物語との戦い (大塚英志 『物語消滅論』 )

 
 大塚英志氏の『物語消滅論』(角川oneテーマ21)という本は、非常に分かりづらい。
 “語りおろし” ということで、記述自体に重複、省略、飛躍が多く、文意を素直にたどりにくいのだ。
 
 しかし、分かりづらいことの本当の理由は、そのような叙述のスタイルからくるものではなく、テーマが二つに分断されていることによる。
 

 
 つまり、ここでは大塚氏が、「二つの戦線」で戦っているのだ。
 
 一方では、
 「小説などから、やがて “作者” は消えていく。物語などはコンピューターで作れる時代が来ている。そういうことをみな自覚して、これから “作家” を目指す人たちは、物語の技術者というブルーカラーとして働くことを覚悟し、社会的にもそういうシステムが構築されなければならない」
 という。
 
 これは、ひとりの人間がコツコツと「作品」を仕上げていくことによって、創造的な仕事が達成されると思い込んでいる「近代主義者」たちへの戦闘宣言だ。
 
 ところが一方では、
 「近代文学のやり直しは必要だ。文学や歴史、イデオロギーまで含めて、近代文学の再構築が行われなければならない」
 ともいう。
 
 こちらでは、最初の言い方では無効なものになったされる「ひとりの作者が世界と対峙してコツコツと文学に立ち向かう」ような旧世界が称揚されている。
 こういうときの大塚さんは、コンピューターで物語をつくるシステムや、それによって動かされる社会構造に対して戦線布告を行っている。

 果たしてどちらが主戦場なのか。
 それが、ある程度読み進んでいかないと見えてこない。
 
 しかし、その「二つの戦線」で戦っている大塚氏の真意が理解できてくると、この本は、今の時代の構造を把握するための、非常に適切な道しるべになるし、霧吹く荒波を航海する時に、行く先を照らしてくれる灯台の明かりとなる。
 
 この本は、われわれに何を語ろうとしているのか。
 
 それを知るには、まず大塚さんという方の肩書きを知るのが手っ取り早い。
 
 「まんが誌のフリー編集者を経て、まんが原作者やジュニアノベルズ作家、評論家として活躍。サブカルチャーとおたく文化の視野からの評論、社会時評が注目される」 (著者略歴より一部抜粋)
 
 つまり、一貫してサブカルチャー寄りの世界で身を立て、かつ論陣を張ってきた人なのだ。
 そういった意味で、サブカルに期待する思いは強い。
 だから彼は、アメリカの映画やアニメ産業と日本のそれとを比較した場合、CG技術などの比較以前に、ストーリー制作において圧倒的に遅れをとっている日本の現状に警告を発する。
 
 「アメリカではすでに『Dramatica』というシナリオライティングソフトが実用化のレベルにあって、ハリウッドではそれを駆使した、非常にシステマティックなストーリー制作が行われている。
 それは、人間の思いついたプロット (あらすじ) をコンピューターの質問通りに整理させていくうちに、おのずとハリウッド映画のセオリー通りの物語がつくられていくというもの。アメリカでは、ストーリーテリングに関する部分でのシステム化が、日本よりはるかに進んでいる」
 と、大塚さんはいう。
 
 だから、
 「日本の映画やドラマのシナリオライティングでも、物語制作という行為を、システマティックな技術として構築する自覚と技術を持った物書きが大量に出てこないと、日本のソフト産業の水準を維持していくことができない」
 という警告がなされる。
 
 では、「Dramatica」のようなソフトが日本にも登場して、物語が工学化していくと、日本における物語や小説を書いていた「作者」は、今後どうなるのか。
 
 大塚氏は、誰でも作家になれる「物語ソフト」が流通してくると、近代文学を支えてきた「作者」は根源的に無化されるだろうと、あっさりと予測する。
 創作行為は神秘的なものではなくなり、「作者」は神秘化されたブラックボックスの外側にはじき出されて、ソフトを管理する単なる技術者になる…というわけだ。
 
