アントニオーニ 「欲望 (BLOW UP)」

《 昔の映画の現代的鑑賞法 5 「欲望 BLOW UP」 》
 
 ミケランジェロ・アントニオーニが1966年に発表した『欲望 BLOW UP』は、ミステリアスな映画である。
  

 
 まず、主人公(デビッド・ヘミングス)が何者なのかということが、一切語られない。
 画面展開を通じて、彼が職業カメラマンであることは分かるのだが、それ以外のことに関しては、観客はまったく教えてもらうことができない。
 
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 第一この主人公には固有名がない。
 パンフレットなどの解説では「トーマス」となっているが、映画の中では、その名で彼が呼ばれることは一度もないし、自分でも名乗らない。
 
 次に私生活がない。
 彼が仕事場として使っているスタジオは、画面に頻繁に登場するのに、彼の住んでいる家は描かれないし、妻や子供がいるかどうかも分からない。
 
 行動も謎だらけだ。
 … というか、きまぐれだ。
 

 
 たとえば、閑静な住宅街にクルマを止め、いきなりクラクションを鳴らして周囲の反応を伺うのだが、なぜそのようなことをするのか、何を求めたのか。映画は何も説明してくれない。
 
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 有名な、ヤードバーズのライブ演奏が挿入されるシーンでは、主人公はジェフ・ベックが観客に向かって投げた壊れたギターのネックを、他の客ともみ合いながら必死になって手に入れる。
 しかし、店の外に出てしまうと、ゴミを捨てるように、それを路上に放り出して歩き出す。
 
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 彼の行動と行動の間にはまったく連続性がないし。感情の推移が実にデジタルで、その内面は不気味なほど空虚だ。
 

公園で殺人はあったのか?
 
 この謎だらけの主人公が、これまた、謎に包まれた事件に巻き込まれる。
 彼は公園を散歩しているとき、そこでたわむれている1組のカップルを発見する。
 身なりのきちんとした初老の紳士と、上品な中年女性(バネッサ・レッドグレープ)のカップルだ。
 2人は、人気のない公園で、秘密の逢瀬(おうせ)を楽しんでいるように見える。
 
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 主人公は、木の陰に体を隠しながら、彼らの姿を盗み撮りする。
 女がそれに気づき、フィルムを返せと迫ってくる。
 
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 主人公は、未現像の別のフィルムを彼女に渡して安心させ、スタジオに戻って、撮ったばかりのフィルムを現像する。
 
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 プリントされた写真を壁に貼り、その出来栄えをチェックしようとしたとき、彼はその画像に、どことなく奇妙なものを感じる。
 女の視線が不自然なのだ。
 その視線が気になった彼は、暗室に戻り、今度は女性の視線が向けられた茂みの部分をアップしてみる。
 拳銃を持った男が、茂みの中に潜んでいるようにも見える。
 
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 次に、女が一人で立っている写真をチェックする。
 すると、その足元にうずくまっている影のようなものが、先ほどまで抱き合っていた初老の紳士の死体のようにも見えてくる。
 再び暗室に戻った彼は、今度は、女の足元に横たわる影の部分を拡大していく。
 
 もしかしたら自分は、偶然、殺人現場を撮影してしまったのかもしれない!
 その思いが、主人公を興奮させる。

 
 
 ところが、彼は、自己矛盾に直面することになる。
 写真というのは、拡大していけばいくほど粒子が粗くなり、モザイク画のようなものに近づいていく。
 つまり、「真実」に迫ろうとすればするほど、「真実」が遠のいていくという逆説に、彼は出合ってしまう。
 
 急いで公園に戻ってみるが、そこにはもう誰もいない。
 もちろん、死体などどこにもない。
 
 陰気な曇り空
 風にそよぐ木の葉
 濡れたような緑に染まった生々しい芝生
 音のない世界が広がっていく。
 
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 この公園の不気味で美しい映像は、まさにアントニオーニでなければ描けない世界だろう。
 
 「写真で見たものは、ただの錯覚か?」
 あいまいな気持ちのままスタジオに戻ると、留守の間に、プリントした写真が誰かに持ち去られている。
 もちろん、現像したフィルムも同時になくなっている。
 自分が見たものは、現実なのか錯覚なのか。
 それを判定する材料すら主人公から失われていく。
 

謎のパントマイム団
 
 映画はこのあと、あのあまりにも有名なラストシーンに向かって進んでいく。
 殺人事件を目撃したという意識もだんだん曖昧なものになり、自分の判断にも自信を失ってしまった主人公は、取りとめもなく、テニスコートのある公園を歩いている。
 奇声を発するたくさんの男女を乗せたオープンカーが、彼を追い抜いていく。
 全員がカーニバルの道化のような化粧をしている。
 
