が、いまだに理解できない。
 
太陽はひとりぼっちFIN
 
 
関連記事 「アントニオーニ 『欲望 BLOW UP』 」 
 
関連記事 「アントニオーニ 『赤い砂漠』 」
   
 
 

カテゴリー: 映画&本   パーマリンク

アントニオーニ 「太陽はひとりぼっち」 への10件のコメント

  1. Yama より:

    「太陽は独りぼっち」って有名ですが、そういう内容の映画だったのですか。
    アントニオーニっていうのもなつかしい記憶がよみがえりました。学生時代に「欲望」という映画を見た覚えがあります。なんじゃこの映画??とよくわからず、なんとも言い様がなかった気がします。同一の監督なのですね。
    単なる虚無感をテーマにした感じでもないし、日本風の無常観でももちろんないし、存在の不安といったありきたりでもない、通常の哲学ジャンルに落ちない生(性)の深淵?をかいま見せようとしているのですかね?
    興味をすごく持ちました。夏キャラバンを終えたら是非見てみたい。ありがとうございました。

  2. 町田 より:

    >Yamaさん
    ミケランジェロ・アントニオーニは昨年亡くなった監督ですが、昔からこの人の撮った映画の映像が好きでした。
    テーマだけを追うと、確かに、「なんじゃこの映画は?」という難しさがあります。
    でも、そういう難解さとは別の、映像の美しさというものがあって、それが昔から気に入っていたし、気がかりでもありました。
    だから、同じ作品を何度も何度も観ています。
    で、最近気づいたことがあります。
    ああ、そうか~……。「映画として観ようとするから難解なんだ」って。
    『欲望』のレビューを昔書いたことがあります。
    もし、お時間があればご笑覧ください。

  3. ルミちゃん より:

    女は、婚約者である男から別れようとしている。しかし、男には、なぜ女が自分から離れたがっているのか、その理由が分からない。
    別れる理由を執拗に問い詰める男に、女は 「分からない」 とつぶやいて、その視線から逃れようとする。
    実際に、別れる理由が女にも分からないのだ。
    —————————————–
    ここまで書けば、なぜ女が別れたがっているか分ると思うけれど.
    女は、相手の男が自分の気持ちを分ってくれないから別れたがっているのじゃないの?

    酒に酔った男に車を盗まれ、池の中に落ちてしまった.死んだ男と一緒に引き上げられた車を見ていながら、男は買ったばかりなので直して乗ると言った.
    女は、気味が悪くて、そんな車に乗る気にはなれない.そんな男の気持ちが理解できなかった.
    証券マンの男は、お金でしか物事を考えることが出来ない人間だった.そんな男の気持ちを理解出来ない女が描かれている.
    彼女には、例えばたくましい肉体の若者の姿、汗水を流して働く人間は理解できたと思うけど?

    • 町田 より:

      >ルミちゃん さん、ようこそ
       ここで話題として取り上げたアントニオーニ監督やベルイマン監督の作品は、すでに50年近い昔に制作されたもので、今の若い人たちは、それがどのような作品であったか、ほとんどご存じないだろうと推測します。
       それなのに、このような昔の映画をテーマにしたブログ記事に、わざわざ丁寧なご意見をいただき感謝します。

       コメント拝読し、(この 『太陽はひとりぼっち』 に限らずその他のご意見も含め)、しごくごもっともな解釈であると感じ入りました。
       たぶん、アントニオーニの主張も、ルミちゃん様のご意見に書かれている通りであるような気もします。だから、アントニオーニが生きていて、このご意見を耳にする機会があったとしたら、「そう、そのとおりだ」 とうなづくように思います。
       
       ただ、映画を観る人間の方は、別に監督の意図どおりに受け取る必要もなく、個人個人の好みに応じて、それぞれ身勝手な解釈をしても許されるだろうと思っています。
       その場合、私にとっては 「解らない」 という立場に立つことが、いちばん自分にとって正直な、しかも意味のある “解釈” であるという気がしています。
       
       一度 「解らない」 という立場に身を置いてからその答を模索するのは、制作者の意図であるとか、主張であるところとは別に、その映画の持っている 「可能性」 を模索する行為であるように思っています。
       
       この 『太陽はひとりぼっち』 という映画に関していえば、確かに、主人公の女が婚約者と別れたくなった理由は、ルミちゃん様がおっしゃるように、「相手の男が女の気持ちを分かるようなデリケートな人間ではなかった」 ということになるのでしょう。
       
       実際、スクリーンに登場する婚約者は、しゃべることから表情までスノビッシュで俗人丸出し。これじゃ女が嫌になるなあ … ということは十分伝わってきます。
       しかし、女の婚約者を拒絶する精神の方は、多少常軌を逸するほどに謎に満ちていませんでしたか ?