 そんなことがありえるか!
 モノを書くことに特別な思いを持ち、「作者」としてのこだわりを大事にする人々は思うだろう。
 
 しかし、すでに「物語」の創作が、「作者」という存在がいなくても、自動的に行なわれる時代がやってきたことを、大塚さんは、『トイレの花子さん』という子ども向け映画がヒットしたことで説明する。
 
 「 『トイレの花子さん』は、子供たちの想像力が集合したストーリーで、そこには、近代文学を支えたような “作者” がいない。そもそもこの話の元ネタは都市伝説であり、都市伝説というものには、最初から作者がいない」
 
 つまり、ここではハリウッドの創作ソフト「Dramatica」で行なれたこととと同じことが行なわれているという。
 「Dramatica」では、人間の考えたプロットに、コンピューターが肉付けを行うことでストーリーを進化させていくわけだが、『トイレの花子さん』では、子供たちが、よってたかって話を面白くさせるための工夫を凝らし、ハリウッドのコンピューターソフトと同じ機能を果たした」
 というわけだ。
 
 「このような、作者不在の物語が成立するようになった時代というのは、我々が “リアリティー” として感じていたものの耐用年数が切れかかってきたからではないか?」
 と大塚氏は、そこから、ものすごく面白い論理展開を始める。
 
 ここからが、この本の白眉だ。
 
 今、我々が日常生活で感じている「リアリティ」というものが確立されてきたのは、たかだか、ここ100年ぐらいのことでしかないと、氏は指摘する。
 
 明治30年前後に、西洋から「近代文学」がもたらされるようになり、そのときから日本人は、現在われわれが感じているような「リアル」な感触を手に入れた。
 
 「西洋近代文学」は、19世紀の西洋人が獲得した新しい社会科学のもたらした思想を反映している。
 たとえば、すべての生物は神によって作られたものであり、その生物の種類や数に変動はないという「常識」をダーウィンがくつがえし、「環境の変化に適合できない生物は滅び、適合した種は常に進化を続ける」というような近代合理主義思想をその世界観の基盤に据えている。
 
 19世紀に生まれた「近代文学」は、「生き物は環境に左右される」 という “不安定感” の中で生きざるをえない存在として「人間」を捉えた。
 それは、世の中はすべて神様が仕切っているので、幸せを得るためには、ひたすら神様に祈るしかないと考えていた人々の意識を、根底から変えた。
 
 考える主体が神様から人間に移ってくると、人間は誰もが、混沌とした世の中を自分の視点に立って整理し、自分だけに見えている「世界」を信じるような訓練を繰り返すようになる。
 そのような訓練が、いつしか、人間が世界を把握するときの「現実感」として定着した。
 
 このような「現実感」をもたらせた西洋の近代文学は、明治期の日本のインテリたちを震撼させた。
 近代日本文学の黎明期を生きた樋口一葉や、坪内逍遥や、尾崎紅葉たちは、この新しい「現実感」を日本文化に取り入れるために、必死に奮闘した。
 
 では、それまで、日本人の現実感を支えていたものとは何だったのか。
 それが、「おとぎ話」や「昔話」だった。
 つまり、多くの日本人は、「悪いことをしたら、バチが当たって来世で苦しむ」
 というような、村の古老が語るような「善」と「悪」で構成されたシンプルな世界を見つめていた。
 江戸時代の歌舞伎とか浄瑠璃といった古典芸能は、その類型的な現実認識を、きわめて高度に洗練された様式美にまで高めていた。
 
 ところが、明治になって西洋文学が導入されると、人間は「善」と「悪」の間に立って悩むような複雑な存在であるという認識が日本の知識人たちにもたらされるようになる。
 
 「悪いことをしたら、その人間はバチが当たって来世で苦しむ」
 という説明で納得していた日本人は、
 「私にとって、悪いこととは何なのか?」 
 というように、「私」というものを厳密に問い詰める姿勢がないと、世界をリアルに見つめられないように感じるようになった。
 そうやって手に入れた「現実感」が、今日までわれわれの日常生活を被っていた。
 
 しかし最近、そのような「リアリティ」を保証する根拠が崩れ始めていると、大塚氏は述べる。
 
 大塚氏がそう感じたのは、最近の若者たちが、しきりに「自分と歴史とのつながりが分からない」と言うのを聞くようになってからだ。
 「過去の日本が何をしてきたかなど考えても意味がない。それは現在とは関係のない世界だ」
 そう感じる若者が増えているという。
 