欲望BLOWUPパントマイム団
 
 道化の一団は、公園のテニスコートの前でクルマを止め、一組の男女がコートの中に入って、パントマイムのテニスを始める。
 
欲望パントマイム団0026
 
 もちろんボールもラケットも実在しない。
 にもかかわらず、フェンスに張りついた仲間たちは、架空のボールを追って、視線を振り子のように動かしている。
 

 
 主人公は、フェンスによりかかったまま、物憂い(ものうい)視線で、その様子を眺める。
 
 打ったボールがフェンスを越えたらしい。
 主人公の足元に転がってきたボールを投げ返してくれと、見えないラケットを抱えた女がせがむ。
 
欲望パントマイムのテニス
 
 彼は、そのバカバカしい願いに応じるのだろうか、応じないのだろうか。
 一瞬ちゅうちょした後で、主人公は架空のボールを拾い上げ、それをコートの中に投げ返すふりをする。
 
欲望パントマイムテニスへの返球
 
 返球されたボールを受け取ったを一座は、再びテニスを始める。
 すると、
 コーン、コーン ……
 不思議なことに、主人公の耳に、最初はかすかに、しかし次第にはっきりと、コート内を弾むボールの音が聞こえてくる。
 その音に、ハービー・ハンコックが奏する主題曲が突然かぶさり、エンドタイトルが画面に浮かびあがる。
 
欲望エンドタイトル
 
 さて、この映画は、いったい何を観客に訴えようとしたのだろうか。
 
 すでに多くの評論家が、40年の長きにわたって、様々な意見を残している。
 特に、ラストシーンが象徴的な意味合いを強く匂わせているため、1960年代においては、「人間の意識が変れば、今まで見えなかった真実も見えてくる」という意識変革のドラマとして見られたようだ。
 
 60年代といえば、カルチャーをしのぐ勢いで、サブカルチャーが台頭し、さらに性解放が進んで、ドラッグ文化が若者の間に浸透するなど、「意識の変革」というキーワードさえ繰り出しておけば、どんなものにも通用した。
 
 だが、この映画を読み解くためには、もう少し違ったアプローチを試みなければならない。
 つまり、従来の「映画論」の枠組みを一度捨てる必要がある。
 それは、映画を「文学」として語る手法をあきらめるということだ。
 

絵画として考えると解ける謎
 
 結論を先にいうと、『欲望』における謎は、アントニオーニ監督がこの作品を「映画」としてではなく「絵画」として完成させたところから生まれている。
 多くの評論家はそれに気づかず、この作品を映画 (文学) のロジックで解明しようとした。
 当然それは、謎をますます深めるだけのこととなった。
 
 同じ映像芸術でも、「映画」と「絵画」は違う。
 映画は、映像の連なりとはいえ、たぶんに言語的だ。どんな作品にもストーリーというものが存在し、ストーリーがある限りは、言語でその流れを解説することができる。
 
 しかし、絵画は違う。
 その絵に描かれた対象物を特定するだけなら、誰にでもできる。
 だが、そこから先は解説できない。
 
 たとえば、ゴッホの麦畑の絵を思い浮かべればいい。
   
 

 描かれたものは、白昼の麦畑と、その上を舞うカラスの群れに過ぎない。
 だが、そう語ったところで、この絵からあふれ出てくる狂気に満ちた美しさは、誰もが、簡単に説明できるようなものではない。
 アントニオーニ監督はそのような作品として、この『欲望』をつくり出したのだ。
 
 この作品で絵画を目指したアントニオーニは、実際に、撮影する対象においても、絵画の技法を取り入れている。
 彼は、主人公がプロペラを買う骨董屋を登場させるとき、建物の壁が気に入らないといって、持ち主にお金を払って壁の色を塗り替え、さらに、道路の色まで塗り替えた。
 謎の男女がたわむれる公園では、なんと、その木の幹から一つ一つの葉に至るまで、ハケを使ってペイントを施している。
 
 つまり、あの作品に登場する「自然」は、アントニオーニが一人の画家になって、文字どおり絵の具によって再構築した「自然」なのである。
 
欲望人気のない裏通り
 
 その作為的な「自然」の改変によって、たとえば、風に揺れる公園の樹木は、カスパール・フリードリッヒが描く樹木のような、不思議な生命感を漂わせるものなったし、人通りが途絶えたロンドンの新興住宅街は、エドワード・ホッパーの描く寂しい街並みの空虚感を手に入れることになった。
  