       また、アラン・ドロンの演じる証券マンが、「お金でしか物事を考えることのできない俗物」 であったとしても、モニカ・ビッティの演じるヒロインは、そんな男への失望や嫌悪を通り越して、すさまじい拒絶を表現していませんか ?

       アントニオーニの演技指導なのか、モニカ・ビッティの存在感そのものから来るものなのかよくわかりませんが、単に「失望」とか、「軽蔑」 とかいう感情に収まりきらない過剰なものが流出している … もしくは、本来あるべきはずの何かが決定的に欠けている。
       そこには、単なる 「金儲け主義への反発」 だとか、「現代人の人間性の欠如に対する失望」 などという “収まりのいい言葉” に集約できない、もっと根源的な人間の不可思議さに思いを及ぼす何かがあったような気がします。
       
       実は、この映画は、公開当時から 「現代社会人の心の空洞」 とか 「愛の不毛」 などという資本主義社会がもたらす弊害を描く近代批判で整理する論調はありました。
       
       たぶん、そう説明すると、一見難解なこの映画が、わりとすっきり理解できてしまうからでしょう。
       でも、そういう文脈で読み解く大人たちの批評を読んで、「そんなもんじぇねぇだろう … 」 という違和感を子供心に抱いていました。

       もし、この映画が、ルミちゃん様のおっしゃるような “俗物を生み出した資本主義社会という近代批判” であったなら、私はビデオやDVDまで手に入れて何度も見直すようなこともなかったと思います。
       
       そして、大人になって、何度か観ているうちに、これは 「解らない」 という感想でくるんだ方が、この映画の底の方まで遡行できるようになると気がついたのです。
       
       仮にアントニオーニの主張が、ルミちゃん様の指摘されるとおりだとしても、映画は監督の手を離れたときに、別の生命力を獲得します。
       この映画の 「生命力」 は何かというと、「人間には解らない世界がある」 ということに対する畏怖の念を想起させることです。
       
       あくまでも、このレビューは、そういう私自身の勝手な思い込みで書かれています。
       「解釈」 というのは、鑑賞する人間の個々の手に委ねられているのであって、鑑賞者がそれぞれ個別の感想を自由に抱くことを許容するように思います。

       だから、ルミちゃん様の主張も同時に尊重いたします。
       また、一連のコメント拝読し、「なるほど。確かにそうだ」 と印象を改めたものもあります。
       このような昔の映画をともに語れるということは、貴重な体験でした。
       コメントありがとうございました。
        

  4. ルミちゃん より:

    もう一度、見直してみました.

    時代的背景
    1960年 フランスの核実験.以降、アルジェリアで核実験を続ける
    1963年 ケニア 独立.独立は、この映画が撮られてから1年後である

    原題(英語訳ですが、綴りがイタリア語と似ているので、多分これで良いでしょう)
    Eclipse 失墜.暗い影、日陰の部分、日の当たらない場所、人が目にしない場所、
    ————————————-
    本来の姿、自然の姿

    別れることにした、婚約者同士の男と女
    男は車を捨て、木立の中を行く女を追う.
    鳥の鳴き声が聞こえる.
    『こんなに早く、一緒に歩いたことはなかったな』
    この二人、翻訳関係の仕事をしていたらしいけれど、夜型の生活をしていたのでしょう.
    日の出と共に起きて生活するのは、人間にとって本来の姿のはず.
    『君を幸せにしたいんだ.どうすればいいんだ』別れたくない男は、必死に女を引き留めようとするけれど、すればするほどに、彼本来の姿を失っていったのではないのか.

    ケニア生まれの婦人
    ケニアの美しい自然の写真を見ながら、彼女たちは話をする.
    彼女の家族は、ケニアで鉄砲を撃って狩りを楽しんでいたらしい.自然に生きる動物達にとっては不幸な話である.
    のみならず、カバは沢山草を食べるので、時々何頭か殺すという.人間の都合によって自然を歪める行為に他ならない.
    大半の住民が文明とは無縁の暮らしをしているケニア.小学校に行ければ幸せな方だという.住民の多くは、単純で、幸福を追求しない生活をしているらしい.彼らは幸せなのか、どうなのか?、それは分らないけれど.
    原住民が民族意識に目覚め、彼らの土地で彼らが幸せを求めるとき、侵略者の白人は幸せな生活を失うことになった.侵略者の白人は、自分たちの文明によって、原住民の不幸の上に自分たちの幸せを築いて来たのである.当然の結果と言わなければならない.

