ものを書く意味

 
 「ようやく、ものを書くということの意味が分かった」
 あるビルダーの社長さんが、そう言った。
 電話で仕事の打ち合わせをしているうちに、雑談となり、その人が突然そう言いだしたのだ。
 ホームページを運営されていて、ご自分でも、自社製品の特徴などを、文章を通じてアピールされている方だ。
 
 「いい表現がひらめいたと喜んでも、頭の中で考えたことを文章にしようと思うと、うまく伝わらない。
 長い間、それを自分の表現力のなさだと思っていた。
 しかし、文章を書くこと自体が、モノを考えることだと気がついた。書くことによって、初めて、モノを考える最初のステップにたどり着けるということが解ってきた」
 というのである。
 
 その人がいうように、モノを書くというのは、書きあがったときに初めて、「自分は何を伝えたかったのか」が、分かるようになっている。
 書く前に、書く内容がすでに頭に浮かんでいると思うのは、幻にすぎない。
 頭に浮かんでいたものは、しょせん漠然としたイメージでしかなく、バターにも、ヨーグルトにも、チーズにもならない搾りたての「牛の乳」みたいなものだ。
 それが、「書く」ことによって、初めてバターや、ヨーグルトや、チーズになっていく。
 
 バターを作るつもりで、書き出したらヨーグルトになってしまったということは、書いている現場ではよく起こる。
 それは、書き手の間違いではない。
 書き手の手元にあったものは、実は、ただの 「牛の乳」でしかなかったからだ。
 書き手は、書くことによって、それを初めて 「ヨーグルト」に発酵させることができる。
 
 何か書きたいものがあったとして、それが、思い通りに書けたということは、プロの世界でもほとんどない。
 
 たいていは、思惑とは少しズレたものができあがってしまう。
 結局は、書かれたものを見て、書き手は初めて、「そうか。俺はこれを書きたかったのか … 」と、理解するような仕組みになっている。
 書こうと思ったものと、実際に書かれたものの間には、大きなクレバスが広がっている。
 そのクレバスを越えるためには、ある種の「跳躍」が必要となる。
 
 かつてマルクスは、『資本論』のなかで、商品交換にまつわる貨幣の運動を「命がけの飛躍」と喩えた。
 商品を売って貨幣を得る。
 流通の現場では、ありふれた光景だ。
 ところが、商品が、貨幣に変るかどうかは、実は、売ってみないと分からない。
 消費者はその商品を、貨幣を支払ってまでも得たいと思っていないかもしれないからだ。
 
 このことは、商品は、それが貨幣の形を取るまでは、実は「商品」として成立していないということを教えてくれる。
 商品が貨幣と交換されることを、マルクスは、「命がけのジャンプ」いった。
 
 その比喩を用いれば、「書く」とは、書かれていないもの」に向かって、常に命がけのジャンプを試みていくようなものだ。
 「書かれていないもの」が、遠大なものであればあるほど、ジャンプする距離も伸びていく。
 
 その跳躍力を「表現力」という。
 … というような文章になってしまうとは、書き出したときには思いもよらなかった。
 
 

カテゴリー: コラム&エッセイ   パーマリンク

ものを書く意味 への8件のコメント

  1. 磯部 より:

    モノを書いて暮らすには、いろいろなジャンルやレベルがある訳ですが、未だに自分の特性が掴めないのが悔し
    いですね。
    こういう思い、町田さんにも心あたりはありませんか?
    現在の私は小旅行に行く程度の文章で暮らしていますが、いざ長編冒険SF的小説を書くとなると、宇宙へ行く程
    の覚悟が必要な訳です。
    結末はまだ見えないモノを書くという作業にもかかわらず。
    今日も、これから私が書く文章はどういう結末を迎えるのだろう?企画書は?
    自分のアタマの構造を総て把握するのは無理にしても、もう少し自分を知りたい私の悩みでありました。

  2. 町田 より:

    >磯部さん
    モノを書くって、けっこう自分が問われるようなところがあって、まじめに考えていくと、割とシンドイ作業で
    すよね。
    磯部さんのおっしゃるとおり、>「もう少し自分を知りたいという悩み」と、最後はどこかでぶつかります。
    でも、それがまた、面白さですよね。
    書くことによって、今まで知らなかった自分と出会うわけで…。
    人間には、自分が何なのか分からないという疑問が付いてまわる限り、モノを書く作業というのを、人間は手放
    さないようにも思います。

  3. 北鎌倉 より:

    私たちが普段、日常生活で使っている言葉と、文学作品で芸術にまで高められている言葉とはいったい何がどう違うのか。
    私たちの日常の言葉はどう考えても芸術にはたどりつかないし、逆に文学作品で芸術にまで高められた表現が日常会話の中で用いられることもありません。
    いったいこれは何なのだろうか。
    子供の頃、母親が駅前で食堂をやっていて、朝早くから深夜まで家の中で、「商売の言葉」だけがが激しくと飛び交う中で、不思議で仕方ありませんでした。
    その疑問をずっと持ち続けて10代の終わりに、その答えが書いてある本に出合いました。その答えとは自分が読み得た限りでではこうでした。
    言語の本質そのものの中に、日常会話の表現と、芸術の表現という二つの異なる表現を実現できる何かが潜んでいる。つまり、言葉を追い詰めていくと「芸術の言葉」と、「実用の言葉」というふたつの本質にたどり着く。その本の著者はそう考えているように思いました。
    その本とは。吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』でした。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      10代のときに、『言語にとって美とはなにか』を読破されたのですかぁ !
      すごいです。
      私がこの本に触れたのは、もう社会人になって、すでに30代になってからです。
      その前から、すでに先輩たちは「言語学の基礎的な文献だ」といって読んでいましたから、自分も読まないわけにはいかなかったという意識があったのだと思います。