 
 
 白ペンキで塗られた家のある街角は、モンパルナスを描いたユトリロの絵を思い出させるし、無機的で大胆なインテリアで統一されたスタジオは、それそのものが、モンドリアンたちが描く抽象画になっている。
 
欲望白ペンキの家
 
 また、ラストシーンでパントマイムの一座が繰り広げる幻のテニスの映像は、アンリ・ルソーの描くフットボールの情景につながっている。
  

 

クローズアップの恐るべき真実
 
 この作品が、「映画」ではなく「絵画」 であることをはっきり主張しているのが、公園の男女写真を、主人公がスタジオで拡大していくシーンだ。
 
 映画の世界では、小さなものを大きく拡大して見せる手法をクローズアップという。
 このクローズアップこそ、モンタージュと並んで近代映画が発見した最も先鋭的な映像表現といわれるものだ。
 
欲望BLOWUP0016
 
 しかしアントニオーニは、映画の可能性を広げたクローズアップという手法が、それを徹底させると、逆に、映画そのものを解体してしまうことに着目した。
 
 前述したように、フィルム画像といういものは、細部を拡大していけばいくほど粒子が荒れてしまい、抽象画のようなものになってしまう。
 写実映像が、「絵画」に変容するというスリリングな瞬間に、アントニオーニがどれだけ魅了されたかは、この映画の原題が「BLOW UP(拡大)」であるということからも推測できる。
  
 主人公の不可解な行動も、この作品を「絵画」として捉えると説明がつく。
 主人公は、気のおもむくままに写真を撮り、気まぐれに仕事を選び、行動には一貫性がなく、過ぎた時間に拘泥せず、明日に希望を持たない。
 
 そのような、時間感覚の崩れた人間を主人公にすることで、アントニオーニ監督は、時間の流れを前提とする「映画の文法」を解体しようとしたのだ。
 主人公が、ジェフ・ベックが放りなげたギターのネックを必死に求めながら、いざ手にすると、それを路上に放り投げるシーンが「不可解な行動」の代表例としていつも話題になるが、それは映画的な文法にとらわれるからそう見えるだけの話である。
 
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 このシーンは、主人公にとってギターのネックが必要だった時間帯と、それが無意味となる時間帯の不連続性(断絶)を表現しているに過ぎない。
 映画の文脈では、この二つの行為を結ぶ時間は、一直線につながっている。
 
 しかし、絵画では、「ネックを拾う男」と「ネックを捨てる男」という、2枚のタブローがあるという見方になる。
 その2枚の絵では、時間が断絶しているだけでなく、主人公の価値観すら断絶している。
 ジェフ・ベックが投げ捨てたギターのネックは、アンダーグラウンドのロックカフェにおいては「至宝」のような価値を持つが、ウィンドウショッピングを楽しむメインストリートの住人たちにとっては、「木屑」でしかない。
 

沈黙のテニスの意味
 
 ミステリアスだと評判をとったラストシーンも、この作品が「絵画」であることを理解すれば、そのメッセージは意外とシンプルなものである。
 
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 幻のテニスを演じるグループが、パントマイムの一座であることに注目してもらいたい。
 彼らのテニスはパントマイムであるために、観客の声援も審判のホイッスルも登場しない。
 つまり、その沈黙が、「絵画の寓意」になっている。
 
 絵画の世界では、観客の声援も審判のホイッスルも、その絵を鑑賞する人間の「脳内」にしか存在しない。
 テニスコートに弾む幻のボールの音は、この作品を「絵画」として認識したときに初めて聞こえてくる「脳内の音」なのだ。

 
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アントニオーニ 「欲望 (BLOW UP)」 への8件のコメント

  1. ルミちゃん より:

    一台の車に鈴なりになって騒ぎまくる若者の一団は、どうみても人間の屑のかたまり.
    さて、主人公たるこの写真家はと言えば、たまたま公園でみかけた逢い引き中のアベックの写真を、なにがなんでも公にすると言う、肖像権と言う意識のかけらも無い人間.
    骨董品店の店番のお爺さんが、この写真家の正体を一番端的に現しているみたい.
    「安いものはないから無駄だ」、つまり、おまえは金にしか興味がないだろう.その通り、この男、店を安く買いたたくためにやって来たのね.
    目の前で埃を吹き飛ばして、これは、モデル志願の二人連れの女の子を「汚らわしい」と言って置き去りにしたお返しみたい.
    芸術とは素直な心、写真が持つ芸術性が見えない物を写す、つまり人の心を写すものであるとすれば、ゴシップ写真で人を困難に陥らせるものではない.
    また、ある一面において写真が真実を伝えるものであるならば、殺人に気が付いた時点で警察に届けるべきはずなのに、自分のスクープを優先して届けようとはしなかった.言い換えれば、真実より興味の方が先にある人間なのね.
    写真にすべきでない事柄を写真にしようとする人間は、写真にすべき事柄を写真にすることができない、結果としてこうなったのかしら.