    逃げ出した犬
    探しに行くと沢山犬が居たけれど、犬は犬同士の方が楽しいのではないのか.犬の本来の姿は犬同士の暮らしにあると思う.
    芸をする犬は、犬にとって幸せな姿かどうなのか?

    飛行機
    試験飛行に便乗して、ローマの上空を飛んだ彼女たち.雲の内は、氷と雪の結晶で輝いていた.文明のすばらしさと、自然の美しさ、どちらをも満喫して、彼女は幸せだった.
    けれども、別のシーンでは大空を行く四機の戦闘機、飛行機雲を引きながら編隊飛行する戦闘機が映し出されるのだけど、それらは人を幸せにする文明とは言えないはずである.

    証券所
    関係者の一人が亡くなったらしい.一分間の黙祷の時間、亡くなった人の事を本当に悲しく思った人がどれだけいたのか?
    人の死を悲しく思うのは、人の自然な感情、人の本来の姿のはず.

    母親
    随分前に夫は死んだのだろうか.今では夫のことを思い出すことは無くて、株のお金儲けに夢中だった.時々は思い出すのが人の自然な姿だと思うけれど.

    証券マンの男
    彼の付き合っていた女の子は、以前は金髪だったらしい.彼女はこっちが本物だと言うのだけれど、けれども黒髪に染めた彼女を見た彼には、どちらが本来の姿なのか、分らなくなったらしい.彼は彼女と別れることにした.
    車を盗んだ酔っ払いは、池に落ちて死んでしまった.『痛みは少ないから直せば乗れる』と、死んだ男を乗せて引き上げられた車を見た彼は言う.『未だ8000キロしか乗っていない』、こう言いながら彼女を見て、やっと彼は気がついたらしい.死んだ人間が乗っていた車なんか、気味が悪くて乗る気になれない、こう思うのが、人の自然な感情のはず.

    野次馬
    集まった群衆たちは、引き上げられる車を見ながら騒ぐだけで、一人の男が死んだことを悲しく思う人間は居なかったみたい.

    労働者の若者
    『いい男ね』と彼女は言った.汗水を流して働く姿は、人間本来の姿であるのは、間違いがない.

    株の暴落
    大損をした男は、精神安定剤を買い求め、その薬を飲みながら、木の絵を描いていた.自然は精神を静めるらしい.彼は、安らぎを求めた.
    『損をした人のお金は、もうけた人の所へ行くの?』そんなに単純な問題ではない、と、証券マンは答えたけれど、文明社会の仕組みは複雑らしい.その複雑な仕組みによって、皆、一度は大儲けをしたのだけれど、儲けを失っただけでなく、設ける以前に持っていたお金よりも、遥かに多額のお金を失ってしまった.

    新聞記事
    男は新聞を読みながらバスから降りてきた.
    『競い合う核開発.束の間の平和』
    文明の進歩とは、決して人々の幸せを追求する行為とは言うことが出来ない.文明の進歩によって、人々は安らぎを失ってしまった.

    ちちくり合う男女
    証券マンの男は、仕事の電話の受話器を全部外して、好きな女と何かしていた.文明を拒絶して、好き合った男女は自然な行為をしていた.
    彼は受話器を戻しながら、仕事を始めるか考え込んで、映画は終わる.
    —————————–

    未文明の世の中が、幸せであったのかどうかは分らない.けれども、人間は幸せを求めて、文明を発展させて来たのだと思うのだけど、文明の発展と共に、人々は人としての本来の姿を失って行き、何が幸せなのか分らなくなってしまっているのではないのか?
    人本来の姿は、安らぎを求める心の中に、自然を求める心の中にある.もう一度、人本来の姿に戻って、皆が幸せになるにはどうしたらよいのか、考えなければならないはず.

  5. ルミちゃん より:

    『塔の頂上は展望台のように広がっていて、あたかもカサを広げたキノコのように見える。』
    —————————–
    当時、観客が観たら、キノコ雲を連想させるのではないか?