 それだけ、急速に「歴史が見えにくくなった時代が来た」と、氏は考える。
 
 さらに氏は、現代思想的な水準においても、「歴史感覚の喪失」という問題が取りあげられるようになったことに着目する。
 
 歴史感覚の喪失とは、とりもなおさず、「時間感覚」の喪失に他ならない。
 つまり、今までわれわれの「リアリティ」を支えてきた「時間感覚」が急速に薄れてきているのではないかと、氏は思うのである。
 
 その理由のひとつに、大塚さんは東西冷戦の終結を挙げる
 長い間、資本主義に対立する理念を掲げていた社会主義がコケたことによって、人類は未来へのイメージを喪失した。
 つまり、「明日は今日より良くなる」という神話が、社会主義の崩壊によって完全に地に落ちたということらしい。
 
 そこのところの大塚さんの解釈を、ちょっと短めに説明するとこうなる。
 
 「私たちの感じる “現実感” の後ろには、近代をずっと支配してきた進化論的な考え方があった。ダーウィンの生物学的な進化論は、社会を考えるモデルにまで発展し、社会そのものが段階的に進化していくという時間認識を人々にもたらすようになった。
 それを徹底して、政治・経済・思想・生活の領域で推し進めようとしたのが、社会主義だった。
 その社会主義がコケたことによって、人間の歴史を進化論的に説明する理論も破綻し、世界はどう動いていくのか、またどのように動けば人類にとって理想的な進路が決まるのか、そういうことを考える基盤がすべて失われてしまった」
 
 と(いうような意味のことを)大塚氏は述べる。
 
 しかし、そうはいっても、人間は自分の立ち位置を定める座標軸を持たないと不安でどうしようもなくなってしまう動物だ。
 そこで復活してきたのが、「昔話」のように、世界をシンプルに読み解く「物語的な世界観」だったと大塚さんはいう。
 
 世界は、『ハリー・ポッター』のように、あるいは『ロード・オブ・ザ・リング』のように、あるいは『スターウォーズ』のように、そして『ドラクエ』や『ファイナルファンタジー』のように、誰にでも分かりやすい「光と闇の戦い」、「正義と悪の戦い」という神話物語に還元される時代に戻ったわけだ。
 
 氏は言う。
 「9・11の同時多発テロ以降から、アメリカが開戦に踏み切るまでのプロセスは、ハリウッド脚本術に示されたセオリー通りの展開を示した。
 9・11テロの映像がハリウッド映画のように見えたというよりも、テロ後のアメリカの行動が、あたかもハリウッド映画の主人公そのものの行動原理だった」
 
 大塚氏は、コンピューターによって物語を制作するハリウッド的な思考パターンが、現実政治にまで及んできたこたことを強く感じるようになる。 
 
 「アメリカには “近代” 以前がない。だからアメリカ社会は、ハリウッド映画を自前の神話として自作自演しなければならなかった。
 ブッシュ大統領は、そのような過剰な神話を必要としてきた社会に生まれ育った。9・11以降の戦争は、まさにハリウッド映画の物語的な構造に従って遂行された」
 
 氏が、このような単純な「善悪二元論」で世界を解釈してしまうファンタジー的な思考パターンに危惧を抱いていることは明瞭だろう。
 
 さらに、当時そのブッシュ政権に同調して、いち早く共闘宣言を掲げた日本政府に対しても、こう評価する。
 
 「あのときの日本政府のアメリカに対する対応は、あたかもロールプレイングゲームのパーティに、日本が加わるか加わらないかという意識レベルだった。
 主役としての勇者アメリカ。敵としてのイスラム世界。その討伐隊のパーティにどう関わるのか」
 ほとんど、ドラクエ的構造だったという。
 