    テニスをやっているふりをする馬鹿の一団.乞われるままにボールを投げ返すこの男.
    分かりやすく書けば、夜で描かれたのは、自分の書いたラブレターを覚えていなかった小説家.
    この映画で描かれたのは、無いボールが見える写真家.
    後から前の方へ辿れば、窓越しに他人のSEXをぼけっとして観ているこの男は馬鹿.
    ロックバンドが演奏しながらギターを叩き壊して、壊れたギターを観衆が奪い合い、結局そのギターを道端に捨ててしまう.全部馬鹿げたこと.
    モデルになりたい二人の女の子、結局裸になって馬鹿騒ぎ.
    もう一度、骨董店のお爺さん、お客を見事に馬鹿にする.

    • 町田 より:

      >ルミちゃん さん、ようこそ
       アントニオーニの代表作に関して、ほんとうにこのような貴重なご意見をいただけるとは、この監督のファンである私にとっては望外の喜びです。
       それも一つひとつの作品の細部にわたって、このような鋭い見解をご提示いただいて感謝いたします。
       
       『太陽はひとりぼっち』、『赤い砂漠』 へのコメント欄にいただいたご意見に対する返信の繰り返しになるかもしれませんが、アントニオーニ監督の主張に忠実に反応するとしたら、この映画も、ルミちゃん様のご意見で、ほぼ作者の意図はフォローできるように思います。
       
       ただ、この映画に関しても、単に主人公の身勝手な生き方を批判するだけで終わった作品ではない、と感じています。 

       終盤、オープンカーに乗って騒ぎまくる “屑のかたまりの集団” は、私には単なる 「バカ」 には思えませんでした。
       あれは主人公に改心を迫る “あの世からの使者” の一団ではなかったのかと。
       
       単なる馬鹿の一団であるならば、なぜ彼らがパントマイムの衣裳に身を包まねばならなかったのか。
       明らかに、そこには何がしかの象徴性が隠されていたはずです。

       では、それは何を象徴するものであったのか。
       たぶん、アントニオーニはあまりそこのところを理詰めで計算してはいなったように感じます。 ( 単に 「ヴィジュアル的に面白いのではなかろうか」 というぐらいの意図ではないかと思うのですが … )
       私は、あれを 「シニフェのないシニフィアン」 ではないかと思っています。
       ま、「思わせぶり」 といっていいような児戯かもしれませんが、私はそこがとても面白くて、いつまでも記憶に残るシーンとなりました。
       
       ある意味ではこの 『欲望』 も、馬鹿な主人公と、馬鹿なモデルたちと、馬鹿な若者一団を描いた “現代社会の告発映画” と採れないこともないかもしれません。そして、それを真正面に受け止めるルミちゃん様の見方も、まったく正しいと思います。
       だから、この映画を観ていない人たちに対して、「どういう映画なのか」 ということを説明するとしたら、たぶんルミちゃん様の要約で、ある程度この映画の主題を説明尽くせるでしょう。
       
       ただ、そのようにきれいに整理されてしまうと、やはりこの映画からも抜け落ちてしまうものがあるような気がしないでもありません。
       (これも繰り返しになりますが) 私は、その抜け落ちていく部分に興味を感じています。
       それが言葉にならないまでも、… いや、言葉にならないからこそ、この映画は深く印象に残った映画でした。
        
       それにしても、ルミちゃん様のようなこういう映画に言及される方と、コメント欄を通じてやり取りをさせていただけたのは貴重な体験でありました。
       ありがとうございました。
       

  2. クロロ より:

    はじめまして。
    2年ほど前にこちらの記事を拝見させていただいてから、度々ブログを愛読させていただいております。

    町田さんの文章表現が個人的に好きで、読んでいると文章を書くことが大好きという気持ちが伝わってきます。

    そして私もそんなブログが書きたいと思い、1年ほど前からブログを立ち上げて現在は二つのブログを日々更新しております。

    今後とも読み手を引き込ませる良いお手本として拝見させていただこうと思いますので宜しくお願いします。

    ━━━━━━━━━━━━━
    クロロ

    パチンコ店長のホール攻略
    http://rx7038.com/

    サラリーマンクロロのつぶやき
    http://curoro.net/
    ━━━━━━━━━━━━━

    • 町田 より:

