人間が「時間」を手に入れたのは、いつか?

 
 ゲゲゲ…。いつの間にか年末じゃない!
 それも、あと数えるところ4日。
 「クリスマスっていつ終わったの?」
 ってなくらい、時の移ろいはめまぐるしい。

 最近、地球の自転が早くなっているのではないか、と思うことがある。
 そのせいで、もしかしたら、江戸時代なんかより1日が5時間ぐらい縮まっているのではなかろうか?
 どこかの学者に調べてもらいたいものである。

 「便利な世の中になればなるほど、時間は早く過ぎていくように感じられる」
 と言った人がいる。
 交通が発達しておかげで、昔だったら1泊行程のところが、今は「日帰り出張」を命じられる。
 1泊あれば、「今ごろは温泉に浸かって月見酒…」なんて洒落ていたところなのに、最終の新幹線に揺られて、ワンカップ大関にサキイカ。
 惨めっぽいよな。
 「レポートは、今日速達で出しましたから、明日の午後には着くでしょう」
 なんて、昔だったら言えたところが、
 「じゃ、PDFファイルにして、すぐメールちょうだいね」
 と言われちゃう。
 あわただしいよな。

 人間がひとつの労働に携わる基本行程は変らないのに、その成果を伝達・流通させるスピードだけが、日を追うごとに増していく。
 そりゃ、忙しくなるわけだよな。
 時間が飛ぶように過ぎていくわけよ。
 
 太古の人類は、永遠に終わらないような「時」の中を生きていた。
 朝、太陽が昇って、夜、太陽が沈むまでが1日だ。
 その間、時の経過を教えるものは、移ろいゆく日の影や、雲の流れだけ。
 彼らの生活もそれなりに忙しかっただろうけれど、少なくとも「時間に追われる」という現代人の受けるストレスは感じなかったに違いない。

 「時間に追われる」という感覚を人類が持つようになったのは、いったいいつ頃からだろう。

 工業化社会が誕生してからだ、という人がいる。
 イギリスに産業革命が起こり、それまで農村でとろとろと農耕を営んでいた人たちが、工場労働者として都市に集まるようになった。
 都市周辺には、でっかい工場があちこち建ち並び、いろいろな工作機械がどんどん導入されていく。
 
 機械を軸に回り始めた工業社会では、誰もが好き勝手に働いてしまうと、工場そのものが成り立たない。
 だから、どこの工場からも決まった時間に始業のベルが鳴り、終業のチャイムが鳴り響くようになった。

 このように、労働者がまず時間に管理され、次にその労働者たちを組織するホワイトカラーのサラリーマンたちが、これまた時間に管理されるようになる。
 「時間を守る」ということが、社会の秩序を身につけることになるという感覚が、次第に人間に植え付けられていく。
 こうして、労働環境が「時間」を軸に整備されると、「休み」の感覚も変る。
 
 農耕社会では、
 「日照りが続いて小麦がとれない」
 「洪水で畑が流された」
 …っていう自然の「勝手」に労働がコントロールされていたけれど、工業社会では自然のサイクルとは関係なく、四六時中働けるようになる。
 そのため、種まきや収穫に合わせて「祝祭」が行われていた農耕社会の「休日感覚」が次第に薄らいでいって、代わりに「1週間働いたら1日休み」なんていう味気ない労働サイクルが当たり前になっていく。

 このような「時間感覚」をさらに人々に定着させたのは、鉄道の発達だという説もあるようだ。
 19世紀になって、鉄道が世界の隅々にまで張り巡らされるようになると、人々は「何時何分までに駅に着かないと、汽車に乗り遅れる」という強迫観念を持たされるようになった。
 また、鉄道を管理する人たちも、汽車の正確な運行を維持しないと事故に巻き込まれるという危機意識を抱くようになった。
 かくして、正確なダイヤが尊重される風潮が広まった。

 「時間の短縮」がお客たちの意識にのぼるようになって、鉄道会社同士の競争も起こるようになった。
 1887年のイギリスでは、8社の鉄道会社による、ロンドン~エジンバラ間の鉄道駅伝競争が開かれた。駅伝のタスキの受け渡しは、このときに生まれた (← すべてウソ) 。
 とにかく、工場労働や鉄道が、人類に「時間感覚」というものを意識させる基礎をつくった。
 そして、このような近代の工業社会が発展することによって、時間というものが、誰にとっても平等で、均質なものになっていった。
 それまでは、「時間」は人によってさまざまな流れ方をしていたわけ。

 お城の舞踏会にしか興味のない貴族の娘たちは、夜の舞踏会を待つまでの退屈な昼が、永遠に続くように思えただろう。
 しかし、その貴族たちに仕える使用人たちは、舞踏会の準備でてんてこまい。自分たちの粗末な食事を口に放り込む時間がなんと短いことかと嘆いただろう。

 しかし、だんだん近代社会が成熟を遂げていくにしたがって、時間の流れが誰にとっても平等になった。
 ゆったりとした流れが平等に広まったのではなく、せわしなさが平等になった。
 地球上の人間が、みなせわしなくうごめき回るようになり、「時間にルーズ」な人間は、未開社会の非文明人か、自堕落な生活を送る落ちこぼれだという偏見さえ生まれた。

 今、この「せわしなく平等に流れる時間」の外にいられるのは、まだ時計の読み方を知らない子供たちだけでしかない。
 幼年時代に感じた、あの異様に長い1日!
 それは、世の中が同じタイミングで昼の12時を迎えるなどということを知らない、時計を持たない住民たちの話だったのだ。
 時計を持ったら、人生は終わりよ。
 自分の死ぬ年まで、だいたい計算できるようになっちゃうんだから。
 
 人間が「永遠」という概念を想像できなくなったのも、時計が生まれたせいかもしんないね。
 

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人間が「時間」を手に入れたのは、いつか? への2件のコメント

  1. ムーンライト より:

    本当に時間というのは一律じゃないと思います。
    砂時計のようなものだと感じます。
    なかなか変わらなかったり、スッと無くなったり・・・
    大木トオル・ディナーショーへ行ってきました。
    とっても盛り上がり、ショーの終盤立ち上がった方が大勢いました。
    コメントを通じてご案内した方がお友達とおいでくださって、ショーの後、フルーツパフェを一緒にいただきました。
    とても楽しかったです。
    今回はオークションもありました。
    大木さん愛用のギブソン・ビンテージギターや舞台衣装の他にBEN.E.KINGとのレコーディング時 の「STAND BY ME」の手書き楽譜、美空ひばりさんの着物、秋川雅史さんのベルト、鳩山由紀夫さんのネクタイ、ハーレーダビットソン・・・・・
    来年は40周年だそうです。
    記念イベントが日米でたくさんあるそうです。
    全国ツアーあるといいなぁ~と願っています。

  2. 町田 より:

    >ムーンライトさん
    大木トオルディナーショーの素敵な様子が伝わってきました。ありがとうございます。…ちょっぴりうらやましい。
    昨夜、バンドでベースを弾いている友人と音楽の話をしながら酒を飲んでいたのですが、「やっぱり大木トオルはすごい!」という話になりました。
    その人曰く。
    「大木トオルのブルースが、日本を超えてアメリカでも評価されたというのは、形式的にはブルースであっても、彼の音楽性に、ジャンルとしてのブルースを超える普遍性があったのだろう」とのこと。演奏者として、音の分析のできる人間の言葉でしたから納得。
    来年は40周年なのですか。
    日本にも素晴らしいアーチストが生まれたものです。

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