    アメリカ、ソ連が核開発を競い合い、1万発を超える、核弾頭を装備した大陸間ミサイルが配備され、戦争が起きれば間違いなく地球が破滅する、そうした不安に満ちた時代でした.

    • 町田 より:

      >ルミちゃん さん、ようこそ
      ルミちゃん さんからこの映画のレビューに対するコメントをいただいたのは2年前だったんですね。そうとう時間が経ったにもかかわらず、またこのコメント欄を思い出して追記をくださるなど、ほんとうにありがたいことだと思います。

      今回のコメント拝読し、ルミちゃんさんの解釈がより的確に、より緻密になっていることを感じました。ほんとうにこの映画のさまざまなディテールをしっかり読み込まれたんだなぁ … と感心いたしました。
      「文明」と「自然」。
      その相関関係を的確にとらえ、「自然」の立場に立って「文明」を批評的 (批判的)に捉える。それがアントニオーニの狙いであったなら、ルミちゃんさんは監督の意図をもっとも理解した鑑賞者ということになるでしょう。

      その見方に、ほぼ私も同意します。
      人々に便利な生活をもたらすはずの「文明」が、ときに原爆や戦争という破壊的な産物まで作りあげて人間の生活を破壊する、という視点をこの映画から抽出したルミちゃんさんには、素直に敬意を表したいと思います。おっしゃっていることにはすべて整合性があるし、ゆえに説得力もある。異論も反論もありません。

      1950年代から60年代初頭にかけて。
      その時代は、おっしゃるように冷戦の緊張感がもっとも高まった時代で、第三次世界大戦への恐れが、どんな映画にも顔を落としていましたね。ネビル・シュートの原作をスタンリー・クレイマーが映画化した 『渚にて』 もそうでした。
      ひょっとしたら、日本映画の初代 『ゴジラ』 (1954年)なんかも、「自然」の生き物(恐竜)が核という「文明」に汚染されて、そのきっかけを作った人間に復讐するという「文明批判」映画だったのかもしれません。そこには第三次世界大戦への不安を醸成する冷戦への批判が通奏低音になっていたように感じます。

      それと同じような眼差しを『太陽はひとりぼっち』から汲み取られたルミちゃんさんの解釈は素晴らしいと思います。「文明」と「自然」との対比がケニアの思い出として描かれたところなど、実に象徴的ですね。

      それを十分理解したうえで、また繰り返すのですが、この映画には、そういうアントニオーニ自身が描こうとしたテーマ以外のものが潜んでいます。アントニオーニが描こうとしたテーマは、まさにるみちゃんさんがおっしゃった通りでしょうけれど、さらにその奥に、監督自身が把握していない「世界」がある。
      この映画は、ある意味で何かが徹底的に過剰であり、別の意味で、何かが徹底的に欠けています。その歪(いびつ)さがこの映画の魅力となっています。
      映画の本当の魅力というのは、監督のコントロールから外れたところに生まれるのではないか? … 私にはそんな気もしています。ちょうど、1982年の『ブレードランナー』が、リドリー・スコットにも制御できなくなるほどのノイズを含んだがゆえに名作となったように、この『太陽はひとりぼっち』も、監督にも制御できなくなった何かがあるように思います。
       

  6. keiko より:

    朝日の紙面に往年の輝きを甦らせる映画の修復師として早稲田大学で映像専攻をされた新井陽子さんを紹介していましたが彼女は古いフィルムのゴミを消したり欠落を埋めたりして古い映画を甦らせているそうです ですから彼女は映画を見るのではなく研究していたのですが数々見るうちに関心のない俳優にも愛着が湧いてくる、、と言うのが面白かったです
    中でも 長回しのスタイルで知られるミケランジェロ、アントニオーニの『赤い砂漠』が好きで元々絵画が好きなのでぱっと見て直ぐに好きになった 映画に描かれている(孤独)という感情が胸に刺さった、、、人生には説明出来ないことがあると心にすっと落ちた、、、と言っています
    ますます赤い砂漠を見てみたくなりました
    町田さんの 孤独を嫌う時代を読んでずっとそのことを考えていますが今時の孤独とは疎外や孤立のことで 特に若い人たちがそれを恐れているということでしょうね
    本来の孤独とはひととして生まれたら即もう孤独、、それは個性ともいうべきもの,,,(孤生というひともいます)私は孤独は全ての始まりと思います