      でも、けっきょく、“歯が立たなかった” という記憶があります。
      かなり、赤線なども引いて、書き込みも続けていたにもかかわらず、理解不能でした。たぶん意気込みの問題だったのでしょう。

      ただ、吉本隆明はいい文章を書く人だなぁ … とは思っていました。
      原理論的な考察の書は難解でしたけれど、若い頃の詩やさりげないエッセイなどでは心に残る文を書いていたように思います。
       

  4. 北鎌倉 より:

    「言語学の基礎的文献」として読んだら、もう絶対に読めませんね。だって言語学を転倒する試みの本ですから。読む人を、ことごとく否定する本の中身なのですから、読む努力をすればするほど、本に拒否されて読めなくなります。
    恋人に「別れましょう」と言われたのがキッカケで、私は『言語美』を読みました。私たちが一つの共通の世界を生きているというのが、ものの見事に錯覚だってことが恋人の言葉で思い知ったわけです。本当は一人一人の内なる世界像を生きているに過ぎなかったのです。そして、どうやら言葉はそのことに深くかかわっていたのです。自らの内なる言葉が作り出した世界像の上で生きていることに、普段の私たちは意識していないだけなのです。つまり、人間は言葉の介在無しに世界そのものを直に生きることはできない、と。当たり前と云えば当たり前ですが、人間は現実を生きているのではなく、現実を言葉で意味づけて生きているわけです。
    逆にいえば、一つの言葉で世界像はひっくり返るし、ひっくり返せるということですね。なぜ本を読むかと言えば、本の言葉は、他者の世界像の塊ということですから。言葉という摩訶不思議な謎を知りたいという強烈な思いには、『言語美』は全的に開かれていました。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      なるほど … !
      コメント拝読し、そういう言葉がまずすぐに浮かびました。

      一冊の書物の本質にたどり着くというのは、その読者の読解力を超えたなにがしかの働きが必要になることがあります。
      それが、時として、「別れましょう」という恋人の発言であったりするかもしれない。
      そういうきっかけがあってこそ、≫「相手と共通の世界を生きていると思っていたことが錯覚であると気づく」ことにつながるのでしょうね。

      勝手なものいいで恐縮ですが、北鎌倉さんは、すでに『言語にとって美とはなにか』を読まれる前に、その書物の根幹部分に触れていらっしゃったのだと思います。読書体験は、おそらく無意識がとらえたその思いを、活字を通して意識化されたということなのではないでしょうか。

      本を理解する … 特に抽象度が高い原理論的な書物を理解するというのは、私は、理知的な知的向上心の産物ではないように思います。むしろ逆であって、きわめて情念的なものだと思う。他者と問題意識を共有化できないような絶対的に孤立している個人を自覚したときに、人は原理論に向かうのではないでしょうか。
      すなわち、個人の情念の闇の濃さが、抽象度の高い思考の透明性を希求するのだろうという気がしています。
       

  5. 北鎌倉 より:

    町田さんのまったくおっしゃる通りで、それが頭でわかってしまうと、もう体は動かない、手遅れなんですよね。
    若いというのは手探りで鉱脈をみつけてしまうんですよね。

    お金もある、経験も訓練も十分積んだ、用意万端何一つ不足なし、さあ目的に向かって全力を傾注しよう。そのとき決定的な、過ぎてしまった時間、失われた何かがあることがわからない。

    生まれも育ちもまるで違う他人同士が、理解し合えるはずがない。そう分かったとき人は初めて、理解し合えないという一点で「絶対的に孤立している」他人同士が<つながっている>ことに驚愕します。

  6. 北鎌倉 より:

    手塚治虫は、頭の中で物語が複雑に絡み合っている状態で原稿に向かいます。それは、頭の中の像はすぐに消えるから、別の像をつくるときにはもう前の像は消えているから、だからなるべき高速で描くのです。頭の中の像が消えないように、全体の構造を一時に頭の中で広げようとすると、こんがらかりいろいろな像が絡み合ってカオス状態になってしまいます。この限界を突破するのが、描く・書くことだというのです。原稿用紙に向かって描く・書く・というのは、頭の中のモヤモヤした像を、一から順を追って整理しながら展開することなのです。頭のなかだけではカオス状態が明確にはならなかった像が、描く書くことによって一つ一つ明確になっていき、一つの像が明確になることによってその次の来るべき像が姿を現すという形で次々に像が展開されることになります。これは、頭のなかだけで思い考えているだけでは不可能なことで、だから、書く・描くことは、考える事なのです。頭のなかだけでは展開できなかった像が、絵と文字に実体化されることで、今度は頭の中に新たな世界が広がってゆくことになり、それが無意識に働く頭の実力に一部となって、また新たな世界を考え出す際の基礎として機能することになります。
    当時、<像>という概念を「言語美」で唯一、理論的に扱っていて、その<像>をめぐってかなり突っ込んだこんな話を手塚さんとしたのです。

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