      >クロロさん、ようこそ
      過分なご評価をいただき、光栄に存じます。
      よろしくお願いもうしあげます。

  3. キムチ より:

    初めまして。
    どういった意味がある作品なのか、
    分からない分からないと思いながら見ていたのですが、
    最後に見えないテニスボールをカメラが追うショットを見て、
    これは目に見えない何かに対する暗示なのかな?っと思った後に
    町田さんのこの解説を読ませていただいてとてもよく納得しました。
    目に見えない実在を映そうとしているのではなく、映そうとする何かとは実在しないかもしれない。ちょっと違うかもしれませんが。

    ところでスタジオの隣に住んでいる女性とその彼氏ってなんなんだと予想されますか?主人公はこの女性を信頼しているようですし、この女性も主人公のことを大事に思っている、しかし性愛関係にはない(あるかもしれないが)そして同じ敷地内に住んで出入りが自由。。。とすると兄妹あるいは姉弟なのでは?そして微妙な会話の噛みあわなさ、シンクに置かれたパンとじゃがいも、セックスしているのに相変わらずのほほえみ、この女性は少し知的障害があるのでは、、、
    という私の予想なんですが、いかがですか?
    町田さんのご意見をうかがえたらいいなと思います。

    • 町田 より:

      >キムチさん、ようこそ
      「スタジオの隣に住んでいる女性とその彼氏」というのは、この映画の日本公開のときに制作されたパンフレットによると、「画家とその愛人」ということになっているようです。
      この “愛人” と書かれた女性を演じているのはセーラ・マイルズという女優さんですね。

      で、彼女(及びその彼氏)と主人公の関係は、キムチさんのおっしゃるように、確かに謎です。
      この女性に関する説明もなく、立ち位置も分からないし、主人公との会話も微妙にかみ合わない。
      … というところから類推するに、キムチさんがおっしゃるように「知的障害があるかもしれない」という見方もあり得ますね。

      ただ、なんとなく思うに、主人公とその女性(およびその彼氏)の関係というのは、この時代のヒッピーコミューンのようなものが持っていたフリーセックス的な気分をそのまま表現したのではないでしょうか。
      セックスの現場を見られてしまったのに、主人公には親しみのある笑顔を返す。
      これは、「フリーセックス共同体」の同士に返す連帯のほほ笑みではないでしょうか。

      ネットにアップされたこの映画のレビューをいくつか見てみましたが、この女性の存在を取り上げた記事はほとんど見かけませんでした。

      でも、この映画における彼女の存在感はけっして無視できませんよね。
      キムチさんは、よくそこに気づかれたと感心いたします。

      この女性が、映画のなかでどういう位置を占めるのか。
      いずれ、あらためて考え直してみたいと思います。

      大変示唆的なコメント、ほんとうにありがとうございました。
       

  4. RINO より:

    はじめまして。アントニオーニ監督のBLOW UPを最近DVD購入しました(誤って2本ポチしてしまいました..うっかり者..)。映像美や音楽の良さを感じる場面はしばしばあったのですが、見終わった後、正直に言えば「よく分からない」映画でした。気になって、検索していたところ、町田様のブログに偶然出会いました。出会えてよかったです。この時代の時代背景もあったでしょうし、「絵画として考えると解ける謎」の章はなるほど、と思いました。こちらのブログを読んだ後に、もう一度観てみよう、と思いました。頭で考えずに、心感じるままに。どうもありがとうございました。

    • 町田 より:

      >RINO さん、ようこそ
      こちらこそ、はじまして。
      ご丁寧なコメントをお寄せいただき、ほんとうにありがとうございました。

      この『BLOW UP』という映画は、もう若い頃から気になっていた映画で、その後40年以上にわたり、今でもときどき思い出したように見ている映画です。

      今のロンドンとはきっと異なっているのでしょうけれど、あの時代のロンドンが持っていた、クラシカルなたたずまいとモダンな意匠が混在するお洒落な都会性には、今でもあこがれるようなところがあります。
      特に、あのどんよりと曇った街並みに詩情を感じます。

      ハービーハンコックのサントラも素敵だし、ヤードバーズのライブもカッコいいし、音楽だけでも楽しめる映画でした。

      洒落た音と、(絵画のような)映像美。
      そして、ミステリアスな雰囲気。
      それを心行くまで楽しめばいいのだな … ということに途中から気づいて、かなり気が楽になった映画です。
       

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