 このような「物語」的な世界観は、ネットのプログラム言語と親和性が高いという極めて重要な指摘があるのだが、長くなるので触れない。
 
 とりあえずここでは、「善悪二元論」のファンタジー的な物語体系に対し、大塚氏が、どういう抵抗の道筋をつけようとしているかを確認すればいいと思う。
 
 氏は、「物語」的な世界観が蔓延していくことに対する対抗軸として、物語批判としての「近代文学の復権」を掲げる。
 つまり、明治期の樋口一葉や、坪内逍遥や、尾崎紅葉が、西洋的な「私」を意識した文芸を書かねばならないと思って必死に奮闘したように。
 
 そして夏目漱石が、そのなかから見事に日本の近代文学を打ち立てたように、もう一度、類型的な「物語的世界観」と格闘することで自分たちの立ち位置を定めることの大切さを説く。
 
 しかし、その道筋を追う大塚氏は、非常に複雑な立場に立たされている。
 なぜなら、本来はそのような仕事に精を出さなければならない「文学側」の人たちに、氏はケンカを売ってきたからだ。
 
 「本当は、こういう主張は、僕に文学など不良債権でしょ、と挑発されてきた “文学の人たち” がいうべきことなのだ。しかし、彼らは、自分たちの利権を維持する文学だけしか考えないので、僕の挑発には口をつぐんでいる。だから挑発した僕が、逆に答を出さなければならない」
 と、大塚氏はいう。
 
 氏が「二つの戦線」で戦ってきたということは、そういう意味だ。
 彼は、一方では「文学は終わった」などとうそぶくだけで何もしようとしない「文学派」の怠慢を批判し、一方では、「文学の危機」に無頓着な「サブカルチャー派」を憂慮する。
 
 「物語」に依存する思想は、封印を解かれた魔王のように、その隙間をぬって、「思考放棄」とでも表現せずにはいられないような単純な世界観を蔓延させていく。
 
 彼が冒頭で、創作行為は神秘的なものではなくなり、「作者」はソフトを管理する単なる技術者になると予測したのは、そのような状況を理想としたからではない。
 「作者が、技術者として物語の構造を管理し、誰にでもコミットできる技術として精緻化しておくことが、物語を封じ込める力になる」からだ。
 
 氏の複雑な気持ちは、次のような言葉に要約されている。
 
 「僕はこの本で、近代的言説としての文学の復興や、社会工学的な技術としての文芸批評を擁護するという(自分にとっては)予想外の結論に達したが、それは別に、(既成の)文芸誌的な文学や、文芸誌的な文芸批評を擁護することではない」
 
 この本の分かりづらさは、そこのところに由来する。
 しかし、この本では、その分かりづらさが、見事な「勲章」になっている。
 
 

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物語との戦い (大塚英志 『物語消滅論』 ) への2件のコメント

  1. スパンキー より:

    町田さんの文章の歯切れからも感じるのですが
    確かに、分かりずらそうな本のようですね。
    私も、ハリウッドの脚本のバイブルと称される本を
    何冊か目を通しましたが、その理路整然としたシステムには
    驚かされました。
    まして、それがソフトになると言われると閉口してしまいます。
    社会も国家もそうした回路通りに動いてゆくとしたら
    空恐ろしいものを感じざるを得ません。
    (確かに現実に起きていることも多々ありますからね)
    ただ、優れた(?)ストーリーテラーには程遠いかも知れませんが
    私は、いつ読んでも滅びない普遍性のある
    ひとの心の機微、想いの複雑系をめざしたいと思うのです。
    それは、絶対にどんなソフトも及ばない、遠い遠い世界のストーリーです。

  2. 町田 より:

    >スパンキーさん
    けっこう小難しい文章になっちゃって、あまり読んでくださる人はいないだろうな…と思っていたのですが、そういう記事に対してもご丁寧な感想をいただき、ありがとうございます。
    私も、詳しいことは分からないのですが、「物語」もコンピューターが作れる時代が近づいてきたということは、ある意味、物書きの存在意義が問われる時代が来たという気もします。
    そういう時代こそ、スパンキーさんがおっしゃるような「心の機微を描き分ける複雑系」の読み物が、本当の意味で、試されることになるのでしょう。
    「物語」がシステマティックに作られる時代こそ、逆に、そのシステムの網目から逃れて新しい世界を構築できるような物語が、次の時代をつくるのでしょうね。

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