    自分が表現者としてやっていくには厳しい内面の孤独が絶対に必要だと思うし 頑張れば頑張る程 日常の中での孤独が増殖してくるのは必然だと思う
    わざわざ孤独になろうとしてひとを遠ざけたことなどはありませんが カミュの言う(意思も一つの孤独だ)と言う言葉がわかる気もしている

    この1ヶ月ふとしたことをこじらせて安静を命じられてしまった 仕方なく全ての予定をキャンセルして音楽を聴きながら積んであった本を読んだりデッサンをして過ごしたが気楽は暫しの間、、、見舞いの友人の電話に 多忙って孤独を知らずに過ごせることね,,と言っていましたから相当さみしくなっていたのでしょう

    厚木児童遺棄事件のその後を聞きました 亡くなる1週間前パンの袋も破れない程衰弱した児童はやっと顔を見せた父親に か細くパパ パパと呼びかけ続けたそうです
    (慟哭)、、、こんな想像力も欠如した人間がどんなさみしさでどこに依存して行ったのか、、こいつには孤独などという言葉を使わせたくない

  7. keiko より:

    送信出来ていてうれしいです 直前にyou tubeで思いがけず太陽はひとりぼっちの原語版を2時間、、、無茶な解釈をしながら見ることが出来ましたが そのため内容と題名が合わなくなりご迷惑かけたと思います 
    倦怠感そのもののモニカヴィッテイが あらゆる場面で身をくねらせすり抜けて ひととの接触がなく ある種の嘔吐感を感じました 想像するかぎり全てが彼女にとって他者なのでしょう 彼女のもの言う目は実はなにを見ていたのか

    アランドロンは太陽がいっぱいのイメージが強過ぎてミスキャストだと思う 焦らされて段々はじめて内省的になって行くはずの男としては顔が邪魔だった
    しかしやっぱり最後は 関係のない景色や馬車やひとや 特にメデューサのような女など脈絡無くあらわれて、、、 スレンダーで色っぽいモニカは消えてしまった
    株の場は ソドムの町のようだった モノクロはいいなあ

    • 町田 より:

      >keiko さん、ようこそ
      まず、YOU TUBEでご覧になられた 『太陽はひとりぼっち』に対するkeikoさんの感想について一言。
      おっしゃる通りですね !
      アラン・ドロンは “顔がじゃまだった” 。
      言い得て妙でした。
      私もこの映画を観る前に、ポスターなどをから、「これは美談美女が相思相愛になる恋愛ドラマなんだろうな」、などと勝手に想像していました。そしたら、まったくそんな甘い映画ではなくて、けっこう重くて暗い映画でびっくりしました。甘い映画だと想像させたのは、ひとえにアラン・ドロンの二枚目すぎる風貌から来ていたのですね。

      >> 「株の場はソドムの町のようだった」
      この一言も効いていますねぇ ! keikoさんは、ほんとうにイメージが豊かですね。
      そして、>> 「最後に関係のない景色や馬車や人が脈絡なく現われて …」というところに注目されたのもすごい。
      あの “ストーリーとは関係のない景色や人” が出てくることで、この映画は一気に “あっち側” に跳んじゃいましたね。私はこの映画の、そのジャンプ力がすごいと思いました。

      最初のコメントに書かれていたことですが、『赤い砂漠』 に絵画と同じものを読み込まれた新井陽子さんの発言に注目されたのも素晴らしいと思いました。
      あの映画は、確かに “絵画” です。
      絵画というのは、文章でいえば、散文ではなく、詩のようなもの。多くの映画 … 特に最近のハリウッド映画などは、どんなファンタジーを描こうが、基本的に我々が生きている世界の現実感をベースにした散文。
      しかし、アントニオーニの映画は、絵画であり、それは文章形式でいえば詩のようなものにあたります。
      詩には、散文的な意味の論理とは違って形で、ストンと腑に落ちるものがある (← これは歌人0の穂村弘さんが言った言葉ですが …)。アントニオーニの映画というのも、ロジックではないところで人間の感性に訴えるものがありますよね。
      「理由はよく分からないけれど、この映像はさびしい」 とか、「理屈抜きで、この映像は孤独感をあらわしている」 みたいな。
      >> 「人生には説明できないことがあると、心にすっと落ちた」
      まさに、その感覚をもたらせてくれるのが絵画であり、詩であり、そしてアントニオーニの映画にも、その感覚が生きているように思います。
       

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong> <img localsrc="" alt="">